第12話 コープ・ウィスパー
しばらくいると、ふとした会話のとぎれにルナが歌いだした。
ルナが歌いだすと、よどんだ雑踏の空気ですら澄む気がした。かすかでも聞こえるのだ。か細いメロディでも、喉の震えや微妙なニュアンスまで、砂漠に水が染み透るように、歌は響いていく。
「聞こえた?」
聴こえないようにしていたようだ。恥ずかしい、と言うようにルナは面を伏せた。
「歌ってよ。どうせ、ぼくくらいしか聴いてないんだし」
「だめだよ…もう忘れちゃった」
ルナは、はにかんで首を振るばかりだった。
「あのね…わたし、歌が聴こえるんだ」
意を決したように言い出したルナの話を、ユーナはじっと聞いていた。
「歌が?」
「わたしの力…コープ・ウィスパー…誰かに会うと、その人の中に流れている歌がわたしの中に聞こえてくる。憶えてる? 昨夜、ヴィトおじさんのお店に来たおじいさんの前で、ちょっと、歌ったでしょ?…わたし、あの歌、本当は全然知らないの。おじいさんの中に流れてた歌だから」
「それが君の能力なんだ」
へえ、と言う感じでユーナは相槌を打った。だとすれば、ひどく微笑ましいばかりの、拍子抜けするほど平和的な能力だ。やはりMCAIが彼女を表に出さないようにしているのは、ただアルトナ人であると言うことだけの理由なのだろうか。
「今も何か、歌が聞こえてるの?」
「…うん」
パレードの曲が、遠くで流れている。
「歌ってみてよ。せっかくだから聞きたいな」
ルナはこくりと肯くと、かすかに閉じた唇のあわいからそれとは違う、素朴なメロディをなぞった。じっと聞いていると、やがてユーナは驚いて声を上げた。
「…これ」
リズムをとって歌いながら、ルナは楽しそうに微笑んだ。
「ユーナくんの歌。…これって海の、歌?」
(…ああ、そうだった)
まるで何年も前から、練習した持ち歌であるかのようにルナは、ヴァルキュリアの言葉で詩を結んだ。それは何百年も昔から、ヴァルキュリアに伝わる海賊たちの歌だった。
(もうずっと、歌ってなかった)
そう言えば家族の中で、唯一幼い頃の思い出があるのがこの歌だった。
異郷の地、泡沫のように消えていったヴァルキュリアの海の男の話。
エルヴァドがくれた、ユーナと言う名前の海賊の英雄。勇敢な男の途方もない昔話。
忘れていた。淡雪が雪解けの水流でほとびていくように、茫漠とした思い出の塊が個々のエピソードに解体されていく。過去が風景になる。不思議な気分だ。
歌が懐かしいというせいだけじゃない。ルナの声は、いつかどこかで聞いたと思えるほど懐かしく、故郷の水のように、身体に馴染んでいく。これが彼女のコープ・ウィスパーの能力なのだろうか。
いや、もう能力がどうだとか言うことなど、どうでもいい。
この流れに、時間を忘れて委ねてしまいたくなった。
独特の湿ったマイナーキーで憂いを含みつつも、陽気な節回しのせいか、ひそやかなルナの歌声は、いつしか弾んで楽しげになっていく。気のせいか、いつのまにか人も集まってきたようだ。立ち止まった一人、二人が、やがて人波をせき止めるように溜まりを作って、半円形の広場を取り囲んでいった。
どうなっているんだろう? なにがどうして? そんなことを考える暇もなかった。
手拍子がいつのまにかさざ波になって、ルナの歌を載せて巨大なうねりを創りだした。
ねえ、一緒に歌お。
戸惑うユーナの手を、少女は陽気に取り上げてステップを促した。
この喧騒に、生音だけだ。マイクもアンプも、スピーカーもない。
でもその場の誰にも、ルナの歌が聞こえた。誰も知らない歌を。みんなが歌っている。
今や多くの人間が一度も聴いたことのない歌に合わせて踊りだし、地響きのようにどよどよと一緒に詩をなぞっている。
ルナはピッチを上げる。ポニーテールにした髪がふわりとたなびき、リボンは豊かな黒髪のうねりに乗って、音楽と戯れた。
そこにあるのは巨大で力強い、もっとも原始的な力の根源だ。
音楽が世界を変えるなど、おろかな音楽屋の考えた、傲慢な嘘っぱちだ。
でもすべての人間のどこかの中に、巨大なうねりが魔物のように眠っている。
なにかの拍子にそれが魔力を発揮し、ひとつになったような錯覚を覚える瞬間がある。
必ずある。
(うそだろ)
躊躇は波打ち際に築かれた小さな砂の堤のように、波のひとさしで跡形もなく消えた。いつのまにか、ユーナも大きな声で歌っていた。はじめは大きく力強くなっていく音楽の力に戸惑いながら、唇を突き出し、うそぶくように小さく、笑顔に釣られて歌を呼んで、最後は大合唱に加わっていた。誰もが笑顔で歌っていた。誰もが目を閉じて、すべてを歌に委ねていた。
群集を立ち止まらせる大きな力は停滞を呼び、停滞は混沌を呼ぶ。警備員が集まりだし、大混乱の予兆が現れる前に、ユーナは彼女を連れて逃げた。さっきは気づかなかったが、握り締めたルナの手のひらは、驚くほど小さくてもろそうだった。あれほど巨大な得たいの知れない力を操ったとはとても思えなかった。
誰かの中の歌が聞こえる。
他愛のないばかりの力だと思っていた。彼女が誰かに対してふと微笑みかけるように、小さく人を幸せにするだけの、微笑ましい取り柄なのかと。
だが、それは違った。あそこにいた出自も目的も、文化的背景も雑多なあらゆる人たちをひとつの力の下に先導した。使いようによっては、背筋に寒いものが走る。エルクやシノブのものとは比較にならないほど、恐ろしい力だ。
それでも、なんだかひどく爽快な気分なのはどうしてだろう。
二人はもといたネットカフェの手前まで戻った。混乱と喧騒から遠ざかるにつれて熱は冷め、何事もなかったかのように、身に重たい現実が帰ってきた。ユーナは掲示板をチェックし、グーデとの接触を代理してくれた同胞からの連絡を受け取った。運良くグーデからすぐにコンタクトがあり、日が落ちる頃には会える段取りがつくとのことだった。
ルナが心配そうに聞いてくる。
「ひとりで行くの?」
「ひとりで行かなきゃ」
微苦笑すると、ユーナは言った。相手はプロだ。必要なら、女子供もあっさりと殺す。
「シノブに電話して迎えに来てもらう。彼女に会ったらぼくは用事があって別行動になって、ここにはひとりで来たって言ってよ」
止めても無駄だと思ったのだろう、ルナは抵抗せずに肯いた。
「うん…分かった」
少年もその方が気楽だった。いざとなれば自分一人くらいの身くらい守る自信はあるが、さすがにルナを無傷で逃がせる自信はなかった。
「分かってると思うけど、ぼくがグーデに会うってことは誰にも話さないで」
ルナは肯いたが、明らかに躊躇しているのが顔色からもうかがえた。
「大丈夫だよ、会ってただ、話をするだけだから。向こうも仕事じゃない殺しはよっぽどじゃないとしないだろうし」
と、ユーナはシノブに連絡するべく、携帯電話を取り出そうとした。
「いいよ。…自分で電話する。わたし、大丈夫だから。先に行ってて」
「分からない…どうやって助かったのか」
保護されたデブラ・アッシュは混乱しながらも、そう供述した。
「予定が変わった、今夜始末する…そう言われて…鳥小屋に押し込められたまま、ずっと放っておかれて…」
それは想像を絶する一夜であったろう。準備が出来次第殺す、そう言われていつ来るか分からない死までの時間を過ごすことを余儀なくされたのだから。湿った匂いのする鳥小屋の地下室は、酒類の貯蔵庫だったのか、鳥の飼料や糞の臭いを掻き消すほどの腐敗した甘い匂いで息も詰まりそうで、緊張状態の持続で過呼吸になりそうになるのを耐えながらも、デブラは一縷の助けを待ったと言う。
轡を噛まされ、手足も手馴れた所作で隙なく縛り上げられている。二日ぶりに自宅に戻って、うとうとしていてさらわれたのが二十時を回る頃だ。それがたかがほんの三、四時間の運命の転調とは到底信じられない。
「そうこうしているうちに夜が明けてきて…外が白んで、霧が立ち込めているのが、なんとなく気配で分かったの。どこか水辺に近いところに連れ込まれたのは知ってたから。…地獄の一夜だったわ」
一晩中悩みに悩まされた死の気配にデブラは、もはやろくに抵抗する力もなく疲れ果てていた。それが犯人の狙いなのかと思うと、どうしても気を確かに持っていないといけないと思うのだが、身体がひどく重くて、醒めた意識だけでは対抗できそうになかった。その日の最初、彼女の元に駆けつけたのは、やはり、犯人の男だった。
「昨夜は延期だ。…予定が入ったのさ。一晩苦しんだだろう。悪かったな」
男はデブラの顔を拭くと、まるで外食の予定が延期になったようにそう告げた。
「まあ、今夜だな」
「もう半日過ごしたら、あたしは確実に死ぬか、発狂してたと思う」
デブラはこみあげる吐き気と闘いながら、話の最後をそう結んだ。
「結果的に二十時間以上、デブラは犯人と過ごした」
レイランドは言った。手に、デブラの証言とシノブのSDをもとに作成した、グーデの今の似顔絵がある。
「まさか、この男がグーデと思わなかったな」
スケッチに現れた人物の風体を見て、アーニーたちは凍りついた。
「こいつ…『クロスロード』に来てた奴じゃねえか」
「…ディメオラに古いわけね」
顔をしかめてキリウが言う。
「古きよきディメオラが年々なくなって、来るたびさぞ心を痛めていることだろう」
レイランドとアーニーは視線を合わせて、同じ苦笑で口元を歪めた。
「予定が変わった、と言うのは『クロスロード』に行くことだろう。彼は馴染みの酒場で飲むことが出来ず、デブラ殺害の予定を早めようとした」
「暇つぶしの殺人か…なんて野郎だ」
アーニーは滅入ったように首を振ったが、レイランドの意見はそれとは違っていた。
「不可解なのは、別の予定で二度も殺害の時間を変更しているということだ。デブラがあそこに監禁されてから、グーデはいつでも彼女を処理することが出来る。夜中になにか予定が入ったとは言え、帰ってすぐに殺す予定だったのがそれから半日近く、先延ばしにしている。彼女にとっては千載一遇の幸運だが、グーデの行動は不条理だ」
「シノブの話だと、デブラの周辺に四に関するものはほとんどなかったみたいね。それなのに、住居不法侵入まで犯して、なぜ彼女を狙ったのか」
「そうだ。そしてしかも、どうしても彼女を殺したかったわけでもなさそうだ」
レイランドはじめ、アーニーもキリウもグーデの不可解な行動に頭を抱えた。
「やっぱりやつの契約は、四に関することじゃないのか?」
「違う、とも断言できない。確かに一部にはプロファイルに当てはまるところもあるんだ。だが恐らく、なにか見落としている部分がある…」
「ああ、そうだ…シノブのやつはもう、行っちまったのか?」
「ええ、どうもパレス・イルーゾのテーマパークで一騒ぎあったらしくてね。ルナのコープ・ウィスパーが暴走したのかも」
「そいつはまずいな。すぐに探しにいかねえと。そうなると、どこが動き出すかわかんねえぞ。どうするよ、レイランド」
携帯電話をチェックしていたレイランドは顔を上げて言った。
「シノブからメールがあった。ルナが迎えにきて欲しいそうだ。ロビンとエルクも指定の場所に向かっているらしい」
ため息をつくと、キリウは言った。
「新人に任せたのが間違いね。ルナのことが公になったら、最悪よ」
「…万一の事態に備えて、僕らも出られるようにしておこう」
GPS、案内板、ヴァルキュリアンネット。それらを駆使してユーナは、歩きなれないディメオラの街を自由に歩いていた。パレス・イルーゾのテーマパークを選んだのは、街が一望できるアトラクションに街の全景を知るインフォメーションが利用できるからだ。指定された場所のエリアを言われるだけで、おおよその位置が彼はすぐ分かった。
ウエストエリアの西の隅、都市と砂漠の際。スタジアムの見えるファインラインホテルが、取り壊されないまま、廃墟として残っている。無論立ち入り禁止だが、廃墟マニアの無断訪問の流行のお陰で、出入り口は確保されている。そこが指定された目的地だった。
「やっぱりここまで、着いてきたの?」
突然背後を振り向くといい加減呆れ顔で、ユーナは訊いた。気づかれていないと思ったのか、びくりと肩を震わせたあとで、ルナはこくり、と肯く。本人は断固たる意志を見せたつもりなのだろう。もはやその話題に触れるのもうんざりだった。
あのあと土壇場で、やっぱりルナは着いてくると言って、彼を困らせた。何度かのやりとりの末、ついに勝手にしろ、と言うことになってここに至る。ユーナには彼女を巻いてここに逃げてくることも或いは出来たかもしれなかった。だが今日実感したことだが、ルナは驚くほど街を知らない。ましてユーナのように知らない街でも一人で動き回れるノウハウすらもない彼女を置き去りにすることは、さすがの彼にも出来ずにずるずるとここまで来てしまったのだ。
「だって」
ルナは言った。外を知らない彼女とっては、これは一大決断なのだ。
「心配なんだもん。ユーナくん一人で、置いてけないよ」
「君が来たところで、足手まといにしかならないんだけどな」
「…だって」
さっきからそれの繰り返しだ。外見と違って異常に頑固なのだ。しかも無謀。自分の立場を分かっていないのだ。もういい。ユーナは何度目かの諦めを口にすることにした。
「なら、勝手にすればいい。でもいざと言うとき、ぼくは君を助けない」
「うん」
利き腕を預けるのは、ためらわれた。せめて彼女を左後ろに置いて庇うことにした。強がってはきたが、怖くなったのか、ルナはぴったりと熟練の少年兵に寄り添ってきた。
約束は四階ホールだ。ガールフレンドを連れて肝試しに来たとしか思えない二人は、せっせと階段をのぼった。吹き抜けのエントランスには、なぜかバスタブが置かれていた。水垢で黒くかびてひび割れたその姿が、時代の風化を感じさせる。フロアに積もった埃の厚さからしても、数年は人の手を離れているのが分かる。
(来てるな)
巧妙に足跡を隠しているが、グーデが先着しているのはなんとなく察せられた。に、しても埃の積もり具合で見破られないよう、細心の心配りをするのはやはりプロの手並みだ。ホールは見晴らしのいい、十数メートルの直線距離になっている。ちらほらと片付けられていないテーブルや椅子が転がっているが、銃を相手にするのには遮蔽物が少なすぎた。足元から天井までガラス張りだった向こうは、鉄骨がむき出しになっており、建材の一部かビニールが外の風にはためている。カーテンは外されて、夕陽で視界は明るい。隠れるとすればそのすぐ手前の梁を支える大きな柱の影に、グーデはいるはずだった。
「時間だ」
ユーナは言った。事実、指定した時間にほとんどなろうとしていた。もう来ているならば、柱の向こうだが、背後などにも彼は気を配っていた。
「ミハイル・グーデ、依頼人だ。姿を現してもらおう」
誰も応えない。そのことに、ルナがなにか言おうとしたそのときだった。
「なんだ、坊主の声だな…エルヴァド・ジーンの代理人でも、ハナタレ坊やの話を聞くつもりはないぞ」
ユーナは意を決して名乗ることにすると、大きく息を吸った。
「ユーナ・ジーン、ぼくはエルヴァド・ジーンの息子だ。東ヴァルキュリアから来た」
大きな柱の背後から照りつける夕陽で、まるで焦げ目のようにそこに影が出来ている。それがちらり、と動いた。
「エルヴァド・ジーンの息子か…教えてやる、やつは代理人は使わない。たとえ本当の息子だとしてもな。やつは危険な橋は自分で渡るのが何より好きな男だ」
ふわりと影が伸びた。ユーナは神経を尖らせた。一瞬、背後にいるルナのことも忘れるくらい、夕陽に踊る影の姿に注意を奪われていた。
影の足は赤かった。夕陽に溶けた赤い落書きが、影が歩くたびに火花のように弾けて散った。魔法陣だ。二つの足のある長い影は、コンパスの針のようにつま先を伸ばしてくるくる踊って消えた。
(しまった)
間もなくユーナのすぐ真横で、聞きなれたライフルのセット音を聞いた。正面を向いているユーナの死角の右側に立たれている。擦り切れコートの裾が見えた。嗄れ声が言った。
「動くな。君の負けだ」
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