エピローグ

召喚


 勢いよく自転車を漕ぐと、風が徹夜明けの頭には気持ちよかった。

 黒髪が後ろに流れるのを感じ、カチューシャが少しずれたような気がしたので、右手をハンドルから離してかけ直す。まだ朝早いので川沿いの道には誰もおらず、常識離れのスピードで走る私を注意する人はいない。

 ぐいぐいと自転車を加速させていき、大きく手を広げた。一身に風を受け、あまりの爽快感に何でもいいから叫びたいような気分になってくる。でもそんなことしたらまだ寝ている人の迷惑なのでやっぱりやめた。

 三丁目、と書いてある看板を右折して住宅街に入ると、そこにはレンガ作りのおしゃれな家が並んでいる。さすがにスピードを落として、音を立てないようにゆっくりと自転車を走らせる。それでも街路樹は私の自転車の風で葉を揺らし、落ち葉はタイヤを避けるように宙に舞う。

「ミアちゃん、今日も魔法の勉強かい?」

 いつもこの時間に道ばたの掃き掃除をしているおじさんに話しかけられたので、ブレーキを踏む。前に油を差したから気持ちよく自転車は止まった。

「はい、さっきまで勉強してました」

「また徹夜かぁ……つらくないの? 引っ越してきてからもう五年……くらい? ずっとそんな生活続けているけど……」

「いえ、好きなので」

「ふぅん……でもねぇ、今時魔法なんて古いよ、古い。これからは機械の時代だって。誰にでも使えるし、魔法よりもすごいパワーがある。残念だけど、魔法は廃れていくと思うよ」

 おじさんは禿げた頭をかきながら、苦笑する。私は自転車をこぎ始めながら、

「それでも、成し遂げたいことがあるので」

 と言った。

 しばらく漕いでから、小さめのレンガ作りの家につく。郵便ポストの隣に自転車を止め、私はバッグから鍵を取り出した。扉に差し込むと、カチャリ、と開く。

 家に入ってから、まず私は台所に行き、バッグの中から買ってきた食材を冷蔵庫に入れた。それから、二階の自室に行く。

 ベッドと机しかない質素な部屋。その唯一の机の上には拳くらいの黒い球体が載っている。

 私はその球――創命龍の宝玉を手に取る。色々な角度から見たり、魔力を送ったりしてみるけれど、やはり何も変わらず底なしの闇を内包しているだけだ。たぶん、もう力は失われている。

 宝玉を元の位置に戻して、私は台所に戻る。そして冷蔵庫から卵と牛乳を取り出して、ボウルに入れてかき混ぜた。その後、玉葱と鶏肉を取り出して、チキンライスを作る。

 フライパンに油をしいて、卵を注いだ。半熟を維持するために箸でかき混ぜるけど、なかなか焼けないのにじれったくなって火を強火にする。と、あっという間に卵は焦げ始めて、慌てて弱火にしてチキンライスを入れた。

 箸で卵を持ち上げて、チキンライスを包み込む……が、崩れる。十年間、挑戦してきたけれど、成功した試しがない。

 私はオムライスを皿に盛りつけてリビングに向かおうとし、やっぱりやめてとある部屋に向かった。

 中には家具が一切なく、装飾らしいものも一切ない、何もない部屋だ。一つだけ変わった点があるとすれば、床に古風な魔法陣が描かれていることくらいか。

 その魔法陣は、かつて私がある魔法のために組み上げた魔法陣だ。

「……いただきます」

 手を合わせて呟くと、私は焦げたオムライスをスプーンで口に運び始めた。言うまでもなくまずい。けれど、いつもに比べれば少しだけおいしいような気がした。

 今日は、私がこの世界に来てからちょうど五年目だ。そして、再び召喚魔法の研究を始めてから五年目でもある。

 長かった。とても、とても長かった。

 失った魔力を取り戻すのに二年かかり、魔法陣を組むのにもう一年かかった。生活するために働き続け、魔力の埋蔵量を増やすために学校にも通い続けた。それから残り二年は、毎日魔法陣で召喚の儀式を執り行った。

 魔法陣が起動したことは、なかった。

「…………」

 私は食べ終わった皿を床に叩きつける。その破片で尖っているものを手に取り、左手の手のひらを掻いた。

「…………よし」

 特に理由はない。

 一つも根拠はない。

 でも、今日なら、五年目の今日なら、どうしてか成功する気がした。

 窓からは朝日が差し込み、起き始めた鳥たちが歌っている。風は川の上を緩やかに流れ、それを横目に汽車は蒸気を上げながら走る。子供たちは笑い、大人はそれを見て笑う。

 この世界は、『彼女』を歓迎しているように思えた。

 魔法陣の真ん中に立ち、溢れ出てくる血を魔法陣に落とす。

 窓の隙間から、一匹の黒蝶が部屋に入ってくる。私の血が魔法陣に染みこみ、同化する。

 私は目を瞑り、今持ちうる魔力の全てを魔法陣に注ぎ込む。


 魔法陣に光が走った。












 「――ィ……。――リィ……――リ、リィ……」

 温かかった。懐かしい匂いがした。柔らかい感触に包まれていた。

 水の上を漂っているような、空にぽっかり浮かんでいるような、そんな気分だった。

 ずっと前にも、こんな感覚を経験したことがある。

 いつだっただろうか。

 あれは、そう。全ての終わりで、そして全ての始まりで。

「……――――こそ」

 愛しい人の声が呼んでいる。

「……―――うこそ」

 行かなくちゃ、行かなくちゃ、って。

「……――ようこそ」

 でも、もう少しこのままで……。

 優しく、ゆっくりと、光の先に引き上げられていって……。

 わたしは――。





 目を開けた。

 彼女が、そこにはいた。

 抱きしめられる。身体に温かいものが広がる。瞳から熱が溢れる。

 いつも無表情の彼女が、泣きながら、笑っている。

 鼻水混じりの声が、部屋に響いた。

「召喚、成功」





〈終〉

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ねぇ、リリィ、オムライス作ってよ 寂しい里 @samishiiri

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