31

 意識の喪失は一瞬だった。あまりにも強い衝撃で脳が揺さぶられ、マジメの視界は明滅した。


 体が不恰好に回転したことまでは覚えている。だが、ここはどこだ?


 定まらない焦点は白一色を映し出しているが、どこか歪に崩れている。


 痙攣する指先が白い床を掻いた。浅く裂けた傷口から滲んだ血液が一筋の軌跡を残すのをぼんやりと見つめて、マジメの意識は急速に収束された。


 意識がはっきりすると同時に、直感的に前方へと体を転がしたマジメの背中に、砕けた床の破片が降り注いだ。


 あと一歩遅ければマジメの背骨は容易く踏み潰されて上下に分割されていただろう。冷や汗を拭う暇もなく、マジメは壁を蹴って体を真横に転がす。それと同時に、視界の隅に黒馬の足が映り込んだ。


 またしても床を踏み砕く一撃を避け、壁に背を預けてようやく立ち上がったマジメは、そこで初めて左半身がものすごい熱を持っていることに気づいた。火傷してしまいそうな熱を自覚すると同時に、激痛が半身を襲って危うく膝をついてしまうところだった。


 無事な両足で踏ん張ってなんとか立て直す。特に痛みの酷い左肩にちらりと視線を向けると、シャツの隙間から赤黒く変色した肌が見えて、より痛みが増した気がした。


 見た目も痛みも酷いが、無理をすれば動く。点ではなく、面で衝突したおかげで骨折には至らなかったようだ。それでも、普段通りに動かすことは困難だ。手数が減ってしまうがそれは仕方がない。馬のように全身を武器に出来ればいいのだが、マジメは人間だ。


 ポケットに入れた石ころを投げつけて牽制する。スピードのない、それなりに運動神経が良ければ簡単に避けられるような投擲だ。


 だが、馬は警戒しすぎているらしい。


 ひゅっ、と風を切る小石に、黒馬は過剰といえる反応を見せたのである。


 速度のない小石では、命中しても大した損害にはならないだろう。黒馬ほどの巨体であればそのまま当たっても平気だ。もしくは、紙一重で避けて次の攻撃に備えるだろう。しかし黒馬は大袈裟に体をぴくりと反応させると、まるでそれしか見えていないかのように小石を角で粉砕したのだ。


 それにはマジメもにやりと不敵に笑うしかなかった。


 黒馬はおそらく、ただの牽制を、牽制としての意味だけではないと思い込んでいるのだろう。ただの深読みでしかないのだが、それならむしろ好都合だ。


 見せつけるように口角を吊り上げると、わずかに黒馬の体が動く。マジメの一挙手一投足に警戒しているとしか思えない反応である。


 これならもしかしたらまだチャンスを作れるかもしれない。


 乾いた唇を舐めながら、ジャージのポケットから小石を取り出した。


 出来るだけわざとらしく、もっといえばキザったらしく大袈裟で鼻につくような仕草を見せつけるように動く。自分でも呆れるほど馬鹿な行動だとは思うが、その効果は覿面で、警戒しすぎて苛立ちが募っているようだ。


 なまじ知性がある分、挑発されていることを理解出来てしまうのだろう。狙い通りだ。


 苛立ちが視野狭窄を引き起こし、マジメが弄ぶ石ころしか見えなくなりつつある。鼻息も荒くなりはじめ、ついには蹄で床を掻くようになった。


 まるでマントを前にした闘牛だ。しかし黒馬はその闘牛の何倍も強靭で、依然として気が抜けない。


 ただ、馬の視線が手元の石に釘付けなのであれば、攻略の幅はぐんと広がる。


 軽く上に放った石を受け止め、素早く投げつけた。間髪入れずに次弾を取り出して投げ、マジメは走った。


 黒馬との距離は約十メートルあるかないかほどだ。投石で馬を釘付けにしつつ、その距離を縮めていく。


 本当に黒馬は飛来する石しか見えていないのか、次々と飛んでくる石ころを粉砕しつつもその場から動かない。一つ石を破壊しているうちに次の石が飛んでくるのだから、当然といえば当然だ。しかし、そう仕組んだマジメからしてみればうまく行き過ぎてにやけた頬が戻らない。だが決して気を緩めることはなかった。


 途中、目をつけていた拳大よりも少し大きい石を拾っておく。


 ポケットの中の石が全てなくなるまで投げると同時に、マジメは黒馬の真正面にまで接近していた。


 狭まった視界にようやく映ったマジメに、黒馬は慌てた様子だったがもう回避も間に合わない。


 天へと伸びる黒角に、両手で握り締めた石を振り下ろした。


 勢いのまま、鋭利な先端を渾身の力で叩きつけると、黒馬の角はまるで花粉のように黒い霧を撒き散らした。


 マジメの体は一瞬にして霧に飲み込まれるが、彼は気にした様子もなく続けて石を叩きつけた。


 振り下ろした石を切り返して振り上げる。がつん、と硬質な音が廊下に響いて再び霧が拡散した。一度目の殴打よりも量の多い霧とともに、ついに黒馬が悲鳴を上げたのである。


 このままたたみかけようと、マジメは振り上げた勢いを維持したまま横殴りを追加して、往復させる。白い石が角に衝突する瞬間、先端が大きく砕けて石は小さくなった。しかしマジメは構わず殴りつける。


 無我夢中で殴り続けていると、目の前の角にひび割れが現れていることに気がついた。こんなもの、先ほどまでは存在しなかった。


 効いている。


 黒馬の角は、最大の武器であると同時に弱点でもあったのだ。


 後退を考えていないマジメの、苛烈な打撃の数々はついに、黒馬の角先を砕いたのだ。


 その瞬間、避けようにも避けられなかった黒馬が悲痛な声を上げるとともに、嫌々とただをこねる子供のように首を振った。だが、その行動は取り付いた敵を蹴散らすことが出来るほど強力なものではなく、黒馬の根本的な力が弱体化していることが現れていた。


 だが、力が弱くなったとしても人間一人を吹き飛ばすのは容易だ。追撃の途中だったマジメが避けられるはずもなく、黒馬の首が脇腹に激突した。


 あっけなく吹っ飛ばされたマジメは床を滑って馬から遠ざかってしまうが、以前ほどの力はないと身をもって確信したのである。


 じわりと滲み出すような鈍痛に神経が焼かれる。だが動けないほどではない。足に力を入れてマジメは立ち上がると一度だけ脇腹をさすった。服の下にはおそらく、内出血によって青くなっている肌があるだろうが、それだけだ。かすかに動きづらいが、意識が混濁するほどではない。やはり、角が欠けたおかげで力が弱まったようだ。


 もし、何らかの方法で馬が角を再生させでもしたら次の機会はやってこない。体力気力ともに、今まさに絞り出している状態だ。こんなチャンス、今しかない。


 ややふらつきながらもマジメは走り出した。武器であった石は既に尽きている。近くにもその白い瓦礫は見当たらない。だが、もう拾いにいっている余裕はなかった。なにより、怯えたように首を縮こませる黒馬が今にも逃げ出しそうなのだ。ここで逃がすはわけにはいかないのである。後々の脅威になりうる芽は、摘むことが出来るなら摘んでおきたい。


 大丈夫だ。武器がなくてもちゃんと腕は動く。左腕の感触が薄いがしっかりと動いているうちは問題ないはずだ。


 全力で駆けるもその速度はまるでおぼつかない足取りの幼児だ。だが、すっかりと意気を失った馬にとりつくには十分である。


 霞む視界の先に見える黒い角をおもむろに掴むと、両手でもってへし折りにかかった。


 角に刻まれたひびのせいで、すっかり及び腰になった黒馬の抵抗は酷く弱々しく、しかし握力の失ったマジメでは拮抗に持ち込むのがやっとだった。角を握り締めながら、後退しようとする馬に引きずられまいとして踏ん張るのが辛うじてという有り様である。


 傍目から見れば、まるで骨と皮しかついていない老人たちの取っ組み合いに見えるほど、弱々しいのだろうが、当人たちは全力を振り絞っているのである。


 震える両腕で、精一杯に力を込めるが何度も殴ってようやくひびが入ったくらいだ。なかなか折れない。ならぱと勢いをつけようと腰を捻ったそのとき、マジメの体は壁に叩きつけられていた。


 黒馬が必死の抵抗をしたわけではない。彼は今も縮こまっている。では何がマジメに襲いかかったのか。


 鳩尾に深々と突き刺さった踵が見えたがそれだけだった。長く、しなやかな人間の足がマジメを蹴り飛ばして、背中をしたたかに壁に打ち付けた。


 肺の中の酸素が残らず吐き出され、マジメは激しく咳き込みながらもなんとか顔を上げた。


「だ……誰だ……」


 絞り出した声は囁きに劣るほど小さく掠れていた。だがマジメを見下ろす人間は一句と違えずに聞き取ると、艶黒のライディングウェアに包まれた腕を組んだ。


 ライディングウェアとセットらしい黒塗りのフルフェイスヘルメットの中で、くぐもった忍び笑いを漏らすとようやく口を開いた。


「さて、誰だろうな」


 ヘルメットのせいでわかりづらいが、高めの声と小柄な体型はおそらく女性だろう。胸部も臀部も薄いが、慎ましい膨らみは存在感している。


 マジメよりも少し小さい背丈で怪しいライダー姿なのは強烈な違和感を与えた。


 だがその姿とは裏腹に、マジメを容易く蹴り飛ばした技は確かなものだった。もはや指の一本も動かせそうにない。


 ぜーぜーと、危うい音を発する喉が酷く耳障りだった。


「悪いね、この子を消されると困るんだ。だからもう寝ていいよ」

「くっ……ふざけんな、よ」

「いやいや、よく頑張ったよ。この子が珍しく苦戦してるから慌てたしね。さ、おやすみ」


 鞭を思わせる足が持ち上がり、いよいよ限界か、と霞む視界で思った。


 しかし、その足が振るわれる前に、マジメとは別の声が響いた。


「残念だったな、そっちのオンマさんはもう馬肉になってるよ。あ、欠片も残ってないか」


 無残にも叩き折られた角が床に転がり、馬の体が霧散する。霧が晴れるように黒いもやが消え去ると、そこには鉄パイプを手にしたセガワが額から多量の血を流しながらも確かに佇んでいた。

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