彼女は湯かき棒を振るう
3-(1) 「テレビ、持ってないです」
1
数日後、深い眠りに落ちていた俺の目を覚ましたのはスマホから鳴り響く着信音。
うつろな眼でその画面を見ると旋律さんからだった。
「もしもし」
眠たげな声で俺はスマホ越しに話しかける。
『今すぐ、テレビを見てほしい』
旋律さんは慌てた様子だった。
「無理です」
けれど俺は少しだけ寝ぼけた頭でそう伝えた。旋律さんの戸惑う顔が目に浮かぶ。
「テレビ、持ってないです」
少し遅れて、そうつけ足すと、旋律さんの苦笑が聞こえた。
『じゃあ簡潔に言うよ、〔
目覚めたばかりで頭が回らない俺は旋律さんの言っている意味がわからず、無言だった。しばらくして、ようやくなにが起こっているのかに気づいて、旋律さんに尋ねた。
「……どういうことですか?」
『そもそも、今までの停滞期というのがどういう状態かわかるかい?』
「〔
俺は耳と肩にスマホをはさみ、散らかしていた制服を着ながら尋ねる。
『ああ、えっと言い方が悪かった。それはこちらの世界での場合だ。〔
「それは……」
思いがけない質問に俺は言葉につまった。そもそも停滞期は俺の祖父が〔
『じゃあキミの祖父、大全さんがなぜ〔
俺が黙り込んでいると、旋律さんは質問を変えた。
旋律さんがそう尋ねてくる以上、それはおそらく〔
『わからないかい?』
無言のままの俺に旋律さんが問いかける。
「……もしかして、祖父が〔
だから俺は思いついたことを口にする。
『その通りだよ。キミの胸に寄生する欠片は、キミの祖父が〔
環境省が極秘に保管していたファイルをようやく見ることができてそれがわかったんだ、と旋律さんはつけ加える。
「で、それが今回の〔
『〔
「つまり、欠片がなくなって〔
『そう、そのときに大量の〔
「でもじゃあ、また〔
『あるいはなんらかのアクションを起こさざるをえない事態が発生したのかもしれない。ニュースでも〔
「それって、まさか……」
『たぶん、キミの予想通りだ。キミか、大山姉妹を狙っているね。たぶんこの間の〔
「もしかして環境省が俺たちを狙った理由と同じなんでしょうか?」
『その可能性は大いにある。キミたちの実習は〔
「俺は……俺はどうすればいいんですか?」
俺は旋律さんの言う答えがなんとなくわかりつつも、そう尋ねていた。
『そう訊かれたら、逃げろ、としか言えない。〔
「でしょうね。訊いた俺がバカでした」
俺は苦笑する。それがベストな選択であることはわかっている。
けれど俺はベストな選択などクソくらえだった。
『キミは逃げないのかい?』
俺はセンパイの顔を思い浮かべていた。〔
でも相手のホームグランドで戦って勝てるはずがない。
だから俺は〔
「逃げられないんですよ。というか俺が逃げちゃダメなんだと思います。チームメイトというか先輩にひとり無茶をする人がいるんで。俺はその人を守らなきゃならない」
『かるめるが聞いたら嫉妬しそうな言葉だね』
「どうしてですか? 俺は音乗だって危険な目には遭わせたくない」
『なるほど、キミはそういうタイプか……けどね、大人なボクから言わせればそれは無謀だよ』
「それでも行かなきゃならないんです」
俺はそう言ってスマホを切った。旋律さんがなにか言おうとしたのが聞こえたが、そんなのは関係ない。
俺の決意は固い。なにを言われようとも揺るがない。
センパイのことだ、学校の〔
とたん、再びスマホが鳴り出した。またも電話だ。
今度はボンクラからだった。
「もしもし、ただいまおかけになった電話番号は忙しくて出ることができません。ピーという音が鳴ったあと、伝言を一μ秒でよろしく、どうぞ」
『いや、それいろいろ支離滅裂だから。で連絡なんだけどいいかな』
「よくない。どうしてもって言うなら世界一喋り方が速いフランス人なみに早く言ってくれ。急いでる」
ボンクラは俺の戯言に軽く笑ったあと、衝撃的なことを言い放った。
『ぼくが〔
……すまん、嘘だ。ボンクラはこんなこと言ってない。こんなことを言ったら不意打ち過ぎて面白いな、とこんな状況なのに妄想してしまった。悪ふざけだ。
俺はどうにかしなきゃという自分勝手な重圧に押しつぶされて虚言癖を手に入れたのかもしれない。
ボンクラが言った本当の言葉は別段、衝撃的でもない。
『今日、学校休みみたいだ』
「なん……だと……!? そんな連絡は受けてないが」
『これからメール送信するらしいよ。けどぼくはなんともう学校にいるからそのまま甘利先生に伝言を受け取ったのさ。そしてそれをいち早く親友に伝える、なんて優しいんだろう、そうは思わないかい、オール?』
ボンクラが自画自賛するのを尻目に俺はベッドの棚に置いてある時計を見やる。
「まだ、七時だろ」
『もう七時だよ。ぼくは毎朝六時三十分に登校している優良生徒だからね』
「お前が有料生徒なら無料生徒もどっかにいるのか」
俺は重圧を少しでもはねのけるために軽口を叩く。
『いたら感無量だねぇ~』
ボンクラが爆笑する。
自分で言ったけど、それほど面白くなかっただろ、今の。
「そういえば薬袋先生はどうしてる?」
『甘利先生は〔
その言葉を聞いて俺は少し笑ってしまった。
ボンクラの言っていることは間違ってないが、薬袋先生が警戒しているのはおそらくセンパイだ。センパイに復讐させまいと〔
もちろん、弓形高校管轄エリアにはもうひとつの〔
市内にあるほかの〔
となればやはりセンパイが〔
「ボンクラ。お前は今日ひまか?」
『もっちろん、ひまだよ。なになに、もしかしてオールの家に突撃朝ごはんしていいのかなあ?』
ぼく、実はおなかが減ってしまってねぇ、ライスがいいなあ、と言葉を続けるボンクラに「もしひまならそのまま〔
『ごはんを食べさせてくれるんじゃないのかい!』
ボンクラは自分の妄想通りじゃなかったことに嘆き、声を荒げるが無視。
「とにかく頼んだぞ。センパイが入りそうになったら連絡してくれ」
『センパイ? センパイっていうと躑躅先輩のことだね。オールは躑躅先輩だけはセンパイと呼ぶよね? ほかの先輩のことは○○先輩と呼ぶのに。ぼくにはお見通しだよ。もしかして、それは躑躅先輩のことが――』
「そうかもな」
『おおっと、これはいいことを聞いたんですぞ~!』
俺の適当な返事に、赤い雪男のように喜ぶボンクラだが、たぶんきっとそれは勘違いだ。
「そりゃよかった。もうひとつ、いいことを教えてやろうか?」
『なんだい?』
「たぶんトドビーバー、お前のことが好きだぞ」
それだけ言ってスマホを切った。切る間際『あーくーむーだああ!』と断末魔が聞こえた。メールでも同じ文章が送られてきたから嘘じゃないだろう。
それはともかく頼んだぞ、ボンクラ。
きっとボンクラは俺の嫌がらせにも負けず、ついでに雨にも負けず、風にも負けず、任務を遂行してくれるに違いない。ボンクラはそういうやつなのだ。あとでコロッケをおごってやろう。
ボンクラが悪夢を嘆くメールを送ってきた直後、俺のスマホに薬袋先生から今日の学校が休みというメールが届く。
確認し終えた俺はスマホを学生服のスラックスのポケットに入れて走り出す。
弓形高校管轄エリアBへ続く〔
向かいがてら、またスマホが鳴る。宮直先輩からだ。
「もしもし」
ボンクラとは違い、素直に対応する。
『おかけになった電話番号は……』
「そっちからかけてきたんだからふざけるのやめましょう」
宮直先輩にとって俺は、どうやら俺にとってのボンクラポジションらしい。
まあそれはともかく、
『ニュースは見たっすか?』
「ええ、まあ」
旋律さんから教えてもらったと言ったら、ややこしくなりそうなので俺は素直に同意する。
『じゃ手っ取り早く言うっす。つじっちともみっちがいなくなった、っておばさんから電話があったっす』
「だと思いました」
『ああ、やっぱり予想がついていたっすか』
別段、驚いてない俺の声を聞いて、宮直先輩が声をもらす。
『でオールは今、家を出るとこっすか?』
「今、校外の〔
『そちちにおもむいている理由をうかがってもよろしいっすか?』
突然丁寧な言葉づかいになった宮直先輩が尋ねる。たぶん、わざとやってるな。緊張感がない。
「校内の〔
『ボンクラっていうと、あの
「ええ、そうです。トドビーバーってあだ名の戸渡海狸さんが好いているボンクラです」
『なるほどっす。ならうちもそっちに向かうっす。覚悟するっすよ』
そう言って宮直先輩はスマホを切った。
覚悟、ってなんの覚悟だろうか、そんな疑問を持ちつつ校外の〔
そして覚悟の意味を理解した。
以前、実習を終えた俺たちがこっちの世界に戻ってきたとき〔
今回もまさにそれだった。ただ数が尋常じゃない。
半開きになった長細いワニのような口から鋭い牙とカメレオンのような長い巻き舌が覗いている。その長い舌が鞭のように伸びて、ひとりの教師に巻きついたかと思うと抵抗する隙も与えず、ペロリと一飲みした。星型のメガネが地面に落ちる。既に戦いを繰り広げていたノーキンたちが目を見張り、警戒のレベルをあげる。その後、
いや消えたのではない。ノーキンたちは空を見上げていた。俺も釣られて空を見上げる。
〔
それを見て俺は震えあがった。
確かに――覚悟がいる。
センパイの姿は見えなかった。けれどこの混乱に乗じてもしかしたら〔
〔
本来なら受付がいるはずだが、この非常時にはそうも言ってはいられないのだろう。俺は申請証を受付の机に置く。ほかの〔
ふと目に入った申請証に大山紅葉と書いてあった。となればセンパイたちはこっちの〔
俺は
宮直先輩はまだ来てない。ひとりで行こうかとも考えたが少し失礼な気がして、スマホを取り出す。一言断りを入れようと思ったのだ。
すると受信メールが一通。六分前だ。どうやら気づかなかったらしい。『もうすぐ着く』とあった。
周囲の〔
「どうして音乗が?」
「うぬぼれるなっす。ひとりやふたりでどうにかなる事態じゃないっすよ」
「三人だったらなんとかなるってもんでもないでしょう?」
「六人だ。あとで後野と八咲と今見も来る」
「今見も……?」
それはある意味、驚きだった。
「というか八咲が連れてくるって言い張ってたっす。だからまあ任せることにしたっすよ」
確かに八咲ににらまれたら、行かないとは言えないよなあ。俺は今見がにらまれている光景を想像して少しだけ苦笑する。
「蘆永にも電話したけどつながらなかったっす」
「まあ六人も集まれば大丈夫ではなくて?」
音乗が震えながらそう答える。センパイの緊急事態ということもあって、怖いのを我慢して駆けつけてくれたのだろう。けれど
「そういや、つじっちたちはいたっすか?」
「いえ。けど武器庫に大山の申請証がありました」
「ということはもう〔
宮直先輩はそう言いながら武器庫へと入り、音乗もそれに続く。
しばらくすると準備を整えて再び出てきた。
「じゃ、乗り込むっすよ」
「八咲たちは待たないんですか?」
「先に入るってメール送っといたっす」
そう言って宮直先輩はスマホの送信ボックスにある送信済メールを見せる。おそらく武器を取りつつ、送ったのだろう。
俺たちは〔
宮直先輩が正面から襲いかかる
音乗は横から襲来する
そうやって〔
嵐の前の静けさという言葉があるが、それはこういうことを言うのだろう。
ふとそんなことを思った瞬間だった。
木々の間から誰かが転がり出た。
傷を負った大山だった。
「しっかりしろ!」
俺は大山を抱き起こし、揺すり、話しかける。
と、横合いからまた誰かがぶつかってきた。たまらずひっくり返りながら、その人を抱きとめて、ようやく俺はそれがセンパイだとようやく理解する。センパイはひどい傷を負い、気を失いながらもしっかりと湯かき棒をにぎっていた。
「センパイ、しっかりしてください」
抱き起こし、耳もとで叫ぶとそばにいた音乗が悲鳴ともつかぬ声をあげて尻もちをつく。元々、勇敢とはいえない音乗だったが、その恐怖に歪んだ顔はただごとじゃなかった。
いや音乗だけじゃない。宮直先輩までもが怯えていた。
俺はふたりが見ている方向へと視線を向けた。
俺も震えあがった。抱き起こしていたセンパイから思わず手を離してしまう。
そこには見ただけで一瞬でそうだとわかるほどに身の毛もよだつ恐怖を内包した〔
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