32

「あーあ。とんだ無駄足になっちゃったじゃないか。せっかくこんなところまで来たのに」

「そりゃあご苦労様だったな。無駄足になったならおとなしく帰ってくれよ」

「普通、無駄足になったから帰れないんだけど?」

「まぁそれもそうだな」


 いつも通りの軽口には、隠しきれない動揺が滲んでいた。


 馬を消し去ることには成功した。成功したが、どうやらそれがヘルメット女の押してはいけないスイッチだったようだ。


 先ほどまでの緩い空気は完全に殺され、全方位に剣を撒き散らしているのではないかと思えるほど刺々しい雰囲気へと一変していた。これには流石のセガワも恐怖を禁じ得なかった。


「そっちの彼は満身創痍だからもういいとして、きみにも動けなくなるくらいにはなってもらおうかな」

「おお怖い怖い。こう見えても俺だってくたくたなんだってば。見逃してくんねえ?」


 言いながら、セガワは横目でマジメを見た。


 どんな魔法かはわからないが、やはり服に一切の汚れはない。しかし、壁にもたれてへたり込んでいる姿を見ると、露出した腕は首には痛々しいすり傷の跡が多く残っていた。だが怪我はそれだけではないだろう。あの黒馬を一人で倒そうと王手をかけていたのだ。その疲労は想像を絶する。


 もう今日は動けないに違いない。それほどまでに消耗していることがわかる。それに、これ以上頼っていては格好がつかない。


 冷や汗を流しながらもセガワは目の前の女に隙がないかと注視した。


「悪いけど、私はこれでも怒ってるんだ。だから無傷に見逃すことは難しいね」

「まったく……それなら手加減くらいしてくれよな」

「そっちも出来そうにないかな」


 くそっ、まったく隙がないな。刺すような威圧感と相まって、セガワの胸ほどの背丈しかない女がものすごく大きく見える。


「さて、じゃあ覚悟してね、ああ、先に名乗っておくよ。私はヤミコ。もちろん本名じゃないよ」

「そりゃご丁寧にどーも」


 じりじりと後退するセガワに、ヤミコはヘルメットの奥で笑った。嘲る色が声に混ざっていたが、それで激昴するほどセガワは単細胞ではない。


 だが、実はセガワも既に戦える状態ではないのだ。巧妙に隠しているが立っているのがやっとで、黒馬を倒すことで最後の力も振り絞っていた。実際彼も満身創痍といっても過言ではない。


 しかし、ヤミコからしてみればそんなことはどうでもいいはずだ。今からセガワを襲おうとしているのも、彼女が言っている通りに腹いせなのだから。


 壊滅一歩手前に、ダメ押しの一撃が入ったような状況だ。疲弊した心身では、逃げの手を考えることが精一杯だった。


 正直にいって、勝ち目はない。黒馬のときとは違い、相手は体力も気力も充実している。そんな状態で息巻くほどセガワは馬鹿ではない。


 とはいえ、このまま逃げ出したとしてもすぐに捕まってしまうだろう。長距離はもちろんのこと、病院の外に出るまで体力が持つかすら怪しいところである。


 熟考してる余裕もなく、ヤミコが距離を詰めてきた。それと同時に、鼻先をジャブがかすめた。


 避けられたのは奇跡だった。油断なく身構えていたおかげで、初動を見逃さずに済んだ。眼前のヤミコが驚いた表情を浮かべているのをみる限り、避けられるとは思っていなかったのだろう。わずかな空白が生まれ、セガワは後方へステップした。


 だが、人間とは思えないほどの反応速度でセガワに追従したヤミコが、間髪入れずに右の拳を放った。腹にえぐりこむような一撃をかわすことが出来ず、まともに喰らったセガワはそのまま殴り飛ばされた。


「あれ、本当に限界だったんだ。つまんないなぁ」


 唇を尖らせたヤミコが退屈そうに言った。しかしセガワにそれを聞いている余裕はなく、込み上げる吐き気と戦いながらうずくまっていた。もはや立ち上がる気力もごっそりと奪われてしまっている。


 痛みに煩悶するセガワと、意識が混濁したままのマジメを交互に見やったヤミコは、深々とため息を吐くと足元に転がっていた黒馬の折れた角を回収した。


「はぁ、ストレス解消にもならないよまったく。それでも男の子? ああでも、あの子と戦った後だったっけ。まぁ仕方ないか……」


 また一つため息を漏らして呟くと、ヤミコは黒々とした角を弄びながら、破壊された壁を抜けていった。


 ヤミコがどこかへ消えてからも、二人は動けずにいた。


 マジメの意識は半ば飛んでしまっているし、セガワもまだ痛みに喘いでいた。いや、意識がしっかりと保たれていても、痛みがなくても、疲れ果てた二人は同じように動けないだろう。この瓦礫だらけの空間を見ればよくわかる。


 真っ白い壁と床は傷だらけで、砕けていないと箇所などないくらいだった。特に床など、一面砕けてしまっていて、生々しい激戦の痕跡が丸ごと残っている。


 壁に開いた穴は合計三つ。どれも巨大で、その下には細かく砕かれた瓦礫が山になっている。自動車が突っ込んでもこんな惨状にはならないだろう。


 それだけ酷い光景ではあったが、血の色だけは見当たらなかった。いや、よく探してみれば細かい血痕が残っているだろうが、ざっと見た限りではどこもかしこも白く満ちている。


 大事なのは、誰一人として死んでいないこと。怪我こそ無数に負ったが、致命的な傷は一つもない。うつむいたままのマジメも、うずくまったセガワも、しっかりと生きているのだ。


 マジメの目的はきっちり、どこも欠けずに満たされたのである。当の本人はまだ気づいていないが、彼が望んだ通りの結果になっている。


 懸念があるとすれば、あのヤミコだ。誰がどう好意的にみても、明らかに敵対していた。


 顔も声も定かではないが、間違いなく味方ではない。用心しなければならない相手だろう。


 いつか、再び対峙するときが来るはずだ。


 二人の息遣いだけが響く静かな廊下に、遠く足音が届いてきたのはそれからしばらく後のことだ。



◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎



「嘘……どうなってるの? なんでこんなにボロボロに……え、あ、瀬川さん!? 小田原くんもっ」

「うわわ、ちょっと先輩落ち着いてくださいよ! 先輩だってまだ具合悪いんですから! ってああもう!」


 どれほど時間が経っただろうか。いつしか眠りに落ちていたマジメは、おぼろげながらそんな声を聞いた。


 底無し沼に沈んでいるように、体が重かった。全身がやたらと痛むし、指先も動かないほど疲れている。


 寝心地は最悪だが、それでも眠っていたかった。


「小田原くんっ! 小田原くん! どうしよう……全然起きないよぉ」


 顔面蒼白のヒイが何度もマジメを揺さぶるが、彼は固く瞼を閉じたままぴくりともしなかった。


 瞳にいっぱいの涙をため、いよいよこぼしてしまいそうになったヒイに、掠れた声が掛けられた。


「大丈夫、小田原くんは疲れて眠っているだけだ。今日起きないかもしれないけど、明日になれば目を覚ますよ」


 見慣れない少女に肩を借りたセガワが、ゆっくりとマジメの元へとやってきた。


 彼も疲れ果てた様子で声に張りがない。今にも倒れこんでしまいそうですらある。


「ああ、もういいよ。ありがとうお嬢さん」

「そうですか」

「それにしても目立つ服装だね」


 深く息を吐きながら、壁に背を預けて座り込んだセガワが、今まで手を貸してくれていた少女に言った。


 実のところ、出会って間もないヒイも内心では思っていたことだ。


 健康的な日焼け跡の残る肩を露出したオレンジのカットソーに、腰のラインが丸々出ている紫のショートパンツという服装の少女は、真っ先に黒丸に狙われそうなカラフル度合いであった。


 解放的な服装と頭頂部近くで纏めたポニーテールがよく映える姿は、スポーツ少女と呼ぶに相応しい格好だ。


 快活そうなつり目が困ったようにヒイをみた。


 二人が出会ったのはつい先ほどのことである。


 診察室のベッドで目を覚ましたヒイは、傍らに見知らぬ少女が佇んでいることに気づいた。


 驚いて飛び起きたヒイに、少女は葉切(はぎり)と名乗った。


 ハギリによれば、さまよっているうちにこの診察室にたどり着いたらしく、ここがどこかすらわからない様子だった。


 おそらく、彼女は今日この世界に来たのだろう。そう考えたヒイの視線は気遣わしげなものに変化した。


 そんな彼女に対して、ヒイは懇切丁寧に一からこの世界のことを話して聞かせたのである。同時に、マジメの姿がないことに気づいたヒイは、目が覚める前から近くにいたハギリに聞いてみたが彼女も知らないと首を振った。診察室にたどり着いたときには、ベッドで眠るヒイしかいなかったとのこと。


 それからしばらく、二人で話していると、遠くから何かが崩れる音が轟いたのだ。それこそ、黒馬が最後に壁をぶち破ったときの破砕音である。二人は音を頼りに廊下を進み、倒れたマジメたちを見つけたのだ。


「それで瀬川さん、どうしてこんな酷いことになったんでしょうか? 小田原くんも瀬川さんも、怪我だらけで……」

「ああ、まあいろいろあったんだよ。簡単に言えば、黒丸みたいな奴とまた戦ったのさ」

「え、嘘ですよね……? だって建物の中ですよ? 黒丸が建物の中にまで入ってくるのなら、安全な場所なんてどこにも……」

「黒丸に似た化け物だよ。形は馬そっくり。建物の中にも入れるみたいだったよ。なんとか倒したけど、これからは気をつけた方が良い」

「そう、だったんですか……」


 気をつけなければいけませんね、と小さく呟きながら、ヒイは目元を拭ってマジメを見つめた。


 小さな寝息を立てる彼は、傷だらけだった。衣服には汚れ一つない。だが露出している腕や首には、数え切れないほどの傷が存在していた。


 どれも血が滲んで、見ているだけでも痛々しい。


「どうして、逃げなかったんですか……? こんなに怪我しているのに、どうして……」


 今まで、襲ってくる化け物に遭遇した場合は逃げていたのに。傷だらけのマジメを見て、そう思わずにはいられなかった。


「いろいろあるんだよ。なんと言っても男の子だから」

「男の子だから、ですか?」


 物知り顔に笑みを浮かべたセガワが言った。それに対して、ヒイは困惑して言葉を詰まらせた。


「そっちのお嬢さん、葉切ちゃんだったかな。なにかスポーツはしているかな?」

「え、あたしですか? あたしは、はい。やってますよ」

「それじゃあさ、試合に負けた男の子っていつもどんな感じかな」

「どんなっていわれても……。悔しそうっていうか、こらえてるみたいな。うつむいてても絶対に泣いたりしないイメージですけど……」


 思案顏を悩ませて、詰まらせながらも言葉にするハギリに頷いた。


「それだよ。つまるところ意地だ。試合に負けた男子が唇を噛み締めて我慢して、泣かないように耐えているのと同じで、小田原くんも退けなかったんだよ。逃げたくないから戦ったんだ。多分、女の子には理解し難いと思うよ」

「……よく、わかりません」


 眉を寄せて泣きそうな表情を見せたヒイに、セガワが笑った。


「だから言っただろう? 理解し難いって」


 あれだけ冷たく接していたヒイに対して、人が変わったかのように穏やかに諭したセガワはおもむろに立ち上がった。


「それじゃあ俺はこの辺で失礼するよ」

「え? あ、でも怪我が……」

「あんまり長居するも小田原くんが起きるからな。これ以上嫌われたくないからね」


 おどけてみせるセガワに、顔を見合わせたヒイとハギリは流石に無茶だと止めようとするが、彼は聞く耳を持たなかった。それどころか、壁に手をついて無理やりに立ち上がると、ふらつきながらも歩き出してしまった。


 セガワの意思が固く、止められないと判断した二人は、去りゆく背中を静かに見送った。

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誰かが夢見るシロクロシティ 水島緑 @midori

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