八章 雨降って・・・・・・

 翌日の昼休み、お弁当を食べ終えた麻美は後ろの席の円と四校対抗戦の話をしていた。

「でね、ひーちゃんはわがまま言うし、しずちゃんはポジション交代しちゃうし、散々だったよ。こんな可哀想な私を慰めて」

「おうおう、それは可哀そうに。痛いの痛いの飛んでけ」

 円は左手で麻美の頭を撫でて、勢いをつけて手を麻美の頭から離す。

「全敗なのに麻美、けっこう元気だね」

 円が不思議な生き物を見るような目つきで麻美を見る。

「そう? そうかな。そうかもね。テヘ」

 麻美はペロっと舌を出す。昨日は麻美もかなり落ち込んでいた。家に帰ってからもどんよりした雰囲気を山のように背負っていた。だが、一晩寝たら元気になってきた。

「私ってさ、楽観的っていうか、終わったことはあまり悩まないんだよね」

「確かにそうかもね」

 円が何か思い出したのか、くすっと、小さく笑う。

「この間の中間テストでも受ける前は、範囲の勉強が終わってないよ~、どうしよう~、て泣き言を並べていたけど、終わったら案外ケロってしてたよね」

「そうそう。そんな感じ。やる前は、どうしよ~ て凄い考えちゃうんだけど、終わった後はそうでも無いんだ。ほら、終わったことをいくら考えても、もう変わらないわけだし」

「九条さんが転校して、一人残されたときもそんなに落ちこんでいなかったもんね」

「落ち込んだよ。でも九条さんを恨んでもしょうがないじゃない。残った私がフットサル部を存続させればいいわけだし。それに私は諦めの悪い女なのじゃ」

「得な性格だね、少しうらやましいよ」

「もう、円ちゃんたら。そんなにべた褒めしないでよ。照れちゃうじゃない」

 麻美は鼻高々だと言わんばかりに、鼻先を斜め上に向ける。

「でもさ、フットサル部はどうなるの。四校対抗戦で勝てなかったら廃部なんでしょ」

 麻美は勢いよく首を横に振る。

「そんなことないよ。まだ、冬の全国高校フットサル大会があるんだよ」

「それって、シードだから決勝トーナメントから参加するやつでしょ。予選リーグならまだしも、決勝トーナメントは勝てるはずない、て前に自分で言ってたじゃない」

「その通り。でもね、もうそこに賭けるしかないんだよ。だったら私は賭けよう。いかに可能性が低くても零ではないのだから勝つ努力をするのだよ。勝てるのは、勝つ努力をした者だけなのさ。体育館も使えるようになったし、練習あるのみだよ」

「おお、なんか格好いいこと言うな。今日の麻美は一味も二味も違うな」

「美浦さん」

 名前を呼ばれたので麻美は円との会話を中断して声のした方を向く。教室の入口に碧がいた。麻美は椅子から立ち、教室の入口に行く。

「何かな」

「お話したいことがあります。少々長くなると思いますが時間ありますか」

「大丈夫だよ、何?」

 麻美は円に手を振り教室の外を指差した。ちょっと出てくる、という仕草だ。麻美の意図を理解したのか円が手を振った。行ってらっしゃい、の仕草だ。

 麻美は廊下に出る。

「それで、話って何?」

「神宮さんがフットサル部を辞めるそうです」

 碧が冷静な口調で爆弾発言をする。

「ええ!? 何で!?」

 麻美の声が廊下に響く。廊下を行く人達が麻美を見る。しかし、他人の視線を気にしている場合では無い。麻美は脳みそをフル回転して翡翠が辞めると言い出した理由を考える。

「あー! もしかして、昨日のこと気にしてるのかな」

 四校対抗戦の聖心館戦のハーフタイムの時、麻美は翡翠の話に聞く耳を持たなかった。麻美の態度に翡翠が不満を持ったとしてもおかしくない。というか、不満を持つだろう。それで、フットサル部にいるのが嫌になったに違いない。

「辞める、としか聞いていませんが、おそらく、昨日のことは要因の一つでしょう」

 碧が頷く。

「も~ 冬の大会に向けて練習に集中しなくちゃいけないのに、何でこんなことになるの」

 麻美は髪の毛を掻きむしる。

「ええい、今からひーちゃんに会って、昨日のことを納得するまで話し合う」

 廊下を走り出そうとする麻美を碧が制止する。

「神宮さんが辞めると言い出したのは昨日のことだけが原因ではないと思います」

「え? 他にもあるの……」

 麻美は腕組みして考え込むが、心当たりはない。

「四校対抗戦までの練習の話です」

「練習?」

 練習に翡翠が辞める原因があったなんて麻美は全然気づかなかった。

「四校対抗戦の前、体育館が使えなくなった頃からだったと思います。美浦さんが急に厳しくなりました。練習中、頻繁に怒鳴って注意することが多くなりました」

「それは、四校対抗戦で勝つためにしょうがなかったんだよ。四校対抗戦は絶対勝たなくちゃいけないと思ったから」

「絶対? 何故、絶対なのですか」

 碧が訝しむ。

「あの、あのね、フットサル部を存続させるには条件が合って、今年度中に公式戦で一勝しなくちゃいけないんだよ。公式戦は四校対抗戦と、冬の全国高校フットサル大会があったんだけど、冬の大会はシードになっちゃって決勝トーナメントからだから勝つのは難しいと思ったんだ。だから、四校対抗戦で絶対に感たなくちゃいけなかったわけ」

 碧がため息をつく。

「どうしてそんな大事なことを黙っていたんですか。少なくても私は今初めて聞きましたよ。フットサル部存続に条件があったなんて。私以外の皆さんは知っていたのですか」

「あ、あの…… えっと、静ちゃんには言ったんだけど、ひーちゃんにもあおちゃんにも珠子さんにも言ってなかった……」

「経験者の佐々木さんは信頼しているから相談したけど、初心者の私たちは信頼していないから相談しなかった。そう取れなくもないですが、深くは追及しないでおきましょう」

 碧が目を細めて麻美を見る。まるで恩を売っているかのようだ。

「はう、あおちゃん、厳しい! 手厳しいよ。極寒の冬のように厳しいよ」

 冗談で誤魔化したが、碧の指摘に麻美はドキリとしていた。碧の言っていることは正しかった。チームを引っ張るのは経験者の麻美と静で、初心者の碧、翡翠、珠子は、人数合わせ、と麻美は無意識の内に線引きをしていたのだ。

「練習中の美浦さんの注意は正しいのでしょうが、怒鳴られると面白くありませんでした。神宮さんも、最近フットサルがつまらないと言っていました。そういった背景があり、聖心館との試合では話を聞いて貰えず、嫌気がさしたのでしょう」

「あうぅ…… 私が悪かったのか…… うぅ……」

 麻美はうなだれる。

「美浦さんに悪気は無かったと思います。ですが、フットサル部存続に条件があるということを皆さんに伝えなかったのが問題だと思います。そのことを知っていれば、練習で厳しくされても納得できたでしょうし、試合に臨む心構えも違うものになったはずです」

「うぅ、その通りだよ。どうしてそんな簡単なことをしなかったんだろう。私の馬鹿馬鹿」

 麻美はぽかぽか両手で頭を殴る。皆をフットサル部に誘った者として、そして、経験者として、チームを引っ張っていかなければならないと麻美は感じていた。それは麻美の責任感の強さの表れだが、いき過ぎて、一人で抱え込んでしまったのだ。

「ひーちゃんに謝って来るよ。それで戻って来てもらう」

「美浦さんの気持ちは分かりましたが、神宮さんが聞く耳を持ってくれるでしょうか……」

 碧が切なさそうに斜め上の虚空を見つめる。その仕草を見ていると麻美も不安になる。

「ですが、ご安心を。いざとなったら、マヤ節を司どるこのジェルノ アンジェリカが少々本気を出しましょう。呪術をもってすれば神宮さんの心を操るなど容易いこと」

 碧の台詞がどこまで本気なのかよく分からないが、麻美は碧に合わせてみることにした。

「呪術がつかえるなら今すぐ使ってよ、あおちゃん」

「ふふ、呪術には処女の生血が必要なのです。おいそれとできるものではありません」

 碧がおどろおどろしい声を出す。

「処女の生血…… えっと、針で指をチクってつついた感じでいいのかな」

 麻美は人差し指を碧につき出す。

「えっ……」

 麻美の返事が予想外だったのか、碧がたじろぐ。

「な、何を言っているのですか、はしたない」

「ねえ、ねえ、処女の生血だよ。これで呪術ができるんじゃない。できるよね。マヤ文明の祈り娘、ジェルノアンジェリカだもんね」

 麻美は人差し指を碧の眼前に付き出す。碧の態度の変化が面白くて、つい悪のりする。

「うっ! うう!」

 碧がお腹を押さえてうずくまる。

「古代大戦の呪いが…… この呪いさえなければ、すぐにでも呪術が使えるのに……」

 そう言う設定か、と麻美は妙に納得した。


 麻美は翡翠に会いにG組の教室に行った。翡翠は自分の机で友達とお喋りしていた。G組の碧に頼んで、翡翠を廊下まで連れて来てもらった。

 不機嫌のオーラを纏った翡翠が麻美を見下す。麻美は勢いよく頭を下げ、翡翠に謝った。

「ひーちゃん、ごめん」

 麻美は、フットサル部を存続させるには公式戦で一勝しなければいけないこと。四校対抗戦が最も勝利の可能性が高いと思ったこと。そのため、四校対抗戦の前の練習で厳しく怒鳴ってしまったことを話した。そして、聖心館戦のハーフタイムの時、翡翠の話に耳を貸さず、一方的に翡翠の提案を否定したことを謝った。

 静とのポジションチェンジを聞き入れなかったのは、チームで一番実力があるのは静であり、その静に攻撃を託すのが逆転の可能性が最も高いと考えたから、という理由を冷静に説明した。また、メンバーの希望を全て聞き入れていたらチームは成り立たない。意にそぐわないポジションになることもある。それは分かって欲しい、と伝えた。

「なんだよそれ、そういうことは早く言ってよ。ポジションのことだってちゃんと説明してくれれば納得するよ。私だって自分の希望が全部通るとは思てないんだからね」

 翡翠が麻美の頭を抱きかかえて髪の毛をくしゃくしゃにする。

「ちょっと、ひーちゃん、やめて。髪の毛がぼさぼさになっちゃう」

 麻美は翡翠の拘束から逃れようと抵抗するが、翡翠は麻美の頭を離さない。

「まだまだ許さないぞ。これはおしおきだからな。一人で何でもかんでも抱え込んで、私たちはチームメイトじゃないのか」

「ひー、だから謝ってるじゃない、ごめんてば」

 おしおきが終わったのか翡翠が麻美の頭を離す。麻美は急いで廊下の窓ガラスの反射で自分の姿を確認する。

「やっぱりもじゃもじゃになってる」

 鳥の巣のように乱れた髪の毛を麻美は両手で寝かしつける。

「それで、これからどうすだよ、麻美」

「どうするって?」

 髪の毛をとかすのに忙しい麻美はうわの空で返事をする。

「おい、しっかりしてよ。冬の大会で勝つんでしょ。そのためにガンガン練習しないと」

 麻美は口と両目で三つの大きな○を作り、呆けた顔で翡翠を見る。

「練習てことは、フットサル部を辞めないでくれるの、ひーちゃん」

「当たり前だろ。勝たなきゃ廃部なんてシチュエーション、ドラマみたいで燃えるじゃん」

 翡翠が肩にかかっていたツインテールにした髪をかきあげる。

「絶対に冬の大会で勝つぞ。そのために、これからは麻美は一人で抱え込まない。何かあったら私達にも相談してよ」

「うん。もう何でもかんでも相談しちゃうよ。ひーちゃんがこんな姉御肌だったなんて知らなかったよ。愛してるよ」

 麻美はじゃれあうように翡翠に抱き着く。

「こうなることは全て分かっていました。マヤ節の予言通りですからね」

碧が嬉しそうに微笑み、独白した。


 放課後、麻美、碧、翡翠、珠子の四人は部室で練習用のユニホームに着替え、練習の準備をしていた。しかし、部活開始時間になっても静が現れなかった。

「しずちゃん、どうしたんだろう。今日は休みかな」

 麻美はバッグに入れていたスマートフォンを取り出す。Lineで静に、今日の部活は休み? とメッセージを送る。しかし、返信は無い。

「今日は用事でもあったのかな…… 時間だし、練習始めようか」

 麻美達は四人で練習を始めた。このときは誰も静が来ないことを気にしていなかった。


 翌日の昼休み。

 麻美は静に会うためE組の教室に来た。麻美は廊下から教室の出入り口近くの席にいる静を呼んだ。静が廊下に出てくる。

 静は無表情で麻美を見る。静は美人なのだが、整い過ぎていてどこか彫刻のような無機質で冷たい感じがある。今はその無機質感がより強く出ていて話しかけずらいものだったが、麻美は怯まず話しかけた。

「昨日、部活来なかったけど、どうしたの。体調悪かったのかな」

「連絡してなくてごめんなさい。フットサル部を辞めることにしたから」

 肩にかかった髪を背中に払いながら、静がさらりと言った。あまりに自然に言うので、麻美は聞き逃がしそうになった。だが、到底聞き逃せる内容では無い。

「えと、あの…… どういうこと。何で、フットサル部を辞めるの」

「勉強に集中することにしただけ」

 静が麻美に背中を向け、教室に戻る。

「ちょっと待って」

 麻美は静の腕を掴んで、廊下に引っ張り出す。

「辞めないで。しずちゃんが辞めるなんて…… そんなの嫌だよ。勉強時間が必要なら、部活に参加する日を減らしてもいいよ」

 静を引き留めようと麻美は必死にお願いする。しかし、静は表情一つ変えない。

「離してくれる」

 静は麻美の手を振り払う。

「何で、何でなの。私が練習中に怒鳴ってばっかりいるから? それなら直すから……」

 麻美の話を最後まで聞かずに、静は教室の中に入っていった。そして、扉を閉めた。

「しずちゃん……」

 麻美は閉じられた扉を見つめる。扉には鍵がかかっているわけではない、開けようと思えば開けられる。しかし、静の強烈な拒絶はいかなる鍵よりも強力に、麻美に扉を開けさせるのを躊躇させた。

 なんで…… 辞めるの……

 悲しみを抱きながら麻美は、とぼとぼと、自分の教室へ戻った。


 放課後、部室に麻美、碧、翡翠、珠子が集まった。麻美は静が部活を辞めると言ったことを、皆に伝えた。

「どうしよう、しずちゃんが辞めるなんて……」

 麻美は椅子に座り、しょげる。練習用のユニホームに着替え、髪の毛もポニーテールにして練習の準備はしたが、練習を始める気力が湧いてこない。

「どうしようも、こうしようも無いだろ。静を連れ戻そう。それしかないでしょ」

 すぐに翡翠が言った。

「連れ戻すには、佐々木さんが辞めると言い出した理由を知る必要がありますね」

 冷静に碧が指摘する。

「四校対抗戦の前、麻美が怒鳴ってばかりいたから嫌になったんじゃないか。それなら、麻美が直すってことで解決でしょ」

 いいアイディアだと言わんばかりに、翡翠は明るい表情になる。

「そのことは直すって言ったんだよ。でも聞いてもらえなかった」

 麻美はますますしょげて下を向く。

「佐々木さんはフットサル経験者ですから、試合に勝つために注意が厳しくなることには耐性があるでしょう。それに、美浦さんは佐々木さんにはフットサル部の事情を話したのですよね。だったら、美浦さんが怒鳴ったり注意が厳しくなることも理解できたはずです。つまり、原因は別にあると考えられます」

 碧が数学の証明問題を説明するような口調で話す。

「あ、あの…… 本当に、勉強に集中する気になったと言うのは……」

 珠子が小さな声で意見を言った。引っ込み思案の珠子にしては珍しいことだった。ゆっくりではあるが、フットサル部のメンバーに慣れてきたのだろう。

 麻美も翡翠も碧も無言で考え込む。珠子の声を無視したわけではない。三人とも、勉強という理由が本当かどうか判断する材料を持っていないのだ。

「ここでうだうだ考えても埒が明かないな。静から聞き出すのが一番早いよね」

 考えるのに飽きたのか翡翠が彼女らしい決断を下す。翡翠はロッカーに入れたスクールバッグからスマートフォンを取り出して、静に電話する。何回か電話をかけなおす翡翠だったが、小さく舌打ちしてスマートフォンを耳から離す。

「静のやつ全然でない。居留守かな」

「まあ、かなりの確率で居留守でしょうね。今日はもう帰っているかもしれません。明日の昼休みにE組の教室に行くのが良いと思います」

 碧が冷静に考察する。

「じゃあ、明日の昼休、皆で静をとっ捕まえに行こう」

「……うん。そうだね。明日、もう一度しずちゃんと話をしよう」

 萎えてしまいがちな気力を振り絞り、麻美は椅子から立ち上がる。

「練習しよう。冬の大会に向けてやらなくちゃいけないことは沢山あるから」

 四校対抗戦が終わり、体育を使えるようになった。しかし、久しぶりのコートを使った練習なのに、静がいないせいか活気に欠けていた。


 麻美達の練習を体育館の入口から見ている者達がいた。男子バスケ部と女子バレー部の顧問をしている、体育教師の駒田と田辺だ。

「まったく活気がありませんな。人数も四人しかいないし」

「四校対抗戦で全敗したことが尾を引いているのでしょう」

 駒田と田辺はくっくっく、と喉をならして悦に入る。

「これも、体育館を使わせず、精神的にも揺さぶり、試合の前にがたがたにするという田辺先生の作戦のおかげ。御見それいたしました」

 駒田は両手を合わせて田辺を拝む。

「大したことではありませんわ。高校生の子供を手玉に取るくらい、わけないことですよ」

 謙遜する田辺だが、まんざらでもないようだ。

「この調子なら、もう冬の大会は放っておいても勝手に負けてくれるでしょう」

「おっしゃる通り。我々はバスケ部と女子バレー部のことに集中しましょう」

 希望通りの展開になり、駒田と田辺は目を爛々と輝かせ、体育職員室へと戻っていった。この日を境に駒田と田辺は女子フットサル部の監視をしなくなった。


 翌日の金曜日は朝から雨だった。

 午前中の授業が終わり静に会いに行く昼休みがきた。麻美は急いでお弁当を食べ、待ち合わせ時間丁度にE組の教室前の廊下に来た。既に珠子がいた。数分後、碧と翡翠も来た。

 開いている扉から教室の中を見る。静は自分の机でお弁当を食べていた。静を呼ぼうとした麻美だが、昨日、静に拒絶されたことが脳裏に浮かび躊躇する。

「静を連れてくる」

 微塵の遠慮もなく翡翠はE組に入って行った。こういう時の翡翠の行動力は頼りになる。

 翡翠が静を連れて廊下に出てくる。

「そろいも揃って、何か用?」

 静が麻美達を一瞥する。昨日と同じ冷たい視線が突き刺さる。

「何か用、じゃないだろ。静がフットサル部を辞めるって言うから、皆集まってるんだよ」

「暇ね」

 静の言い方と内容が癇に障ったのか翡翠が声を荒げる。

「あのな、そういう言い方はないでしょ」

「神宮さん、落ち着いてください。話がややこしくなります」

 碧が静と翡翠の間に割って入り、静を黙らせる。

「佐々木さんがフットサル部を辞めるのは自由です。しかし、皆あなたに辞めて欲しくないと思っています」

「私の自由なら、好きに辞めていいわけでしょ」

 静の答えには取り付く島も無い。

「いつまでも、ツンツンしてんなよ。何で辞めるのか洗いざらい喋って、それで仲直りして、今日から部活に戻ってきなさいよ」

 翡翠が背後から静の脇腹をくすぐる。誰もが、静が大笑いすると思った。しかし、静は全く表情を変えず、ゆっくりと振り返り絶対零度の軽蔑の視線で翡翠を貫く。

「…… ごめん……」

 静の無言の圧力に負け、翡翠はすごすごと引き下がる。

「くだらない用しかないなら戻るから」

 静が教室に帰ろうとする。

「あ、あ、あの……」

 珠子が静を止めようとする。引っ込み思案の彼女にしては勇気を振り絞った行動だった。しかし、静に射竦めれ、珠子は体を小さくして委縮する。

「ご…… ごめんなさい」

 珠子は涙目になりながら、麻美の背中へと姿を隠す。その珠子を追うように静が視線を動かす。そして、麻美と視線がぶつかる。麻美は静の冷たい視線を正面から受け止める。

「しずちゃん…… なんで、辞めるなんて言い出したの」

 静が辞める理由。それを麻美は一番知りたかった。

「昨日言ったでしょ。勉強に集中することにしたの。高校入学するときから決めてた」

「そんなの嘘だよ。ついこの前まで部活やってたんだから。本当の理由を教えて」

 麻美は瞳に力を込めて、挑むように静の大きな瞳を見つめる。

「私はしずちゃんと一緒にフットサルしたいよ。しずちゃんと一緒にプレーするのが楽しいんだよ。だから辞めないで」

 静が麻美に近づく。背の高い静が少しかがみ、麻美の耳に口を寄せる。静が麻美にだけ聞こえる声で囁いた。麻美が目を見開く。大きな驚きに襲われたのだ。

 私は麻美とプレーしても楽しくない。麻美のこと嫌いだから。

 静はそう言ったのだ。

 静が麻美から離れ、教室に戻る。総玉砕した麻美達は誰も静を呼び止められなかった。


 放課後。麻美、翡翠、碧、珠子は部室に集まり、静のことについて話していた。

雨はやむことなく降り続いている。外での練習ができないので、体育館が使えるようになる十七時三十分まで部室で待機することにした。

「静のやつ、いじけてるっていうか、意固地になってる感じじゃなかった」

 ツインテールにした髪の片方の先端をいじりながら翡翠が発言する。

「…… 怒ってたと…… 思います」

 静に受けた無言のプレッシャーを思い出したのか、珠子が身震いする。

「怒って意固地になる、というのはよくあることだと思います。それよりも、問題は何故、佐々木さんが辞めると言い出したかでしょう」

 碧が麻美を見る。

「美浦さんはどう思いますか」

 碧に質問されても、麻美は椅子に座ったまま足下を見つめていた。

「美浦さん」

 碧がもう一度麻美を呼ぶ。

「えっ、あ、何?」

 やっと気づいた麻美は碧を見る。

「おいおい、麻美、しっかりしてよ。もしかして、静に何か変なこと言われたの?」

「ううん、変なことなんて何もないよ」

 麻美は否定したが、本当は静に、嫌い、と言われたことをずっと悩んでいた。麻美は静かに嫌われているなんて夢にも思っていなかった。嫌われる理由も全然思いつかない。

「しずちゃんは、私が嫌いで辞めたのかな」

 思い悩んでいたことが口をついて出た。麻美の言葉に碧が反応する。

「その可能性を完全に否定はできません。しかし、私は違うと思います。何故なら、佐々木さんはフットサル部を辞めることを、高校入学するときから決めてた、と言っていました。入学時ということは、中学校の時に何かあったのではないでしょうか」

「中学校か…… そう言えば、しずちゃん、中学校のこと全然話してくれなかったな」

 部活の帰り道。麻美が静に中学校の頃のことを聞いても、いつもはぐらかされていた。

「静と同じ中学校から来た人に聞けば何か分かるんじゃない。静の出身中学はどこなの」

 翡翠が麻美を見る。

「静ちゃんの出身校は森山中だよ」

「森山中か…… 私の知り合いにはそこ出身の人はいないな」

「私もいませんね」

 翡翠と碧が順に答える。麻美も静以外に森山中出身の人を知らない。

「あっ……」

 麻美の頭に一人、該当者が浮かんだ。その人なら静の中学時代をよく知っているはずだ。 「私、心当たりがある。明日聞いてくる」

 静がフットサル部を辞める理由が分かるかもしれない。理由が分かれば引き留められるかもしれない。そうポジティブに考えると少し元気が出てきた。

「ようし、なんかやる気が出てきたよ」

 麻美は勢いよく椅子から立ち上がる。

「雨だからって、体育館が使えるまでじっと待ってなんていられないよ。校内の階段で駆け上がりと駆け下りをしよう。体力トレーニングだよ」

「えー ただ走るだけなんてつまらなくない」

 翡翠が文句を垂れる。

「ゴレイロはそこまで体力は必要ありません。私はタイムキーパーか応援をしましょうか」

 碧は理屈をこねて体力トレーニングを回避しようとする。

「わ、私は……」

 珠子はおろおろ、翡翠と碧を見る。体力トレーニングは嫌なのだろうが、上手く逃げる言い訳が思いつかないようだ。

「何言ってるの。体力は全てのプレーの土台なんだから全員でみっちりやるよ」

 麻美は嫌がる三人を引き連れ、校内にある階段へと向かった。


 土曜日は午前中で授業が終わる。麻美は教室で友達とお喋りしながら時間をつぶし、十四時少し前に学校を出て聖心館に向かった。四校対抗戦の時、静に同じ森山中出身の友達として紹介された高木美和に会うためだ。

 十五時少し過ぎに麻美は聖心館に着いた。ネットで、聖心館のフットサル部が土曜日も練習していることは調べていて、終わるのは十五時頃だろうとあたりをつけてきたのだ。

 学校の校門からは断続的に聖心館の学生が出入りしている。聖心館は女子校なので出入りしているのも女子学生ばかりだ。校門の前で少し待っていると、お喋りしながら数人の女子学生が出てきた。その中に美和がいた。

「高木さん」

 麻美は美和の苗字を呼んだ。美和がお喋りと歩みを止めて振り返った。

「あなた…… 桜川高校の」

 集団の中から前に出てきた美和が麻美を見る。美和も麻美を覚えていたようだ。

「桜川高校フットサル部の美浦です」

 麻美は会釈した。

「お話したいことがあるんですけど、今、時間ありませんか」

「話って、何?」

「佐々木さんのことです」

 静の名前を出した途端、美和の表情が変わった。

「静のこと…… 分かった。いいよ」

 美和は聖心館の友人達に先に帰ってて、と言って麻美に近づいてくる。

「中にベンチがあるから、そこで話そう」

 美和が学校の敷地に戻る。麻美も美和について正門を通る。

 校舎が陰になって正門からは見えなかったが、入ってすぐのところに中庭があり、そこにいくつか横長のベンチがあった。麻美達は空いているベンチに並んで座る。

「で、静がどうしたの」

 麻美は美和に静がフットサル部を辞めると言い出したこと。その理由が中学時代にあるのではないか、と考えていることを話した。

「なるほど。まったく静からしいよ。静はね、問題が起きると投げ出して逃げる自分勝手な性格なんだよ。中学でもそうだったけど高校でも治ってないってわけだ。この先、何かあったら、きっとまた逃げ出すよ。だから、無理して引き留めることないんじゃない」

 美和が冷笑する。それは静に向けられたものだ。

「しずちゃんは…… 佐々木さんは自分勝手な性格なんかじゃないです。問題を投げ出して逃げ出したとしても、それには何か理由があったんだと思います」

 美和さんがしずちゃんを貶すなら、私がしずちゃんを守ってやる、という意気込みで麻美は美和を見る。

「中学校のとき、何があったのかを教えてください」

 麻美の気合いが伝わったのか、美和の表情が少し和らいだように見えた。

「静も随分と信頼されたもんだね。まあいいや、中学の時、静はね……」

 美和が中学時代のことを語りだした。


                    ※


 二十二時を過ぎた頃。

 お風呂から出た静は自分の部屋の一人用のソファに座り、テレビを見ていた。静の両親は弁護士で法律事務所に勤めている。父も母も仕事を生き甲斐としていて土日も資料や書類を作成している。今もリビングでは二人が判例について議論している。両親の邪魔にならないようにお風呂上がりはいつも静は自分の部屋にいる。

 何となく見ていたニュースの特集でフットサルが取り上げられていた。それも高校生のフットサルだ。

 可愛過ぎる女子高校生フットサル選手、というテロップが画面に流れた。嫌な予感がしたが、怖いもの見たさで静はあえてチャンネルを変えなかった。

 テレビには予想通り、九条麗華の姿が映された。試合や練習の様子が編集されて流れる。映像の合間に、小学生の大会で優勝を総なめにし中学では全国大会三連覇、高校でも強豪の星見台女子学院で一年生にしてチームの主力として活躍、という豪華絢爛な経歴が説明された。

 桜川高校のフットサル部で都大会準優勝の経歴は完全に抹消されていた。一般的には恥ずかしい記録ではないだろうが、麗華ともなれば抹消すべき汚点なのだろう。

 特集の最後、ユニホーム姿の麗華が短いインタビューを受けていた。女優の母親譲りの美貌は健在で飾り気のないユニホーム姿でも麗華は輝いていた。

「皆で頑張って、チームを全国優勝させたいです」

 高校生らしい爽やかな表情で麗華は意気込みを語っていた。そういうキャラクターが世間受けすると計算してやっている演技だ、と静は思っていた。すくなくても、中学時代試合で対戦した麗華はこんな爽やかなだけの人ではなかった。勝利への執着が非常に強く、勝利の為なら冷徹にも残酷にもなる人だった。

 レポーターが一年生の間に全国優勝できたらいいですね、と言った。

「できたら凄いと思います」

 麗華は完璧な笑顔で答えた。この映像を見て全国にファンが急増したことだろう。

「優勝でも何でも勝手にしなさい」

 静はリモコンを取ってテレビを消す。不快な気分になってきた。

 ちょっと思いついたことがあり、静は部屋にある姿見の前に立ち、笑ってみる。麗華の完璧な笑顔を真似しているのだ。だが、あまりというか、かなりうまくいっていない。無理に笑おうとして顔が左右非対称に歪んでいる。作り笑顔はどうも苦手なのだ。

「ふん、馬鹿らしい」

 上手くできないので静は鏡に当たり散らしてソファに戻る。ふと、麻美の笑顔を思い出した。麻美は、喜んだ時に本当に嬉しそう笑う。

 麻美と麗華の容姿を比較すると、麻美には悪いが、圧倒的大差で麗華の勝利だ。だが、麻美の喜んだ時の自然な笑顔は、麗華の作った完璧な笑顔よりも魅力的だ。

 麻美のことを考えていたら、フットサル部を辞めた後悔と罪悪感がこみあげてきた。

「中学校の時と同じだな……」

 静は首を横に九十度回転させて、棚の上においてあるコルクボードを見る。コルクボードには数枚の写真が張られている。その中に、森山中フットサル部の集合写真がある。静が中学一年の時、地区大会で準優勝した記念に部員全員で撮ったものだ。後ろの列の左端に静がいて、横には美和がいた。美和は満面の笑みを浮かべているが、静は澄ました顔をしている。昔から笑顔を作るのが苦手なのだ。

 二年生の先輩がいて…… 美和がいて…… あの頃が一番楽しかった、と静は思った。

 静はソファから立ち上がり、勉強机の本棚に置いてある中学校の卒業アルバムを取る。各部の集合写真が載っているページを開き、女子フットサル部の写真を見る。静は後ろの端にいた。しかし、静の隣に美和はいない。美和は前列の中央付近にいた。

 静は、ふっ、と自嘲の笑いをもらした。

「本当に、何も変わってないな、私って……」


                    ※


 森山中学に入学した静は、小学生の時からやっていたフットサルを続ける為、女子フットサル部に入った。そこで美和と出会った。

 才能があり、フットサル経験豊富な静は入部してすぐにレギュラーになった。夏休みに行われた地区の大会では、二、三年生の先輩達と試合に出て準々決勝まで進んだ。

 夏の大会で三年生が引退し、一、二年生の新チームになった。静は一年生ながらチームのエースになっていた。静の他にも美和や他の一年生も試合に出るようになった。

 美和とは相性が合い、フットサル部の中でも一番の親友になった。プレーでも美和からパスを受けて静がゴールを決めることが多かった。

 冬の地区大会では、静と美和コンビの活躍で決勝まで進んだ。決勝では麗華がいる聖アンドレ学園に大敗したが、準優勝は森山中フットサル部創部以来、初のことだったので全員その成績に満足していた。静の部屋のコルクボードに張られた写真はこのとき撮られたものだ。


 春が来て、静達は二年生になった。新たに入部した一年生を加え、三年生の先輩達との最後の大会となる夏の地区大会に出場した。

 冬の大会に引き続き好成績が期待されたが、二回戦で麗華のいる聖アンドレ学園と当たってしまった。結果、十二対一の大差で負けた。森山中の一点は試合終了間際に、美和からのパスを受けた静が麗華を抜いて決めたゴールだった。大差の敗戦だったので、たった一点取ったところで意味は無いと静は思っていた。しかし、プライドの高い麗華は違った。試合で大勝しても自分が抜かれてゴールを決められたことを屈辱に感じ、静に恨みを抱いていたのだ。

 三年生の先輩たちが引退して、二年生の静達の代がチームの中心になった。静を部長に推す声が二年生からも一年生からも大きかった。特に美和が静を推していた。しかし、静は、自分は部長という柄ではないと思っていたので辞退した。部長には他の二年生が着いた。

 静を推していた美和は不服そうだったが、静が自分は部長には向いていないと話して納得させた。その時、美和が、部長の代わりにエースとして頑張ってよ、と言った。美和に言われるまでもなく頑張るつもりだったので静は、絶対に頑張る、と約束した。

 静達の代になって初めての練習試合の日が来た。前日の夜、静は自分が点を取ってチームを引っ張らなくちゃ、と気合いを入れて、いつもよりも早めに寝た。

 翌日。変に気合いを入れ過ぎたせいか、朝からどこか変な感じがした。それでも、試合は静が五ゴールをあげ、大勝した。体の重さは感じていたが、プレーに大きな支障はなかった。ただ、ゴレイロとの一対一のチャンスで三回もシュートを失敗した。

 試合に大差で勝利したので誰も静のミスを気にしなかった。だが、静は気にしていた。

「あんなミスをしていてはエースになんてなれない。もっともっと頑張らなくちゃ」

 夜、ベッドに入った静はそう呟いて、目を閉じた。

 その日以降、練習試合の度に静は体が重くなるのを感じていた。最初はプレーに支障がない程度だが、日増しに体の異変は悪化した。体の重さに加え、頭痛もするようになった。その頃から、以前なら簡単にできたことができなくなり、ミスを多発した。

 チームメイト達も静の異変に気付き始めた。美和をはじめとして皆が励ましてくれた。静はチームメイトの励ましに勇気づけられ、もっと頑張らなくちゃと思った。

 もっと頑張らなくてはと思い、静は頑張った。練習は人一倍やったし、試合の時は前日の夜から気合を入れ、体調管理にも気をつけた。しかし、静の不調は改善されなかった。

 試合では不調の静だったが、練習では試合の不調が嘘のように良いプレーができた。練習でのプレーの良さと、今までの実績も考慮され、静は冬の地区大会にはレギュラーとして出場した。

 一回戦は格下が相手だった。しかし、静の絶不調のせいで思わぬ苦戦を強いられた。

 静はドリブルをしても相手を抜けず、パスを出してもカットされ、シュートを打てばゴールを外した。〇対〇で折り返した後半、静はベンチに下がった。静がいないチームは三点を取り勝利した。静がいない方がチームは調子が良かった。

 二回戦まで時間があり、静達は他の中学の試合を見ていた。皆が集まってワイワイ話しながら試合を見ている中、静は皆から離れ、一人で試合を見ていた。

 静の横に美和が来て座った。

「静か、動きが堅いよ。本当にどうしたの?」

「……わからない…… 全然体が動かなくて……」

 静にも不調の原因は分からない。でも、とにかく体が重くて思うように動かないのだ。

「下山先生が、二回戦は静を先発から外すって言ってた」

 下山はフットサル部の顧問をやっている体育の女子教師だ。

「うん……」 

一回戦の結果を見る限り、それが正しいと思う。でも、凄く悲しい。

「でも、絶対に交代のチャンスは来るから、その時は一発頼むよ。いいパス出すからさ」

 美和が静の背中を軽く叩いて、笑う。その笑顔につられて静も微笑んだ。

「うん。美和からのパスは外さないよ」

 美和と二、三言、話しただけなのに、気持ちが軽くなった気がした。

 二回戦。静抜きの森山中は試合を優勢に進め、前半を三対一で折り返した。後半も順調に得点を重ね、五対一にした。勝利が確定的になり、静にも出場の機会がきた。

 ベンチからコートに入った静は真っ先に右サイドにいる美和を見た。美和と視線が重なる。美和が笑って小さく頷いた。パス出すから、と美和の表情が語っていた。

 静が出て三分後、ゴール前に走り込む静に美和からタイミングバッチリのパスが来た。静が絶不調にも関わらず、美和はパスをくれた。それは美和の静への信頼の証だ。

 このパスだけは絶対に外せない。

 静は無我夢中にシュートした。ボールはゴール左隅に見事に決まった。

 このゴールで静は何かが吹っ切れた気がした。あれほど重いと思っていた体も嘘のように軽くなった。数か月ぶりに調子を取り戻した静はさらにもう一点取った。長く暗いトンネルをやっと抜けた感じがしていた。

 森山中は二回戦を一回戦以上の大差で勝利した。

 準々決勝となる三回戦の相手は麗華のいる聖アンドレア学園だった。

 二回戦で復調した静は先発出場した。左のアラのポジションの静は右のアラのポジションの麗華とマッチアップした。

 開始早々、静は相手ゴール前でパスを受けた。前には麗華がいるが、その後ろにはゴレイロしかいない。チャンス、と判断して静はドリブルで麗華に勝負を仕掛けた。

 麗華を完全に抜くことはできなかったが、上手く横にかわしてシュートを打てた。シュートはゴールの横に外れたが惜しいプレーだった。その後も、静は麗華という圧倒的強者を相手に、もう少しでゴールという惜しいプレーを連発した。

 静の好プレーもあり、前半の半分が終わっても試合は〇対〇と、王者である聖アンドレア学院を相手に森山中は大健闘していた。

 麗華を相手に対等に渡り合う静に、森山中の選手は麗華に勝ってと願い、パスを送る。静も仲間の想いを背負い、果敢に麗華に挑む。選手全員が全力を出して戦う、実力伯仲の素晴らしい試合だった、一見。

 前半の終わり際、 ゴール前に走り込む静に美和からパスが来る。前には麗華がいる。麗華を抜けばゴレイロと一対一になる。この試合で何度も繰り返してきた状況だ。

 静はフェイントを入れながら、麗華を抜くタイミングを探す。しかし、麗華には隙が無い。そこで、静は素早くボールを横に動かし、シュートコースを作ろうとする。今までこの動きに麗華はついてこなかった。だからシュートする隙があった。だが、今回は違った。静の動きに麗華がついて来た。

 あっ!? と静が思ったときには、麗華にボールを奪われていた。そのまま麗華はドリブルで森山中の選手を抜き、ゴールを決めた。そして、前半が終わった。

 一点を失ったが、点差だけを見れば森山中の空前の健闘だった。静もシュートは打てているんだから、もっと自分が頑張れば後半絶対に点が取れると思っていた。

森山中は、後半の攻撃も前半以上に静かにボールを集めることにした。

 後半が始まり、すぐに静にパスが入った。静は前半以上にキレのあるフェイントで麗華を抜こうとする。しかし、あっさり麗華にボールを取られた。麗華は前線の仲間にパスを出す。パスを受けた子がしっかりシュートを決めた。

 しまった…… 簡単に取られ過ぎた。もっとボールを大事にしなきゃ。

 静は、自分のプレーが元で取られた失点を悔やむ。

 失点した森山中だったが、前半のように麗華をかわしてシュートするプレーを期待して、静にボールを集める。しかし、前半のようにはいかなかった。

 静かにボールが入る。静が麗華にドリブルで勝負を挑むが、抜くことも、かわしてシュートすることもできず、麗華にボールを奪われ、カウンターで失点する。そのパターンを繰り返し、いつの間にか四対〇と点差は開いた。

 負けが濃厚になり、静は焦る。明らかに自分が麗華にボールを取られることが原因で失点している。体調もよくなり、チームの役に立てると思ったのに、これではチームのお荷物のままだ。そんなのは嫌だ。美和と約束したのだ。エースとして頑張ると。その約束を守るには麗華を抜いて点を取り返すしかない。

 静はボールを持つ度に、しゃにむに麗華に勝負を挑んだ。負けても何度も何度も挑んだ。しかし結果は、麗華にボールを奪われ、逆襲され、失点する、というものだった。

「静、もっとパス回して!」

 美和の声で静は我に返る。静はコート横にある得点板を見る。七対〇だった。

静は愕然となる。私が頑張らないと、と思って全力を尽くした結果、大差がついていた。麗華に負ければ負けるほど熱くなり、周りが見えなくなり、得点すら見ていなかった。

 私…… なんてことをしたんだ……

 顔面蒼白になり、立ち尽くす静に麗華が話しかけてきた。

「パブロフの犬って知ってる。ベルを鳴らして食事をあげるの。それを繰り返すとベルを聞いただけで、犬は条件反射で唾液を出すようになるんだって。あなた達も同じね」

 麗華が笑った。悪魔が笑ったように見えた。

 静の頭に一つの仮説が浮かんだ。

 前半、麗華が手を抜き、静に活躍させる。静を含む森山中の全員が、もしかして静が麗華に勝つかもしれないと希望持つ。後半、静にボールが集まる。そこで、麗華が本気になり静からボールを奪い、点を取る。何度静が麗華に負けても、前半の印象が残っているため、考え無しに森山中は静かにボールを集める。それが間違えだと分かったときには、大差がついている。

「前半はわざと……」

 唇が震え、それ以上言葉にならなかった。

 わざと手を抜き、静に活躍させる。それも、シュートが入らないようにうまく調整して。そんな芸当ができるのだろうか……? 小学生が相手なら静にもできるかもしれない。つまり、麗華と静の間には、それくらいの実力差があるということになる。

「ふふ。夏の大会のお返しよ」

 麗華は完璧な笑顔を作る。

 試合は八対〇で静達の敗北で終わった。

 試合後、顧問の教師の話を聞き、静達は更衣室として用意された教室に移動した。

「負けたのは、あんたのせいだよ! 自分勝手なプレーばかりして!」

 更衣室に入り顧問の教師の目が無くなった途端、キャプテンの子が怒声を浴びせてきた。

「そうだよ。馬鹿みたいに一人でドリブルでつっかけて、何考えてんの」

 他の子も静を責めてくる。

「ごめん……」

 静かにボールを集め、そこから攻撃していく、というのはチームで決めた作戦だ。顧問の教師やキャプテンから、作戦変更の指示は出ていない。だから、静が何でもかんでも自分勝手にやっていたわけではない。しかし、頑張らなければと思うあまり、冷静さを失い独り相撲を取ったのは事実だ。だから、静は何も言い訳しなかった。

「やめなよ。負けたのは静だけのせいじゃないでしょ」

 美和が静を庇う。しかし、そう言ってくれるのは美和だけだった。心が折れそうな大差の敗北を受け入れるために、誰もが自分では無く他人のせいにしたかったのだ。

 冬の地区大会の後、静は今まで以上に調子を落としていた。練習では持てる力を十分に発揮できるのに、試合になると体が重くなり酷い頭痛がして、半分の力も出せない。

 静の練習と試合のプレーの落差に部員たちは、練習は超一流だけど試合では三流、と静を揶揄するようになった。レギュラーからも完全に外れ、チームのエースという目標からは程遠い存在になっていた。この頃になり、やっと静にも不調の原因が分かってきた。

 プレッシャーだ。

 エースとして頑張らなくてはならないという強すぎる思い込みと、生来の責任感の強さから、シュートを決められなかったらどうしよう、パスを失敗したらどうしよう、エースとして相応しいプレーが出来なかったらどうしよう、とミスを恐れた。その恐れがプレッシャーとなり、蜘蛛の巣の如く静をがんじがらめにしていたのだ。

 春が来て静達は三年生になった。

 静達三年生の最後の大会となる夏の大会直前に二年生のレギュラーの子が怪我をした。この為、レギュラーから外れていた静が、急遽レギュラーに抜擢された。

表立っては口にしなかったが、部員たちは全員、静で大丈夫か、と陰では言っていた。ただ一人、美和だけは静がレギュラーになったことを自分のことのように喜んだ。そして、パス出すから前みたいに決めてよ、と笑って静に言ってきた。美和はずっと静かに期待していたのだ。静が不調の時も、レギュラーから外れた時も、ずっと。

 美和の期待は静にもよく分かった。しかし、その期待こそがプレッシャーだった。頑張るよ、と美和には言ったが、昔の活躍していた時のプレーができる自信は静に無かった。  

 夏の大会の初戦が近づくにつれ、静の体は重くなり、頭痛が始まった。今までの中で一番ひどい。こんな状態で美和の期待に応えられるはずがない、と静は苦悩した。美和の期待を裏切ることが何よりも怖かった。

 夏の大会当日。

 静はベッドから起き上がれなかった。何故か体に力が入らない。頭痛も酷い。プレッシャーでこんな状態になるものなのか、と自分が一番驚いた。

 静は夏の大会を休んだ。起き上がれないのだから、どうしようもない。

顧問の教師に母親から連絡は入れてもらった。顧問の教師は了解してくれたが、当日、急に休むという行為がどれほどチームに迷惑をかけるか静も分かっている。ベッドで横になっていた静は、自分の不甲斐なさとチームにかけた迷惑の大きさに押しつぶされていた。

 森山中は夏の大会の一回戦で格下の相手に負けた。

その日以降、静とフットサル部のメンバーとの間には大きな溝ができた。フットサル部のメンバーは静に、チームのことを考えない自分勝手なプレーと自分勝手な行動を取る厄介者という、レッテルを張った。もう、美和も静の味方をすることはなかった。

 大きなわだかまりを残して、静達三年生はフットサル部を引退した。

 静は高校ではフットサルはやらないことに決めた。プレッシャーに弱い自分では、またチームに迷惑をかけてしまうと思ったのだ。

 桜川高校に女子フットサル部が創部され、九条麗華が入部していることを知ったのは入学して数日経ってからだった。自分を深い谷底に落とした悪魔のような存在である麗華が活躍する姿なんて見たくなかったので、静はフットサル部には近づかなかった。

 ところが、生物の実験で帰りが遅くなった日、体育館の入口を横切った時、誰もいない体育館に出しっぱなしにされているフットサルボールを見つけた。

 麗華らスポーツ推薦組が転校したことは静も聞いていた。フットサル部は廃部になったと思い込んでいたので、体育で使ったボールをしまい忘れたのかな、と思った。

 フットサルボールを見たら、急に懐かしさがこみあげてきて、つい、体育館に入り、ボールに触れ、リフティングをした。そこで、麻美と出会った。

 麻美との変な一対一の勝負の末、静はフットサルをもう一度やってみようと決意した。その決意を後押ししたのは、麻美の、佐々木さんが一対一で負けたときには私が絶対にフォローするという言葉だった。

 プレッシャーに弱い静でも、上級生ががいた中学二年の初めまでは活躍できた。つまり、責任を負ってくれる人がいて、周りの助けがあれば実力を発揮できるのだ。部長やエースは無理でも、大きな責任を感じないで済む一部員としてなら伸び伸びプレーできる。

 麻美が助けてくれるなら、新生桜川高校フットサル部の力になれるかもしれない、と静は思った。だが、四校対抗戦の前、麻美は静に、チームの勝敗は静の双肩にかかっていると言ってきた。そして、エースとして頑張って、と。

 悪気は無かっただろうが、麻美の言葉はプレッシャーでしかなく静の調子は悪くなっていった。それでも、今度こそプレッシャーに負けないで頑張ろうと努力した。しかし、その努力は実を結ばず、四校対抗戦で活躍できず、チームも大敗した。

 帰りの電車の中で静は、また、チームの為に頑張れなかった、と自己嫌悪に陥っていた。 それでもフットサル部を辞めるつもりは無かった。麻美の言葉を聞くまでは。

 駅で静を呼び止めた麻美は、静はチームのエースなのだから責任を持ってくれないと駄目だ、といった。

 その通りかもしれない。しかし、エースの責任という重圧は、静には重すぎるのだ。

 麻美が、ミスしてもフォローする、と言ったからフットサル部に入ることを決意したのに、実際は全然フォローしてくれない。挙句、エースとして責任を持てと言ってくる。

 麻美に嘘をつかれ、裏切られた、と静は思わずにはいられなかった。

このままでは中学の時と同じようにチームに迷惑をかけしまう。だったら、傷が浅い内に縁を切った方が良いと思った。そして静は、フットサル部を辞めようと決めた。


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