七 暗躍するは陰
「遅いぞ、十三分遅刻だ」
研究所には難なく到着した。道中の人気の無さが気味悪い雰囲気を発していたが、不審な人物を見掛けることもなく、無事室内で研究員と対面している。
その研究員は清潔な白衣を羽織っており、所謂研究服に身を包んでいた。
少し見ない内に無精髭も剃られ、彼自身の不潔な印象は薄れている――にも関わらず、さも自然な動きで白衣の内側から煙草とマッチ箱を取り出した。
しかし、どうしてかにやにやと気持ちの悪い笑みを浮かべていたため、指摘する気も起こらなかった。
「十三分? そいつは村雲の着替えが遅すぎるからだ」
「ちなみに十三分と四十二秒の遅刻だ、俺だって忙しいんだから約束は守ってくれなきゃ困るぜ」
煙草を味わうように
「すまないが、僕は時間を聞いていないのだけど」
「あら? そんじゃ情報を円滑に伝えられなかった水町薫君の責任じゃねぇかな」
「あっそ、じゃそれでいい。手早く検査してとっとと終わらせろ」
研究員の言葉を鼻で笑った彼は、苛立たしげに部屋から出ていった。
研究、医療器具が大量に置かれる中、気にせず煙草を口にくわえる研究員が「さて」と呟く。
手に持ったのは空の注射器だった。
「とりあえず採血からすんぞ、そこのベッドでも床でもいいから適当に座ってくれ」
「流石に床は勘弁願うよ」
他人の靴で汚された床に直接座るのはあまり頂けない。
敷かれた白いシーツのベッドへ腰を降ろし、ニットの袖を捲って右腕の肌を露出させる。
差し出すと、彼の顔が接近して煙草の紫煙が鼻腔を刺激した。
「一つ訊いてもいいかな」
「何だ? 言ってみろ」
「煙草の臭いはあまり好きじゃないんだ、せめて検査する時は止めてくれないか?」
言った瞬間、彼は露骨に嫌がる小学生のような表情を作った。それから自分と翼の肺の位置を交互に指し、唐突に煙草の害悪についての説明を始めた。
「確かに煙草は臭いかもしれない、一般人には少し身体に影響があるかもしれない。だが狂人の肉体ってのは凄いもんでな、酒、煙草は勿論のこと、軽い毒なら効きやしねぇんだ。だからお前がいくら煙草の煙を吸ったところで
翼はただただ苦笑する。
それは一体どんな言い訳だ。そんな言葉で本当にこの場を切り抜けられるとでも思っているのだろうか。
「その説明のどこに、僕の臭いが苦手だという発言を説き伏せる内容があったんだい? 教えておくれよ」
「あ、いやそれはな、人それぞれだしな? 煙草の臭いが嫌いな奴もいるだろうさ、でもな」
「最初に言った通り、僕は煙草の臭いが苦手だと言ったんだ。毒について一言も話した覚えはない。それに、僕が狂人かどうかはまだ分からないのでは?」
「あー、分かった。分かった。ちょっと待っててくれ」
結局、研究員が煙草を吸い終えるまで待つこととなった。
採血が終わり、脈を測ったりレントゲン診察なども終え、変化無しと判断された後に翼は煙草臭い部屋から解放された。
その時たまたま通った女性の研究員に「ちょっと、ここで煙草を吸うなと口を酸っぱくして言ったことを覚えていないんですか? 部屋にある機材にヤニが付着するのは勿論だし、そもそもこの区画は禁煙ですよね? 吸うなら誰も居ない外に出て吸って下さい」と怒られていた。
どうやら迷惑しているのは翼だけではないようだ。少なくともこの研究員は約束云々言っていられる身分ではない。
「はいはい」と注意を受け流す研究員へ蔑みの視線を送っていると、新しい煙草を口にくわえていた彼が見返してきた。
全く学習が見られない。その内この現場を見咎められなければセーフだ、とか言い出しそうだ。
「マナーを怠る喫煙者……よろしくないな」
「わぁかった、わかった、止める」
擦ろうとしたマッチと煙草を箱にしまった研究員は、いつも通りのことかと壁に寄り掛かっている水町薫を呼んだ。
「おい、定期身体検査は終了した。連れて帰って構わねえぜ」
「次はいつだ?」
「知らん、また連絡する」
知らんとは他人事な。
「村雲、帰るぞ」
振り向きもせずに出口へ向かう彼を追い、翼も振り向かずに研究員へ別れの挨拶を済ます。
「次は常識のある人に
「……ま、そうだといいな。そうだとな」
つまり担当は変わらないということらしい。
一回目の定期検査は無事、終了した。
研究所の外に出た翼は、澄んだ空気を肺に入れて意識を切り替える。
「朧榮君、この研究は秘密裏なんだろう? こんな町外れの病院みたいな施設で平気なのかね」
「逆に堂々としてるんだろ。誰も気付かないし、当事者以外に話したところで理解されないだろうよ。俺からすりゃバレようがなんだろうが知らないがな」
「なるほど。そこは上手くやっているのか」
納得し、異質な静けさの町を眺めた。
「……まさか、僕の知らぬ間にこんなことになっていたとはね」
しみじみと呟く。
霞町での殺人事件が原因で、すっかり人通りが少なくなった町並み。連続で起きる事件が重なり続けた結果、近辺の学校はすぐに緊急閉鎖という形を取らざるを得なかった。
なので外で遊んでいるような子供は当然見当たらず、学生も見ない。時々見掛けるのもスーツ姿のサラリーマン、警察関係者などが精々である。
事前情報として知識にあることだが、百聞は一見に如かずということだろう。
これじゃどこの店も商売上がったりに違いないな。
「半分は俺達のせいだがな」
「僕を殺したりするからな」
「……違う。俺は証拠を残さんし、相手が化身じゃなきゃ戦わない」
翼が化身に間違えられた、という事実については特に否定もせずに聞いていると、水町薫は寒そうに両手をコートのポケットへ突っ込んだ。
かと思えばそこから短刀を一振り抜き、翼に手渡した。
「お前も武器を持っておけ。この辺り、誰か潜んでんぞ」
……ふむ。
何者かの気配というのは少し前から感じていた。短刀の柄を掴んで感覚を確かめ、右手でしっかりと構える。
「いいのかい? これで君を刺すかもしれないよ」
「刺したいなら刺せよ。今度こそ殺すぞ」
「ちょっとした冗句だよ……何もしやしないさ」
確かに一度は殺そうとしたが、数日も一つ屋根の下で過ごした上でまたそのような愚行を犯すものか。
だが、殺気を放つ今の彼に冗談は通じないらしい。
「村雲」
小さく名前だけを呼んだ彼は、そこで静かに立ち止まった。
「なんだい」
「来るぞ。身構えろ」
来る、とは――。
言われた通り、素人なりに構えて立ち止まる。
「……?」
そこで違和感を覚えた。ピリ、とした空気が辺りを漂っているのを感じる。
これは、静電気――。
そこまで思考が回った瞬間、翼は吹き飛ばされた。誰に? いや、吹き飛ばしたのは水町薫で。
――視界を覆うほどの雷が、彼と翼を引き剥がすように走っていた。
「な……」
当たっていたらひとたまりもない一撃だったろう。
彼に飛ばされなかった時のことを考えて身震いした翼は短刀を持ち直し、雷のやって来た方を睨み付ける。
「はっ、今のを避けるたぁ中々やるじゃねぇの。流石に一筋縄じゃいかねぇみたいだ」
道の真ん中を悠々自適に歩いてやって来るのは、よく見かけるようなスーツ姿の男。金に揺れる髪を整髪料で固めたその姿は雄々しく、鋭い眦がこちらを見据えて嬉しそうに笑った。
一番の特徴は、両腕の袖に付けられた銀製の篭手。スーツに似合わず異彩を放っている篭手が男によって打ち合わされ、そこから青い雷を迸らせている。
「あら、外してしまったのなら仕方ありませんね。正々堂々、真正面から奪わせて頂きましょうか」
対して空中から舞い降りるようにスーツの男の隣に降り立ったのは、背の低い女。真っ黒のゴシックドレスを身に纏っている。服と同じ色をしたロングの髪が風に靡き、異質な空気を更に強めていた。
「朧榮君、あの二人が僕を狙っているという奴らか」
「そうだ。始末するぞ」
どこからともなく一振りの日本刀を右手に構えた彼が翼の前に出る。あの日対面した時のような殺気が彼から洩れ、辺りを巻き上げていった。
「かっこいいねぇ? 王子様みてぇな立ち位置ってやつか? ああ?」
「違いますわ。獲物を独占している鼠、ですよ」
「なるほど。的確だな」
スーツの男は合わせていた腕を大きく開き、独特な構えを取った。それに合わせるように黒ドレスの女も口を閉ざし、こちらへ歩み寄ろうと足を踏み出した。
彼らの周りの空間が歪んでいき、無造作に迸る雷が辺りの地面や壁を這ってゆく。
これが、狂人。今まで水町薫しか見ていなかった翼は、この現象が能力によるものだとすぐに理解する。自身も、持てる全ての感覚を頼りに戦闘態勢に入る。
理不尽な邂逅に戦闘。それらはここまで唐突に起こるのだと実感し、翼は気を張り直した。
「【雷神】リーフェ・エリルガンド。これより戦闘に移る」
「【蹂躙鬼】北条唯華(きたじょうゆいか)。参りますわ」
それぞれが名乗りを上げ、水町薫と同等の鬼気を解き放った。
狂人の中でも強者と認定された者には、二つ名というものが与えられている。研究員達が勝手に付けているものの、二つ名を授けられた狂人の実力は確かであり、その名を口にするだけで逃げる敵もいることから、狂人の一部は名と顔を広めるために戦闘時に二つ名を掲げることがある。
水町薫にも二つ名は付けられているが、彼は自分から口にすることはないので翼は知らない。しかしその強さは折り紙付きで、知らぬ狂人はいないと言われているほどの実力者だというのだから、そこまで来ると二つ名も最早必要ないのだろう。
翼の護衛に選ばれたのも納得というわけだ。
さて、【雷神】はその名から大方察することができる。大気をも焦がしかねない凶悪なその力は、そのまま雷を操る力と見た。
単純故に強いその力は、一撃当たるだけで致命傷となりかねない。先の雷撃と言い、危険極まりない能力である。
大して【蹂躙鬼】の二つ名からはどんな能力か想像することは叶わない。空間が歪むなどの現象が関係するのだろうが――。
と、相手の有する能力を瞬時に分析した翼は、名乗りした二人から反射的に遠ざかっていた。
それもそのはずで、先ほど翼の立っていた地面に天から雷が撃ち落とされていたからだ。流石に不意打ちでもなければ反応も効くようで、後方へ無事に着地した翼は短刀を持ち直す。
「村雲、そのまま下がっていろ」
「君のお手並みを拝見させて貰うよ」
少なくとも翼の実力と能力では水町薫に一切通用しない。それが、この狂人相手にどれ程の力を発揮するのか。興味のあるところだ。
「っは、逃がすかよ。唯華!」
「分かってます」
水町薫の態度に若干の苛つきを見せるリーフェ・エリルガンドは北条唯華に合図を送る。すぐに返事をした彼女は、どす黒い笑みを口元に浮かべてゴシックドレスを風に揺らめかせた。
「貴女のお相手は――私が担当しますわ。他人の争いを見物する暇はなくてよ」
北条唯華の眼前。空間には歪みが生じ、映る黒装がぼやけて消える。
こちらに来る。と翼は反応し、咄嗟に刃を――。
「そう言う前に、自分の心配をしたらどうだ」
「――が、あ」
結果として、それが翼の元にまで到達することはなかった。
途中で水町薫の右手に顔面から鷲掴みにされ、北条唯華が呻き声を洩らす姿が目に入る。
次の刻。彼の冷淡な言葉そのままに、掴んだ頭を地面に叩き付けた。
ごしゃりと思い響きが鳴り、抵抗の叶わなかった女の顔が潰れる。
コンクリートに打たれた額から血液がだくだくと流れ、薄汚れてしまったゴシックドレスには渇いた砂埃が付着し、頭を上げた女の顔が憤怒の形相に満ち溢れていた。
「お前が相手してんのは俺だ。そう易々と隣抜けられちゃ困るんだよ」
「やって、くれまし――」
容赦のない蹴り上げが地に伏せる女の鳩尾を砕く。ごは、と血塊を吐き中空に上がったその顔面を立て続けに殴り、衝撃のままにリーフェ・エリルガンドの元まで吹き飛ばした。
数回転も転げて後退する華奢な身体が男の腕で支えられてようやく止まる。
「どうする、【雷神】。今逃げるならその女共々見逃してやるが」
「流石は【順列一位】か――」
派手に篭手を打ち合わせ、巨腕から青い稲妻が弾けた。
「唯華、やれるか」
「ええ。問題はないです」
北条唯華は辛そうにしながらも口元の血を右手の甲で拭う。滴る液体が黒く小奇麗なドレスを禍々しく染めていたが、そんな服装をしている割には汚れを気にした様子は全くない。
「逃げる気はねぇ、諦めてソイツを寄越しやがれ――」
大気を震わす雄叫びの後、篭手を這っていた雷が膨大に膨れ上がった。静電気が肌を刺激する、それほどまでの電量。
何かが起こると脳内が危険信号を発した。
「――
刹那。
身の丈何十倍はあろうかというほどの巨大な雷撃が、右の篭手から射出される。
住宅街の道路全てを覆った雷が、進行の全てを焼き払った。
電線が異常な雷の圧に耐えられずに火を吹き、雷の海と化した道路は力の余波でばちりばちりと電流を流している。
間一髪のところで民家の屋根へ非難した水町薫は、翼を抱えてふぅと一息吐いた。
「助かったよ、ありがとう」
「俺がお前を助けるのは護衛だからで、善意からじゃない。お礼はしなくていい」
「じゃあ……助かったよ」
今の一撃は翼の能力や現在の判断速度で避け切れるような代物ではなかった。
視界を覆いつくさんばかりの荒れ狂う雷撃。直前で水町薫が助けに来なかったら、一体どうなっていたであろう。
電撃で全身が丸焼きになっていたか。
「クソッ、今のも簡単に避けてくれるな」
リーフェ・エリルガンドは金毛を軽く掻き乱し、舌打ちをして上方を見上げる。
「悪いがいつまでもお前らに付き合っている暇はないんでな。俺の目的はあくまでも村雲の護衛で、お前らの始末はついでだ。処分は研究員の方で下されるだろうさ」
翼を屋根の上に降ろし、全く動じもせずに呟いた。
「身騙り、弐幻刀」
そう発す水町薫を中心に存在のズレが生じ、翼もろとも姿が失せていく。
「引くのかい」
「ああ、それで十分だ」
「ふむ」
弐幻刀。これが水町薫の能力の片鱗、その一部。
二人の強者を相手にしつつも尚余裕を持っている彼を観察しながら、ふと幾つ技を隠しているのだろうと考えた。
その内自分の姿が空に掻き消えていくのを確かめ、逃走間際にリーフェ・エリルガンドと北条唯華を一瞥した。
「僕を捕まえたいのなら、精々頑張ることだね」
――いくら自らをどうでもよく思っていたとしても、わざわざ自分から捕まるようなつまらない真似はしない。
囁いた言葉は風に流れ、水町薫の能力と共に溶けていった。
◇
「は、逃げやがった」
霧散してしまった標的が先程まで居た屋根の上を睨み、【雷神】リーフェ・エルリガンドは発現させていた能力を緩やかに解除した。
「人避けはもういいぞ、唯華」
言われてから能力を解除した【蹂躙鬼】北条唯華は、深く溜め息を吐いて辺りを見回した。
「ええ。にしても……人避けに大分能力の制御を持っていかれていたのを含めても、あの対応力は」
「流石は【順列一位】ってやつか。軽くあしらわれたぜ」
装着していた篭手をスーツの袖から外す。まだ帯電していた篭手は、びり、と電流を弾けさせていた。
「まあいいでしょう。相手の動きは見ましたし、次で仕留めればいいだけですわ」
「そうだな」
北条唯華の汚れたドレスを厚い手の平でできうる限り払っていく。眉をひそめて思案げに物事を考える彼女に、リーフェ・エリルガンドは優しく声を掛けた。
「大丈夫だ。俺らはきっと元に戻れる。そのために、ここまで来たんだろ。今度こそあの狂人とっ捕まえて、それで終わりにしよう」
「ええ、きっと。そうであることを祈っていますわ」
にこりと空元気で笑った北条唯華の頭を撫でてやり、二人はその場を立ち去った。
――その場を遠くから観察していた研究員は、顎を擦りながら白衣を翻した。
「そろそろか」
煙草の臭いだけをその場に残して、研究員は振り返り消えてゆく。
不穏な独り言だけを遺して。
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