終章

第74話 下駄の男、闇の塔を団十郎と見つめる

 ……カラン、コロン、カラン、コロン


 暮れなずむ荒川の土手に下駄の音が鳴り響く。

 長い影を眼で追って行くと、そこには一人の男が一升瓶を抱えて陽気な鼻声を唄いながら歩いているのが見える。


 遠くで子供の騒ぎ声が聞こえる。小学生が虫取り網を振り回しながら土手の上を駆け回っている。少年はトンボを捕まえようとしているが、要領を得ない。見かねたもう一人の少年が、自分にやらせてみろと手を伸ばすが、まるで言うことを聞こうとしない。


「お兄ちゃん、ばっかりズルい!」

 どうやら二人は兄弟のようだ。下駄の男は夕陽で赤く燃えた空と、静かに流れる川、そして人の営みを見つめながら、屈託のない笑顔を浮かべている。


 不意に草むらから黒い影が姿を現す。

「おう、団十郎よ、来たかよ」

 団十郎と呼ばれたその猫は、野良猫ではあるが見る物をうならせる佇まい――男らしいい、勇ましい、潔いといった言葉を連想させるほどに、独特の存在感を漂わせている。


「かっ、かっ、かっ、お前さんでもああいう子供は苦手かよ」

 いつもであれば草むらに身をひそめたりするような猫ではない。それを下駄の男は笑ったのである。


 低く唸るような声で抗議をした団十郎は、下駄の男の足元にごろんと転がり、挨拶をすると、すっと立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。団十郎の足の運びはともすれば土佐犬のような大型の犬を彷彿させる勇ましさではあるのだが、身体そのものは他の猫と大きく変わることはない。

 ただひとつひとつの部位――足先、足の付け根、腰、しっぽ、顔や目鼻だし、そして耳の質感に至るまで、線が太いのである。


 団十郎は少し歩くと立ち止まり、大きなあくびをすると、下駄の男を振り向いた。


 団十郎の向こう側に、黒くそびえ立つ塔が見える。


「お勤めご苦労じゃな。一杯付き合え」

 下駄の男に促されるように土手をやや下り、下駄の男が腰かけたその傍らに寄りそうでもなく、従うのでもなく、影の大きさは違えど、対等の関係――男と男のつきあいである。


 下駄の男は懐からイカの燻製やピーナッツといった渇きものと猫缶を取り出し、団十郎に振舞う。

「お前がいてくれるおかげで、ワシはあれこれ他のことにも手や足を突っ込むことができておる。遠慮せずにやってくれ。払いは心配するな。このまえ後藤に馳走になったからな。その御裾わけじゃよ」


 笠井町海浜公園での一件は、落着と言うわけではなかったが、坂口姉妹の魂は救われ、外法――厭魅(えんみ)によって、人の命を奪った符術師、狩野紫明の動きも一時的ではあるが封じることができた。


「これで、本当によかったのでしょうかね? 後藤さん」

 鳴門刑事は率直な疑問を酒の力を借りてぶつけてみた。

「法によって裁けない犯罪を、法の外で裁いたところで、それはやはり法治国家における警察がやることではないのさ。マスター、お替りを」

 後藤はバーボンをスコッチに変えて三杯目になる。バーボンはロックで、スコッチはストレートで飲むのが後藤の流儀だ。


 狩野紫明と対決したその夜、後藤は下駄のと男にせがまれるまま、数軒スナックをはしごした後、エメラルドバーに立ち寄った。謎の少女のことも気になってはいたが、下駄の男は終始はしゃぎまくり、落ち着いてまともな話ができる状態ではなかった。

「酒が不味くなる。つまらん話はせんでもらいたいのぉ」


「さっきまで、やりたい放題やってきたエロ爺に何を言われても聞く耳は持ちませんよ。まったく、よくもあんなことができるもんだ。歳を考えろっていうんだ」

 夜も深まり、いよいよ客はこの三人だけになったとき、不意にバーの扉の向こう側で物音がした。

「誰か覗いていたような……ちがうかな。一瞬扉が開いたように見えたんですが」

 鳴門刑事が席を立ちあがり、カウンターから足音を立てないようにゆっくりとドアに近づき、気配を探りながらゆっくりと静かにドアを開ける。


「おっ、おおっと」

 最初、漆黒の闇しか見えなかったのだが、足元に何かの気配を感じ、目を向けるとそこに一匹の猫がじっと鳴門刑事を見上げている。

「ね、猫が……」

「おう、団十郎か、どうした?」


 喉を鳴らしながら低い声で下駄の男の声に反応した団十郎の足元に、蝉の亡骸が転がっている。

「ほう、どうやら団十郎も、あの姉妹の魂を弔ってくれているようじゃのぉ」

 団十郎はもう一度、低く喉を鳴らして夜の街に姿を消して行った。


「あの猫と言い、謎の少女と言い、ここには不思議なものを引き付ける力があるんですかね。マスター?」

 後藤はマスターにも一杯飲むように進め、4人は闇に葬り去られた姉妹の魂に別れを告げた。

「あれ、この香りは……」

 そのとき、どこからともかく、人のかすかな気配を含んだ、やさしい香りが漂った。

「あの少女もまた、姉妹の魂が救われたことをよろこんでいるのかもしれんのぉ」



 彼らが鎮魂の酒を飲んでいる別の場所では、さらなる深い闇が渦巻いていた。

「アゲハよ、どうじゃ。蟲は、騒いでおるのか」

 しわがれた声が、闇に響く。

「はい、会長、蟲の音は、やはり秋の夜長、首尾よくこの街をはい回ってございます。もうじき、あちらこちらで、騒ぎになるかと」

 しわがれた声の主は、乾いた声で笑い、アゲハと呼ばれた女に近くに来るように手招きをした。

「お前は、今宵、どんな音色を聞かせてくれるのか、久しく女は味わっておらんでな。まぁ、ゆっくりとしていくがよい」


 二人の影が闇に重なる。


「にゃわーおん」

 団十郎が何かを威嚇するように大きな声で鳴いた。

「わかっておる。蟲が騒がしいのぉ」

 日はかげり、夜が来ようとしている。

「また、お主の力を借りることになるじゃろう。今日はその分の前渡しも含めて、ほれ、どんどんやってくれ」


 下駄の男と団十郎は闇の塔を見つめながら、次なる吉凶に備えていた。


『下駄の男』おわり


『闇の塔』(仮題)につづく

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下駄の男 めけめけ @meque_meque

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