十二 仮初め、日常

「ねーねー翼、ご飯食べない?」


 霞町の現在は、比較的平和だ。それでも人通りが常に戻ることはないのだが、臨時休業で閉められた店も開いていたりするは以前の賑わいが戻ってきた証拠である。

 

 情報の力は絶対的だ。

 国民はどうしても媒介となるメディアに頼るしかなく、メディアが垂れ流しにした情報に縋って生活するしかない。故に現在の霞町は、情報の上では落ち着いているというわけだ。


 警戒令も解かれ、こうして住宅路にはちらほらと通行人が見受けられる。

 村雲翼と如月麻衣も、現在はその内の一つ。


「別段空腹というわけでもないのだけど、構わないよ。麻衣のおすすめはあるのかい?」


 水町薫と別れ、麻衣と会話をしながらの帰り道。翼の家はイコールで水町薫の家でもあるので麻衣を送る形になってはいるが――麻衣はそれを知る由もない。


「そうだねー、んんー牛丼とかどうかな?」


 話していて分かることもある。

 いや大体分かってはいたが、麻衣は人の話を正しく理解していない。

 現に腹の空いていない翼を連れていこうとする店が牛丼屋と来た。構わないとは言ったが、些か配慮が足りないのではないのだろうか。それとも、麻衣の中で翼はそんな配慮の要らない仲なのだろうか。


 そこまで話した覚えはないし、実際仲良くもしていない。

 なのできっと、誰にでもそうした態度なのだろうと翼は一人納得をしていた。


「麻衣は、お腹が空いているのかい?」


「うん!」


「じゃあ、牛丼にしようか」


 だが翼も食べられないことはなかった。食べる必要が恐らくないだけであり腹も空かないが、完食は可能であった。ここは麻衣の要望に答えてやるのもありだろう、と頷く。


 多分。この間も、水町薫と夢は話し込んでいる。その時間潰しも兼ね、麻衣と共に暇を消化するのも悪くない。


「――緊急時には能力を使えと、彼から言われてはいるが……」


「ん、今翼何か言った?」


「いいや、何も」


 もしも万が一水町薫と別れた場合のことだ。

 敵と遭遇したら戦うことを考えず、能力を使って即座に水町薫の元へ逃げてくること――そう、口を酸っぱくして何回も言われている。

 別にそれ事態は構わないし、可能だ。緊急でないこの時でさえ、いつでも瞬間移動で彼の傍に移動することはできる。


 だが。


 まさかその緊急事態がすぐに訪れるとは思わないが、麻衣が隣にいる現状。


「彼女を置いて逃げる、それは……僕の選択肢に存在しない。決して」


 ぼそりと小さく呟いて、子供のような印象を持たされる麻衣へと目線を寄越す。

 血に汚れても穢れることのない、純粋な彼女。それは翼にはないもの。

 守ろうとするのは、必然だ。






 やって来た牛丼屋は、予想通りに寂れていた。

 だからといっていわくがあるはずもなく、霞町にある何の変哲もないただのチェーン店である。ただ事件のせいか少し人が少ないというだけで。


 一人しかいない従業員。やる気の入っていない「いらっしゃいませ」と共に自動ドアをくぐり抜け、千円札を入れて券売機で牛丼の小盛を押す。すると券売機の下の方から乱雑に食券が吐き出され、一緒に小銭が落ちてきてからんと鳴った。

 実は、こうした店に翼は今まで一度も入ったことがなかった。しかし使い方を“知っている”のは、確かな情報、知識として頭に入っているからだ。若干の使い難さはあるものの、日本に初渡来してきた外国人のような挙動になったりするような事態には陥らない。


 一方で麻衣は同じく千円札を入れた後、様々なメニューを押していた。そのため落ちる券は数枚に及び、逆に返って来るお釣りは限りなく少ない。


 カウンター席に横並びで座り、店員に券を渡して麻衣と談笑に興じる。


 勿論翼と違って到着した牛丼にも違いがあり、翼のにはどんぶりに盛られた米、肉、玉葱の三種類。対して麻衣のどんぶりには前述の基本メニューに加えて長葱、生卵、紅生姜、一味唐辛子などが振りかかっていた。どうやら紅生姜と一味唐辛子に関しては自分でかけられるようだが、翼はそのまま食べ進めた。

 美味しくもなく、不味くもない。狂人になってからというものの、食欲は圧倒的に減退した。摂る必要がないのが最たる原因だが、これは少し悲しいことでもある。

 食は生物にはなくてはならないもの、大切な欲求だ。それが失われた存在など――果たして生物として成立するものか。


 いいや、どうだろう。


「翼は明日も来るの?」


 箸に少量の肉と米を乗せて口に運んでいる最中、麻衣はそう問い掛けてきた。口に含んだ物を水と共に喉に流してから、邪魔な髪を掻き上げつつ返答する。


「勉強会のことなら、行くよ。まだまだ課題は山積みではあるし、時間もないとなれば早めに終わらせておきたいからね。ところで麻衣は課題を彼の家に置いていたが、家では続けないつもりなのかな」

「えっ……う、うん。家だとあんまやる気が起きなくて」

「麻衣の進み具合はなんとなく見ていたが、このペースだと終わらないと思うよ。二週間あればまた話は別かもしれないけど、今日で月曜日は終わり。実質後六日間しかないのだからね。ぎりぎりに終わらせるのだとしても、計画的に進めた方がいいとは思うよ」


 そもそもが一週間でやる量ではないのだが。ここまでやって来なかった麻衣に同情するつもりはない。自業自得、自分の業は必ず自分に返ってくるのだ。未来に送った分のツケは未来の自分が払わなければならない。

 それは勘弁願いたいから翼は今やるだけであって、助言はするが選択するのは麻衣だ。やらなくても、夢のように言ってやる必要はない。


 ――そう。あの日、同級生二人を殺害したツケも、同じように、いつか必ず自分に返ってくる。その時翼が生きていればそれまで、死んでいれば残念というだけの話。

 いつ起こるか分からない未来に捨てたツケが訪れたならば、それをどうやって清算するか。どう向き合うのか。

 殺した後。達成感の無力、寂寥、虚無、それらの感情に苛まれた翼だが、未だ答えは出ていない。それはどうしてなのかと考えたが、しばらくして答えは出ないまま止めにした。

 命を奪った罪。今更何を返したところで、清算などできるわけがないのだから。

 ――何を以ってして償えというのか。しかし矛盾するようだが翼にそのような気は毛頭ない。ないが、その問答が頭の中から消え去ることは一生ないのだろうな、と自嘲気味に口端を歪めた。


「だよね……明日、がんばろ……」


 傍ら、麻衣は瞳に絶望を映してそう呟く。

 しかしながら、しゅん、と項垂れた麻衣の箸が進むペースは早い。彼女自身、これが勉強のペースだったらと置き変えたりはしていないだろうか。

 少なくとも翼は「家でやれ」と示唆したつもりだったのだが、どこでやろうといつの日にやろうと結果が出れば問題ないか、と考え直してどんぶりから肉と玉葱を摘んだ。


「いらっしゃいませー」


 そうして今日の食事はこの牛丼で済んだことにしようと思いつつ、だらだら食を進めていると、自動ドアの開く音に合わせて店員が気だるげな声を発した。

 真後ろから入店してくるので客が何名かは把握できないが、珍しいものだ。この時間、いくら警戒令が解かれたとて、普段の翼ならば外食しようという気にはならない……この場で自ら牛丼を食べている時点で説得力は欠片もないのだが。


「……は」


 ――ん?


 間の抜けた男の声がした。どうやら客は男らしい。しかし以前に聞いたことのある声がしたので、翼は後ろを振り返らず、瞬時に感覚を研ぎ澄ませた。普段から気を張っていると疲労が溜まるだけなのでやらないが、有事の際には癖で行うことだ。


 翼はすぐに気が付いた。背後に入店したのが二名であることと、男女であること。体型と声から知り合いと合致する人物――それも悪い意味での――リーフェ・エリルガンド、確定。

 となればもう一人の女は、北条唯華とかいう人物だったか。


 男は翼の後ろ姿を不審に思っている様子だ。しかし翼が日常的に気配を断っているのと、隣に一般人と思しき女の子が座っていて、判断しかねている。つまり彼が気にしているのは翼が気配を“断っている”ことへの不審感からで、翼だと気が付いてはいないということだ。村雲翼は水町薫とセットで居るという観念でもあるのか……。


 だが横顔でも見られれば、即見つかることは明白だった。


 どうするか、と思考を開始する。喋れば声で翼だと気付かれる、安易に不審に見られている中で店を出るなど――。

 そこで麻衣は、空気の読めない台詞を放ってしまった。


「んー、ごちそうさま! あれ、翼はまだ残ってるんだ……私もしかして食べるの早いのかな」


 こういう場合、事情を知らない一般人を連れていると恐ろしい。隣が水町薫であれば色々選択の幅は広がっただろうが……。

 ともかく、名前を呼ばれてしまった。こうなれば策は打てない、背後の男はびり、と緊張を全身に走らせてこちら側の様子を窺っている。


「いいや。後一口か二口分だし、気にする必要はないよ」


 翼は、最終的に無視を決め込むことにした。とはいえ警戒網は張っているため、襲い掛かろうものなら即座に反撃に出るつもりではいたが。


 さっさとどんぶりの中身を食べ進め、最後の一口分を口に運んでから立ち上がり、横目で男を見据える。何かが起きてもいいように僅かばかり身構えたが、その人物は眉をしかめて翼から離れ、無言で券売機へと向かっていった。流石に服装はスーツに篭手ではなく、整髪料で固めた金髪はそのままに襟のない真っ赤なコートを着込んでいる。

 後に続く女も然りで、長い髪を左側に纏め、編み込みにした上から黒色の蝶の形を模したバレッタを付けていて、以前に着ていたゴシックドレスではなくジャケットと灰のスカート姿だ。こちらも翼を無視し、男の後ろに並んで微動だにしない。


 両者から洩れる敵意は乾いた空気を通してひしひしと伝わってくるが……何もしてこないというのなら、別にこちらも仕掛ける気はない。


「あんまり長居するのも悪いし、そろそろ行こうか。麻衣」


「うん、そうしよー。ごちそうさまでした!」


 元気の良い麻衣の言葉を最後に、自動ドアが閉まって隔たりが生まれた。警戒はそのままに、翼は麻衣に告げる。


「麻衣は、どっち方面に帰る?」


「うーん? こっちだよ」


 右側の道を指したので、翼は逆側だと適当に返答。その上帰り道の距離を聞いたが五分程度だそうなので、そこで別れることになった。

 当初は麻衣の家まで送る予定だったが、事情が変わった。背後から消えない視線を感じていては、翼と居る方が危険に晒される可能性が高い。だから今日は一人で帰って貰おう。


 別々の道へ歩き出すと、麻衣は姿が見えなくなるまでこちらへ手を振りながら歩いていた。純粋だなと心が綻ぶのも束の間、通行人が居なくなった瞬間辺りの気配が変貌する。

 やはり、か。


「――ほう、お前さん。来ると分かってて逃げなかったな」


 女の方が何らかのすべを行使したのだと見破り、翼の方から言葉を投げ掛ける。


「人避けか何かか。それで、都合良く一人でほっつき歩いている僕を拉致しよう、という魂胆かい? それと頼んだ牛丼はちゃんと捨てずに食べたんだろうね」


「そう殺気を露にしてくれなくてもいいですわよ。今回、私達に貴女を捕まえる気はありませんもの」


 ジャケットの脇ポケットに手を入れっぱなしの女がそう吐いた。


「【蹂躙鬼】の二つ名を引っ提げた奴に言われて、何を信じろと言うのかな」


 ただ、本当にどうこうする気配はないようだ。しかし依然として状況が悪いため、相手の言葉を鵜呑みにするのは頭の良い判断ではない。

 そういった演技の可能性も有り得るからだ。


「はァん、まあ聞けって。こっちは研究員に色々先手を打たれちまってな、俺らは今戦うことができねぇんだよ。だから、話をしようとな」


「ふむ、なるほど。研究員に行動を制限されているわけか。その二人が今日たまたま道端で僕と出会い、話す内容とは……あまり聞いていて実のある話ではなさそうなのだが」


 踵を返そうとして、ふとその足を止める。先ほどこちらに関わってこなかった理由を少し、知りたくなった。


「――リーフェ・エリルガンド。北条唯華。その名前で合っているかな」


「合ってるぜ」


「ええ、それがどうしたのでしょう」


 逃げようとした標的が唐突に足を止め、両方のフルネームを口に出す。その行動を観察していた二人は、頷いて次の翼の言葉を待った。


「人を避ける空間に、先の態度。もしかして二人は、僕の、更に言えば一般人が居たから何もしてこなかったのかな」


「それを聞いてどうなると、思ってんだ?」


「さて。質問に質問で返されると困るのは僕なのだが……そうだね。例えばだけど――さっき名前は聞いているはずだね、麻衣に被害が加わらないように動いていたのであれば、君達は『どうしても僕を捕まえなければならない理由』があって、仕方なく僕に接触してくるのかも、と思っただけさ」


「……あ?」


 こちらからべらべら喋るのはあまり好きではないのだが、反応を見るに当たらずとも遠からず、の程度には的を射ているらしい。


「どうしてそうなんだ?」


 ふむ。

 そう来るか。


「簡単な話だよ。目の前に極上の餌があって、自分達にはその餌を奪うだけの力がある。不完全な狂人である僕をどうしても捕まえたいのなら、わざわざ一工程遅れて相手に勘付かれるようなメリットのない“術”を発動させてから襲いにはこない。もしも僕が逆の立場なら、一般人など何の障害足り得ない。この場に居合わせない研究員など行動してから撒けばいい。水町薫が傍で護衛をしていない絶好の機会じゃないか。他への迷惑など省みず、いちいち話し掛ける間もなく標的を仕留め、見られた一般人は全て殺す。そうしてから人避けを掛けて逃走に移行しても遅くはないと思うが。いや、それができないなら麻衣を人質に取るのも悪くはない。そうなれば僕は下手な行動を取れず、素直に従っただろうに。いいや、僕が麻衣を見捨てる可能性があるな。それなら――」


「もういい、止めろ」


 苛立ちを抑えきれない――そんな形相で翼を睨んだ男。赤いコートがその怒りを表現しているかのようだ。


「どうして怒る必要があるんだい。今のはただの手段であって、何も君の知人で喩えているわけじゃないのだけれど」


「……あ? そいつはテメェの友人だろうが。口だけでも、んな風に――」


「リーフェ、恥ずかしい。そろそろ失態に気付いてその口を閉じて下さい」


 篭手も付けていないただの拳を打ち鳴らそうとした男を女が窘める。


「んだよ、唯華――」


「この人はリーフェを試していただけです。これ以上の暴言をされると今度は隣の私が恥ずかしい思いをすることになるんです、が」


 何やら砕けた口調で男の怒りを鎮め、それから女は翼を真正面から視線で貫いた。


「そうでしょう? 村雲翼」


「そうなるね。今のやり取りで、君達が暫定的に何もしてこないことは理解したよ。望み通り警戒を解こうか。そして、話というのはなんだい。先に言っておくけれど、僕は水町薫の元から離れるつもりは今のところないよ。話をする以上は望まないでくれると助かるのだが」


 今日は少し軽装過ぎたな、と薄桃色のパーカーの脇へと寒風に晒された両手を突っ込む。そろそろ気温も下がる時間だ。近場へ外出、或いは寝巻きに着るようなシャツとパーカーにパンツだけでは少々の寒さを感じるな。

 狂人とは言えどもやはり厚着はしておいた方が無難だ、と身体を震わせた辺りで男――リーフェ・エリルガンドは整髪料で固まった髪をがしがし掻いて唸った。


「……ったく、んなことかよ……。ッチ、まあいい。そんでまあ、話だが……聞いてくれるだけでも構わない、不審がられても困るからここで話すが、いいか」


 ひたすらに真っ直ぐな碧眼が、翼の瞳と交差する。無言で顎を下げたのだけ確認して、女――北条唯華はこほんと小さく咳払いをした。


「まずはこの前のこと、すまない――そんで」


 新たな事件に首を突っ込んでしまった、という感覚だけを身に覚えた翼だったが、別段後悔もせず、彼らがする話に静かに耳を傾けていた。

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