第13話 死神との対峙

シノブが一人ストリートの角に立っている。車で乗りつけたアーニーたちは思わず舌打ちを禁じえなかった。

「来たら、二人ともいなかった」

「見れば分かるよ、お前しかいねえもん。手がかりはないのかよ?」

「パレス・イルーゾに、ロビンたちは行ってます。でもたぶん、無駄足じゃないかな。ちょっと待ってって言ったのに。二人ともここに、戻ってきてるもん」

「なにか手がかりになるものは見つけたのか?」

レイランドの質問に、シノブは肯いた。

「ヴァルキュリア人のコミュニティサイトに、ユーナくんはアクセスしてる。どうやらそれによると、彼はミハイル・グーデに接触しようとしてるみたいですね」

「なんのためによ?」

「…たぶん、親父のことだ」

直感的に察したアーニーが声を上げた。

「テロリストの親父の消息を、やつなら知ってると思ったのかもしれない」

「まさか…ありえないわ。無謀すぎるし、確証もないのに」

キリウは、驚きを隠せず、信じられない様子だ。しかし、シノブは違った。

「ユーナくんの考え、分かる気はするよ。ロムリアは広いし。お父さんと同じ匂いのする人種を見つけたら、まず会って、そこから手がかりでもなんでも探そうとするんじゃないかな」

裏世界生まれの人間として、シノブは共感できるところがあるようだ。

「…でも、ルナを巻き込んだのは最悪だけど」

「まったくだ。おい、グーデとの接触場所に手がかりはないのか?」

「今、ダド・フレンジー部長に出動を要請して、心当たりの場所、調べさせてもらってるけど、こう言う人たちの業界用語とか寓意って独特だから解読に時間かかると思います」

「君の意見は?」

「うーん…暗号苦手。考えるより、SDで追った方が早い気がする」

「それじゃ時間が掛かりすぎるわ」

「お前だって、元テロリストだろ。がんばって何とかしろ」

「キリウ、ハンドルを替わってくれ」

レイランドは後部座席に言うと、ドアを開けた。

「貸してくれ。僕がなんとかしてみよう」


「楽にしたまえ」

ミハイル・グーデは言った。

「たぶん、それじゃあ反応できない。愛しの彼女を殺すことになるぞ」

それは錆びついたスチール弦のギターを思わせる、金属質のヴィブラートを感じさせる声だった。銃口は、横向きのユーナの右のこめかみを狙う位置にぴたりとつけられている。直線上には言うまでもなく、ルナがいる。実質、彼女を人質にすることで見事にけん制されているのだ。ユーナが身をかわせば、恐怖で硬直している少女の頭が吹き飛ぶだろう。

「二人とも、こっちを向いていい。そう、緊張するな」

ユーナはあごを向けた。こうなれば頭を吹っ飛ばされるならどの位置でも一緒だ。

「どこかで見た坊主だな。見覚えがある…どこで会ったかな」

「おじさん」

はっ、とルナが声を上げた。山高帽がぴくりと反応した。

「君ら…なんだ、お嬢さんの方もか。夜遊びならまだしも、火遊びが過ぎるぞ」

死神は保護者のように顔をしかめ、目を剥いてみせた。

「つまらん悪戯だ…何しに来た」

「さっきも言った通り…エルヴァド・ジーンの消息について知ってることを教えてもらいに。シグルドまでやってぼくがこの国に来たのはあんたを逮捕するためじゃない、エルヴァドを捕まえるためだ。あんたが知ってることをぼくに教えて欲しい」

「生憎だが、私は奴とは似て非なる存在だ。世間は同業者と見るかも知れんが、こっちは違う。言うまでもなく、ほとんど付き合いはないよ。私は昔かたぎの殺し屋と、奴は報酬次第でなんでもする職業テロリストだ。仕事で少し交わることがあったとしても、お互いお構い無しさ」

グーデは細巻きの煙草をくわえると、ゆっくりと火を点けた。

「…こっちはまだお前を信用してないぞ、エルヴァドの息子。ここまで私を訪ねてきた度胸といい、その物腰といい、見た目は青くても油断はならんようだからな。なにをしに来た」

「別になにもない」

「嘘をつけ」

「本当さ。今日は連れもいるし、さっき言った目的が果たせないなら、大人しく引き下がるよ。…でも、次につながる手がかりが欲しいから、あんたが本当のことを言っているのか、ゆっくり見極めさせてもらってからだけどね」

「状況が分かっていないようだな。それとも他に仲間がいるから強気かね?」

「仲間?」

「君が配置しているやつらだよ。見たところ、君と同じヴァルキュリア人だろう」

言われて、ユーナは眉をひそめた。

「…ぼくの仲間は、一緒につれてきた彼女しかいない」

とぼけるな。グーデがその言葉を切り返そうとした瞬間に、声が立った。

「動くなよ」

窓の下に隠れていたのか、二人のヴァルキュリア人が近づいてくるのを横目で見ていた。二人とも滑り止めの包帯を巻いた旧式の突撃銃を装備している。

「誰だ?」

ゆっくりと、グーデが聞いた。近い方の一人が、唇を歪めて答える。

「あんたの言うとおり、そこの坊やの同胞さ」

ニヤニヤ笑っている二人を睨みつけ、ユーナは押し殺した声で聞いた。

「…何をしに来た?」

「見ての通り、早い者勝ちさ。ミハイル・グーデにはマフィアや政治組織、あらゆる機関から懸賞金がかけられてる。こいつを殺せばおれらは国に帰っても大いばりで暮らせる」

「やれやれ…またつまらんことを考えたもんだ」

「馬鹿な。あんたらの言う、ヴァルキュリアはもう、地図上にないんだぞ?」

「黙れ、裏切り者。シグルドからMCAIに入ったお前も、裏社会じゃ、すでにお尋ね者なんだよ。それに…アルトナの『巫女』を匿ってるって話は本当のようだな。アルトナ人組織はお前の首に金を払うと言ってる。大人しくすれば、その、連れ立ってる女のガキは助けてやる。どうだ…そいつが、『巫女』なんだろ?」

巫女? ルナは彼と視線を合わせずに顔を伏せた。そうか、それで、彼女はこの国で潜伏生活を送らざるを得なかったのか。ルナは息を呑むと覚悟を決して言った。

「逃げて。…わたしは、置いてっても大丈夫だから」

「まあ、私たちは死んでも、彼女は殺されはせんだろうな」

グーデは落ち着き払って、少年に問いかけた。

「どうする、エルヴァドの息子? この状況じゃまず、勝ち目はないぞ」

仕方ない。大きく息をつくと、ため息をついてユーナは応えた。

「降参するよ。殺しはぼくら二人だろ? ルナを助けると約束するなら、抵抗はしない」

「いいだろう。武器を棄ててお前が『巫女』を連れて来い」

一定の距離で停まり、銃口を向けたまま、男は命令した。ユーナは腰に仕込んだナイフを取り出し、シースの部分を指で摘んだまま、両手を見せて歩み寄る。

「だめっ」

ルナ。目で合図すると、彼女は黙って従った。涙がこぼれるその瞳の色は紅かった。

「よし…じいさん、あんたは銃を棄てろ。両手は頭の上だ」

「分かったよ。年寄りを急かすな。あんたの言うとおりするさ」

「こっちに銃口を向けずに、弾丸を抜くんだ」

追加の命令を受け、グーデはこれみよがしに両手を頭の上にやると、そこで銃から弾を抜こうとした。

「ナイフを投げろ」

言うとおりにユーナはしようとした。もう一人が、ルナを引き寄せようと歩み寄る。

「坊主、お前は間違っちゃいないぞ」

グーデがそのとき背後で言った。呑気な声だった。何気ない言葉に聞こえた。

「そいつは、本当にいい判断だ」

その瞬間、何が起こったのか、グーデ以外の何者にも分かるまい。頭の後ろで引き金を絞ったグーデのライフルが火を噴き、どう言うわけか、突出した弾丸がユーナの目の前にいる男の右目に弾丸が突き刺さったからだ。血肉を炸裂させて、男は即死した。どうして自分が死ぬのか分からないままに、お前が撃ったのかと言うように男は呆然と眼前のユーナを見るばかりだった。

まさに一瞬だった。もっと分からないのが、隣にいたその男の相棒だ。圧倒的優位が覆ったのも知らずに、ルナに手を伸ばしたまま、武器を構えるのも忘れ呆然としている。今だ。死骸の腰からハンドガンを抜いたユーナが、真正面から一撃でその顔を粉砕した。

血糊が顔に散って、ルナは悲鳴を上げそうになる。だが彼女は叫んでパニックにならずに済んだ。ユーナが身体ごと飛び込んできて彼女の身体を押し倒し、自分の胸の下でかばったからだ。大きな丸テーブルが二人の身体を隠した。

一斉掃射が始まった。外で待機していた本隊が飛び込んできたのだ。血のように紅い夕陽を焦がして、あらゆるものが弾け飛ぶ。

「…ルナ、ぼくのナイフをとって」

彼のシグルドナイフは足首に引っかかっていた。少年の鼓動を頬に感じながら、ルナは手を伸ばしてそれを取り上げる。

「大丈夫?」

「…うん」

夕陽に映えて、それよりルナの瞳は紅かった。この距離で見詰め合うようなムードでも関係でもないことを意識して、ユーナはあわてて顔を背けた。

「ごめん」

二人の声が無意識にダブる。タイミングぴったりに。二人は顔を赤らめ、狼狽した。

「ここは三人だぞ、生きてるか?」

戸口に逃げ込んだグーデの怒鳴り声が、二人を我に返らせる。背後で銃声がした。

「サーヴィスだ、今、二人になった」

グーデに撃ちぬかれて突出してきた男が倒れこんでくる。魔術に頼らずとも、グーデは凄腕だ。連射性能の低いライフルで突撃銃に応戦して、楽々とヘッドショットを狙う。

「彼女を傷つけるな、生き残ったら相手をしてやる」

グーデが撃って、囮になってくれている。その間になんとかしろと言うことだろう。

「だめ、ユーナくん、今立ったら…」

引き止めるルナをおさえて、ユーナは言った。

「電話、持ってるはずだ。誰でもいいから助けを呼んで。あと、いいって言うまで、君は立たないこと。ぼくが飛び出したらすぐやって。いい?」

返事は待たなかった。

狼のように姿勢を低く構え、ユーナは飛び出した。全身のばねを使い飛び掛る。

「野郎」

シグルドのナイフは、背筋が凍るほど青く、濡れて光っていた。グーデに引きつけられてユーナから視線を外していた男が驚愕の表情のまま、真上から首筋を裂かれた。

「うわ…」

もう一人があわてて照準を合わせようとしたとき、その場にユーナはいなかった。片足タックルをかけるようにあくまで頭を低く、潜行する。牙を剥いて頭上から飛び掛ったかと思えば、次は足元。その上下の動きに反応できるものは少なかった。走りぬけた少年兵は、すでに背後で呼吸を整えていた。人体急所のひとつ、右の大腿動脈が切断されている。止血かなわないこの場所は、戦場では機動力を失うだけでなく本当の命取りだ。立つこともかなわず血まみれでうめく男の恐怖で見開いた左目に、ユーナは蒼白の刃を叩き込んだ。

「行こう」

ユーナはテーブルに隠れた少女に向けて、言った。息をつく間に四人殺した。のたうつほどの血の海を作り出した彼は、着ているパーカーをすでに血で染めている。

「…どうするの?」

おずおずと出てきたルナが聞いた。

「まず、窓から下まで降りよう。時間稼ぎしながら、応援が来るまで持ち堪える。やつらがグーデを惹きつけていてくれれば、やつも捕えられるだろ。…電話はした?」

「う、うん…」

シノブもレイランドも、繋がらなかった…キリウは?

「行こう。迷ってる暇はないよ。ぼくに着いてきて」

「え、待って…」

ぐいっ、とルナは手を引かれて身体ごと引っ張られた。窓の向こうは夕空だった。

「落ちちゃう」

「やつらが登ってきたロープがあるよ」

彼女の身体を下から支えながら、するりとユーナはロープを伝い、先に降りた。ほら、と声をかけ、短い悲鳴を上げて落ちてくる同じくらいの少女の身体を全身で受け止めた。そこは二階の屋根で、真下はミズゴケの乾いた屋外プールの成れの果てだ。窓を割って、再び中へ。暗いフロアに銃声が響き、その度誰かの絶叫が無人のホテルの廃墟にこだます。

「伏せてっ」

エレベーターの陰に隠れていた男が、直立のまま狙撃してくる。オレンジ色の炎の矢が、ユーナの頬を掠めた。入れ違いに青い閃光が、その男の喉に向かって迸る。音もなく倒れた男に走りより、狼の子は手早く獲物から投げつけた自分の刃を引き抜いた。

誰もいない。合図でルナを引き寄せ、少年は慎重に階段を降りた。リネンの搬入口と思われる両開きの扉を押し、色とりどりの煉瓦作りの裏道へ出る。

夕闇の中、獣のように姿勢を低くした、長い髪の男が待っていた。髭で覆われた人相は読み取れないが、ユーナの姿を見て唇を憎悪に歪めた。かすかに潤んだ瞳は黄昏じのくすんだ空気に紛れても、アルトナの少女のように紅く輝いていた。

(こいつ…)

ヴァルキュリア人じゃない。そして…判断が、一瞬遅れた。

男は両手に刃を持っていた。殺到して、素早く少年の目を突いてくる。

二つの刃の瞬きを、ユーナはフットワークでかわした。初弾は被弾しそうになり、右瞼の上が少し切れた。

シグルドの青いナイフが、下から喉を狙っている。男はそれを距離をとってかわした。

「殺す」

吐き棄てるように男は言った。ぶるぶる震える唇の端に泡が溜まっている。その紅い目。憎悪の目。異常な感情の高ぶりは、初見でユーナを見た眼差しではなかった。

「お前、空港でおれの同胞、皆殺しにした」

「殺してない」

遮るようにユーナは言った。背後のルナが気になった。しかし、顧みれない。

「次はおれがお前を殺す」

殺意の紅い視線がそのまま、刃になったようだった。二つの刃が、ユーナを切り刻む。ナイフファイトに慣れきっている。それも、喧嘩のレベルではない。一瞬で少年は判断した。皮一枚を切らせながら、彼はゆっくりと反撃のチャンスを待つ。

「シグルド、同胞の敵」

男は片言で叫んだ。アルトナ。彼女と同じ。同族を屠ったものを許さない。

「バラバラにしてやる」

ユーナの右目の損傷から死角に回って攻撃してくる。パーカーの袖が切れ、髪の毛が散った。血の同胞か、新しい友人か。ルナは、何も言葉に出来ずになりゆきを見ている。勝負は次の一瞬で決した。

高い確率で狙ってくるはねあげの右の目突きをダッキングでかわし、小さなユーナは男の懐に潜りこむ。手を伸ばせば、左の第二撃が来る前に、ナイフで喉を突けた。

(ちっ)

突く瞬間、ナイフを持ち替え、ナックルを固めるように握りこんだ。グリップエンドを押し込むように時計回りにねじこみ、男の気管にユーナは腰を入れた一撃を喰らわした。少年のウエイトは軽く、パンチは効き目薄とは言え、喉を潰すのは有効な手段と言えた。男は蛙のような悲鳴を上げてうつぶせに倒れこんだ。ルナの押し殺した声が響く。

「…殺したの?」

「殺してないよ」

ユーナは応えた。さすがに息が上がっていた。この場は、大丈夫だが、蘇生措置をとらなければ同じことだろう。上手く相手が倒れたものの、ひやりとした。殺せなかった一瞬の躊躇は戦場なら、下手をすれば命取りのものだった。

「よくやったじゃないか」

グーデの声だ。一緒に銃声がした。地響きを立てて、上から遺体が落ちてくる。

「…護りきったか」

蘇った恐怖が疲労と脱力感を呼んできたのか、ルナはへたりそうになっている。血まみれの手で、ユーナは力ない身体を抱きとめた。

「あんたを逃がさない…ここから」

「警察を呼んだな。…そうか、そいつは手回しがいいことだ」

かちゃり。金属の重い留め金の音がした。グーデは銃を構えながら、ゆっくりと階段を降りてくる。

「最後の選択だな、坊や。どっちか選べ。君か、そのお嬢さんか。警察が来るまでに、私はここに来なかったと、事実を証言するのはどちらか」

「あんたがこいつの隣に転がるべきだ」

ユーナは言い放った。銃口を逃れるすべはなかった。話を延ばして考えるしかない。

「君は弾が当たらないと思ってるんだな。アクション映画の主人公のように。そう思って啖呵を切るギャングは多かったが、私の前で次の瞬間したのは命乞いか、お祈りかだ」

「好きなところに当てる自信がある? あんたは悪魔と契約してるって聞いた」

「よく知ってるな。その通りだ。この街に来たとき、おれはろくに銃も扱えない、ただの臆病者のちんぴらだった。東海岸をフランクリンと一緒に追い出され、そこから行くあてもなく、偏狭のディメオラに流れ着くしかなかった。だが、そこでやつはクロスロードの悪魔と契約した」

「で、あんたはそのおこぼれを狙ったのか?」

「そうだ、どうしようもないチンピラだった。アルバトロス・フランクリンは悪魔と契約してこの街のすべてを手に入れたが、おれは四人の肉親の命を犠牲にしてこの腕を手に入れたんだ。当時のフランクリンは最高だった。同時に五人の映画女優と付き合い、ディメオラ中の高級ホテルを毎晩借り切って、シャンパンと札束を振りまく。やつに逆らうものはすべてその日のうちに消された。まさに黄金時代だ。お前に話してもわからんだろうが、ヴァレンシア・デイルは本当にいい女だった。俺はその悪魔の片腕を務めるために、すべてを捧げたんだ。…人は取り分以上のものを惜しげもなく棄て、しかし、時間は無情に流れる。古き良きディメオラが通り過ぎた今、おれに残ったのこの死神の仕事だけさ。坊主、人生はこの街に溢れてる夢を賭けるゲームとルールは同じなんだ。がらくたの山から一枚、カードを選んだら、残りはもとの山に棄てなきゃならない。今のお前にはおれが言いたいこと、よく分かるだろう?」

「ああ、よく分かるさ。ぼくが命を賭ける。でもこれがもしゲームなら、勝ったら総取りって選択肢もあるはずだろ」

「…勝ち目がないと言ってるんだよ」

グーデは大袈裟に肩をすくめた。銃口がぶれたその一瞬を狙おうと、ユーナは集中力を高めている。しかしここで、予想外の事態が起きた。気絶していたアルトナの男が息を吹き返し、背後からユーナに襲いかかったのだ。標的の小ささを活かし、どうにか上体だけで少年はその一撃をかわしたが、男の本来の狙いはそれと違った。

ルナだ。両腕にしっかり、彼女の身体を抱きとめると、男は走り去った。グーデと対峙しているユーナには反応が一歩遅れた。声を上げる前に、男はルナを抱えて裏口から表通りに出て行く。道路傍にうす汚れたバンが一台停めてある。恐らくそれが逃走用車両だ。

(しまった)

夕暮れ、廃墟の沿道とは言え、近くのスタジアムからの帰り客などがちらほらと見られるが、誰も制止するものなどいるはずがない。ドアを片手で開け、男は後部座席にルナを押し込もうとした。

「いやっ…やだあっ!」

「乗れっ…来るんだっ」

ナイフを使って、男はルナを威嚇しようとする。

「殺すぞ…言うとおりにならないなら、巫女でも殺してやるっ」

揉み合いになる身体を押さえ、男がナイフを振り上げたそのときだった。

通りすがったスタジャンに球団のロゴの入ったひょろ長い青年が、男のナイフの手首をくるりとひねった。軽く払うような仕草だったがそれは、目にも留まらぬ速さで手首を極め、刃物を奪い去っていたのだ。砕けてねじれた手首を押さえ、男は絶叫した。

「くそっ」

毒づいた男は、それでも反撃に出るべきではなかった。言うまでもなく、相手はただの野球青年ではなかった。手首を極めた青年は同じ手で踏み込みざま、男の丈夫な顎に強烈な掌底打を喰らわせた。脳を揺らす一撃は身体の自由を奪い、男の膝は崩れる。そのまま右手を絡め、今度は男を身体ごと背負い投げた。固いアスファルトに叩きつけられた男は泡を吹き、二度と立つことが出来なかった。

ルナの身体をもう一人のスタジャン男が抱きとめる。

男を倒したのはシノブだ。

「動くな…そのままでいろ。余計な真似はするなよ」

グーデの背後からも、突然声が立った。暗がりからアーニー・ブレントンが両手に銃を構えたまま、近づいてくるところだった。

逃走用のバンにもMCAIのメンバーが潜んでいる。シノブと同じ格好をしたスタジャンの男はレイランドで、後部座席から銃を持って飛び出してきたのは、キリウとロビンだ。

「…やれやれ、君らがMCAIか」

グーデは大げさにため息をつくと、肩をすくめて見せた。

「ミハイル・グーデ、デブラ・アッシュの監禁容疑で逮捕状が出ている。市警のダド・フレンジーがお前を待ちかねてるぞ」

「あんたがローウェル・レイランドか、裏社会でも噂は聞くぞ。鼻息の荒いのは結構だが、今のあんたに私を拘留する権利があると思うかい」

「今のMCAIに逮捕権はないわ。でも、警察が来るまであなたを足止めする力はある」

「そう言う話をしてるんじゃあないんだが…まあ、そっちの鼻息の荒いお嬢さん方にも応えておくか。君たちの腕で、私を止められると本気で考えているのか?」

キリウの制止にも、グーデはまったく意に介さない。

「命の無駄をしたいと思わんなら、中のやつらの処理を急いだほうが賢明だぞ。そこのアルトナ人以外にも、運がよけりゃ、生きてるやつもいるかもしれんからな」

「いいから動くんじゃねえ」

グーデは鼻を鳴らして、振り向きもしなかった。ユーナの前にゆっくりと歩み寄る。

「坊主、じゃあ、君が最初の殉職者になるか。…悪魔と契約した殺し屋の腕を、君は見ただろう」

ため息をつくと、ユーナは道を開けた。高ぶりもしない声、

「グーデに弾は当たらない…一方的に撃たれるだけだ」

「この人数でもか?」

ユーナはアーニーに向かって、はっきりと肯いて見せた。

「行くといい」

即座にレイランドは言った。

「レイランド、納得すると思ってんのか」

「あなたは命の恩人だ。結果的に、二人の命を救ってくれたのは事実だからな」

「ローウェル・レイランド、あんたはスリルがよほど好きなようだ。アルトナの巫女を連れるのはこの国じゃあ、殺し屋に狙われるより、スリリングなことだぞ」

グーデのその言葉を押し切るように、レイランドはゆっくりと言った。

「今日のあなたには、本当に感謝している」

「その言葉、そっくりあんたに返そう。今日は予定外のことが多すぎたからな。デブラを引き取ってもらって、こっちはかえって良かったと思ってるよ。まったく、これで今日はすべての予定が潰れてしまったよ。坊主、お前のことは別にしてもな。…縁があったらまた、殺しあおうじゃないか」

薄笑いだけを残して、グーデは去っていった。何度も引き金を引こうと思ったが、実はアーニーですら魔法にかけられたように、グーデを撃てる気がしなかった。これは魔法などと言う生易しいものではない。場数だ。例えば、一方的に蜂の巣にされそうになるかも知れない今のような状況ですら、グーデは幾度も潜り抜けてきているのだ。とは言え、後味の悪さは、確実に残る幕切れだった。人喰いの猛獣をみすみす檻から放ってしまった気分で、アーニーは重苦しいため息をついた。

そのせいか彼は今さらJJで飛び込んできたエルクの頭突きを、またしても避けることが出来なかった。

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