四 不完全な狂人

 翼が目を覚ますと、そこは薄暗い部屋だった。


 仰向けの身体を起こすと、自分が寝ていたのは真っ白いシーツの敷かれたベッドであることが分かる。

 辺りを見渡せば医療器具ばかりで、栄養を補給する管が幾つも自分に取り付けられているのが確認できる。

 着ているのも制服ではなく、入院患者が着るような真っ白い服だ。


「ここは……」


 しばらく呆けていた翼だったが――工場での出来事を思い出した瞬間、そんな余裕も無くなった。


 朧榮君は。


 説明のできない使命感に襲われるが、激しい頭痛に身体が言うことを聞かない。

 吐き気が喉に込み上げ、それをどうにかして耐えて荒い息を吐き出す。


「……僕は」


 おもむろに服を剥ぎ、抉られたはずの左胸に手を添え――そこに何の傷もなかったことに、驚愕した。


 どういうことだ。


 翼の頭では過去の場景が目まぐるしく回転するが、そのどれもが煙がかかったようにぼんやりとしている。


 夢。

 そんな単語が脳裏に浮かぶが、それではここで寝ている理由の説明が付けられなかった。


「なんだ……一体、僕に何が」


 しかし、胸を突き刺した傷は見当たらない。完治したところで、あそこまで深く抉られた刺傷が跡も残らず綺麗さっぱり無くなるなど到底有り得ない。


 がらり、と部屋の扉が開いたのは、その時だ。

 開かれた扉から鈍い光が入り込み、同時に何者かが室内に侵入する。


「“村雲翼”。お目覚めか」


 ぱちりとスイッチが押されて天井の照明が光り、その姿が鮮明に視界へと飛び込んできた。


 無造作に散らされた髪に、無精髭の目立つ鋭い目つきの男。

 着ている白衣が照明で照り返し、思わず看護師という印象を浮かばせるものの、汚ならしい髭からその線は取り消した。


 そして何より、フルネームで呼ばれたことが男の不信感を煽っていた。

 こいつは、何者だ。


「単刀直入に言わせて貰う。俺は説明するのが嫌いでな、二度は言いたくないからしっかりと聞けよ」


 黙っている翼がその言葉に肯定したのだと勝手に納得し、男は開けた扉を乱暴に閉めた。


「ちょっと……待ってくれないか」


 勿論、矢継ぎ早に繰り出された言葉に処理が追い付くはずもない。

 混乱した翼は頭を押さえ、何かを知っているであろう男にさっそく質問を開始する。


「ここは何だ。僕はどうなった。なんで管が繋がれてるんだ。朧榮君は――」


「これからその説明をするんだよ」


 纏まらない質問を全て一蹴し、男――研究員は、深い溜め息を吐いた。


 そうしてから懐に手を突っ込み、中から煙草のケースを取り出す。慣れた手付きで煙草を口にくわえ、空いた手にマッチ箱を握る。


「さて、いいな」


 清潔な空間にもうもうと煙を排出しながら、研究員は仕切り直しと言わんばかりに呟いた。


「村雲翼。まずどうしてお前がここに存在していられるか、理解しているか?」


「……いいや、分からない」


 呆然と言った翼は、不可解そうな表情で研究員をじっと見つめている。

 警戒と怯え、それと殺意が少しだけ含まれた視線が、ずっと。


 敵意の込められた目線を不快に思いつつ、研究員は煙を吐いて消し去った。


「分からなきゃ最初から説明する他ないが……質問を変えよう。お前は一回死んでいる。じゃあ、死ぬ直前までお前は何をしていたか覚えているか?」


「それなら覚えて……いる、はず……?」


 そこで言葉につまり、翼は咳き込む。

 研究員は翼が見せ状態に気付き、面倒臭そうに後頭部を掻いた。


「やってくれたな、【順列一位】……保険が過ぎるぜ」


 苛立たしげに舌打ちする


 ――狂人序列第一位、戸籍上の名前は水町薫。

 その彼が持たされた能力は【偽り】である。

 やろうと思えば一般人の記憶を差し替えることさえ可能な、常識はずれの異質な力。


 その能力下に翼も晒されたようだが、しかし彼女の記憶を完璧に改竄するには失敗したらしい。


 携帯灰皿に灰を落とし、研究員はベッドの側まで移動した。眼下で固まる翼に目をくれてやり、どう説明するか悩んでいたが、


「ま、いいか。今は関係者なわけだしな」


 面倒な悩みを捨て、煙をくゆらせた。




 ◇




 この世界の裏で、行われている研究がある。

 その研究は人間の肉体改造を行い、強力な人間を造り出すことを目的としたものだ。


 その過程で産み出された成果が二つある。

 一つは『狂人』と呼ばれた人間。もう一つは『化身』と呼ばれた人間。


 狂人は人並み外れた身体能力を授かり、各個人にしか備わらない能力がそれぞれに顕現した。


 化身は狂人よりも高い身体能力を授かり、狂人と同じく能力を授かることもあるが――そうでない場合もあった。

 能力を持たない化身はそのまま化身として扱われ、能力を身に付けた化身については、区別できるようその能力に基づいた名を付けられた。


 だが名付きの化身にはとある問題があったのだ。

 それは、彼らの自我が、例外なく極限まで解放されてしまうことにある。


 つまり研究によって産み出された化身は自分の本能に忠実な行動をするということであり、研究員だけでは制御ができないのである。


 現在、研究所から抜け出し世界に放たれた化身は数百以上。

 その化身が何か行動をする前に捕まえて研究所に連れ戻すのが狂人の役割。


 その狂人の内の一人に接触したのが翼――ということだった。


「割りと簡単に説明すると、こんなところだ。ちなみにこの情報は極秘に当たるんでな、誰にも話さないように。それじゃあ、何故お前がここにいるのか――もう分かっただろ?」


 既に煙草を三本以上吸っていた研究員がとうとう四本目の吸殻を灰皿に押し込み、そこでようやく説明が終了する。


 それらを無表情で耳に入れていた翼は、溜め息混じりに呟いた。


「――その話を僕にしたということは、そうか。僕は君に身体を弄くり回されて、『狂人』か『化身』のどちらかになった、そう言いたいのかな」


「大体合ってるな、そこまで意識がしっかりしているのなら大丈夫だ。村雲翼、お前は『狂人』だ。突然で悪いが、狂人になった以上は――こちらに、協力して貰うことになる」


「……なるほど。まあいいさ、いい退屈凌ぎにはなりそうだからね。拒みはしないよ」


 それをいとも簡単に受け入れてしまった翼は、起こしていた半身をベッドに預けた。


「これから、どうすればいい?」


「あと三日はここに居て貰う。その後は家に帰っていい。詳しい事情はこの三日の内に伝えてやるから、ゆっくりしとけ」


 全ての要件を伝え終えた研究員は、それだけを言い残して室内から出ていく。

 ――これが全ての、始まりだった。




 ◇




 それからあっという間に三日が経過した。


 新品同然にまで戻っている学生服に身を包んだ翼は、隣で藍色のコートを着込んだ研究員と共に翼の自宅に来ていた。


 独り暮らしのために家族が居なかったのは幸いで、どこにも問題にはなっておらず、大家に連絡を入れただけで翼の長期外出の報告は終わりである。

 その他諸々の支払いは研究員が勝手に済ませていたそうだ。


「それにしても、二十日も意識がなかったとは思わなかったよ」


 その後も含めると、合計二十三日も家を空けていたのだ。大家辺りには心配されていて当然というものだった。


 学校については、例の連続殺人――化身の起こした事件――のお陰で丁度二十日ほど前から休校が続いており、そちらの面でも特に問題はないそうだ。


「これで俺は一旦帰るが、しばらくしたらまた来る。監視の目は張らせているから、大人しく平凡な日常でも送っておけ」


 研究員は懐から茶封筒を抜き出し、翼の手に握らせる。

 中に入っているのは現金で、当面の生活費ということらしい。


 素直に受け取り、翼は自宅へと帰ってきた。


「ふぅ」


 六畳一間の寂れたワンルーム。

 学生鞄を冷たいフローリングの床に置き、何食わぬ日常を生きていたかのように平然と冷蔵庫を開けた翼は、異臭に鼻を摘まんだ。


「ああ、腐ってるな」


 しかし、呟くその頭の大部分は腐敗した生物類には向けられていない。内心では研究員から説明された荒唐無稽な話を咀嚼するので、精一杯だった。


 ――翼の肉体は『狂人』という結果で処理を施されているものの、実際はそうではなかった、そうだ。

 後に研究員から伝えられたのは、その話。


 狂人になる条件は、死の直前の人間にとある薬を投与すること。

 そうして始めて完成するはずなのだが、翼の場合は特異なケースであるらしく――水町薫に殺された翼は、その水町薫のナイフに付着していた化身の血に反応して蘇ったというのだ。

 そのため翼の身体には今も化身の血液が廻っており、それの影響で『狂人』の力を一時的に発揮している、ということらしい。


 だが、それが不完全な状態であることが判明して、化身の血液が体内から完全に消え失せた時、翼は再度死亡してしまうことが現在仮説の一つとして立てられている。


 しかし新しい研究成果を出すために、その状態で生活をしてくれ。

 というのが研究員からの要望だった。


「どうしたものか」


 研究員から渡された化身の血液が入った輸血用パックを冷蔵庫に保管し、翼は小首を傾げる。


「いくらなんでも、僕に任せ過ぎじゃないだろうか」


 いくら監視の目があるとして、自分で輸血をしなければ死んでしまうのだ。

 もしも翼が研究員の意思に反する行動を取れば、その時点で研究は終了することになる。


「……まあ、いいか」


 拒否するつもりは別にない。

 なので翼は思考を放棄し、一番安らぐ自室のベッドに腰掛けた。


「じゃ。早速、使わせて貰おうか」


 しかし。

 研究員には悪いが、平凡な日常を過ごすという言葉は守れそうにもないな。


 目を閉じた翼は、一まず自身に発現した【能力】というものを使ってみることにした。

 とはいっても、その能力は狂人になる前から元々持っていたものだが……。


「案外、僕はもっと昔から狂人だったのかもしれないな」


 小さくごちて、前より鋭く特化したその感覚を始動させた。

 人探しの時に起こる異常な症状――それは以前の縛りなどを全く無視して、探し人を一瞬にして捉える。


「そこにいるんだね、朧榮君」


 ニヤリと口端を歪めた翼は、その偽名を口にして歪に微笑んだ。


 翼を刺し殺した狂人、水町薫。

 ストーカーを継続させた自分に非はあるのだが、その光景を思い出す度に何故か身体が疼いて仕方がなかった。

 どういうわけか、翼はこの三日間――彼に会いたくて会いたくて、仕方がなかったのだ。


「今、殺しに行ってあげるから、待っててね」


 そしてここから先は、狂人になってから手にした新しい【能力】を行使する。


 狂気に満ちた独り言を最後に、翼の身体がその部屋から消滅した。


 そして、翼はが向かった先は――。

 水町薫の、部屋。

 即ち新しい能力とは、瞬間移動。


「こんにちは、朧榮君。今度は僕が、君を殺してあげる」


 驚愕に目を見開いた水町薫にそう宣言して、翼は恍惚な笑みを浮かべるのだった。

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