第2話 新人研修
特に理由はないが、なんだか気まずい。
授業参観のときにしか会わない父親と子供のような、そんな微妙な雰囲気が、よく見ると不自然なこの二人の間を流れている。
二人がいるのは、ディメオラ国際空港二階のトイレの前だ。
無数の出国便や乗り継ぎ便が錯綜する出発ロビーが一望できる。フロアにひしめくあらゆる顔がひと目で判別可能だ。
どこにも出国する意思のない二人はカムフラージュにそれぞれ手渡された大仰なバックパックを床に置いて、待ち合わせをする旅客に偽装して、配置についている。
一見すると彼らはトイレの中の誰かを待っているように見えるが、実のところ視線は、交錯するエスカレーターの下、吹き抜けになったロビーの人並みに視線を注いでいるのだ。
二人は気まずそうに時折視線を絡ますが、それはこの任務に相対するお互いの考え方とコンセプトにかなりの開きがあるせいだ。それもどちらかと言えば主に人生経験豊富な年嵩の方が、より居づらさを感じているようにさっきから無意味な首振りと、不自然な貧乏ゆすりを繰り返している。
年齢も人種も雰囲気も違う、自称旅行客の不審な二人。
片方はビルドアップした胸板を強調するために自分流に着崩したダークスーツをまとってはいるが、ギャングスタ紛いの派手なアクセサリーやピアスをじゃらつかせている黒人の大男、もう一方は、すすけた迷彩色のハーフパンツに、藍色のパーカーを着たひどく小柄な色白の少年だ。南洋の密林を徘徊していたゴリラと極北の森に捨てられた狼の子ども。その二頭が手違いで、同じ檻の中にいる。状況はそんな雰囲気だ。果たしてその檻には今、暖房が必要なのか、冷房が必要なのか、そんな微妙な空気感の違いに、二人はお互いを対応しかねている。
やがて近場をうろうろしていた黒人の方がおもむろに口を開いた。
「おい」
とても彼の父親とは思えないギャングスタラッパー、アーニー・ブレントンが、さりげなく視線を下げてほぼ初対面の少年、ユーナ・ジーンに言う。
「もう少し離れろよ。なんか浮いて見えるじゃねーか」
狼の子供に似た風貌で黒髪を波打たせた、ユーナ・ジーンは彼の鳩尾ぐらいの位置にちょうど顔がある。
「なあ、隣にいられると気になるんだ」
「…」
「お前、ユーナって名前だよな、確か」
「…」
「つーかさ…なんだ、あー、子供づれに見えるだろ? なんか、おれが年取ったみたいじゃないか。言っとくけど、おれはお前の保護者じゃないぞ」
「あんたの言うこと、よく分からないけど」
ユーナと呼ばれた少年は物怖じしない目でアーニーを見て堂々と言う。自分から話しかけたのにも拘らず、突然人形がしゃべり出したとでも言うように、アーニーは目を剥いて、それからあわてて話を聞くために頭を傾けた。
「もし気になるんなら、それはあんたが離れればいいと思う。もともとこの任務を頼まれたのは、ぼく一人のはずなんだから」
「待て、その話はなんかの間違いだって何度も話したはずだろ? お前は飛び入りで、こいつはもともとおれの仕事なんだよ。なあ、大人の言うことは一応素直に聞くもんじゃないのか?」
それでもなんとか大人の余裕を見せて譲歩の作り笑いをすると、アーニーは肩をすくめて少年の表情をうかがった。だがそのとき少年はもはやその顔を見てはいなかった。ユーナはアーニーのスーツの襟首から覗く、古代の呪術を図案化した柄のタトゥーの辺りに視線をやっていたのだ。
「なんなんだよ。お前、人の話は目を見て聞けよ」
言葉で表現しがたいなんらかの危機を感じたアーニーは、思わずその部分のタトゥーを手で隠して問い返した。タトゥーの柄を確認できなかったユーナはじろりと、アーニーを見上げて、
「あんたが上官なら、ぼくは話を聞くよ。だけど」
実に軍隊式の紋切り型。いいか、と言う訓告口調でユーナは続けた。
「現場の指示に従って、予断は挟むな。そう命じられてるから無駄な話はしないし、聞く気もない」
「ああ、そう」
現場の指示とはすなわちアーニーの指示だと、彼自身は思っているのだが。
「集中できない。もう、必要以外のことは話しかけないでよ」
「ったく、いい教育してるよ」
説得を諦めて、アーニーはうそぶいた。この少年をまだからかってやっても良かったが、予想以上にかわいげがなくて、まったく面白くない。どうも子供は子供でも、野生動物の子供らしい。やり返されて、痛いところを噛まれては、暇つぶしにもなりはしない。
(任務、か)
半ば呆れ気味にため息をついてアーニーはユーナの言葉を
ユーナ・ジーンは十五歳の少年兵だと言う。入国前の七歳から、内戦の続く生地で父親に銃を持たされ、この国に来てからはアルトナ人種テロリスト制圧のための最強部隊、『シグルド』の少年特殊部隊で活躍していた。いわば年少エリートと言うものらしい。
各国から際限なく流入してくる移民が増えすぎたこのロムリア州立国では、入国前にノースエリアの管理島で審査を受けて、一定年数は国家に対するなんらかの奉仕義務を果たさなくてはならない仕組みになっている。記録によれば、少年は審査も厳しく、普通ならば十年は掛かるその義務期間を、三年の特殊部隊の入隊で一気に果たしたのだそうだ。
最後の任務、この少年は十六人の武装した一流のテロリストを皆殺しにし、本拠地を襲ってチームを壊滅に追い込んだと聞くが、本当のところはどうなのだろう。アーニーも同じ経緯で軍歴を持ってはいるが、さっきからとても聞けそうな雰囲気ではなかった。
(しっかし…こんなガキがMCAIにねえ)
アーニーは年齢で違和感を持っているのでは別にない。それは十五歳の同僚と同格扱いされることに多少の抵抗はあるが、MCAIは、もともとそんな常識が通用する部署ではないのだ。十五歳の元・特殊部隊員で驚いていては、このチームで仕事は出来ない。
ただ、その年で腕に自信があるなら同じ法執行機関でももっと荒事が多い捜査部署や、軍人ならばタスクフォースになぜ行かなかったのだろうか、そこを疑問に思うだけだ。
(まあガキならうちも珍しくもねえが)
ただでさえ気の重い外注の仕事に子守まで押しつけられては、たまらない。
「なあ、おい。ところでだけどよ」
もう用事は済んだと思っていたユーナは、まだ何かあるのかという顔でアーニーを見つめ返してきた。
「そもそもMCAIってどう言う部署か分かってるか? ここは本来なら、普通の人間が入れるような場所じゃないんだぜ?」
また、あんたの言うことが分からない、と言われないように、手早く鼻を鳴らすと、アーニーは言葉を継いだ。
「確かに、荒事に対処する能力があるに越したことはない。どの部署も予算が足りないから、あらゆる現場に駆り出されるし。だから実際、おれも元は軍人だし、それが役に立つことも多い。だけど、それだけじゃない。つまりその、おれの言いたいこと、お前が分かってるのかってことなんだが」
「理解しているのかって言うなら、頭では理解してるよ」
ユーナは遮るように言うと、ため息をついた。
「それにあんたが、不適格者としてぼくをお呼びじゃないって言いたい理由もなんとなく、分かる」
「おおい、勘違いするなよ? おれはそんなことは言ってねえんだぞ?ただ、おれたちの、MCAIってのは本当に特殊な場所なんだ。レイランドにはもう逢ったのか?」
「まだだよ。MCAIのメンバーでぼくが今日会ったのは、あんたの他は、キリウって名前の女の次官だけだ」
「キリウか」
今朝方休暇先から呼び出されて、緊急の任務のために別の機関に借り出されているアーニーの元に、この詳細不明の新人をいきなり送り込んできた本部の上司の名前を、彼はうんざりしたようにリピートした。
「あいつの言うことは忘れろ」
「なんで?」
「なんでもだ。仕事ってのは二つに分けられる。やってられねえ仕事と、やらないとやばい仕事だ。今のこれが、どっちの仕事だか大体分かるだろ?」
「どっちだか知らされた覚えはないけど」
埒の明かない説明に疲れ果てると、アーニーは言った。
「いいか聞け、ユーナ。大きな声じゃ言えねえが…つまりおれたちは本来、これが本業じゃねえんだよ」
一週間前、市内の幹線道路で何者かに連れ去られた人質ブレンダ・ウィルトンの解放がこのディメオラ国際空港で行われることになったのは、つい三十六時間前のことだ。
二十歳の大学生だった彼女は、アルトナ人解放戦線のテロリストにさらわれた線が濃厚とのことだった。ここのところ路線バスの爆破をはじめ、ディメオラで確保された政治犯の釈放を求めての声明や戦地での捕虜の虐待報道への報復テロを目的として、国内最大のテロリスト集団が市内に潜伏して活動を本格化している。
当局は至急あらゆる情報を集め、今回の一連の事件を起こしたグループの一斉検挙を今月末に予定していたのだが、マスコミ対応や部署間の調整でもたついているうちにテロリストたちにこれ以上ない先手を打たれてしまったことが、今回の非常事態を招いた。
空港では夜明け前から、厳戒態勢が敷かれている。実を言うと目の前を往来する、雑多な人種の客たちのほとんどは、当局が配置した捜査員で、必死になって民間人に紛れ込んだ危険すぎるテロリストたちを探し回っていた。
犯人グループは人質をとっている。最悪の場合、激しい戦闘も予定されていたりするわけだ。
中途半端な軍歴が災いしたのか、アーニーは組織のイメージアップのために、この危険極まりない任務に出向させられていた。
「ったく、政治ってのは恐ろしいよな」
アーニーは捜査官の目で、下に配置されている武装した男たちの姿を視界に拾いつつ、ひとり我が身の不幸を嘆いていた。ディメオラ市警からショットガンで武装した警備隊をはじめ、各機関から狙撃手や捜査員を配置して準備も万全だ。
「死んだらどうしてくれるんだよ、マジで」
アーニーも三丁の拳銃に標準装備で防弾ベストくらいは装着しているが、これは念のためと言うもので、銃撃戦になったら特に、参加しなくても良いというお墨付きはもらってはいた。彼にももちろん最初からその気はなかったし、殉職は言うまでもなく休職もごめんだが、ことはすべて神の思し召し、成り行きというものが介在するのだ。何事も起こりえないと言うことは存在しない。
「で、お前はどうするんだ? いざと言うときに、対処できる装備くらいは持参してるのか?」
「まあね」
「見たところ、何か、ここで役に立つものを持ってるとは思えないけどな」
地面からそれほど尺のないユーナの全身を近眼男の目でアーニーはまじまじと見たが、人質になる前に逃げられるかも知れないと言う身軽さ以外には、その格好に利点を見出すことは出来なかった。
「まあいいさ。さっきも言ったと思うけど、こっちも本業外だから、やばくなったらおれは先に逃げるからな」
「見たところ結構完全装備なのに?」
ユーナは白い目でアーリーを見て、言った。
「だ・か・ら、おれたちMCAIは戦闘が仕事じゃないんだって何度言わせる気だ? それにこれは、おれの手持ちの標準装備で別に、そこまで気合は入ってるわけじゃ…」
ユーナは微妙な目つきを保ったまま、無言無反応でいるだけだ。
「お前、もしかして、おれが臆病だとか、そう思ってるわけじゃないよな? 戦闘に参加する気もねーのに、こんな配置場所にいるんだとか」
ユーナは応えずに、肩をすくめて見せた。露骨なため息が、その仕草の後を追う。
「わーったよ…お前、どうなっても後は後悔しねえな。言っとくけど、本気になったおれは誰にも止められねえぞ?」
「口だけならなんとでも言えるけどね」
「よーし、いい度胸だ」
かなりあっさりとしたユーナの反応にアーリーはスーツを脱ぎ捨てるとどさりと重いチョッキを床に脱ぎ捨てた。そしてホルスターにつけた三丁の拳銃から、ニッケル加工をした四十四口径と三十八口径を取り出し、ユーナの前に突き出した。
「好きなのを取れ。銃撃戦が始まったらお互い一騎がけだ。どっちが多く獲れるかやろうじゃねえか。情報によりゃテロリストは九人のグループだ。決着をつけるには、ちょうどいいだろ。お前がただのちびっこか、腰抜けじゃなかったら、当然やれるよな?」
躊躇なく、ユーナは磨き上げた四十四口径の方を取り上げた。
「いい野郎だ。おれも戦場じゃGD・アーリーと呼ばれた男だ。どんな銃使ったって、射撃でガキに負けてたまるか」
ちなみに命じられた任務は現場の後方支援及び、必要に応じた対処である。しかし、今の二人にはどんな権限を持った、誰の言葉も耳に届きそうになかった。
「早い者勝ちだ」
「見つけたら撃っていいんだね?」
「上等」
もはや二人は完全に観光客ではないし、さらに言えば自称無関係の他人でもなかった。異様な輝きを持った同じ澄んだ四つの目が、空港のトイレの入り口の前でぎらぎら光っているのだ。小さな子供のお尻を抱えて駆け込んだ母親や、バックパッカーの二人組みなどが一瞬ぎょっとした目で、二人を振り返る。グレーの上品なツイードを仕立てた老紳士などは、引きつった形相で外に待たせておこうと思った奥方を抱き寄せた。
もししかるべき誰かの目に留まったのなら、彼らこそテロリストだと思われたかもしれない。二人が腰に差し込んで上着に隠した銃に手を触れ、さらに集中力を研ぎ澄ましたとき、アーニーの胸ポケットに入れた携帯電話がバイブして、勝負は中断された。
「ブレントンだ。誰だかしらねえが男の勝負の邪魔するな・・・・・今は誰の命令だって…なんだって?…ちょっと待て、おい」
後半はユーナに言ったのだ。電話を片手で持ったまま、反対の手でアーニーは、彼を制した。集中力を寸断されたユーナは、眉をひそめるとうそぶくように、
「早い者勝ちじゃないの?」
「ふざけんな…ああ、分かった。そっちの状況は大体分かってるよ。だから今すぐ行く。おいがきんちょ、勝負は中断だ。大人は、遊んでばかりいられねえんだよ」
「なにが起きたの?」
怪訝そうにユーナが訊く。
「おれたちにとってはこっちが何より重要さ」
電話と銃をしまうと、アーニーはにやりとして言った。
「本業の出番だよ」
呼び出されたのは、アーニーたちが張っていたロビーの反対側、北ウイングの空港のトイレだ。そこはカムフラージュした警戒態勢の南ウイングと異なり厳重に封鎖がなされており、一般人の立ち入りが禁止になっている。
五角形を半分にした形をしたフロア一面に張られた黄色いテープの向こう、特殊強化樹脂のシールドやアーマーで完全防備をした隊員たちは、どうやら爆弾処理班のようだ。何人かがトイレから出入りをして、外からの指示を繰り返し仰いでいる。
「遅いぞ、ブレントン」
爆弾処理班の責任者は、アーニーを待ち構えていた。黒い宇宙服を着た体格のいい大男がアーニーとユーナを中に引き入れる。
「すまねえオーク、ちょっと外せない用事でな」
「また男の勝負か?」
見透かしたように即答されて、アーニーが鼻白んだあと、
「アーニー…爆弾の種類が特殊で、おれたちには手が出せない。お前がちょうど、いてくれて助かったよ」
「爆弾の専門家?」
MCAIの専門性を掴みかねているユーナが追いかけて訊く。アーニーはオークの状況説明を聞く合間、短く答えた。
「爆弾の専門家だって? それはこいつらのことだ」
「じゃあ、あんたはなんの専門家なの?」
「なあ話によると、強力なやつだと。トイレどころか、建物ごと吹き飛んじまうってものもあるんだろ?」
本来、爆弾の専門家であるはずのオークが恐る恐る尋ねている。
「それはスペルを見てみないとよく分からない。ただいずれの場合にしても、仕掛けられた人間がまずもっとも危険だ」
スペル? 強力? それに…
「人間て?」
答えはトイレの中で待っていた。アーニーたちが堂々と入っていったのは、無人のトイレの中だ。蓋を閉じたままの便器の上に薄汚れたトレーナーにジーンズを着た若いブロンドの女が、泣きじゃくりながら座り込んでいる。しかし見たところ、女の身体のどの部分にも、爆弾は仕掛けられた形跡はなかった。
「どいてくれ」
アーニーの一言で、黒い装備で固めた物々しいメンバーたちが、潮が引くように道を開けた。
「…本人の話では、一歩でもそこを動いたら死ぬと脅迫されたらしい」
「便座からケツを上げてもか?」
オークは四角いあごを引いて肯いた。
「トイレに行きたい…」
彼女はそうして何時間、ここに置き去りにされていたのだろうか。便座に座って拳を握り締めたまま顔は青ざめ、目はうつろになっていた。必死に隊員が説得にかかるが、打開策が見出せないうちは、彼女の心は折れそうに細っているようだ。
「MCAIが来たから。もう大丈夫だぞ」
「MCAI…?」
そう訊いたのが、最後の一縷の希望を灯したのか、彼女の震えが停まった。痛々しいまでに泣き腫らして汗と涙で髪の毛の貼りついた顔を、彼女は新たにそこに入ってきたアーニーの方へ向けた。
「君がブレンダ・ウィルトン?…大丈夫だ、もう泣かなくていい。MCAIのアーニー・ブレントンだ」
アーニーはさっきユーナと話したときとは打って変わって優しく根気強い口調だった。MCAIと聞いてよほど安心したのか、張り詰めていたブレンダは肩から一気に緊張感が抜けて、思わず前にへたりそうになった。
「おれが来たからには、たぶん大丈夫だ」
アーニーがそれを抱きとめて、話を続ける。
「たぶん?」
ほっとしかけて相好を崩したブレンダが、ぎょっとして聞き返す。
「いや、たぶんじゃなくて絶対大丈夫…そう言いたいところだが、たぶんを百パーセントにするには君の助けがいるぜ? なあ、今からなにが起きても、おれの言うことを必ず聴くこと。まずこれ、絶対守ってくれ、いいかい?」
ブレンダは必死の体で肯いた。
「じゃあこれからいくつかの質問をするから、よく思い出してはっきりと答えるんだ。答えられる範囲で構わないから」
精神と肉体の限界まで追い詰められながらも、ブレンダは最後の気力を振り絞って、懸命に肯いた。
「分かった、なんでも聞いて。思い出して答えるから…」
「よし、いい子だ。じゃあ、訊くぜ。君は、何時間くらいここにいる?」
「分からない…」
「君をここに座らせてから、やつらはなにをしてた?」
またもぶるぶると首を振った彼女に、アーニーは根気よく質問を噛み砕いて答えやすくし、前後の状況から、ここに彼女を連れてきた犯人は二人、発見後の時間を勘案して三時間は彼女はこのトイレに閉じ込められていたと言う事実を割り出した。
「下手なことは一切するな。…助けを求めて声を上げても爆発するぞって、脅されたの」
「そいつはただのはったりだ…自分の都合に応じていいように状況をコントロールしようとしているだけだ。…で、犯人は爆発するって言ったのか?」
ブレンダは唾を飲み込む仕草をした後、深く肯いた。
「吹っ飛ぶのはお前のケツだけじゃない…解除の仕方を教えて欲しかったら、取引に応じさせろって」
「つまりはケツを浮かすと爆発するわけね…」
ぼそりと言うと、アーニーは腕組みをした。後ろからオークが急かすように口を出す。
「今犯人グループから、要求が来てる。アーニー、あんたも話を」
「ほっとけ、そいつとの話は後回しだ。…爆弾の種類が分からなければ、こっちは全部言いなりになるしかないんだ。つか知ってるだろ、おれは何でも人に頭下げるの嫌いなんだよ」
「爆弾なんてどこにも見えない」
ついに溜まりかねて、ユーナが口を出した。
「あんたはさっきから何の話をしてるんだ?」
アーニーは別に高ぶらず、肩をすくめると、言った。
「ああ、そうさ。誰にでも見えるもんじゃねえから、問題なのさ」
「誰にも見えるもんじゃない?」
「それが第一歩なんだよ。誰にも見えないものを扱えるのが、MCAIに入る唯一の資格っちゃあ資格だな」
やがて誰かが残してきたアーニーのソフトケースを持ってきた。
「なにをする気?」
ユーナが怪訝そうに聞く。
「まあ、見てろよ」
アーニーは答えを保留すると、ケースをこじ開けた。そこには、彼の外見からして恐らく誰にも想像もしないようなものが入っている。不思議な文様の入った魔術書、コルクで栓をした埃臭い瓶に入った色とりどりの怪しげな液体、干した首をあしらった呪術の道具、水晶の髑髏などだ。アーニーは手馴れた仕草でそれらをブレンダの足元に広げ、血の色のような赤い水晶が先端についたペンのようなもので何も書かれていない床を、丁寧になぞり始めた。
「厄介なのは、こう言うもんが目に理解できる人間と理解できない人間がいて、理解できない人間の方が多いってことだ。知らない人間を騙すのは容易いし、愉快だろ?・・・・・魔法が爆弾として使われる場合、それはもっとも卑劣な脅迫の道具になりうるんだ」
作業を終えたアーニーがぱちん、と指を鳴らすと、ブレンダの周囲に青い炎が燃え上がった。彼女は危うく腰を浮かしかけたが、アーニーがその身体を事前に抱きとめて留めていたため、大事には至らなかった。
「見ろ、彼女を」
「ひっ」
見ると、床一面、トイレの便座にまでびっしりと、なにやら青い文様が浮き出してきている。それは彼女の全身にも及びブレンダにけたたましい悲鳴を上げさせた。初めて見る人間がこの場に多いのか、どよめきの声がユーナがあげた声を呑み込んで掻き消した。
「いや、なによ! なにが起きてるの?」
「落ち着けって、なにがあってもおれを信じるって言ったろ? ゆっくり深呼吸して、身体をリラックスさせるんだ。もう少しの辛抱だ…よし、OK。離すぜ?」
彼女の身体を元の位置に落ち着けたアーニーは、もう一度大きく全体像を見回した。目を瞠るユーナに、アーニーは得意そうでもなく言った。
「これが魔術ってやつさ」
「魔法…魔術で爆弾を作ってるの?」
ユーナは信じられない思いで、目の前の青い文様を見つめている。
「正確には、魔法陣だ。特殊な図式と文様を使って、この世界に秘められた力を集中して開放する。…爆弾に使われる魔法陣は大きく分けて二つあるんだ。それ自体に魔力がある文字を使うものと、数字の配列で惑星の力を呼び寄せるもの…これは見たところ、文字を使ったものだ。だから、時間切れでいきなり爆発したりはしない。だから、交渉の成り行き次第でどうにでも出来るんだ。どこかで、この状況をコントロールしているものがいるはずだ。それもかなり近くに」
やがて青の発光はすぐ消えた。アーニーは応急の処置を行い、彼女をしっかりと元気付けると、一旦外に出た。成り行きを見守るしかなかったオークをはじめとした爆弾処理班のスタッフが後につく。
「今から探すのか?」
オークが失望を隠しきれない声を上げ、追いすがってくる。
「おれが何とか交渉を引き延ばして、付け入る隙をうかがってみる。お前らはその間にこいつを操ってる犯人を捜してくれ。こいつはスペルを組んだ人間にしか分からない、癖やこだわりがあるんだ。罠だって仕掛けてあるかも知れないから迂闊にいじれない」
「普通の爆弾と同じに?」
ユーナの質問に、アーニーは片目をつぶって答えた。
「そう言うことだ。ただ、仕掛けた本人にすら簡単に解除できない、そんな最悪の場合だってある。…分かってると思うが、今の話は中のブレンダに絶対話さないように気をつけろよ」
「腰を浮かしたら、ケツが吹っ飛ぶって?」
前から駆けてきたスキンヘッドのあごの長い男が、アーニーに食って掛かる。彼もアーニーの顔見知りで、別機関の出向のようだ。
「バッシュ、お前らテロ対策だろ。なんで内偵を進めて情報を集めてなかったんだ」
「無茶言うな」
バッシュはアーニーたちが先に現場に到着したこと自体が気に喰わないのか、目を剥くようにして、
「得たいの知れないアルトナ野郎どもに紛れ込める人材が、すぐに見つかるとでも? やつらは魔術を使うんだぞ。お前みたいに青い落書きの意味が分かりゃいいが」
肩をすくめて、アーニーは腹立たしげに答える。
「壁の落書きとスペルの違いも分からねえんなら、別の頭を使えよ。犯人側の要求を伝えに来たんだろ?」
「逃亡用の特別機の手配と、十七人の政治犯の釈放だ」
「交渉はどれくらい引き延ばせるんだ?」
「もって二時間だ」
しばし考えた後、アーニーは、
「いいか、このスペルを書いたやつは二人組だが、最低一人はこの近くで別行動を取ってるはずだ。今からここに結界を張って、中の状況を外からはスペルで覗けない状態にする。その間にカメラや盗聴器を探し出して、犯人側に中の状況が分からないようにするんだ。犯人にはMCAIが到着したと言って、プレッシャーをかけろ。普通の爆弾と違って、魔法陣の爆弾はスペルの構造が分かれば、壁の落書き同然だ。目一杯はったりをかますんだ」
「分かった。他には?」
「その間に警備の人間をこの現場を取り囲むように移動させて、スペルをかけた人間を出られないようにするんだ。この北ウイングのどこかには必ずいる。その捜索範囲内でおれとこのユーナが、仕掛けた奴を探す。交渉で分からないことがあったら、イヤホンをつけとくからそれで訊いてくれ」
「アーニー」
ユーナが、なにかを話し出そうと、アーニーに声をかけた。
「ユーナ、おれたちでやるしかない、魔法使いのテロリスト探しだ。気づくのは早い者勝ちだが、勝負はお預けにしてくれ。少しでもいい、怪しいやつを見つけたら迷わずおれに知らせろ」
「分かった。けど、一つ訊いても?」
「なんだ、まだ何かあんのか?」
トイレの一帯を封じる準備を急ぎながら、アーニーはうるさげに聞き返した。
「この人は?」
ユーナは、駆けつけてきた特別捜査官を見て言った。
「バッシュだ。テロ対策課、おれたちを管掌してる中央捜査局には、同期の入局だ」
「このガキは?」
急いでいるアーニーにバッシュも怪訝そうな顔で訊く。
「ユーナ・ジーン、元シグルドだそうだ。なんでMCAIに来たのか、おれにはよく分からねえが」
「シグルドだって?おれにも理解できない」
二人はともに不審な目で視線を絡ませあう。
「そりゃ、お互い突っ込みどころ満載だろうよ。だが自己紹介は後でやってくんねえか? 見ての通りおれ様は忙しいんだ。いいかお前ら、たかがトイレの落書きごときに空港ごと吹っ飛ばされたくなかったら…」
その瞬間だった。
ユーナの小さな身体が一瞬でその場にいた全員の視界から姿を消し、目の前のバッシュの首を駆るように押し倒した。
突然の出来事にアーニーも言葉を次ぐ間もなく、気づくと、バッシュの胸の上にユーナが膝を乗せていた。バッシュは自分でも認識できないほどの素早さで身動きが取れないばかりか、完全に抵抗する術を封じられていたのだ。
いつのまに抜いたのか眼球に突き立てるほどの距離で、切っ先をよじった
「馬鹿野郎、なにやってるっ!」
「さっき指示を受けた通りだ。気づくのは早い者勝ちだけど、怪しいやつを見つけたら、すぐにあんたに知らせる」
「おい、おかしいぞこいつ、いかれてやがる!」
「ユーナ、離せ。…今すぐにだ。問題にならないうちに」
やむなくアーニーは銃を向けて警告したが、少年は銃口を見ようともせず、もちろん手も退かなかった。
「シグルドの名前を訊いて、今、こいつの顔色が変わった」
「極秘の特殊部隊の名前を聞いて反応しねえやつはいねえ。おれもバッシュも、元・軍人なんだ」
「アーニーも軍人をしてたなら、同胞を殺した人間を見る目は分かるはずだよ」
埒が明きそうになかった。なぜこんなことに?
「分かった、落ち着け。お前の言い分を聞くから。まずそいつから身体を離すんだ」
厄介なことになった。冷や汗を隠しながら、アーニーは今朝送り込まれたばかりの新人に銃を向けている。
「他におれが納得する根拠があんのか?」
「ある」
遮るように、ユーナは言葉を続ける。
「彼は、この中でも一番最後に現場に入ったはずだよ。彼はあんたの言う魔法をなんて表現した? トイレの中の落書きは何色だったって?」
その言葉に、アーニーもさすがにはっと気づいた。銃口を下に向けたとき、バッシュの表情には深い憎悪の影が刻まれ、一瞬で瞳の色が赤く変化していた。
「小僧、よく判ったな」
「魔法使いは知らないけど、アルトナなら見飽きてる」
ユーナは平然と言い捨てた。ナイフの切っ先は一ミリもずれることはなかった。偽者は首を捻ってアーニーに顔を向けた。
「やあ、同胞。…出来ればシグルドは、隙を見て八つ裂きにしてやりたかったんだがな」
ナイフを見てひと目でシグルドと判るのか。
実に穏やかな語り口で、バッシュだった男は言葉を発する。
その声はすでに違う男の声だ。身体つきまで変化する。
ざわざわと湧くように狼の毛並みに似た黒髪が生え始め、体型も如実に変化を始めている。かすかに緩めた口元には犬歯が覗き、獰猛な獣の印象で男は嘲笑った。
「バッシュをどこにやった?」
「探せよ。二時間くらいなら、待ってやらんこともないぞ」
「黙れ」
この期に及んで悠長な駆け引きを仕掛けようとしていることは、アーニーにも分かっていた。顔見知りに化けられた動揺もあって、対応に戸惑った彼に、ユーナの声が降り注ぐ。
「まだもう一人も近くにいるよ」
「なんだって?」
「さっきも言ったけど、魔法のことは判らない。でも判る」
変化した男にいぜん隙を見せないまま、ユーナは、自分の見解を続けた。
「この男は八つ裂きが目的だ」
次の瞬間のアーニーの判断は、直感としか言いようがなかった。
「トイレから出ろっ! 女も化けてるぞっ!」
退避する二人と隊員に紛れて、男も立ち上がった。逃げるどさくさに何人かを道連れにしようと言う魂胆だったのか、適当な人質をとって逃げるつもりだったのか、それは判らない。だが彼はいずれも選択できる立場になかった。首を押さえる前に、すでにユーナによって足の腱を切り裂かれていたからだ。
便器が吹き飛び、焦げ臭い匂いが黒煙とともに噴出してきたとき、アーニーによって男は同じように吹っ飛ぶのを免れた。
「いかれてやがるのはどっちだ?」
焼けつくような爆風が吹きつける目を手で庇いながら、アーニーはアルトナの男を問いただした。男は平然と答えた。
「現実を受け入れろ。お互い相手に抱いている嫌悪感と憎悪をな。おれはとっくにそうしてるのに、お前らはいつもただ無関心だ」
顔をしかめて舌打ちをすると、アーニーはその男の胸を突き放した。足首を切られ、男は上手く立てない。その上に、遅れて駆けつけてきたテロ対策課のメンバーたちが押し被さっていく。
ナイフに少量ついた血をズボンで拭い、ユーナは腰のシースに仕舞いこんだ。銃はなくても、最初から武器は仕込んでいたのだ。あの一瞬、飛び掛ったのはアーニーにも見えたが、足首を切ったのは、とても視認出来るものではなかった。
「小僧、お前のことも忘れない。おれだけじゃない、アルトナの同胞ならすぐに分かるぞ。お前の目は、多くの同胞を殺した目だ!」
揉みくちゃにされながら、男が絶叫する。抱え上げられた男はあくまで抵抗して、スタンガンで行動の自由を奪われた。意識を失ったアルトナの赤い目を、ユーナは色のない目でじっと覗きこんでいた。
「お前も人に見えないものが見えるみたいだな」
駆け寄ってきたアーニーが言った。
「あの目の色を、見ただけで全部判ったのか?」
「まさか」
ユーナは気の抜けた声で言うと、軽くかぶりを振った。
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