第9話 怪物の姿は
ミーティングが終わるとすぐ、ユーナの歓迎パーティが始まった。ビールのジョッキが回され、乾杯はアーニーが取り仕切った。未成年三人はワインのように紅いクランベリージュースだ。ただしそれは最初の一杯だけで、アーニーの隣に座った今夜の主役は、あまり幸運な役回りとは言えなかった。
「男の勝負がまだだったな。決着つけてやるぜ」
ユーナはノンアルコールのハンデがあるとは言え、ジョッキの一気対決は明らかにアーニーのホームタウンデシジョンだった。飲みすぎてまず瞳が白んできたのはアーニーだったが、ユーナも食べすぎと飲みすぎで顔面が蒼白になった。それで二時間後、仲良く二人ともトイレに駆け込むことになったのだ。
「少しは楽しんだか?」
外に出て夜風に吹かれていると、アーニーがトイレから出てくるところだった。ユーナは言葉で応えずに目で肯いてみせる。
「なに考えてたんだよ」
本当は、特になにを考えていたわけではなかった。
「戦地のこと」
一番らしいと思われる答えを、ユーナは答えた。
「つい、半年前までこんな騒がしい場所にいなかったからね」
「北部アルトナだったな。寒かったろ」
こくり、とユーナは肯いた。砂漠の街も秋に傾いてビルを吹き抜ける夜の風は、ほどよく冷えている。アルトナの黒い森に吹き荒ぶ風はこんなものではなかった。
「寒いのは慣れてるけど。ヴァルキュリアもすごく寒い」
「クソ寒いのは苦手だ。良かったぜ、おれのときはアルトナなんかで問題が起きなくて」
のびをしたアーニーはふと、腕を伸ばした。指先はユーナの顔の前を横切って、砂漠に続く二車線の向こうを指している。
「向こうに海が見えるだろ? ずっと北がアルトナだぜ」
店は港に近いエリアにあるらしい。道理で道が閑散としている。
ユーナはこまごまとした建物が絶えた、だだっ広い通りの彼方をじっと見つめてみた。そこにはぼんやりとした船着場の明かりしか見えない。でも。闇がうねる海の向こう、北の内陸続きにアルトナがあるのだ。
「このバカ広い砂漠の北はずっと森が広がってるなんてなんか信じられねえけどな」
そんな国にユーナはしばらく出征していたのだ。そこで、気が遠くなるほど濃密な時間が過ぎたと思ったが、アルトナについて自分で知っていることなどは実は驚くほど少ないのだ。ロムリアの北、古代から広がる黒い森林地帯が国土の大半を占めるとても小さな国。世界に誇れる産業があるでもなく、深い、どこまでも深い森の中にひそんで何百年も、同じ暮らしを守り、他民族には秘して頑なに隠れ続けていた国。
衆目から特異な赤い目をさらすことを拒み続けた、その国の民。棲家を冒されたテロリスト。そして。今日、初めて逢った、アルトナの少女。
「ルナのガードをお前、頼まれたんだってな」
「うん」
「やれるのか?」
「やれるって何が?」
「なんだ…その、ルナはアルトナ人だぞ。お前、大丈夫そうか?」
「仕事だよ。関係ないさ。もともと、ぼくはアルトナを憎んでるわけじゃない。それにこう言うことは傭兵をしていればよくあることだし」
「お前の親父が言ってたのか?」
「まあね」
お前は良いだろう。だが、ルナはどうする?
アーニーが言った言葉じゃない。でも誰かが確実に言った。
(仕事なんだ。また、相手にとって必要なくなればここからいなくなればいい)
「まあ、お前に任せておけば確かに安心かもな。空港の一件を詳しく話してくれって言われて、レイランドに報告したのはおれだし。ルナはあんな状態で外にもろくに出れねえし、そのせいで友達も作れねえから、仲良くやってやれよ」
「とも…だち…?」
「お前にだって、友達はいたろうが。その一人にしてやればいい。まずは友達からだな。それ以上は」
「それ以上は?」
なぜかアーニーは顔を背けた。
「お前の好きにやりゃいい。なんだよ、怖い顔すんな。まだこの時点じゃ冗談だろ?」
「この時点って」
アーニーはあごをしゃくった。中からはピアノの音と、ルナの歌声が響いてくる。彼女は歌うことが好きなようだった。普段は年齢よりむしろ幼い声に感じるが、歌うときのその声は、どこまでも高く伸びていく。
ユーナは音楽に興味はないが、ルナが確かに上手いと言うことはなんとなく分かった。うかつに外出できない身でここに来るのは、その歌を思いっきり歌いたいからなのだろう。
歌だけは自由な音階を積み重ねて、どこへでも行ける気がする。
ヴァルキュリア人は古来から歌の力など、信じてはいないが。
「どうして彼女は、外に出られない?」
「さあな。アルトナの政治問題は難しい。おれに正確な説明は出来ない。ルナにだって、本当は分かっちゃいないかもな。でも、おれらで護らないといけない立場だってことは確かだ」
何から護る?
次にそんなことを聞くのが愚問な気がした。まず、それに答えるためにはさっき答えてもらえなかった質問の答えと同じことだから。
「まあ、理由はなくたって男は女を守るもんだ。助けを求められたら特にな。違うか?」
「どうとも言えないよ」
「頼むぜ」
そのときすっ、とかすかな
「なんだ、じいさん」
アーニーが目を細める。そうしないと夜の闇に紛れて消えてしまいそうに思えるほど、その姿がみすぼらしかったからだ。
「悪いな、今夜は貸切なんだ。また明日にしてくれないか」
老人は裾の切れた黒いロングコートに身を包んでいる。痩せて背の高い老人だった。目深にした山高帽とともに布は色褪せ、羽根の擦り切れたカラスを連想させる。手に同じだけ消耗した旅行鞄をひとつ、提げていた。
「そうかい、貸切かい。そりゃ残念だな」
軋るような音。薄い唇の端からこぼれ出でたと分かるのに、アーニーもユーナも、しばらく掛かるほどだった。
「今夜は飲めんのか。この街じゃあ『クロスロード』って名前のバーは、もうここだけだ。ここじゃなきゃ飲む気がせんのだがな」
帽子から突き出るように伸びた鼻の裾野に刻まれたしわが顔の上に山脈を形作っているが、表情の動きは少なかった。生まれてから一度も、そのしわの形のまま動かしたことがないと言うような無表情だ。
「『クロスロード』じゃなくていいって言うなら、そこの角を曲がったところにも一軒、酒を出してくれる店があるよ。酒代も同じだけで同じもので酔える。そこなら朝まで飲めるからよ」
「なんだ、誰か歌ってるのか?」
老人は目を閉じて耳を澄ます仕草をした。それからじっとして置物のように動かない。
「おい、あんたおれの話聞こえてたか? まさか、そのまま居座る気じゃねえだろうな」
案の定、老人が立ち退く気配がないことを知り、アーニーはため息をついた。それ以上は無碍にもしようがない。
「二人とも何かありました?」
シノブがルナと、顔を出した。外で揉めているのが聞こえたのだろう。またはさっきまで張り合っていたアーニーとユーナが喧嘩でもしているのかと思ったのかもしれなかった。
歌が途中で途切れた。
老人は閉じていた目を開けると、
「あんたが歌ってたのか?」
「あ、はい、わたし…」
ルナは戸惑いながら、答えた。
「若いのにたいしたもんだ。君はここの歌い手か?」
「いえ、あの、そう言うわけじゃないんですけど」
「なんだ、あんたじゃないか」
ルナとシノブの後ろからヴィトが、声を上げた。
「誰?」
「たまに寄る古い常連だよ。あんた、帰ってきたのか?」
「ああ、墓参りだ。そろそろ送られる身になりたいもんだがな」
「お互いにな」
ヴィトと老人は少し潤んだ目線を交し合った。
「今日は若いもんの日でな。まだこの街にはいるんだろ?」
「迎えが来るまではな」
「明日も店開けて待ってるよ。悪かったな」
「今夜はこれでいいさ。十分満足した。彼女のおかげでな。あんた、ありがとうよ」
肯くと、老人は節くれだった手を差し出した。ヴィトにではなく、ルナに対して今の言葉も言ったようだった。反射的にルナは自分の手を同じように差し出す。小さな彼女の手を老人は握った。二人は握手を交わしたのだ。
「いつも、楽しませてもらってるよ」
「え…?」
ぼそりと、そう言うと老人は乾いた声で笑った。
「この街の歌だ。そう言えば昔から、そいつにはお世話になってたんだ。あんたの歌を聴いて思い出したよ。さっきあんたが歌ってたのは、また、随分懐かしい歌のようだな。そうだ、こんな歌も知ってるかい?」
低くかすかな声で、老人はメロディをなぞった。それは水辺の景色と船で街に来たばかりの新婚の夫婦を祝う、古い小さな歌だった。今はLP版も貴重な懐かしのカントリーソングだ。知っていると言うかわりに、ルナもそのメロディの続きをなぞり返す。
「いいぞ、それだ。次はそいつをやるといい」
嬉しそうにルナが肯くのを見届けると彼はかすかに目を細め、握り締めたルナの手の感触を慈しむようにしてから離したと思うと、反対側の手で軽く彼女の肩を叩き、くるりと踵を返した。
「そこの角のバーだったな。あんた、教えてくれてありがとう」
「お、おう」
同じようなねぎらいをかけられて、アーニーは戸惑ったが、次の言葉をかけようとしたとき、老人はもう角を曲がってその姿を消していた。
「追っ払ったわね、アーニー」
キリウはじめ、シノブやエルクが非難がましい視線を向けてくる。
「ひでえ、なんの権利があって」
「だってお前ら、今夜は貸切じゃんかよ。誰も入るなってもともと描いてあるしよ…え、でも、おれ、追っ払ってなんかいねえよな、ユーナ」
「いや、してたよ」
肩をすくめると、自分は無関係だと言うようにユーナは顔をそむけた。
「今の人、かわいそう」
「ルナ、お前までおれをそんな」
「呼び戻してきます? わたしたちは別に構わないし」
シノブが言ったが、ヴィトはその客のことがよく分かっているらしかった。
「いいさ。あの人もにぎやかなのが好きな人じゃないんだ。また明日、空いてる時間に必ず来るさ」
山高帽の男はケースを提げたまま、路地を歩いている。探していた歌を見つけたせいか、かなり気分が良いようだ。鼻歌を歌いながら、角を曲がる。そこにはアーニーが教えた少し下品な店がネオンの明かりを灯して客を迎えていたが、老人は中に入らずにそこを通り過ぎた。しばらく行くと小路に入り、一本先のメインストリートに出る。
そこは大きな公園の裏手に続いていた。人通りも少なく、街明かりも暗い。決して、治安のいい場所とは言えない裏通りだ。夜の闇に隠れてそこには手まねでマリファナを売るプッシャーや、
ぶなの木の街路樹沿いに一台の古びた中古車が停めてある。そこに大男が覆いかぶさって、車内を覗こうとしていた。泥で汚されたガラスは故意になされたものか、車内の様子がうかがいにくくなっている。それはもちろん言うまでもなく、山高帽の老人の車だった。
「なにをしている」
老人が声をかけると、男はびくっと肩を震わせて車体から身体を離した。
「なんだよ、あんたの車かよ?」
「どけ」
低い声で老人が警告すると、そのたたずまいに異様な雰囲気を感じたのか、体格のいい男はおびえた目を見せて、要領を得ない弁解をしながら立ち去っていった。困ったものだ。もはやあらゆる意味で、老人の愛したディメオラとはかけ離れて久しい。あの男も始末しても良かったが、今日は悪くない気分だし、許してやろうと思った。
潰れた予定と空き時間は別のことで消化すればいい。
幸い、あてはあった。
ポケットからホルダーに留めたキーを取り出すと、老人はトランクをこじ開けた。もっと整備をしておくべきだった。軋んだ音を立てたそのパーツは、年月を経て埃にまみれ、明らかに形が歪んでしまっていた。
「ああ待たせたね…よしよし、悪かった」
老人は穏やかな口調で、トランクの内に向かって声をかけた。飼っている犬を旅行で自宅に置いてきたとでも言うような、それは声音だった。
「残念だ、貸切で入れなかったよ。お蔭で予定が余ってしまった。長くこの街に来ていると、こんなこともあるもんだな」
老人が話しかけている中は、黒い塊がうごめいている。それはトランクいっぱいの容量で、芋虫のように長く動き方もそれに近かった。もぞもぞと動くせいでぽんこつの車体がかすかに揺れている。ビニールシートをかけられた何者かがそこでもがいていた。
「だが君にとってもいいニュースとも言えんだろうな。・・・・・そう、予定が一つ余ってしまったんだよ。こう言うのは心の準備がいることなのに。お互い初対面なんだ、君にも、私にもな。だがそれも、仕方のないことだ。これはね、約束事なんだよ」
ばっ、と老人はシートに手をかけて、半分だけそれを剥ぐ。そこには涙と体液で褐色の顔をぐしゃぐしゃに泣き腫らした、若い女が目隠しをされて寝かされていた。うめき声は唾液に濡れてタオルに沁みる程度。トランクを閉めれば、誰にも気づかれないほどの無駄な抵抗をそれでも彼女は繰り返していた。
「予定なら明日まで生きられたのに。残念なことだ」
そう言う、老人の話し振りには同情の欠片もなかった。
「諦めてくれ。まあ、すぐに終わる」
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