30

 そのときである。


 粉々になった白い石が降りかかる中で、暗闇を凝縮したかのような黒馬の角から、多量のもやが溢れ出した。


 まるでこぼれ落ちるように黒馬の顔を伝うもやは完全に馬の視界を塞いだ。同時に角が明滅し、漆黒だった色がほんのわずかに薄まった。


 瞬間、角に触れられることを嫌がるように黒馬が頭部のみならず全身を振るい、暴れに暴れた。その勢いはこの姿に変化する前にマジメたちを近づけまいとしたものよりも数段激しく、拒むようにがむしゃらだった。


 流石に追撃は不可能とみて距離をとったマジメだったが、突破口を見つけたことで彼の瞳は獰猛に輝いていた。


 あの拒絶反応はあからさまだ。


 思わず反応してしまったか、他者に触れられることだけでも弱点になりうるのかわからないが、そこは確かな突破口だった。


 だが、その隙間は小さく、腕一本入れることがやっとであった。


 しかし、それは困難であるだけで、不可能ではない。なにせ一度触れたのだ。死に物狂いでかかればもう一度角を殴ることが出来るはずだ。


 ただ、よくよく考えてみると、あれだけ派手に壁をぶち壊してきた角が、何故外部からの衝撃に弱いのだろうか。自ら振るうことは躊躇わないのに謎である。とはいえ、今はその謎器官によって光明を得たのだ。考えるのは倒してからでいい。


 いくつも抱えた瓦礫を取り出そうとして、両手が空を切った。


 もう既に弾切れだったのだ。角にぶつけた石で最後の一つだったらしい。


 慌てて足元に転がる瓦礫を拾おうとすると、マジメが攻撃してこないこともあって暴れ馬状態を解いた黒馬と、目があった。いや黒馬に眼球と呼べるようなものは存在していないのだが、確かに視線が絡み合って、馬の口角が吊り上がった。


 マジメと馬の距離はそう開いていない。しかし馬の突進を回避するために近づくのは難しい距離だった。馬も同じことを考えたのか、わずかな逡巡も見せずにすぐさま床を蹴り割った。


 その驚異的な瞬発力での突進は、半ば予備動作を吹き飛ばしてしまうほど凄まじいものだった。一瞬で距離を詰めてくる黒馬の角に脂汗を流したマジメは間一髪、身を投げることでなんとか回避した。


 マジメが避けたとみるや否や、すぐさま切り返して方向転換した馬は、マジメが起き上がらないうちに再び突進を仕掛けた。


 黒馬が踏みしめる床のことごとくがえぐられて後方に蹴り飛ばされる。壁際の廊下に横たわり、ようやく状況を確認したマジメは喉の奥から溢れてくる悲鳴を噛み殺して咄嗟に壁を蹴った。


 黒馬のせいでぼこぼこになった床に引っかかるが、上手く滑ることに成功したマジメは反対側の壁際へと逃げた。流石にそれを追いかけることは出来なかったのか、黒馬はまたしても壁に衝突して、あっさりとぶち破った。


 これで壁の大穴が二つになった。


 マジメの方まで飛んでくる瓦礫をやり過ごし、ようやく武器を補給することが出来たマジメは先ほどよりも多く石を拾ってジャージのホケットに入れた。しかしあまり入れすぎてしまえば逆に動きづらくなってしまうため、持てる弾はそう多くない。


 しかしこれで武器は確保出来た。あとは狭く小さな突破口に腕をねじ込むだけだが、三度壁が崩壊した。


 崩れる瓦礫の隙間から見えたのは黒い馬の巨体。マジメしか見えていないその馬は三度目もあっさりと壁を打ち崩してマジメの前に現れた。


 その圧力は気押されるほど強く、異様な巨躯と相まってごくりと息を呑んだ。しかしこれで怯むほどマジメは小心者ではない。いや、もはや慣れてしまったというほうが正しいか。


 どちらにせよ動ける今ならチャンスはある。


 それに、なにがどうなっているかわからないが、全身の筋肉の躍動が手に取るようにわかる。どこをどう動かせば消耗を抑えることが出来るか。しかし消耗を恐れて全力を尽くせなければ意味がない。突破口はそれほどに厳しく小さいものなのだから。


 それこそ、死力を尽くす必要がある。


 ちらりとセガワに視線を向けて、奥歯を噛み締めた。


 彼は瓦礫に埋もれたまま動かない。わずかでも助かる可能性があれば、と願っていたが、ぴくりとも反応しない。出来るなら、気絶しているだけであってほしい。


 どちらにしても、セガワを瓦礫の中から引っ張り出すのはあの馬を倒してからになる。


 黒馬との距離は約十メートルほどだ。弱点を突かれたことでマジメを警戒しているのか、攻撃してくる気配はない。とはいえ、素人目にみても隙がない。攻めるにしても誘うにしても、相当に苦労しそうだ。


 しばらく睨み合っていたが、このままでは埒があかない。ここで膠着してしまえば、今のマジメの、ある種の覚醒状態が消えてしまうかもしれない。黒馬はもしかするとそれを狙って動かないのかも、と考えて、この状況を打破するためにマジメは一歩前に進んだ。


 途端に強くなる殺気と圧力が押し掛かってくる。その見上げるような高い壁を壊しながら進むのは正直に言って難しい。とりあえず、牽制として石を投げようとした。


 石を振り被る動作を見て、ただの石ころでも侮れないと警戒したのか、黒馬は巨体に似合わない軽快なステップで右へと跳んだ。


 だが、馬がいるのは穴の開いた壁の真ん中だ。いくら俊敏でもそれは広いスペースがないと十分に効果を発揮出来ない。馬の巨体が直接破った壁のため、馬が出入りするほどの穴は開いている。だが、その中で巨躯が動けるか、となれば話は変わる。


 結果、馬の横方向へのステップは壁にぶつかることで中断し、驚いたように壁を見る馬に大きな隙が出来た。


 目の前のことに集中しすぎたせいで、周りが一切見えていなかったらしい。


 投擲しかけた腕を引っ込めて、マジメは即座に走り出した。


 これ以上にないほどのチャンスだ。無駄にしてしまえば次はないかもしれない。


 急接近するマジメに気づいた黒馬は、わずかに慌てる様子をみせて身を低くした。


 ほぼ同時に、至近距離から投石したマジメは避けられるのも構わずそのまま駆ける。そもそもその石は囮だ。当たってくれれば儲けた程度としか考えていない。


 巨体を右に傾けることで白い石をかわした馬は、流れるような動きでそのままマジメに角を振るった。


 間近にまで迫っていたマジメは、背筋に冷や汗を流しながら紙一重で避けた。水平に振るわれた角のせいで後退せざるを得なかったマジメに、黒馬はすかさず追撃に移る。


 黒馬の後ろ足がにわかに膨張したのを見て、今度こそマジメは遮二無二反転して身を投げた。ちんたら走っていたのでは間に合わないのだ。


 ノータイムの体当たりが背後で風を巻き起こし、馬の巨躯が壁の穴から出てしまった。


 せっかくのチャンスを取り逃がしてしまったのだ。だが、ここで悔しがっていても始まらない。飛び起きたマジメがすかさず石を投げる。しかしそれを見越していたかのように、黒馬は石をかわすと、上半身を持ち上げて踏みつけてきた。


 だめだ。攻め切れない。


 回避を余儀なくされたマジメは、反撃の隙を見つけることが出来ずに、そのまま防戦に追い込まれていった。


 角のお返しといわんばかりの、激しい攻勢に手も足も出ない。


 どれだけ走り回ろうが衰えないその動きに、マジメの手傷は増える一方である。そして、マジメの体力も限界に近づいていた。


 大きく肩を上下させ、立っているだけでも精一杯という体のマジメに比べて、黒馬は息を切らせた様子すらない。しかしその殺気は時間が経つにつれて、より強く、大きくなっていく。


 ただでさえ圧倒的な巨躯が、そのプレッシャーのせいで二倍にも三倍にも大きく見えてしまう。ひび割れだらけの気力も、今にも折れてしまいそうだ。


 全身のすり傷がじくじくと痛んで、飛びかかってきた黒馬への対処が遅れてしまった。後ろ足の膨張が見える。黒馬お得意の体当たりだ。


 完全に避けることは叶わないと判断し、思い切り体をよじることで被害を最小限に抑えようとした。しかし、馬の巨体はそう簡単に避けられるものではない。かわし切れなかったマジメの左半身に、黒馬の体当たりが直撃した。


 ぐるり、と視界が激しく踊った。

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