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振り返ることも間に合わなかった。
無防備な背中が自動車にはねられたように、前方にすっ飛んでいくのがセガワには見えた。
全身を襲う衝撃に瞠目したマジメは、まるで紙屑のように蹴り飛ばされて激しく廊下を転がった。
「小田原くんっ! くそ!」
セガワが何度もマジメに呼び掛けるが、返答しようにも喉が潰れたように息が出来ない。
手足が千切れたり、どこかの骨が砕けていないのは幸運だったが、吹き飛ばされてからまったく呼吸が出来ずにいた。
酸素を求めて喘ぐマジメが立ち上がることも出来ずに、ひたすら自分の胸を叩いてどうにか呼吸をしようと奮闘すると、ようやく肺が機能を取り戻してマジメは盛大にむせた。
咳き込みつつも何度も深呼吸を繰り返して息を整えながら、涙で滲む視界を後方に向けるとセガワが黒馬と戦っていた。
いや、戦っている、とは言えなかった。
何故か後ろ足が再生している黒馬は、全身から黒いもやを撒き散らすのをやめてまた一回りほど大きくなっていた。代わりといってはなんだが、蹄からもやを拡散させている。
しかしそれだけではない。セガワが防戦一方に追い込まれているのだ。
おぼろげな視界から涙を拭うと、より鮮明に、セガワの表情に焦りが満ちていることが窺えた。すぐにセガワの援護に行こうとするが、マジメは立ち上がれなかった。
呼吸困難に陥った動揺が強く、足がまるで使い物にならないのだ。がくがくと膝が笑い、てんで力が入らない。
叱咤して膝を殴りつけるが、早鐘を打つ心臓と共鳴するように震えが止まらない。
劣勢に追い込まれたセガワの動きが少しずつ精彩を欠いていく。
ここまでの疲労も相当なものだろう。肉体の疲労で動くことさえも億劫なのに、そこへ長時間戦ってきた精神的疲労も乗っかってくるのだからいつ致命傷の一つや二つ、貰ってもおかしくない。
とにかく体勢を整えようと、馬の鼻先に牽制の一振りを入れるが首を軽く引くだけでかわされ、馬はより苛烈に攻め立てる。
おそらく、セガワの攻撃は完璧に見切られている。体力が尽きかけていることも、追い込まれていることも、きっと読まれている。
苦し紛れの牽制は無意味だ。むしろ自分から隙を作っているようなものになってしまう。その隙を利用した攻撃方法もあるが、今の相手には到底通用しない。
「くっそ、これでもう一回変身したらマジで恨むぞ……!」
言いながら、馬のストンピングを右に避ける。既にあちこち砕けている廊下がひときわ大きく粉砕されて、セガワの背筋に冷たいものが走った。
視界の端に見えるマジメが、立ち上がろうとしている姿を先ほどから見かけるが、恐らくもう立てない。あんなダメージの後だ、立ち上がろうとする意気があるだけでも賞賛出来る。しかし、もう体が限界なのだ。精神的な疲労ではなく、極度の疲労で純粋に、体が動かないのである。
しかしそれは自分も同じことだ。まだ馬を相手にしていられるうちになんとか逃げて欲しいが、声を張り上げることすらままならない。
一か八か、小さく鉄パイプを振るい黒馬と距離を取ったセガワが、背後にいるマジメに叫ぼうとしたときだった。
がらんどうの眼窩が、光った気がした。
まるでその瞬間を待っていたかのように、今までとは比べものにならないほどの俊敏さで、セガワに突進を仕掛けた。
セガワが距離を開けたことを逆手にとったのだ。むしろそれを待っていたとしか思えないほどの即断即決だった。
追撃を予測していたセガワだったが、その突進の勢いと速度はただ予想外の一言で、なんとか鉄パイプを構えて防御しようと試みるが、あまりにも頼りない。
そして、黒馬の突進はセガワを巻き込んで廊下の壁をぶち破った。
目を見張るマジメの眼前で、いとも容易く壁が粉砕され、白い欠片が散乱した。
ぽっかりと大口を開けた壁の先には、また別の通路が見えていた。つまり、部屋を作っている薄い壁ではなく、廊下と廊下を隔てる分厚い壁をぶち破ったということになる。
がくがくと震える足をひきずりながら、壁に体を預けるようにして馬の後を追う。
口を開けた壁から向こう側を見ると、瓦礫に埋もれたセガワの足だけが、だらりと力なく横たわっていた。
それを見た瞬間、頭部を失った骸を思い出して、頭の奥にかっと炎が燃え上がった。
まるで安定剤でも飲んだかのように、震えがぴたりと止まった腕で大小様々な瓦礫を両手で持てる限りかつ、邪魔にならない程度だけ拾うと、マジメは砕かれた壁をくぐって黒馬に駆け寄った。
半ば無意識だったその行動に、当然馬が反応してマジメに振り返る。それと同時に、拳大の石を顔面に投げつけた。
これまでにない速度と正確さで真っ直ぐに飛んだ石の着弾は速く、対応しきれなかった黒馬はやむを得ずに角で飛来する石を粉砕した。
黒馬の眼前に細かく砕かれた石片がばらまかれたことで、ある程度の目眩ましになった。そのおかげで続けざまに飛んできた二つ目の石にはまるで反応することが出来ず、痛烈な投石をもらった。
あまりに間隔の短い連続投擲にしては二発目の方が威力もコントロールも上だった。的確に黒馬の視覚を揺さぶると同時に、命中を確信していたマジメが一瞬の後に接近していた。
極度の疲労による震えも、今はまったく感じなかった。疲れの一切が吹き飛んだおかげで、体力が全快しているときと遜色ない動きで駆けることが出来た。
握り締めた白い石を黒馬の顎下へ振り上げた。
鋭利に尖った先端が突き刺さりながら砕けると、すぐさま反対の手に握る角張った石を振るって今度は馬の横っ面を思い切り殴った。
しかしまだまだ終わらない。
徹底して馬の頭を揺らすことに成功したおかげで、黒馬の視覚は激しく揺れて今にも転倒しそうになっている。気絶しないことに驚きだが、人知の及ぶ生物ではないためそういうこともあるだろうと、決して油断はしなかった。
石で殴りつけると同時に砕けてしまうため、振るうときにはもう別の石を掴んでいた。そうやって何度も何度も、馬の顔面を殴る。
だが、馬もただされるがままになってくれるわけがなく、回避を試みようと頭を引いたせいで右手の殴打が顔面には届かず、長く太い角にぶち当たった。
あっさりと手の中で石が砕け、逆の手でフォローに入るがそちらもまた角で防がれてしまった。
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