【COFFEE BREAK】

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一九八六年 八月三日(日)

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 長い長い本当に長かった梅雨がようやく明けて、真っ青な空に入道雲、耳に痛いほどのセミの声、カレンダーに相応しい風景が到来した八月最初の日曜日。

 ぼくは委員長たちとの待ち合わせで、駅前の映画館へ向かっていた。

 せっかくの夏休みに、平日より混むであろう日曜日に映画を観に行くのはもったいない気がするけれど、委員長たちは平日ずっと塾の夏期講習なのでやむを得ない。

 バスが駅前に到着したのは、映画が始まる四十五分前。

 約束は三十分前だから、ちょっと早すぎたかな……なんて思っていたのに、映画館の前には、もう全員がそろっている。

 さすが『南』一年トップクラスの優等生グループ。

 みんな真面目すぎるぐらい真面目だ。


 それでいて……その、みんなおしゃれな私服を着ているのが、なんだかずるい。

 世間一般で優等生と言えば、もっと地味で冴えない格好をしてるイメージのはず。

 にも関わらず、目の前のクラスメイトたちは、そっち方面の知識がからっきしのぼくにもセンスが良いと感じさせる装いに身を固めている。


 委員長は普段の三つ編みを解いて、ゆるくウェーブのかかった長い髪をそのまま下ろし、涼しげなノースリーブのワンピースの上に薄手のカーディガンを羽織っていた。

 いつもの制服姿よりずっと大人びて見えて、少しドキッとする。


 対するぼくは、デニムのハーフパンツに半袖のシャツ、それに弟と共用の野球帽というシンプル極まりない出で立ち。

 委員長が高原へ避暑に訪れたお嬢様なら、ぼくは野山を駆け回って遊ぶ現地の小学生といったところか。

 虫取り網でも持っていれば、さらによく似合ったに違いない。


 そんな自虐的な気分に陥っていたところ、不意に委員長が身を強ばらせて、ぼくの腕をきゅっとつかんだ。

 何事かと視線の先を追えば……なんだ、<MOR>じゃないか。

『南』に比べ、『北』の校則は全体的に緩い。その代わり、放課後だろうと休日だろうと、外出時には制服の着用が義務づけられているそうだ。

<MOR>も一応、そのルールは守っている。

 ただし、相変わらずシャツのすそをズボンに入れず不良っぽく着崩しているうえ、いつもの睨むような目付きをこっちに向けていた。

 これじゃあ委員長が怯えたって無理はない。


 もちろんぼくは、<MOR>が見た目ほど怖い人じゃないことを知っている。

 ゲーム・パラダイスにおいて、<MOR>が暴力的な行為に及んだことは一度も無い。

 うっかりぼくが迷惑をかけた時だって、文句ひとつ言っては来なかった。


 だけど今日は、いつもより機嫌が悪いようにも見える。

 こちらへ顔を向けたまま、ちっとも動こうとしないし。


 これは……あれかな?

 委員長たちみたいなきれいな女の子と一緒にいるのが、なにか気に障ったのかな?

 でも、ここで<MOR>に言い訳を始めるのも不自然だ。

 かと言って、無視して立ち去るのも失礼な気がするし。


 迷った末に、せめて悪意が無いことだけでも示そうと、ぼくは<MOR>に笑いかけてみた。


 途端、<MOR>はあからさまに動揺した。

 不自然な姿勢でしばらく硬直したかと思うと、まるでさび付いたロボットのようなぎくしゃくとした動きで、逃げ出すように裏通りの方へ歩き去ってしまう。



 精一杯の笑顔を向けたのに、どうしてそんなリアクション……?



 気が付くと、委員長がぽわんとした目でぼくを見つめていた。

 他のクラスメイトも、すごいとか、カッコいいとか、口々に賞賛の言葉をかけて来る。

 どうやらとんでもない誤解が生じてしまったらしいけど、それを解くためにはゲーム・パラダイスのことにも触れなくちゃならない。

 結局なにも言い出せないまま、上映時間が迫って劇場の中へ。


 もやもやした気持ちは残ったものの、久しぶりに大スクリーンで観た映画「天空の城ラピュタ」は、予想をはるかに超えて面白かった。


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一九八六年 八月十八日(月)

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 朝の五時。

 どうにか目覚ましを止めて身を起こしたものの、はっきり言って、まだ眠い。


 お盆を祖父母の家で過ごした帰り道。

 高速道路でUターンラッシュに巻き込まれ、家に到着したのは、もう日付が変わりそうな時刻だった。

 途中から後ろの座席でうとうとしていたから、トータルではそれなりの睡眠を取ったはずなのに、疲れが全然取れていない。

 身体がだるい。頭が重い。


 お盆を挟んだ夏休みの前半と後半、『南』では午前中に特別授業が開催されている。

 前半はすべて参加したとは言え、特別授業はあくまで自由参加。

 今日はいっそ休んじゃおうか……なんて誘惑の言葉を脳裏でリフレインさせながらも、身体は半ば自動的に身支度を調えて行く。


 あくびをしながら台所まで来ると、そこには朝ご飯になりそうなものがなにも無かった。

 おにぎりも無ければパンも無い。

 炊飯器のタイマーは、家族が起き出す二時間後にセットされている。

 我が家は元々インスタント食品をあまり買わないし、お菓子の棚さえ見事に空っぽだった。


 どうやら旅行帰りのドタバタの中、ぼくの登校のことはすっかり忘れ去られてしまったらしい。


 今さら母を叩き起こしたところで、すぐに食事が出て来るとは思えない。

 せめて少しでもカロリーを補給しておこうと、ぼくは仏壇からお供え物の落雁をひとつ失敬して、それをかじりながらバス停に向かった。

 大してお腹は膨れなかったうえ、小さな水筒の麦茶程度じゃ治まらないぐらいのどが渇いて、かなり深刻に後悔した。


 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


 お腹が……空いた……。


 登校時間はデパートもスーパーも開店前。

 夏休みの間は購買部もお休み中。

 なにも食糧を補給できないまま、それでもどうにか授業時間を乗り越えて、今の時刻はお昼過ぎ。


 考えてみれば、昨日の夕食は車の中でサンドイッチを数切れ食べただけだ。

 高速道路を抜けたらレストランにでも入ろうという話は、あんまり遅くなりすぎたせいで、そのままうやむやになってしまった。

 ちゃんとした食事は昨日のお昼から丸一日取っていないわけで、これはさすがに家まで持ちそうにない。

 ご飯が食べたい。

 しっかりお腹に溜まるものが食べたい。


 でも、相変わらずぼくには、外食の経験がほとんど無い。

 駅前で入ったことのあるお店は、デパートの大食堂とハンバーガーショップぐらい。

 ハンバーガーは、大勢で食べるのは楽しいけど、一人だと魅力が激減する食べ物だと思う。正直言って、コストパフォーマンスはかなり悪いし。

 コスト面では優秀な大食堂は、高校生が一人で入るには敷居が高すぎる。制服姿で一人食事をするには、ひどく場違いな感じがする。

 他に駅前で食事ができそうな場所は、ラーメン屋さんに、定食屋さんに、喫茶店。

 どのお店も中の様子がわからなくて、入り口を開ける勇気が出なかった。


 あとは……。

 あ、そうだ。映画館のそばに、新しく牛丼屋さんがオープンしてたっけ。

 試しに行ってみると、ガラス張りを多用した開放的な雰囲気で、すごく入りやすい。

 すでにお昼のピークを過ぎたせいかそんなに混んでないし、ポスターを見ると並盛りが四百円、外食の値段としてはかなり安い方だと思う。

 牛丼って食べたこと無いけど、牛肉とご飯の組み合わせに、そうそうハズレも無いだろう。

 よし、今日はここでお昼を食べよう。

 意を決し、自動ドアの前に立った。


 店内は「コ」の字型のカウンター席のみで、テーブル席は無し。

 こういうお店は初めてだから、店員さんに「お好きな席にどうぞ」と言われても、どこに座るべきか迷ってしまう。

 他のお客さんはサラリーマンらしき二人連れと……あ、眼鏡少年。

 向こうもこっちに気付いたようだけど、特に挨拶をするでもなく、そのまま丼へ視線を戻してしまった。

 まあ、これまで言葉一つ交わしたことの無い間柄だしね。

 気にすることもなく、ぼくはカウンター席の端っこ、厨房に一番近い席に腰を下ろした。


 念のため壁のメニューを確認してから、お茶を持って来てくれたお兄さんに「牛丼の並」を注文。

 数分と待たず、目の前に丼が届けられる。

 デパートの大食堂とは全然違うスピードに驚きつつ、割り箸でお肉とご飯を一口。


 あ、おいしい。

 甘辛の味付けが、ご飯にすごく合う。

 ちょっとすき焼きに似た味だけど、あれほど甘みも辛みもしつこくない。

 しゃっきり感の残るタマネギが、またちょうどいいアクセント。

 これなら丼一杯ぐらいさらっと食べられそうだ。


 しばらく夢中になって箸と口を動かしていると、席を立ったサラリーマンと入れ違いに『北』の生徒が入って来た。

 なんか見覚えがあると思ったら、いつもの三人組だ。

 三人組は楽しげに話しながらこっちに歩いて来て……ぼくに気付いて足を止め、その位置にあった席に腰を下ろした。

 三人の注文は、「牛丼の大盛りにおしんこ」「牛丼の特盛りにみそ汁と玉子」「牛皿にご飯大盛りにみそ汁」、さらに最初の一人が慌てたように「みそ汁と玉子」を追加。


 みんな、よく食べるなあ。

 それに、注文の内容を合計すると、どれも結構なお値段になる。

 お昼にそんなに使って、ゲーム代の方は大丈夫なんだろうか。


 ああ、でも、こういう丼物にみそ汁とかおしんこって良さそうだな。

 玉子も、すき焼きに近い味付けなんだから、当然合うと思う。


 三人組が勢いよく丼ご飯をかき込み始めたところで、今度は<MOR>がやって来た。

 三人組に「よっ!」と声をかけて隣の席に座り、注文しようと厨房の方を向いたところで、ぼくの存在に気付く。


 そこでいきなり表情が強張ったのはどうしてなんだろう。

 やっぱりぼく、<MOR>に嫌われてるんだろうか。


「ご注文は?」と店員さんに声をかけられ、<MOR>は少し考える。

 そして、ややためらいながら、「牛丼大盛り……つゆだくで」と答えた。


 つゆだく?

 そんなの、メニューに書いてないよ?

 三人組に眼鏡少年、注文を聞いたお兄さんまでが、きょとんとした顔をする。


「はい! 牛丼大盛り、つゆだくで!」


 返事は、厨房の奥から聞こえて来た。

 あるんだ、つゆだく。

 店員さんでも知らない人がいるみたいだけど。


 ほどなく届けられた丼を抱え、<MOR>が食事を始める。

 しゃぐっ、しゃぐっという、まるでお茶漬けを食べているような音。

 なるほど。つゆだくって、つゆがたくさん注がれてるってことか。

 いわゆる裏メニューってやつなのかな?

 こんなの知ってるなんて、ちょっとすごい。


 ……にしても。


 いつの間にか、店内はゲーム・パラダイスの常連ばかりになっている。

 ここ、みんなの定番の食事場所だったりするのかな。


 そんなことを考えていたら、今度は<SPC>さんがふらりと入店して来た。

 顔見知りばかりの店内にこれと言った感想を抱いた様子もなく、入り口すぐ近くの席に座って「大盛りつゆだくに、ご飯」と注文する。

 ふうん、<SPC>さんもつゆだくを頼むんだ。

 意外と知ってる人いるんだな……。


 ……って、え? 大盛りつゆだくに、なに?


「牛丼の大盛りつゆだくに、ご飯の並盛り……ですね?」

 念を押すお兄さんの言葉に、<SPC>さんは無言で頷く。

 やがて届けられる、牛丼とご飯、二つの丼。

 店内の注目が集まる中、<SPC>さんはまず、牛丼の上の具材をおかずに、白いご飯を食べ始めた。

 お肉を一切れ食べて、ご飯を二口、三口。

 玉ねぎを一切れ食べて、ご飯を二口、三口。

 特にがっついてる様子も無いのに、見る見るうちにご飯が減って行く。


 お肉と玉ねぎがあらかた無くなった頃、ご飯を完食。

 すると<SPC>さんは、軽く手を上げて店員さんを呼んだ。


「ご飯の並、おかわり」


 ご飯? また? 牛丼のご飯が残ってるのに?


 慌てず騒がず、<SPC>さんはまず牛丼の丼を手に持ち、牛肉のなくなったつゆだくご飯を一口かき込んだ。

 そして間髪入れずに丼を持ち替え、白ご飯を二口、三口。


 ……ご飯をおかずに、ご飯を食べてる。


 紅ショウガを載せたり、七味を振りかけたり、醤油を少しだけ垂らしたり、味に変化を付けながら、ざくざくと二つの丼を食べ進める<SPC>さん。

 やがて二杯目の白ご飯が空っぽになり、つゆだくご飯もあと少しとなって……。


「ご飯の並、おかわり。あと、玉子」


 思わず感嘆の溜め息が漏れた。

 栄養バランスだのなんだの、気になる点はいくつかあれど、ここまで見事な食べっぷりを披露されると素直に感心してしまう。

 すごいや、<SPC>さん。


「大盛りつゆだく、おかわり!」

「こっちも大盛り……いや、特盛り!」

「ご飯大盛りに玉子!」

「大盛りつゆだくに、それと……みそ汁!」


 食欲か、それともなにか対抗意識のようなものが刺激されたのか、追加オーダーの声が一斉に響いた。

 とっくに食事を終えていた眼鏡少年まで、なんかやる気を出してるし。


 ぼくはと言えば、並盛り一杯だけでもう十分。

 無理しておかわりしたところで、残さず食べ切るのは難しい。


 この先の展開はちょっと気になるけれど、食べ終わった客がいつまでも居残っていたらお店に迷惑だろう。

 店員さんを呼んでお勘定してもらい、席を立つ。


 帰り際、入れ違いに入って来たお客さんが、店内の異様な熱気にぎょっとしていたのがちょっとおかしかった。

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