五 追跡者の“忌状”
――水町薫と村雲翼の対峙する室内。
六畳の内一枚の畳がぎしりと軋み、翼の笑みが滲む。右脚から繰り出された水面蹴りが、水町薫の脚を
「……チッ」
舌打ち。
水町薫は高速で襲い来る右足を左手の腹で下方へいなし、即座の反撃に転じ、右肘の先が翼の顎へ放たれる。狙いも一瞬の内に行われたその肘打ちは、再び姿を眩ませた翼には当たらなかった。
「以前のように行くとは思わないことだね」
低く据えられた言葉――。
翼は水町薫の背後から耳元で呟き、動きの止まった懐から銀の刃を掠め取る。愛用する武具の奪取に、意表を突く刃の流線が水町薫の首筋を抉りに迫る――が。
「昨日今日得た能力で俺に大口を叩くとはな」
後ろを振り返らないまま左腕を後ろに回し、裏拳で短刀の腹を弾く。衝撃に翼の手元から放れた刃がテーブルで跳ね、からんと音を立てて床に落ちた。
「村雲翼、確かにお前は俺が殺したはずだ。どうやって生き延びた?」
「何、生きているから生きているだけのことだよ。僕は君を殺しに、お返しにやって来たまでさ。これ以上言葉を連ねる必要があるかい?」
水町薫は一度、無抵抗の翼の息の根を止めた。しかし能力の発現と共に息を吹き返した翼はこうして地上に立っている。
殺そうとすれば殺す。それは当たり前のことだ。
水町薫は化身ではなく狂人の部類に属する人間だが、一般人であった翼を殺した狂人である。ならば、狂人になった翼が狂人を殺してはいけない道理はどこにもない。
「あるな」
反転した水町薫の拳が翼の急所を同時に抉った。見えざる打撃が鼻の骨を砕き、人中を陥没させ、鳩尾と肋骨をも同時に砕いた。
「――がっ」
咄嗟の蹴り上げは当たらず、空気に溶けるように消えた水町薫が眼前に現れ、呻いた翼の両肩の関節を握り潰す。連撃を避けようと瞬間移動で窓際に退避すると、待ち構えていたと言わんばかりの前蹴りが胸越しに心臓と鎖骨、肩甲骨を蹴り潰した。
「お前は研究員の手で始末されたはずだ――奴に何をされた?」
壁に叩き付けられ、血糊を塗りたくりながらずるりと床に崩れる。
その状態の翼に、水町薫は冷徹な眼差しを向けて質問した。
狂人の肉体が生命を維持しようと再生を始めるが、翼には戦闘の短い間で修復を完了できる治癒力が備わっているわけではない。
「答えるなら、すぐにでも楽にしてやるが」
「……ふん」
血塊を吐いた翼は質問に答えず、それに苛立った水町薫の拳が喉笛を叩き潰した。
水町薫からすれば、何も翼に聞く必要などなかったのだ。
伏した翼を視界に収め、水町薫は携帯を取り出す。
「……おい。研究員、お前一体何考えてやが――」
通話を掛けたその隙を狙って、翼は残された両足を使って跳躍した。空中で肉体に回転を施し、遠心力を付加した回し蹴りが水町薫の携帯に直撃。手首と共に携帯が弾け、壁に激突してがしゃりと強い衝撃と共に床へ落ちる。
「足癖の悪い奴だ」
瞬時に戦闘の姿勢を構え、水町薫はとある一言を紡ぐ。
「――
こちらを睨み付けた水町薫の肉体が幾重にも重なった。
分身か何かか――本体がどれか判別する時間が与えられることなどなかった。
床に落としたはずの得物が翼の腹から飛び出し、足首を貫き、左手の甲を壁ごと串刺しにされる。
「……それ、が、君の……力」
再生を終えてない喉から、掠れた声が絞り出された。
尚も冷徹な視線が翼を貫き、水町薫は懐から予備の携帯を取り出す。研究員へとコールする直前、
「わざわざ電話する必要はねぇぜ、ヒーローのご到着だ」
「……張ってたのか?」
研究員が、玄関から登場した。
水町薫は苛立たしげに携帯をしまい、研究員を見据える。彼は藍のコートに身を包み、人差し指に家の鍵を引っ掛けて回している。
合鍵の許可は取ってなどいようはずもない。
「んな言い種はないんじゃねぇのか? 人が予測立てて来てやってんだ。感謝の一つでもしてくれ」
「危険を未然に防いで初めて感謝の一つが出るんだ」
「それじゃ助けられたかどうかすら伝わらないだろ? 俺なりの配慮だよ」
「――で、これは一体どういうことだ」
壁に手の甲を磔にされて力を失う翼を顎で示し、水町薫は睥睨する。
室内には血痕が至るところに散らばってしまい、むせ返るほどの血臭が充満している。
こんな家にはとても住めたものではないだろう。掃除をするにしても、骨が折れる作業になりそうだ。
「てめぇで殺した女だ、反撃されて当然だろ」
「どうしてこの女を実験体にしたかと聞いてるんだ。俺は処理しろと頼んだろうが」
「回収するとは言ったが、死体遺棄の頼みごとは聞いちゃいねぇな」
薄ら笑いを浮かべた研究員に辟易し、水町薫は盛大に溜め息を吐く。
そんな会話を続けている間に、翼は余力を確かめていた。
手酷くやられたせいか手にした力は十全に機能せず、今肉体は傷の修復を優先している。
能力の使用は後一回が限度か……?
逃走を謀るならここらが使い時だ。
双眸を見開き、能力を使うべく精神を統一させる。
移動先は自宅――。
「村雲翼、お前の能力はそんな場面じゃ使えねーぞ」
その時、研究員がにやりと笑みを浮かべながら翼の方へ向き、なんの脈絡ない台詞を放った。
ぬう、と翼の眼前に移動した研究員の目が意地悪そうに細められる。
自身の心の内を見透かされたかのような不気味な違和感に、翼は眉をしかめた。
能力は、研究員の宣言通り発動しなかった。
「言ったろ? お前の能力を命名するなら――そうだな、【
辛辣に吐き、甲の刃を抜き取った。
研究員は呻く翼を無理矢理に担いで、空いた手に注射器を取り出す。
容器にはたっぷりと化身の血液が入っており、容器に取り付けられたロックを解除し翼の首筋にあてがった。
ぷす、と針が刺さり、血が翼に流れ込む。
「ぐ、ぁ……っ」
首元から熱が発生した。全身を溶かすような熱さが翼を襲い、ぐたりと研究員の肩で意識を失う。
「水町薫、お前には新しい命令だ」
「なんだよ」
「――お前には、今日からコイツの保護者になって貰う」
「あぁ?」
「コイツは、お前がその短刀で刺した時に付着していた化身の血に反応してこうなったんだ。自分の尻は自分で拭ってくれないと困るぜ? つっても重要研究材料だ、丁寧に扱えよ」
げらげらと笑ってから担いだ翼を放り投げる。自然と受け取る形となった水町薫は、釈然としない面持ちで意識を失った翼を掴み、呟いた。
「重要ならお前がやれよ。その材料を俺が台無しにしてやってもいいんだぞ」
「お前にはそれはできねぇよ。やれるもんならやってみろ、そんじゃな」
研究員には端から交渉する気がなかったのか、それだけ伝えて悠々と玄関から出てゆく。
一度顔だけを戻し「詳細は追って連絡する」と言って、今度こそ消えた。
平穏な自宅の休暇を潰された水町薫は、短刀をソファに放り投げる。
不可解と苛立ち、失態と憤りを胸に抱えたまま翼を備え付けのベッドに寝かせた。
傷は順調に快復しているが、意識はまだ目覚めないだろう。
水町薫は無防備な翼を殺そうとはせず、額を押さえた。
「……クソ迷惑だな」
それから投げるように布団を翼へ掛け、彼女が目覚めた時の対処を考えていた。
◇
「ねぇ」
声だ。女の声。
「ん? どうしたんだい、翼」
こちらは男の声。
二人は会話をしていた。
「ううん、なんでもない」
「ふうん。今日部活はあるの?」
「ないよ。――君、今日は一緒に帰ろ」
「いいよ。翼と帰るのは久し振りだね。僕も忙しくてさ、全然時間取れなくて、ごめん」
「い、いいよ。私は気にしてないし……でも……」
「でも?」
「ううん、――君と一緒に居られるのが、嬉しいなって」
「そう言ってくれると嬉しいよ。ああ、『君』は付けなくていいからね? そういう他人行儀なのは嫌でさ」
「あ……ごめん、なさい」
「いいっていいって。でも、もうちょっと慣れて来たらそう呼んで欲しい」
「うん、――っ……。――っ――――……君」
「あはは、今すぐ練習しなくても。その内でいいよ、その内で」
◇
翼は嫌な夢を見ていた。
その嫌悪感が何を起点に始まるのかを覚えてはいないが、胸が痛みに軋む感覚だけは明瞭に残っている。
「……」
翼はぱち、と目を見開く。かけられていた毛布は人肌に温かく、単一色の白い天井が視界一杯に広がった。
蛍光灯の明かりを少しだけ眩しく思い、何度か目を慣らそうとしばたたかせた。
ここは、と首を動かして視界を移動させると、何者かがじっとこちらを見つめているのが感じられた。
その姿はかなり近く、しかし明かりの陰で暗く映ってしまい、しばらくはぼんやりとその人物を見つめていた。
「え?」
おかしい、と気付いたのは、その姿が認識できるようになってからだった。
その人物を凝視したまま、翼は硬直して動けなくなる。
「……起きたか、村雲」
翼を見ていたのは、水町薫だった。
漆黒の髪が無造作に分かれ、その下ではつり目がちの二重が気だるそうに開かれていて、黒瞳がこちらを一心に貫いている。目の下の隈が、疲労を如実に露にしている。
それによって、整った顔立ちからはどこか貧弱そうなイメージが発されていたが。
「き、み――は」
思い出した。
翼は自らが危機的状況にあるのを直感的に悟り、能力を使おうと精神を研ぎ澄ませる。
だが。何も起こらないまま、緊迫した時が過ぎていった。
「俺が一時的に封じた。今は使い方すら覚えちゃいないだろう」
「……な」
言われて初めてそのことに気付く。漠然とした情報だけが散在しているものの、それが何なのか詳細に掴めなくなっている。
「村雲、聞いていいか」
一筋、汗が耳の裏を流れ落ちた。それは冷や汗か、妙な寒気を覚えた翼は水町薫の言葉に小さく頷いた。
能力は愚か身体もろくに動かず、飲み込んだ唾がごくりと音を立てて喉を伝う。
「どうして、俺を付け狙うんだ?」
それは純粋な疑問だった。
幾度にも渡って水町薫に干渉したのは、他でもない翼だ。自覚してやっていたのだから、最早言い訳などは通用しない。
殺されたから殺し返すというのが間違った選択肢なのは、狂人となった翼は深く理解していた。
だが――その質問。
尖らせた
「……付け狙っては、いない……さ」
同時に感情を堪えたのも伝わり、水町薫はふんと鼻息を洩らした。
「俺に言いたいことがあるなら言ったらどうなんだ。六回も俺を追い掛けて来たのに理由がないとは言わせないぞ」
「それは」
言葉に詰まり、翼は自身の行動を振り返る。
――朧榮雄海に興味があったのは、確かだ。他者と比べて一線を画す人物だったのを、翼は見逃さなかった。
それが、本当の意味で合っていた。
彼はただの人間ではない。
本来の意味で人間離れしており、狂った力を持っている。
だが、その事実は関係なかった。翼がただただ感じていたのは――朧榮雄海から――水町薫から感じていたのは。
「僕が嫌いな人と、君が重なって見えた。だから思わず襲ってしまっただけさ。もう、しない」
殺された時。確実な死を実感した時。
彼から感じたそれが翼を駆り立てた――というのに、今更気付いてしまった。
今はその陰すら感じてはいないが――。
「自分勝手な野郎だ。これで化身ではないのだから、世も末だな」
翼の吐露を一蹴した水町薫は落胆と怒りの言葉を浴びせて眉間を押さえる。
まだ彼が釈然としない表情をしているのに翼は気付いていたが、そこからは何も言わなかった。
――結果として、翼は水町薫の監視下に置かれることとなった――ただそれだけの、一日である。
謎多き研究対象、村雲翼。狂人序列第一位、水町薫。
研究員がこの二人を突き合わせた理由を、当人達は全く知ることもなく。
程なくして、研究員から水町薫の元に一通の手紙が届いた。
【指示命令。半狂人の村雲翼を安全に保護するべく、日夜目の届く場所に置いてその身を守護せよ。指示継続中、化身の捕獲は実行せずともいいものとする】
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