六 護衛業務
狂人になると毎日の食事を必要としなくなる。
期間としては一ヶ月置きに一、二食ほどの栄養を摂取するだけで、普段の生活から戦闘までの行動が可能な便利な身体だ。
飲水はそれなりに必要ではあるが。
ただ、イレギュラーとして存在している翼が狂人に当て嵌まるかどうかが不明なので、現在は食事を強制されている。
今まで通りに食事を摂っても何ら不都合な点はないので、翼はその通りに行動していた。
そのため、朝早くに起床した翼は別段空いていない腹を擦りつつ冷蔵庫へと向かった。
朧榮雄海――という偽名が記憶に強い彼の自宅で過ごすのは、今日で四日目になる。
既に自分の貸し部屋は契約を解除し、残された生活道具は彼の部屋に送っていた。
「……パンでいいか」
薄切りの食パンにマヨネーズを塗り、チーズを乗せてオーブンに入れつつ、ずれたキャミソールの肩紐を定位置に直す。
あれから、殺し合いを演じた彼とは和解している形となった。
翼が先行していた彼への怒りの溜飲も下がり、数日も経過した今では争いが風化したような関係である。
こうなった関係の要因は研究員から届いた手紙にあった。
内容は事細かに記されてあった。それこそ翼の能力発現に至る過程やその存在が狂人、化身などの界隈に伝わってしまったこと、イレギュラーである翼を狙う輩が霞町に集まり始めていること、所在を秘匿するために彼の部屋で匿うことや注意事項などが書かれていた。
そのお陰か彼は翼に対して敵意を剥くこともなく、翼も大人しく研究員の命令に従っているということだった。
そうでもなければ、いくら和解したとは言え彼の――水町薫の部屋に寝泊まりするなど、あるはずはないのだが。
同棲と言えばまだ聞こえはよく、実際のところは監視下に置かれたような形である。
そんな彼はまだ寝室で寝ていて――勿論寝室も別室でリビングもしっかり設けられている――しばらくは起きない。
今日も学校は休校であり、研究員から街に潜伏する化身の駆除も命じられない彼は所謂暇人なのだ。
そして彼が暇人だということは翼も外出できず、こうしてだらだらと日常を過ごしている次第である。
焼き上がった食パンを取り、平皿に乗せてテーブルまで移動する。椅子に腰掛け、そこで何となくテレビの電源をつけた。
「脱獄、ねぇ……」
画面に表示されたニュースの見出しには『凶悪な脱獄囚、柳谷区から霞町へ逃亡か』と記されている。
何でも、刑務所から脱け出した囚人の手による無差別殺人が相次いでいるらしい。
柳谷区の住民に被害が起きて初めて公に脱獄の情報が知れ渡り、情報隠蔽を行っていた警察関係の不信が高まっているそうだ。
犯人は霞町で姿を眩ましたようで、住民への警告を促す旨を伝えたところで番組が終了した。
「僕は逃げ出そうとは、思わないがな」
翼は現在置かれた状況を省みて、一人ごちる。
自分も警察から追われるはずの身だが、捕まった後に脱走を謀ろうなどとは考えなかった。
理由として、刑務所から抜けるのはいいが、その後に目的が存在しないからだ。
殺した人物が実は生きていたというのであれば、脱走して殺しに向かうかもしれないが。
そうでなければ、他にはない。
翼はシリアルキラーでも快楽殺人者でもなければ、大きな目的の元での行動をしていたわけでもない。
だからこの数日間、水町薫の部屋から抜け出そうとは一片も考えなかったのだ。
番組を変えつつパンをかじり――こうして朝の一時が静かに経過していく。
「おい、村雲」
丁度最後の一口を食べ終えたところで、翼の後ろから声が掛かった。
「なんだい、朧榮君」
返事と共に振り返れば、長袖の黒シャツにスウェットを着ただけの彼が、髪の毛の寝癖を気にしている姿が見られた。
半分閉じた瞼を見開き、彼はぼそりと呟いた。
今日はえらく早起きだ。
「その姿はなんだ」
「ああ、気にする必要はないよ。ただの寝巻だから」
指摘されて自分の姿をちら、と見る。すぐに何について指摘を受けたのか察しはついた。
肩と腕を大きく露出した薄桃色のキャミソール。下は灰色のホットパンツのみで、とてもではないが室内といえども異性に見せられる格好ではない。
しかし、彼なら別段問題もなかろう。
「目のやり場に困ると言っているんだ」
「僕のどこを見たらそんな言葉が飛び出すんだろうね」
平皿を片付けるために立ち、内心では面白く思いながらも流しに置きに行く。
蛇口を捻り、そこで翼はふと考え付いた一言を口に出してみた。
「それとも君は、僕を見て欲情するような人間なのかい?」
さぞ意地の悪い聞き方だったろう。平皿をタオルで拭う合間に彼に一瞥をくれると、困った風に目を伏せていた。
「……いや」
「ならいいじゃないか、僕の姿がどんなものであろうと」
食器棚に水気を取った平皿をしまって、彼の元へ近寄る。
今度は額を右手で覆い、盛大な溜め息を吐かれた。
「いいから着替えてくれ」
「……ん、そうかい。まあそうだね。この姿では肌が冷えるし、厚着をするよう心掛けるよ」
「そうしてくれ」
しかし翼は言葉に反してそのまま椅子に座りテレビ番組のチャンネルを何度か変え、最終的に見たいものが無かったので電源を落とした。ふと横を見れば「お前は人の話を聞いているのか」と言いたげにこちらを凝視してくる彼。
そんな彼に、一つ尋ねてみた。
「ところで、寝間着を持っていない場合はどうすれば?」
「……自分で考えてくれ」
鼻白み、彼は向かいへ腰掛ける。その視線は若干翼から逸れていはいたのだが、その内慣れるだろうと翼は気にも止めなくなった。
「なぁ村雲」
「なんだい、朧榮君」
先のようなやり取りを一つ、彼は不思議そうにこちらの目に視線を合わせた。なるほど、そうきたか。
「前から訊きたかったんだが、その『朧榮君』ってのは何だ」
「君が僕に告げた名だよ。だからそう呼んでる」
春頃、彼は翼に『朧榮雄海』という偽名を言ったが、他のクラスメイトにも同様に別の偽名を口にしていた気がする。
そうなると水町薫の名が本名かは不明になるのだが、彼はその名で呼ぶのが当然だとでも言いたげに眉をひそめていた。
「じゃあ今後は水町でも薫でもどっちでもいいから、そう呼べ」
「どうして?」
「俺が困るからだ」
最後にそう吐き捨てた彼はテーブルの上にあるリモコンを引ったくるように取り、電源をつけ直した。
何かも分からないアニメーションが途中から流れるが、彼はすぐさましらみ潰しに番組を変更していく。
だがやはり興味のそそられるものがなかったのか、彼も電源を落としてしまった。
「逆に訊くが、君はどうして偽名なんて使うんだい?」
再び静寂に包まれる中、翼は問いを投げた。
偽名の理由だ、やるからには必ず意味がある。クラスメイト一人一人、いや出会う人間に違った名前を伝えるのにはどんな意味があると。
「お前が知る必要のある内容か?」
彼は答えなかった。
ならば、とわざとらしく首を傾げ、翼は嫌らしい笑みをその顔に張り付けた。
「それじゃあ仕方ない。今まで通り、朧榮君と呼ぶよ」
そんなことを言って、翼は席を立った。自分にあてがわれた寝室へ戻ろうと背を向けた辺りで、静謐な殺気が背中に降り掛かった。
「次その名で呼んだら――分かっているな」
明らかな殺意を受けたが、翼は意にも返さない。
「好きなだけ殴ればいい、殺したければ殺して構わないよ。でも僕は君が言ってくれた名前を呼ぶだけで、それだけだ。そう呼ばせたいなら、しっかりと言葉で説得することだね。それじゃあ、また後で。朧榮君」
皮肉を言うと、それきり彼からの殺気は消え失せた。そして返事も紡がれないので、翼は自室へ戻った。
◇
同刻。
頭に靄を抱え続けていた少女は、黄色のパジャマ姿でベッドに仰向けになっていた。
「うう……なんだろうやっぱ気になるなぁ、ううぅ」
如月麻衣。疑海高等学校の生徒にして、一年生の女子だ。本日は登校日となっているが、例の殺人事件のお陰で学校自体が休校になってしまっているため、外出の予定はない。
そのような生活も、数十日が経過した今日この頃。
夏休み並みに長い休みを満喫――とはいかなかった。
休校の解除も未定なためだろう。
学校側からは定期的に課題が送付されそれが次第に山積みとなっていき、更には霞町全域の治安が乱れているため親からは外出を禁止され、麻衣の摩耗した精神はここに来て限界に達していた。
その限界な精神は、とある空白の一日についての思考を必死に張り巡らせていた。
――水町薫に記憶を改竄させられた日――その日、麻衣は気が付いたら自宅で寝ていたのを覚えている。
勿論麻衣は、その日にあった出来事の全てを覚えていない。
何故だか夢と居た気がしてその日彼女に連絡を取ったが、彼女も大体同じであるらしかった。
「あの日は大事な数学の再テストだったんだけど、私なんで家に居たんだろ。あー……何してたんだっけかなぁ……うーん……」
ごろんと寝転がって勉強机を見た瞬間、その思考は瞬く間に消え失せてしまうのだが。
机にでんと乗せられた課題。山が二つ、机の面積を奪って高々と
嫌な気持ちにしかならなかった。
「暇だぁ……暇だよう……」
現実逃避をした枚は、寝返りをうつ。
麻衣のこの状況は夢に言わせれば「早くやれ」であり、母親に言わせても「早くやれ」に違いない。
本来決して暇ではない麻衣は、ベッドに放置されていた携帯をおもむろに触った。
「あれ、メールだ」
新着メールが一件受信ボックスに届いている。麻衣は宛先が近魅夢なのを確認した瞬間、何事かと飛び起きた。
件名に「確認したら電話」と書かれていることから、割と重要なことなのだろうと思いつつ、メールを開くと。
「うん?」
中身は実に簡素かつ簡単なものだった。
そして意味が分からなかった。
「村雲翼という名前に、違和感はある、か……? なにこれ」
だがメールの中身を口にして初めて、頭にぴしりと走る違和感が確かにあったのだ。
「……あ」
その違和感は、何だったか。
すぐに電話帳を開いて近魅夢のページを出し、電話を掛ける。
たった一回の呼び出し音で応答した夢の怜悧な言葉が、機械越しに麻衣の鼓膜に通った。
《遅い。さてはアンタ、課題に追われて何にも手が付かなくなったりしているんじゃないわよね》
「あ、あれれ……なんでバレてるのかな……」
久方ぶりの友人の声にテンショが上がりそうになったが、続く直球の台詞が麻衣の心臓を抉る。
良く言えばいつも通り、悪く言ってもいつも通りの光景が機械越しにやり取りされていた。
《バレてるも何も最初から知ってるわよ。私ですら難儀する量なんだから、サボり癖のある麻衣がやってるわけないじゃない》
「酷い!」
《ってそんなことはどうでもいいの。麻衣、電話を掛けてきたということはメールは見たわけよね》
課題の量が「どうでもよくない」麻衣にとっては拗ねて唇を尖らさざるを得ない切り方ではあるが、そんな仕草が夢に伝わるはずもなく、また本題も別であったのは確かなので、渋々口をつぐんだ。
夢の終わらせた課題を絶対に横から見てやると心の中だけで呟いて、夢の言葉を待つこと数秒。
《――村雲翼さん、殺されたよね。私達の目の前で、同じ、クラスメイトに》
「……あ、れ?」
夢が告げた、それ。
衝撃の言葉に脳を揺さぶられ、思わず麻衣は携帯を落としてしまった。
かしゃん、と床で弾けた携帯を慌てて持ち直し、麻衣は唐突に発生した頭の痛みを我慢して夢に詰め寄る。
「――ねえっ、それ――それって、もしかして、あの日――空白の日、のことじゃ」
《そう。思い出した?》
「う、ううん……いや、思い出しては、いない、けど……」
《そう、私もよ。とりあえず今から麻衣の家行くから、寝たりしないで待ってて》
それだけ言い、ぷつ、と通話が切れた。しばし呆けていた麻衣だったが「私の家に来る?」という疑問を覚えた瞬時、夢が外に出ようとしている事実に気付いて夢に通話を掛け直すが、運転中という旨を知らせる機械音声ばかりで彼女は電話に出ない。
「外、危ないのに、夢、何やってんの」
着信を遮断しているので夢に通話が繋がるはずもないのだが、それでも麻衣は夢に通話を掛け続けた。
――ややあって。
家のインターホンが鳴らされたのをいち早く察知した麻衣は、玄関前に駆ける。
勢いよく扉を開いた先――。
焦りと不安で目に涙を溜めた麻衣の視界に、私服姿の夢が映った。
「えっ、ちょ、麻衣、なんで泣いてんの」
「……馬鹿!」
平然と突っ立っていた夢の腕を引っ張り、涙目の麻衣はそんな夢を激情のままに叱る。
「外危ないのになんで来たの!? 通話も出ないし、頭のいい夢なら今の時期一人で外出たら危ないって分かってるでしょ! ば――」
馬鹿、と言おうとして夢に抱き締められ、麻衣は閉口した。
「分かってる。でも口頭じゃなきゃ伝えられないから来ただけよ。麻衣の部屋、いい?」
夢は後ろ手で家の鍵を施錠し、麻衣に説明する。
「……うん」
実際に夢と会えたことで感情も落ち着いた麻衣は、夢の胸の内で頷いた。
麻衣の私室まで足を運んだ夢はトレンチコートを脱ぎ、折り畳んだそれをどさりと積まれた課題の上に躊躇なく置いた。
間違いなく何かの嫌がらせである。
「これ、もしかして全部手付けてなかったりする?」
「さ、さあ? どうなんでしょうかね……」
焦る麻衣の不審な挙動を無視して、夢はテーブルの横に腰を下ろした。
「言っとくけど見せないからね」
平淡な声調で返答し、絶望的な表情の麻衣を再度無視して携帯を開く。
表示されているのは、空白の一日に夢が送信した一通のメールだった。
「さて、麻衣。あの日、何があったか覚えてる? 些細なことでも構わないから」
一日だけの記憶が吹き飛ぶなど、通常では起こり得ないことだ。一人だけならまだしも二人同時となれば当然のように疑問も浮かぶ。
夢の感じていたそれは、一通のメールで確信に変わった。
短く『そこは危ないから止めておけ』と書かれたメールを確認した夢は、題目に【Re:】の文字を見て自分が最初に送ったメールなのだと気付いた。
すぐに送信覧にページを移すと、『霞町の外れに位置する廃工場に向かう。私の携帯から所在地を割り出し、付近の情報等を教えて欲しい』と用件だけが書かれてあった。
夢はそんなものを送った覚えがない。
しかし問題はそこではなく、送信先が
彼女は夢と同じく十六歳だが、高校生ではなく仕事に就いている。その仕事も奇妙なもので、様々な情報を取り扱う必要があるものらしく、それ故彼女は何でも知っているのだと豪語する。
その実績も確かにあるので、夢は大事な時には必ず里咲に連絡するのだ。
――その大事なことを。里咲に連絡するほどのことを、夢が簡単に忘れてしまうはずがない。
「ううん? そだねぇ、なんだか夢とは一緒に居た気がするんだけど……それがどうしても思い出せないんだよ」
麻衣の記憶も、同様になくなっていた。
それから電話のやり取りで里咲は「二人は何者かにその日の記憶を消されたんだよ」と言っていたが、にわかに信じがたい話だった。
言うは易し。だが、一日の指定された時間のみの記憶だけを消去するのは可能なのか。
そもそも、人為的な記憶の喪失などが行えるのか。
ついでに「不都合があるから消去された、つまり記憶が戻ったらどうなるか分かる?」とも言われている。
彼女から遠回しにこの件に関わるなと言われているようで、夢は釈然としなかった。
だから彼女に情報だけの事実を教えて貰い、ここに来たのだ。
「麻衣。私の知人で情報に精通している人がいるんだけど、その人はあの日『近魅夢と如月麻衣は霞町の製菓工場跡地にて村雲翼の殺害現場を発見した』と言っていた。私達、工場行かなかった?」
夢の記憶には、言われてみればなんとなく行ったような気がするという不確かな記憶が浮かんでいる。
「殺害……? わかんないけど……あれ。行ったんじゃ、ないかな」
麻衣の栗色の瞳が揺らぎ、微妙な面持ちで答えた。
その様子だけ見て夢は確信する。
失われた記憶が、朧気にではあるものの取り戻されつつあるということに。
それは同時に、夢と麻衣は踏み込んではいけない領域に再び入るということでもある。
「あれ? ……ねぇ、私達ってあの日ナンパされなかった? 変な人、に――」
「――それよ!」
夢は、記憶についてある程度の予測を立てていた。
失われた記憶は、関連の会話を続けていく内に必ず思い出していくのだ、と。
絶対的な情報源である里咲があってこその予測だが、間違いではなかったのだと拳を握り締め、確かな決意を抱いた夢は麻衣の肩を叩く。
「そうよ。何であんな雑なナンパを忘れたのかは謎だけれど、あったわ。ナイス麻衣」
「え、ええ……?」
――しかし決定的な情報が足りない。
痛む頭痛を蹴散らし、夢は思考の海に沈む。
彼女ははっきりしないことは嫌いだった。どうしようもないものはどうしようもないことでしかないが、自分でどうにか出来る範囲ははっきりさせる。
古條里咲の言葉は、近魅夢という人間の心を逆に奮い立たせていた。
そして、彼女は里咲の引き留めの言葉の意味を明確に理解している。
無理に麻衣を引き込もうなどとは毛ほども思っていない。
「麻衣」
今度は彼女の名だけを呼んだ。その時の夢はひたすらに真剣な顔をしていて、約半年も付き合えば夢が何をしようとしているのか――何を麻衣に告げようとしているのか、麻衣も気付いていた。
「私はどうしても知りたい。この話には必ず裏があると思うし、その裏が健全なものだという保証はないのだけれど。それでも私は自分の事だから、調べに行く。麻衣は――どうしたい?」
夢はこの半年、こういった行動を起こす場合は麻衣に「どうしたい?」と聞いていた。
その質問に答える麻衣も、毎回同じ。
「行く。こうなった夢は止められないからねぇ、私がついてないと!」
「これから行くのは、人が――私達のクラスメイトが殺されたらしい場所よ。本当にいいの?」
「夢、前言撤回はしないよ。その空白の一日に現場を見たのなら、絶対忘れちゃいけないことだと思うから」
「おっ、難しい言葉使うね麻衣ー」
「ああっ! 茶化さないでよぅ……」
悶える麻衣の頭を撫で、夢は朗らかに笑った。
「冗談よ。ああでも親に許可取りなよ。私は大丈夫だけど、麻衣はか弱い女の子なんだから」
「えへへ、じ、実は外出禁止出てます……」
「なら駄目ね、逐次メールとかするから家にいなさい」
半ば麻衣の家事情を知っていた夢は、平然とそう言う。寧ろそうなることが分かっていた彼女は、自分一人で調べることを最初から決意していた。
同意だけ取らせはするが、晒さなくてもいい危険に麻衣を出す真似はしない。
それに、夢は里咲という強力な情報の助けを元に、より安全なルートを辿ることが可能だ。
ならばこそ一人で行く、そのはずだったのだが――。
「あのね、先に言っとくべきだったのかもしれないけど、怒らないで聞いて……? 私のお母さんね、とっても心配性だから多分外出る前に叱られるよ。他人の子供でも無関係でそういうの厳しくてさ、それで最終的に事情を説明する羽目になってお母さんも着いてくると思うんだけど……というか多分、部屋の前でこの話聞かれてる。だって夢が家に来た瞬間、何事かってリビングの扉の隙間から睨んでたもん……」
「え」
なにそれ、と夢が口を開こうとした寸前――人の気配すら感じさせなかった扉が、ぎぃと音を立てて開いた。半開きの扉の向こうから覗かせたのは、麻衣と同じ栗色の髪。しかし冷笑を湛えた母親の瞳は、麻衣の可愛らしさが全て抜けていて、更には目が笑っていなかった。
夢は硬直した。
「近魅夢、さんね?」
「……はい」
「詳しい話、お願いできるわね?」
「は、はい」
いつもは冷静な夢も、母親が発する圧倒的な威圧には耐えられなかった。
◇
時刻は昼過ぎの一時であった。
翼がキャミソール姿のまま部屋で寛いでいると、こんこんと扉が二回ノックされた。
「村雲、行くぞ」
扉一枚隔てた向こう側から聞こえるのは、水町薫の平淡かつ簡潔な一言だ。
「どこに行くんだい?」
目的地が何であれ翼にはついていかないという選択肢は存在しないのだが、行先くらいは事前に知っていてもいいだろう。
「研究員の呼び出しだ。お前の身体検査を行うため、研究所まで来て貰う」
「ああ、なるほど」
輸血は指示の下昨日の内に済ませているので、どうやらその結果と肉体の変化を調べる目的らしい。「少し待っていてくれ」と断りを入れて着替えを済ませ、数分ほどで外着に着替えた翼は部屋から出る。
水町薫は既に玄関前で待機しており、クリーム色のトレーナーにモッズコートを羽織り、動きやすそうなジーンズとスニーカーを穿いている。
彼は、目を細めて翼の服装をじろりと
「……もうちょっとマシな服装はなかったのか?」
「……ましな服装、とは」
指摘されて、翼は自分の姿を再確認した。
服に穴でも空いてるのかとニットの一部を引っ張ったりしていると、呆れた声が前から放たれた。
「それで外出んのか? 真冬と変わらんぞ、上着はどうした」
「ああ……上着のことか」
復唱した翼は、ニットに異常はないと判断して手を離す。そのまま、玄関まで直行した。
「おい、人の話聞けよ」
「狂人の身体はある程度寒さに耐性があるじゃないか。然程問題もないだろう」
編み上げの黒いブーツに足を入れ、翼は嘆息する水町薫の姿を目にした。
「だとしても季節に合わせておくのは当たり前だ、不自然だろうが。……まあいい、行くぞ」
やれやれとばかりにさっさと出ていく彼を追い掛ける。
「……ん?」
そこで翼は一瞬だけ立ち止まり、周囲に警戒網を張り巡らせた。
危険な臭いが漂っている。
今日は何かが起こりそうだと、普段との空気の違いを感じていた。
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