15 訴え
やっとお客様が途切れて、晴夏はふうと一つ息をついた。
「まだぜんぜん……スムーズとは言えないわ。動く前に迷ってるでしょ? いちいち考えてるようじゃレジはやらせないわよ」
今日は珍しく祐希がレジにいて晴夏の動きをチェックしてくれたのだ。だがそれはすぐに打ち切られた。
「……はい。すいません」
「あのさ、いちいち謝るなって何度言ったら分かるの?」
「……すいません」
晴夏は力なく言葉を返す。掃除が終わって、残りの時間はレジの中で袋詰めをする。これ以上何をすればいいのか自分でも迷っていた。仕方なく、ただお客様が来たら商品を袋に入れる。お店にだれか入ってきたらお声かけをする。晴夏はもう1週間ほど、それだけを繰り返していた。
「じゃ麻白さん。スプーンを付けなきゃいけないものを全部言ってみて」
「はい。あ、あの……デザート、ヨーグルト。あと……あの、スープとか」
「ほら、あいまいじゃない。だからすぐに行動できないの」
「……」
晴夏はまたすいません、と言いそうになった。
「速達はいくら?」
「……」
「中華まん袋、ここになかったらどこ?」
「あ、それはえっと、この扉の中に……」
晴夏は急いで扉を開けて確かめようとしたが、それを待たずに祐希はさらに質問を浴びせた。
「じゃ、そこにもない場合はどこにある?」
「……分かりません」
「用度品で冷蔵保管してるものは何?」
「あ、えと、ソースと、ケチャップと……あと、おしょうゆもですか?」
「私が聞いてるのよ!」
テキストの内容はだいたい覚えたと思う。しかし改めて聞かれるとまだ分からないことだらけだ。というか……何が分かっていないのかが分からない。
「で、麻白さん。今私と話している間、何人お店に入ってきたと思うの?」
晴夏はそう言われて、今話している間まったく入店者のことを意識してなかったことに気付いた。もちろん祐希もお声かけはしてないのだが…………それは言い訳にはならない。祐希はあえてしなかったのだ。だれかほかの人がお声かけしてくれたら、それに続けて言うのはたやすいのだから。晴夏自身が入店者に気が付いて先にお声かけしなければ、出来ていることにはならない。
「……すいません」
また謝ってしまった。だが晴夏は今もう他に返す言葉が見つからなかった。
「相澤さーん」
相澤が呼ばれて代わりにレジに入る。
「謝るのが癖になる人って逃げてるだけなの。そういう人に限って、本当に謝るべきことに気が付かないの。その人は、ただ自分を慰めるために謝ってるだけなんだから」
祐希はいじけたように俯いている晴夏の背中にそれだけ言うとカウンターから出た。
「ひょえ~」
祐希がいなくなると相澤は瞳を見開きながら唇を突き出す。
「恐ぇー祐希さん……なんか祐希さんってハルにすっげ厳しくね? あんた何かやったの?」
晴夏は何も答えなかった。
「てかさあ、ハルなんでまだレジできないの? ほとんど毎日入ってるじゃん。てか週何回で希望出してんの? 多くね? でもさあ、私2日目くらいでもうレジやらされたよ? こんなんさあ、やってれば自然に覚えるじゃん。なんか祐希さんやばくね? ハル。これって」
いじめじゃない? と相澤は言わなかったが晴夏も内心そんな言葉が過った。
「でもハルが週5とか入ったら絶対誰か余るし」
晴夏が何も答えないので相澤はだんだん独り言のような言い方になった。それでもしゃべるのを止めはしない。
ひとりお客様が会計に来た。相澤がレジを捌き、晴夏は商品を袋に入れた。
「あした~」
相澤のぞんざいな言葉が聞こえた。晴夏は黙っていた。
「アタシさ、火曜と木曜はだいたい入りたいんだよね。あ、土日はいいからさ。ハル土日入りなよ、ね?」
「相澤さん、私ちょっと……部屋行ってきます」
晴夏は半ば無視するように相澤の顔も見ずに告げた。カウンターの扉から売り場に出てトイレに向かった。
晴夏はレジには戻らず『OFFICE』の扉から裏を回って事務所に入った。祐希はもう私服に着替えていて、いつもと同じように店長さんのそばに座って笑っている。
「おう、晴夏ちゃ~ん」
店長さんがいつもの調子で声をかけたが、晴夏は思い詰めたような責めるような表情。
「どうした? お腹すいた?」
「いえ……」
何も言わずに祐希の後ろに立っている晴夏に、店長さんはふうと軽い息を吐いた。そして祐希に目配せした。祐希がすました顔で振り返った。
「じゃ、私帰るわ」
「おう」
祐希は晴夏には何も声をかけずに帰った。
「座れば?」
店長さんはいつもと変わらない様子で促す。晴夏は祐希が座っていた椅子にそっと腰かけた。でもまだ黙っている。またレジが混み始めたみたいだ。わずかに相澤の声とレジの音が聞こえる。でも店長さんは晴夏に、仕事に戻れとは言わなかった。そして目が合うといつもそうするように目を細めて笑顔を作った。でも晴夏は真顔でじっと店長さんを見つめ返した。
「店長さん……」
「ん?」
「私……私は」
「いいよ、ゆっくりで」
それを聞くと晴夏は少しだけ笑顔を返した。でも、なんだか店長さんに悪いような気もした。
「あのう、店長さん」
「はい」
「どうして私を採用したんですか?」
店長さんはううんと腕を組んで考えるような素振りをした。
「やっぱ可愛いからかな?」
少し茶化すような口調で店長さんが答えた。晴夏はちょっとためらったが思い切って言った。
「ふざけないでください」
「や、ふざけてないよ? ぜんぜん」
それでも店長さんは繰り返した。
「可愛いもん。晴夏ちゃん。それが理由じゃいけないの?」
「そんなの、仕事に関係ないです」
「なんで? 可愛いって才能じゃん? 俺はすごく関係あると思うよ」
「……でも私、仕事できないです」
晴夏は不満そうな顔を返した。
「仕事できない……か。まあ、そりゃそうだね」
意外なことに店長さんは晴夏の言い分を否定しなかった。晴夏は自分で言ったのにその反応に少し驚いた。
「あのさあ、晴夏ちゃんはどうして、そう思ったの?」
「え? それは……みんなみたいにうまく動けないし、自分では一生懸命覚えようとしてるつもりなのに、分からないことばっかりで」
「それはふつうのことじゃん。別にだれだって最初そうじゃん」
「でも! 私もう1週間くらい練習してるのに。書いてあったことは全部ちゃんと覚えたつもりです。なのに祐希先輩にいろいろ聞かれると分からないことばっかです。このままじゃ私……だから、私はもっとちゃんと教えてほしいんです」
「ああ……」
店長さんは一瞬困ったように頭を掻いた。
「言っとくけど……祐希は、ちゃんと教えてると思うよ」
晴夏は黙っていた。だが到底納得できなかった。
「私……きっと嫌われてます」
「え? 誰に?」
「祐希先輩です。祐希先輩は、最初から私のこと嫌いです」
「どうして? 別にそんなことないと思うよ」
「いえ、そんなことあります。分かります」
店長さんは困ったように腕を組んでしばらく考えていた。
「じゃ、分かった。仮に嫌われてるとしよう。じゃあ、晴夏ちゃんはなんで嫌われてるの? それ自分で分かってる?」
「え? それは……まあ、何となく」
晴夏は曖昧に答えた。
「なら簡単じゃない? その嫌われる理由を改善すればいいだけじゃん」
「え?」
晴夏にとっては意外だった。晴夏は内心、なぜ私が改善しなきゃいけないのか、と思った。もし改善と言うなら……むしろ一番改善しなきゃいけないのは店長さんなのだ。
店長さんが、入ったばかりの晴夏にいつも甘い態度をするからだ。祐希先輩はそれが気に入らないのだ。だから私に冷たく当たるのだ。でもそれは私のせいじゃない。それは店長さんのせいなのに。
もちろん、直接そんなことを店長さんには言えなかった。言いたくもない。
「少し考えてみます」
晴夏は半ば絶望したような、呆れたような気分になって話を切り上げた。
「まあ、そう焦らなくてもさ。今日も見てたけど、すごく良くなってるよ」
「そうですか、ありがとうございます」
晴夏は無表情に礼を言った。良くなってるも何も……店長さん、私がやっているところなんて見てもいないくせに。これは単なる励まし。言葉だけの。晴夏はむしろ、こんな人に頼ろうとしていた自分に腹が立った。自分でやるしかない。結局、自分で頑張るしか……。
「お時間取らせてすいませんでした。私もう帰ります」
店長さんがいつもの笑顔を作った。だが晴夏はそれに合わせて微笑むような気分ではなかった。
「お疲れ様でした」
The Break-even Point ~晴夏がバイトをバックレるまで~ 滝口 一 @takiguchi
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