八 人間遊戯 前編

《ホラ、な?》


 水町薫宅のリビングにて。電話越しに聞こえる研究員の声が、物静かな室内に響き渡った。


「……」


 応対するはずの本人、水町薫は渋顔を作るばかりで返事も返そうとしない。


《十三分だよ、十三分。ちゃんと指定の時間に来て、検査受けて、時間通りに帰ればあのタイミングで襲われることもなかったってぇわけよ》


「それだけを言いたくて電話してきたのか?」


 半ば呆れた様子で、彼は用件を訊ねる。


《いや、確認だよ。村雲翼を襲った奴は【雷神】に【蹂躙鬼】、で合ってるか?》


「そうだ」


《そうか》


 それきり言葉も返って来ないまま、ぶつりという遮断音が通話の終了を知らせる。


 折り畳みの式の携帯をテーブルに置き、彼は疲れたように椅子へ座った。


「あの研究員はもう僕達が戦っていることを知っていたみたいだったが……何者なんだ?」


「さあな。だが、奴は霞町の区画を任されている上の人間だ。この町にいる限りは、何をしていても奴に見られていると思え」


 テレビの電源をつける彼は、こちらも見ずにそう答える。


 そういうことなら、翼が水町薫を襲撃した時直ぐに研究員が現れたのにも納得が行くというものだった。

 あの人間として駄目な言動の数々からは想像がつかないものの、そういうものなのだろう。


「……ふむ、肝に銘じて置くとするよ」


 常に見られている、とはままならないものだが。

 この後は彼に用事があるわけではなく、翼は自室に戻ろうと反転した。


「なぁ、村雲」


 が、そこで呼び止められ、翼は動きを止めて振り返る。


「お前、これからどうするつもりなんだ?」


 漆黒の瞳が真正面からこちらに突き刺さる。言葉にどんな意味が含められているのかを考えつつ、翼はこう答えるしかなかった。


「どう、と言われても僕はここに居る以外に選択肢はないのだが」


「そうじゃない。お前は元々普通の生活をしていたはずだ。それが俺達の事情に巻き込まれ、保護対象にされて窮屈な生活を送ることを強いられている。だが、逃げようと思えばこんなところいつでも抜け出せるはずだ。お前自身はどうしたいんだ」


「……ああ、なるほど」


 翼は少しだけ考える素振りをし、その間も真っ直ぐにこちらを見つめていた視線に目を交差させた。


「僕は、恐らくこうなる前も普通ではなかったよ。だから学校に行く必要もないし、元の家に帰る必要もない。ましてや抜け出す理由も持ち合わせていないんだ。少なくとも今のところは、あるがままを生きるので十分だよ」


 ――人を殺したこともその説明に含めれば一番分かりやすいのだが、それは付け加えなかった。


 それからしばらく疑心の入り混じる目を翼に向けていた彼だったが、いずれ自ら視線を下にずらして言う。


「お前がそれでいいなら、構わないがな」


 そのままテレビ画面へ目線を移動させる。


 どうやらここで会話は切れたらしく。

 少しの間突っ立っていた翼は、「ふむ」と呟いて自室へと戻った。


狂人これになる奴なんざ、皆普通じゃないんだよ。だから――」


 その吐き捨てたような水町薫の台詞は、翼に聞こえることは無かった。





 ◇





「あ、あの……これ、本当に乗って行くんですか」


 若干の気後れを見せていた夢は、如月宅のガレージに停車している青いファミリーカーを眺め若干の苦い顔を作っていた。

 やってしまった、というような顔である。


「当たり前よ。私としても、かなーり気になる」


 車の鍵をくるくると回しながら、麻衣の母親は強い意志を見せ付けていた。


 夢が説明した後から、ずっとこんな感じである。

 一蹴されて当然の話だからこそ夢も母親に洗いざらい話してしまったのだが、まさか本当に信じてしまうとは思っていなかったため、彼女はこのような展開になってしまったことに困り果てていた。


 夢としては麻衣にも母親にも危険な目には遭わせたくなかったのだが、どうやら如月一家も同意見らしく。


「最近の霞町の様子は可笑しかったのよ。実はうちの旦那も一日だけ無くなってた記憶があってね、それも含めてずっと睨んでた。だから行くわ。夢ちゃん、心配しなくていいわよ! 三人も居るんだしこっちは車よ? なんかあったらソイツら轢いてやるわ」


「お母さん、それは駄目だよ!」


「そうね、冗談よ」


 そんな調子で、夢は後部座席に乗せられることとなっていた。

 運転席と助手席から笑えない会話が飛び交う中、夢は思考の海に沈む。


「記憶……か」


 麻衣母の旦那。つまり麻衣の父親も記憶に一日の空白があるということ。そこから導き出された結論は、まだ推測の域を出ないものだった。


「記憶の削除……改竄……情報操作。知られたくないことを意図的に消している……か」


 人間の記憶操作。そのようなことが出来るのであれば、誰かが他人の記憶を奪って情報の隠蔽を謀っているという可能性が高い。

 だが。


「有り得ない……というか、信じたくない」


 そんなことが可能なら、夢は今の社会や世界そのものが信じられなくなる。公に記憶の消去が可能なことなど当然ながら公開されていないが、もしそんなものがあったとすれば。


 麻衣、麻衣父、それに夢自身が体験したことだ。だから笑って忘れることなどできやしないし、存在しないと胸を張って否定することもできない。


「……行けば、分かるんでしょ」


 事の詳細を“情報屋”古條理咲に宛てるメールに綴りながら、確かな恐怖に寒気さえ感じていた。


「夢ちゃん、何か飲んでく?」


 バックミラー越しにでも夢の状態を察したのか、麻衣母が気を利かせて声を掛けてくれる。運転しているためこちらを向いてはいないが、心配してくれているのだけは分かっていた。


「いえ、喉は渇いていないので、大丈夫ですよ」


「そう? ちなみにお茶なら車内にあるから言ってね、ちょっと温いけど」


「あ、ありがとうございます」


 がらんと空いた道。

 夢達を乗せた車は着実に進んでゆく。


 メールの送信完了画面を見やり、夢はその時を待っていた。




 ◇




 部屋でだらだらと一日を過ごしていると、もう日が傾き始めていた。

 室内にずっと居るとどうにも時間感覚が狂ってしまう。引きこもりではあるまいし、なるべく気を付けて置こうと翼は思った。

 でないと体感的に人生の一部を損しているような気分に囚われる。


「そろそろ晩御飯、作らなければな」


 水町薫は基本的に食事は摂らないので、一応胃に食物を入れておかなければならない翼は自分で作るしかない。

 時間的にもいい頃合いだ。


 と、思いながらも窓の外を見て橙の空に視線をくれていると、唐突に部屋の扉が三回叩かれた。

 そちらへ首を傾け、今日は忙しい日だなと一人ごちてから立ち上がる。


「今日はまだ何かあるというのかい」


「残念ながらな」


 本当に残念そうに、扉を開いた彼は洩らした。再び着ていたコートがどことなくくたびれて見えるのは気のせいか否か。これも気分的なものだろう。


「ニュースは見てるか?」


「見ていないわけではないが、僕の情報源は今のところテレビしかない。だから大まかな内容だけ頭に入っていると考えてくれていいかな」


「そうか、それもそうだな。いずれお前には携帯でも持たせてやろうかとは考えていたが……まあいい。これからの話だ」


 こっちに来い、と促す彼の手招きに僕は素直に移動した。


「お、っと」


 リビングに出るなり、彼は何かを投げて寄越してきたので慌てて掴み取る。見れば、濃いグレーの……上着だった。生地は薄いが、なんと言うか、どう口にしていいものか。


「これから外出する。その前に、流石に夜だ。上がないならそれ着て出ろ。男物だがな」


「ああ……気を遣ってくれなくても良かったのだけど。一応礼は言っておくよ。ありがとう」


 翼自身は男物や女物などはおろか、熱さだろうが寒さだろうが極端でなければ気にはしない。狂人になってから更に顕著に現れるようになった。

 加えて御洒落に疎くそれ以前に興味すらなく、服装にこだわりはないので着ても着なくてもいい、というのが正直な感想であった。

 が、そうは言わないでおくことにする。ここは彼の好意を汲み取ってあげることとしよう。


「今日のニュースで隣町からの脱獄囚がここ霞町に逃げ込んでいるとの報道があった。ソイツは人間をバラバラにして解体する趣味を持った殺人鬼シリアルキラーってのでな、耳にはしてるか?」


 ああ、確か柳谷区の。情報隠蔽で隠されていた脱獄の事実だったか。

 丁度今朝に見た内容だったので肯定すると、彼は続けた。


「どうもこの町の悪い噂ばかりが蔓延しているようでな。警戒体制の警官達が皆殺しにされた事例もあることから、霞町が無法地帯と勘違いしてのこのこやって来る馬鹿共が現れ始めている。先の殺人鬼もそうだが、一度そういった噂があるとそうそう拭えない。勿論俺達“裏側”の人間も化身の暴虐のお陰で関与しちまってる関係上、警察には手に負えないってことで……研究員の判断で、この町に逃げてきた殺人鬼を捕まえて向こうに引き渡すことになった」


 なるほど。


 だがそれに水町薫を引っ張り出す必要が、と思考する前に。「本題はここからだ」と彼は先を見越した指摘を放った。


「ソイツは既に死んでいた。死体の場所は、俺がお前を手にかけた廃工場の内部。その場にはソイツの血文字で『待っている』とだけ記されていた。まぁ死体に関しちゃ回収した後で細工して別の現場での出来事に変えるだけで体裁は取れるが、文字は明らかに死体が遺したもんじゃない。十中八九、俺に向けられたメッセージだ」


 翼はあの日、水町薫が何をしに廃工場に行っていたのかを察している。

 血の付いた短刀を所持していたことから、大方化身とやらを捕まえる仕事をやっていたのだろう。

 そこへ出向いた自分は全く……と、その件は今関係ない。


「化身に恨みでも買ったのかい?」


「さあな。ただ、俺はあの時二体の化身を相手していたんだが、その内の一体を逃している。ほぼ間違いなく、それだろうな」


 彼は深い溜め息と共に頭頂部を右手で引っ掻いた。

 別に化身を取り逃がしたことがショックということでもなさそうだ。単に余計な仕事が生まれたのが煩わしいように見える。


「で、後始末を付けに行くが僕の監視もしなければならないとのことで、付いてきて欲しいと」


「すまんが、そういうことだ」


 どうやら自分が水町薫の足枷になっているらしい――など、とうの昔に気付いていたが、いよいよ以って本格的に動き難そうな彼の事情を解ってしまった。

 これが仕事でなければすぐにでも殺されていそうな雰囲気だな。


「謝ることはないよ。文句はないし、黙ってついていくさ」


「助かる」


 だが、仕事とは言えどもこうして余計な気を遣ったりするのはどうしてなのだろう。冗談を言えば怒りを露にするが、そうでない時は至って普通である。

 翼には彼の複雑な感情の内情は理解できそうにもなかった。


「して、一ついいかい」


「? なんだ」


 とりあえず、晩御飯を作るという面倒な作業をしなくていいのはありがたい。今日はこの調子で晩を抜くとして。


 さて、それはそれとして何だかどうにも身体が鈍ってしまっている。狂人になってから真面目に能力を使用したのは、水町薫と交戦した一回切りのみだ。

 本音の部分で翼は、能力を使いたかった。


 この提案を受け取ってくれるか分からないが、するだけしてみようと翼はそれを言葉にする。


「これから君が相手する化身についてだが、僕も参加していいかな」


「……は?」


 呆けた彼の疑問符が、リビングを吹き抜けた。


 それはもう、保護観察対象が「自分も戦いたい」などと抜かすとは思ってもみないことだったろうが。


 眉間に皺を寄せた彼は少しだけ首を捻り、数秒目を閉じて思考した後再び開いてこちらを見据える。


「そりゃどういった意図からだ?」


 次いで当然の疑問が口から飛び出した。ただそこに翼に対する不信感がないことから、純粋な質問なのだろうと翼は判断した。


「いや。ただ僕もたまには運動がしてみたいと思ってね」


 運動といっても、この能力についての理解を深めたいのが一番の理由なのだが。

 翼が分かる分だけでは“限定的な移動能力”があるだけだ。しかし、使いこなせるようになればもう少し用途も増えると見ている。

 そうするためには実践が手っ取り早い。


「お前にとっての運動は戦うことなのか?」


 人が戦闘狂だとでも言いたげな視線を向けるのは止めて頂きたい。

 別に翼にそのつもりはないのだ。ただ自分の身体を使って実験がしたい、というだけのことである。


「この身体能力じゃランニング程度で運動したとは言えないと思うのだが」


「そりゃそうだが、今回は相手が悪い。また機会は作ってやるからそん時やれ」


 妥協案を出してくれたので、それで頷いておいた。相手の化身が何者かは知らないが、彼が逃がしてしまうような敵だ、翼が介入できないのも仕方ないのかもしれない。


 本日二度目の外出だ。彼から貰ったグレーの薄いコートに袖を通し、昼間の出来事を思い返す。


「さて、何事もなければいいのだけど」


 心にもないことを呟いて、編み上げのブーツに足を突っ込んだ。




 ◇




 車の停車する音が、不気味な静けさ漂う廃工場の入り口で鳴り響く。

 ドアの開閉と数名の足音が重く響き、ばたりと閉められた。


「ここね?」

「え、ええ。そうですが……」


 尋ねる麻衣母に、頷く夢。ここに来た瞬間から、夢の頭に違和感が渦巻いていた。フラッシュバックする様々な光景が脳裏を過ぎり、走る頭痛に顔を歪めて頭を押さえる。

 隣を見やれば、麻衣はぼうっとある一点を見つめて静止していた。息もしていないのでは、と思うほど微動だにしなかった麻衣は突然呟く。


「ここ、だ。翼は――」


 水町薫に殺されたんだ、と。同じクラスメイトの男子生徒の名を口にして、麻衣は胸を押さえた。夢の頭に浮かんだ様々な情景が、パズルのピースが合わさるようにかちりと嵌まる。


 その後、彼に何をされたのか。顔面を掴まれ、首を絞められて。その後の現象を表現することはできないが、間違いなく言えることがある。


「麻衣。私達、水町薫に記憶を消されたんだ」


 そうとしか考えられなかった。同時に、怖気が背中を支配した。


「やあ。君達は、ここに“どんなご用で?”」


 三人の後ろから何の予備動作もなく登場したそれ。

 素早く振り向いた夢の視界に映るのは、ボンネットの上で堂々としゃがんでいる、少年。目深に被ったフードのために彼の目元から上を確認することができないが、開いた口が凶悪な笑みを湛えているのを見た夢は瞬時に危険だと察知した。


「どんなご用? 人様の車に乗ってその態度は――」


 が、行動に移すには遅すぎた。

 無礼な少年へ怒りをたぎらせた麻衣母が口を挟んだ直後、少年の身体が不自然にぶれる。


 幾重にも。赤く、ぶれる。


「――う、ぐっ」


 ずぐ、と重い拳が麻衣母の腹にめり込み、悲痛な呻き声が耳に侵入した。


「お母さん!」


 遥か後方に吹き飛んだ麻衣母はびくびくと痙攣し、そのまま動かなくなる。残された二人の前で楽しそうに嗤った少年は、再び問いを投げてきた。


「“どんな用事かな”」


 重く放たれた言葉。およそ人間が放てる威圧を超えた恐怖に当てられ、二人は畏怖し一歩も動けなくなる。余計なことを言えば二人とも殺される――そう判断した夢は、麻衣を庇うよう返事をした。


「ここを見に来ただけよ」


「そっかそっか、見に来たんだ。でも、見るだけじゃつまらないとは思わないかな? そうだ、君達も入れてあげるよ。そうだ、それがいい」


 奇怪な返答。


 夢にも麻衣にも、少年が何を言いたいのか理解することはできなかった。恐らく夢の言葉は彼に都合の良い解釈をされているのだろう。

 夢は厄介な者と遭遇してしまったということに歯噛みする。麻衣母がやられた、これは自分の責任だと後ろ手に携帯を出し、開く。画面を見る必要もない、宛てるメールは古條理咲へ。


「ごめんなさい、遠慮していいかしら。私達、ちょっと用事があって」


「遠慮は要らないよ、好きなだけ見物していくといい。ちょうどこれから戯れをはじめるところだったしね。それで君達の後にも素敵なゲストはまだ来るんだ、それまで楽しもうよ」


「一応訊くけど、何を始めるつもりなの……?」


 会話の一切通じない相手。だが、長々と喋ってくれるならそれでも構わない。連絡を送る手が汗ばむ。内容の確認も不可能だし誤字もあるだろうが、彼女なら状況を正しく理解してくれるはずだ。


「何を? そんなの決まってるじゃないか。――君達で“遊ぶんだよ”。逃げられると思うなよ」


 送信、完了。眉根を寄せた夢は畏怖を払って一歩前に出る。

 叫んだ。


「逃げなさい!」


 麻衣に叫び、夢は少年の前に立ちはだかる。先程の動きを見て実感している。見た目は少年だとしても、自分達では束になっても敵わないと。

 だから、麻衣だけは逃がす。そのつもりで夢は――。


「おや、それはどうしたのかな」


「……え……」


 自分が、宙吊りになっていた。両の手足が赤い紐に縛られ、何も存在しないはずの空中に吊り下げられている。


 少年が持っているのは、携帯。先程まで夢が持っていた物で、彼が見ているのは――メールの画面。


「また新しい人、呼んだのかぁ」


「逃げて、麻衣、早く……」


 今、無事なのは麻衣だけ。自分が囮になっている隙に彼女だけでも。

 だが麻衣は放心していてそこから一歩も動こうとしなかった。


「でも、僕に隠れてこそこそとするのはいけないよね。お仕置きだ」


 少年のフードから、赤い何かが大量に溢れ出る。血の生臭さが鼻腔を刺し、夢は危機感に叫ぶ。


「なにぼうっとしてんのよ麻衣! 逃げろ――」


「うるさいなぁ」


 宙吊りにしていた赤の紐がぶつりと断たれ、落下する夢を頭から掴んで地面に叩き落とした。

 ごしゃりと鈍い衝突音。


 麻衣はそこでようやく逃げ出した。


「お友達の叫びも虚しいものだね」


 しかし、逃げるには遅すぎたのだ。あっさり行く手を阻んだ少年は血液にまみれた両手を麻衣の頬に添え、愉しそうに嗤う。黒い瞳が狂ったように歪み、あまりの異質さに麻衣は硬直した。


 まるで、同じとは思えない何か。


「さあ、始めるよ。しっかり見ているんだ――」

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