第15話 ニーズヘッグの奸智
あのとき、ルナが歌った広場にユーナは立っていた。さざ波のような人のざわめき、青空に花火が打ち上げられ、遠く聞こえるパレードの曲、すべてが雑多なその中で、ルナの歌だけが、はっきりと聞こえた。その感触がまだ耳朶に残っていた。
少年はふと、顔を上げた。そろそろ警備に戻る時間だ。これから五千人の有権者を惹きつける男にあの後、会ってきた。偏った唇で笑顔を作る、貧相な小男だった。その男と壇上で握手を交わし、少年は過去の栄光を讃えられることになっていた。
(…三年間、無数のアルトナ人を殺し続けた功績を)
ルナには絶対に見てほしくない。あの瞳が悲しみで紅く染まり、涙を流す姿は想像するだけでも辛かった。
海賊の詩が聞こえてきた。頭の中、ルナの声でそれをなぞり、ユーナは物憂げにそこを立ち上がった。いつのまにか強く、拳を握りしめていた。これでは壇上に上がれない。静かに息を吐き続け、ユーナはゆっくりと強張った拳を緩めた。
「遅かったな」
ダレン・ニーズヘッグ自ら袖で待っていて、ユーナを出迎えた。
「すみません、遅れました」
「段取りは忘れてないな?」
はい、と返事の代わりにユーナは肯いた。今日の彼の役割は今の仕草の延長線上だ。なにを話すわけでもなく、ただ、握手に応じればいいのだ。思えばこの役をやらせるためだけにダレン・ニーズヘッグはMCAIからユーナを無理やりに取り上げたと言っても過言ではない。
少年が去った後、ダレン・ニーズヘッグは時刻を確認し、入っていくユーナの後ろ姿をもう一度一瞥した。視線の先、少年の肩越しに並み居る有権者たちがひしめいていた。ふと何かを思い出したようにダレンは胸ポケットの携帯電話を取り出した。
「あれ、アーニー…坊やが出てきたわよ?」
書類の処理に余念がないキリウが、気まぐれにモニターを見上げて少年に気づいた。
「別に驚くことじゃねえさ。あいつはシグルドなんだ、ヴァルキュリア人で、有名なアルトナ殺しだ。ルドンの遊説会じゃ、英雄扱いだろ」
「ははん、だからダレンはあんなに焦って坊やを連れ帰ったってわけね。今日は、選挙前、ディメオラでの遊説は最後の駄目押しだしね」
「ルドンのやつ、軍需とべったりだから、黒い噂も絶えねえ野郎だ。おれは軍人だったが、やつの考え方には虫唾が走る。この地盤じゃ劣勢だって聞いてたから、喜んでたんだがな」
「準備はいいかい? 後は頼む。…そうだ、派手にやってくれ」
レイランドは電話を切ると、モニターで壇上で握手するユーナとルドンの姿を確認した。傍らには資料室から連れ出されたエルクが心配そうにことのなりゆきを見守っている。
「あの…本当に大丈夫すか、こんなことして」
「そろそろだな」
それには答えず、満足げに肯いたレイランドは、エルクに目配せした。
「さあエルク、君も手はずどおり頼むぞ」
『愛国心にあふれるヴァルキュリアの英雄、ユーナ・ジーンに拍手を!』
「あ、ユーナくん」
シノブが声を上げた。
フルヴォリュウムのアジテーションのあと、ユーナ・ジーンが大画面の中で、無言で頭を下げる光景が大写しになっている。拍手をしながらそれをあおるルドンは、軽薄そうな小男だ。左側から腕をとろうと、ルドンに歩み寄ったが、段取りの違いをダレンに指摘されたのか、右側に回り、その利き腕を持ち上げる。
「どうしたの、ルナ?」
「うん…ごめん」
ルナは気分が悪くなったのか、さっきから口数少なく、顔を青くしていた。ユーナが紹介され、満場にさざめく拍手が沸き起こった瞬間、ついに彼女は腰を落としてへたりこんでしまった。
「ルナっ!」
ロビンがあわててその小さな身体を抱きとめた。悪寒が起こり、ルナは小刻みに震えていた。大丈夫。そんな強がりの声もか細くなったルナはシノブに向かってこう言った。
「お願い…ユーナくんを助けて」
破局と大混乱は一瞬でやってきた。それはユーナ・ジーンが壇を下りるため、もう一度、ルドンと握手をかわそうと動いた最中だった。一発の銃声が、満場を凍りつかせた。弾丸は、ルドンを襲ったが、彼はそれを間一髪、危機的に避けられたように見えた。ユーナ・ジーンがかばい、二人は一緒に倒れこんだように見えたからだ。
本当の大混乱はその後にやってきた。ルドンはそこから立ち上がり、少年の小さな身体を抱き上げたが、血まみれの少年の身体にすでに力はなかった。弾丸は延髄に入り込み、大事な呼吸中枢を致命的に破壊していたようだ。大きな嘆声を上げ、必死に力の失せた少年の身体を揺さぶるルドンの姿がスクリーンに大写しになる。満場の恐慌と熱狂のボルテージが最高潮になったのはまさにその瞬間だった。
入り乱れる選挙スタッフとテレヴィクルーの渦中で、一人だけ悠々と事態を見守っている男の姿があった。ダレン・ニーズヘッグだ。最高の結果を見届けた男は、無表情にあごを引くと、くるりときびすを返して控え室に戻る準備をした。まず、懸念していたここまでは楽にことが進行した。これからのことを、ルドンと打ち合わせる準備をしなければならない。プランは着々と進行している。げんに、壇上ではルドンが、台本どおりの演技を熱演している最中だ
「…おいロビン、どうなってる! 何が起きた? 一体なにが起きたんだよ!」
スクリーンはさっきの狙撃の瞬間と、ルドンがマイクを掴んで毅然と訴えかける瞬間との繰り返しだ。
『我々は決してテロに屈しない。アルトナの報復行為は許されざる愚行だ!』
電話口からは上擦ったロビンの声が響いた。
「…シノブが選挙関係者に化けて、今、中の様子を見に行ってるの。・・・・ルナは、今話せる状態じゃないわ。とにかく混乱が続いているから後で折り返す」
「報復だと?…なんてことしやがるんだ」
キリウが入ってきた。彼女は、ニュースを見てただちに連絡を受けたらしい。しばらく外で話をしていた。
「撃ったのはグーデよ。各社にメールでアルトナの声明文がアップされてきたって」
二人は声を失った。ユーナが致命傷を負ったことは、画面でも明らかだった。
「で…レイランドは連絡つかないのか?」
彼とはあれからずっと、連絡がついていなかった。
「今、ついたわ。ちょうどいいタイミングで電話が掛かってた。至急、車を回してこっちに来てくれって」
「どこにいるんだよ、あの馬鹿」
憤懣を隠せないアーニーに、キリウも不可解な面持ちのまま伝えた。
「…パレスイルーゾのホテルの地下駐車場だって」
ルナとロビンはもう二時間も、シノブが指定した場所で待たされていた。ここはホテルの地下駐車場だ。イヴェントエリアの惨劇で地上は右往左往しているが、選挙本部のテント裏に位置するこのスペースは不気味に静まり返っている。待っていろと言われた二人はこの混乱で車に戻ることも出来ず、手持ち無沙汰なばかりだったが、あまりに急な展開に疲れ疑問を持つ余地もなく、ただただ焦燥感に駆られてシノブを待っていた。
先に着いたのはアーニーとキリウだった。二人はレイランドに呼ばれ、ここに来たと言う。事情が分からない四人が集まったので、話はいたずらに進まない。叫びだしたくなる気持ちを抑えながら、さらに三十分待った。
三十分待って現れたのは、なんと救急車だった。サイレンを消した救急車が、泥棒のようにひっそりと入ってくる。運転席にいるのはシノブだ。助手席にはレイランド、ぼろぼろの擦り傷だらけのエルクまでいた。
「この緊急時になにをしてたんだ、お前ら」
「…エルクとシノブに連絡がついたとは言え、中々手間が掛かったよ。どちらかと言えば、救急車を盗むのに、手間取ったかな」
「もしかして、あんたら…」
キリウが最悪の予感を口にする前に、シノブとエルクは手分けして、担架を下ろした。シートを開けるとそこに、生乾きの血の跡も生々しいユーナが目を閉じ横たわっている。
「馬鹿野郎、お前らなにやってんだっ!」
「ダレンのところで用済みだと言うので、引き取ってきたまでだ。やつの陰謀のお陰で僕の予定もかなり狂ってしまったのでね。無断ながら拝借してきたのさ」
「なに考えてんだ!…ふざけるのもいい加減に…お前、ルナのこととか…えっと、とにかくもっと一般的な常識を考えろよ」
「ルナ、彼を連れ来たのはもともと君のためもある。国葬にふされたら、彼にはもう二度と会えないんだぞ。ちゃんと、お別れをしたかっただろう?」
「う…」
そう言われれば、アーニーも言葉もなかった。確かにそうだ。残酷な真実を目の当たりにして、ルナの目にはすでに涙が溢れていた。しかし、レイランドの言葉で正気に戻り、
「そうだね…ちゃんとお別れしなくちゃだよね」
毅然と言うと、涙を拭ってユーナの体に近づいた。ぽつりとアーニーが言った。
「おれも別れを言うよ…ルナ、ゆっくりやってくれ」
「うん…ちょっと待っててね」
「もっと近くでみてあげたら?」
うん、とシノブの言葉に肯いて、ルナは少年の顔に自分の顔を近づけた。血で汚れているのは首の後ろだけで、ユーナは意外と綺麗な顔をしていた。
「…ユーナくん…」
頬についた血の痕を優しく拭き取り、ルナがつぶやいたそのときだった。
「ひゃっ!」
何かがルナの首筋を捕えて、ぐいっとこちらに引き寄せた。硬直した少年の左手が動き、ルナを抱き寄せたのだ。ユーナがうっすらとその目を開けていた。
「ルナ…」
あまりの驚きでその場で待っていた全員はまともな言葉も話せなかった。
生きている! 首を撃たれたのになぜ?
「や…ユーナくん、どうして生きてるのぉ…?」
溢れた感情の処理をどうしていいのか分からず、ルナは少年の胸の上でじたばたした。
「お、おい…話が違うぞ。い、生きてるじゃねえか…」
解剖された蛙のように小刻みに震えているアーニーを平然と見返して、レイランドは言った。
「死んでるといった覚えはない。向こうで用済みだから、引き取ってきたと言ったんだ」
「…でも、自分でもさっきまで本当に死んだかと思ってたよ」
ユーナは言うと、力が抜けたルナを抱きとめながら、担架から起き上がる。首の傷も皮一枚で浅く、見た目ほどひどくはないようだ。
「な、なあ、一体お前、なにをしたんだ?」
「契約をやり直したのさ。ミハイル・グーデと直接交渉したんだ。ある条件を理由に、今度は僕の話に乗ってもらうことにしたのさ。ダレンのではなく、僕の話にね」
「どういうことなの? ダレンって…まさか」
「ダレンがぼくを連れ戻したのは、演台に上げるためじゃなかったんだ。…ぼくじゃなきゃいけない役割が、あそこにはちゃんと用意されていた」
「シグルドの英雄が、アルトナ強硬派の演説集会に激励に来て、そこでアルトナ人から報復テロを受ける…しかも狙撃されて死ぬのは、まだ十五歳になったばかりの少年だ。ルドンは自分の身をかばって倒れた少年を抱き上げ、力強く、アルトナ排斥を訴える…ダレンはグーデを使い、巧妙に演出した上でシナリオを実行したんだ」
「なんてこった…一瞬、おれもルドンの野郎を見直しちまったじゃねえか」
「アーニーの単細胞はともかく、いささかあざと過ぎるとは言え、政治的な戦略としては効果的だわね。今、全国にあれが放送されたわけだし、グーデはここ数日、ディメオラを騒がしてるわけだし」
「だが、国家的な陰謀にしてもいささか汚すぎるやり口だ。ダレン・ニーズヘッグがユーナの能力に相当な脅威を抱いていたとしてもあまりにもね」
「ダレンがぼくの能力に気づいてた?…ぼくの能力って一体…」
「見たところ君の左手に、秘密があるようだ。あの朝、ダレンは車に乗るとき、君の左腕をとろうとして、一瞬、
そう言われても、と言う風に、ユーナは首を傾げ、
「最後の任務で勲章を受けたときに、ダレン・ニーズヘッグには初めて会ったんだ。たぶんそのときは…そうだ、ぼくは右腕を負傷していて、左手で握手したけど」
「それだ。君の左手にある何かが、ダレンに脅威を覚えさせた」
「…わたし、ユーナくんの左手、握ったことあるよ」と、ルナ。
「何か感じたことは?」
「えっと…傷だらけだった。あと、すっごく力強かった」
「…身も蓋もないわね」
「なんの参考にもならねえ。つか、手握ってそのあと何もないお前らが問題だ」
「…シノブ、ユーナの左手を握ってみてくれ」
突然、シノブに向かってレイランドは言った。
「わたしがっ? ルナじゃなく?」
「…なに焦ってんだ」
「この中で一番感受性が鋭いのは君だ。君のSDなら、ユーナの本当のことが分かるはずだ。僕の予想なら、この能力があれば今の状況を乗り越えられる。打開策になるはずだ」
「どう言うこと?」
事情を知らないユーナが聞いた。
「このままだと、MCAIは潰されてルナを取り上げられちまうかもしれねえんだよ」
「レイランド、それって…」
「君が僕たちやルナのためになりたいと言うなら、今ここで能力の正体を突き止めることだ。幸い、その見当はおぼろげながらついている。あと一歩だ。協力してくれ」
「分かった…シノブの手を握ればいいんだね?」
「ねーその前に、誰かウェットティッシュ持ってない?」
「あー、もううるせえな。お前の手、汚くなんかないっつうの」
「本当? わたし、綺麗?」
「…ぼくの手のが血まみれだけど」
ユーナは左手を差し出した。シノブがそれに重ねようと手を伸ばす。
「やってみるしかない。君の力が必要だ」
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