28
セガワの振るった鉄パイプが空を切り、そのまま壁を高々と打ち鳴らした。
今まではそんなこと一度もなかった。床すれすれでぴたりと止めることなど造作もなかったはずだが、それが困難になるほど疲労しているのである。
響き渡る高音に舌打ちを漏らしたセガワは、黒馬が前足で踏みつけてくるのに合わせて後退した。
強力な突進を持つ馬に対して得策ではない行動だが、流石に馬の懐に入ったまま回避と攻撃を繰り返すには体力的に厳しいのである。
ちらと廊下の奥に視線を動かすと、床に這いつくばるマジメがなんとか起き上がろうと腕を突っ張っていた。だが、震える腕ではろくに力が入らずにがくりと倒れてしまう。しかしすぐにまた腕を床に立てて這い上がろうとしていた。
援護はしばらく期待できそうにない。だが、必ず彼はやってくるだろう。ダメージの残る体に鞭を打つマジメに、セガワは口端を吊り上げた。
信じてはいない。最初から信用するような仲ではないのだから。だが、彼が来るのはもはや確定事項だ。
何せあのぎらついた目は、獰猛かつ勇敢で、撤退をよしとしない目なのだ。
どれだけ恐怖に脅かされても、手足が子鹿のように震えていても、目が死なない限りは絶対に諦めない。そんな人種に、マジメも分類されている。
そして、セガワはその人種が大好きだった。
壁を叩いたことでわずかに痺れる指先をほぐすように、何度もパイプを握り直して鋭く息を吐いた。
もう目の前には角を振りかざした馬が殺気を撒き散らしている。だが、セガワにそれは当たらない。
突進しながら角を薙いだ馬の足元に潜り込んだセガワは、そのまま股下を通り抜けて素早く反転した。
体を回転させながら振るった一撃は馬が前方に踏み込んだせいで後ろ足にかするのみだったが、セガワはそれを見越して振るった腕を突き出した。
空気を切り裂いた鉄パイプは一直線に馬の後ろ足を狙い打ち、もやで構成された足を深々とえぐった。
相変わらず手応えがないが、今までで一番のダメージが入ったに違いない。その証拠に、振り向こうとしていた馬が突かれた足からバランスを崩して下半身をがくりと落とした。だが、未だに馬は健在で、反撃に振るわれた角がセガワを頬をかすめた。
ほとんど触れていないにもかかわらず、ぱっくりと肉が割れて幾筋もの血が流れ落ちた。だが、セガワはむしろ笑みを浮かべていた。
足を突いた一撃は、半ば捨て身だったのである。
一点集中の突きがかわされてしまえば、前のめりになった体勢を立て直すのは難しい。その隙があれば、頭を踏み砕くことも、胸を串刺しにすることも可能だった。
だが、セガワは賭けに勝った。
頬を裂かれた程度なら安いものである。
しかし、そこで黒馬が思いもよらない行動に出た。
下半身が横に倒れかけ、その勢いを利用した角の一閃をかわされた馬が、前足を軸にして体を半回転させたのだ。
下半身を浮かせ、倒れかけの独楽のように半回転した馬が下半身をセガワの前に出して、勢いのまま後ろ足を振るったのである。
馬の姿からはかけ離れた、例えるならばストリートダンサーのような動きにあっけにとられたセガワは回避行動への移行が遅れた。
目の前に迫る風切り音と、もやを散らす足に顔面が潰されるというところで、横からの衝撃がセガワの体を突き飛ばした。
そのおかげで馬の足は空を蹴り、そのまま回転して体勢を整えた。
倒れこんだセガワの体がずるずるとひきずられて馬から離され、十分に距離を取った場所まで引っ張られたセガワは自身の肩を強く掴む腕を軽く叩いた。
「すまない、助かったよ小田原くん。このくらい離れればもう平気だ」
「俺は借りを返しただけだ」
緊張に固まってしまった手の平を、半ば無理やりこじ開けながらセガワの肩から離したマジメはその場に膝をついた。
荒い呼吸は、廊下の奥から全力疾走して駆けつけた証だ。
未だに震えの残る腕をいさめるように、床についた膝に押し付けながらマジメはぎこちなく笑ってみせた。
その笑みに込められた意味は一つだけだ。
まだ、戦える。
黒馬が壁をぶち破ったときに崩れた瓦礫を一つ掴むと、おもむろにマジメはそれを放り投げた。
なかなかの勢いで飛んだ拳大の石片は真っ直ぐ黒馬に向かったが、あっさりと角に叩き落とされた。
武器となる物が他にない以上、猿のように石を投げるしかないのである。ただ一つ幸運なのは、馬が壁を盛大に破壊してくれたおかげで残弾はまだまだ存在していることだ。
とはいえ、マジメが実は高校球児で四番のエースだ、なんてことは当然ない。キャッチボールや草野球に混じった程度の経験しかないため、投石がどれほどの効果を持つのかわからない。むしろ、効果がないと判断して動いた方が良いだろう。それでも足止めくらいにはなると鼓舞して、また一つ瓦礫を投げつけた。
極度に集中しているおかげか、震えている腕での投擲でも真っ直ぐ狙った場所へと飛んでいく。
しかし馬もただ棒立ちでいるわけがなく、角を器用に振るって軽々と石を砕いていった。一見、意味のない投石のように見えるが、当たりそうな石を砕かせることに意味があるたのだ。
たかが石ですら当たるのを嫌がって砕いたことから、やはり黒馬は攻撃されることを極端に嫌がるのだろう。それこそ、小さな石ころでも。
それもあって、マジメはひたすら石を投げた。目的はセガワの体力回復と、馬の視覚撹乱だ。
額に角が生えているため、角を振るうには頭ごと振らなければならない。そして馬は小石が当たることを嫌うため、角を振るって打ち落とすのだ。そこがつけいる隙だ。
人間にしても、視界が揺れていれば直立していることも困難だ。それはおそらく黒馬にも同じことが言える。
断続的に石を投げるため、黒馬の動きは完全に封じられていた。
黒馬の失敗が、今の状況に繋がっている。
馬は油断していた。たかが石だと思って侮っていた。いや、たかが石だ、ということは間違っていない。ただ、警戒のあまり角を振るって砕いたことが悪手だったのだ。
角で受けるのではなく、素直に避けていればこんなことにはならなかったはずだ。
揺れる視界では次弾がどこに飛んでくるかわからない。そのため迂闊に動いてしまえば直撃する。だからこそ馬はほんの一瞬で石の位置を確かめて角で受け続け、そして失敗を悟った。
廊下に転がる瓦礫はまだまだある。肩に負担がかかり、熱くなっているが投げるだけなら余裕はある。
体を休めながらも、セガワがマジメのフォローに入るため黒馬は一歩も動けずにいる。
流石に鬱陶しくなったのか、喉の奥から唸るような声が漏れている。それを見たセガワが、いよいよ立ち上がった。
鉄パイプの感触を確かめ、細く長く息を吐く。そうやって余計な力を抜くと、セガワは走り出した。
セガワが接近しようとしていることに、黒馬は気づかない。苛立ちに視界が狭まっているのだろう。そこにマジメの途切れない投石が加わると、セガワの姿はまるで見えない。
この千載一遇のチャンス、一撃は確実に直撃するだろう。そして、そこからいかに連撃を命中させるかが肝になる。
極力黒馬の視界に入らないように回り込むと、今までの鬱屈を晴らすように長々と溜めを入れた。
腰を捻って上半身を勢い良く振るう。風を切り裂く鉄パイプが狙ったのは、先ほど突いた後ろ足だ。
依然として手応えはない。まるで空振りした感触だが、マジメもセガワも口角を吊り上げた。
黒馬の後ろ足が片方、綺麗さっぱり消え失せていた。太腿の下が丸ごと消失したが、まだ手は休めない。返す刀で反対の後ろ足も打ち据えると、こちらも同じように消失した。
後ろ足を失った黒馬がバランスを崩して倒れたのをいいことに、更なる追撃をと意気込んだ二人だったが、廊下中を包む黒いもやが黒馬の全身から噴き出して、近くにいたセガワはマジメの後ろまで転がった。
まるで黒い霧の波だ。押しつぶすように迫る霧が廊下中に蔓延して、何も見えなくなった。
「小田原くん、無事か!?」
「あ、ああ。特に怪我はないよ。でもなんだこれ、何も見えない」
「俺にもわからない。こんなもの初めて見るよ。黒丸はこんな行動しなかったからね。霧が晴れたらすぐに周りを確認するんだ。何が起きてもおかしくはない!」
「言われなくてもわかってるよ」
そうやって声を張り上げる二人は互いの位置を確認して、霧が晴れるのを待った。
幸いにも、そう長い間充満しているわけではないようで、早速霧が薄れて白い壁が見えるようになった。
このまま待っているのは不気味だと、マジメが一つ石を投げた。黒い霧を巻き込んで真っ直ぐ飛んだ石は何かにぶつかることなく、静かな廊下に音を立てた。
耳を澄ませていつでも動けるように身構える。霧が薄まってきたとはいえ、ほんの二メートル前後しか見えていない。そのため蹄の音が何よりも大事になる。
決して聞き逃さないように手に持った石を握ると、何の前触れもなく霧の大部分が晴れた。
足首付近の低い位置だけに霧が残り、足首から上の霧は、まるで電気を消したかのように唐突に消え去った。
混乱しながら、先ほど馬が倒れた場所に視線を走らせた。しかしそこに馬はいない。一体どこだ、と叫ぶよりも早く、セガワの絶叫がほとばしった。
「小田原くんっ……後ろだ!」
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