第16話 送り火

「縁日って楽しいねぇ。」

 神社の石段に座り、クロが楽しそうに声をあげた。彼女の傍には、ピンク色のヨーヨーや、輪投げでとったミニカー、ひもくじでひいた金魚のジョウロ、食べかけの綿飴の袋と色とりどりの大玉飴が入った袋が並んでいた。さすがにミドリガメはすくうことができなくて、恭一はほっとしていた。

「そうだね、楽しいね。」

 嬉しそうに相槌を打っているが、弘介はもう限界が近そうだった。無理もない、弘介は2日寝ていないのだ。そろそろ視線が虚ろになってきても、誰も文句はいえないだろう。

「射的もやりたかったなぁ。」

 石段から屋台を見下ろし、クロが残念そうに声をあげる。不思議なことに、この場では誰にでもクロのペルソナは見えているようだった。ミドリガメすくいの屋台の兄ちゃんも、綿飴のおじさんも、誰もクロに対して不思議な顔をしなかったのだ。なのに、どうしてか、恭一にだけは相変わらずクロはクロのままだった。

「クロ、焼きソバ食べるか?」

「うん。」

 志朗が自分の食べている焼きソバを途中でクロに渡す。クロは焼きソバを受け取ると、歯に青海苔をくっつけながら、嬉しそうに食べ始めた。

「弘介、大丈夫?」

「あ、当たり前だ。せっかくクロちゃんと縁日デート気分なのに、倒れられるか。たとえ、こぶが二つ付いてても!」

 しかし、その顔には眠たいですと書いてあった。腹がいっぱいになって、眠気も破壊力を増したのだろう。焼きソバを食べるクロの横で、弘介はかくかくと船をこぎはじめた。

「弘介?」

 不思議そうにクロは弘介を見て、肩をゆすると、一瞬だけはっと起き上がり、クロを見るが、しばらくするとまた舟をこぎ始める。

「もう限界だから、そのままにしておいてあげて、クロ。」

「うん、わかった。」 

 クロは返事をすると、残りの焼きソバをもぐもぐと食べ始めた。いつのまにか、境内の灯篭の灯りがしっかりと藍色の闇を照らすような時間になっていた。恭一がポケットからスマホを出して時間を確認すると、もうすぐ7時半だった。

「そろそろかな。」

「何が?」

「花火だよ、クロ。あっちの方向見ていてごらん。」

 神社の石段に座って、川の方向を指差す。神社の石段からだと、意外と花火大会の花火がしっかり見えるのだ。ここは座って花火が見られる穴場なのだと、その昔、志朗に教わったのだった。

「覚えてたんだな。」

 志朗が驚いたように言った。

「うん、じいちゃんとここで花火を見たよね。」

 川辺で見るほど、花火も大きく見えないし、音も迫力はないのだが、少し小さく咲く夜の華をここで見た記憶は色鮮やかに覚えていた。自分の大切な風景の記憶だ。大切な風景だからこそ、クロにも見てもらいたかった。眠ってしまっているが、弘介にも見せてやりたかった。

 7時半ぴったりに、川の方からドンとい力強い音がした。クロがびっくりして体を硬直させる。風にのってひゅぅという空気を切り裂く音がして、ぱっと空に華が咲いた。

 周囲で歓声があがった。穴場とはいえ、他にもたくさんの人がこの石段から花火を見ていた。夜空に咲いた大きな華は、赤や緑の光を散らして、やがて静かに夜の闇に消えていった。

「わぁ……」

 クロは目を大きく見開いて花火を見ていた。

「怖くないよ。」

「うん、大丈夫。」

 再び花火の上がる音がとどろいたが、もうクロはおびえてはいなかった。むしろ空に咲く華に夢中になって、その火の軌跡を追いかけていた。

「きれい。」

「うん、きれいだね。」

 空に次々と光の輪が咲いていく。きらめく火花が星の粉のように落ちていくさまを、なんとかつかめないものかと、クロが手を空に差し出していた。風に乗って流れる祭囃子と花火の打ち上げの音、そして人々のあげる歓声が一体となって、耳に大きくこだましていた。またひとつ、自分の好きな風景を共有できたかなと思うと、恭一は少しだけ、嬉しくなった。

 激しく音がとどろいて、いくつもの花火が重なって打ち上げられると、人々の歓声はますます大きくなった。いよいよ花火大会もフィナーレなのだろう。大きな花火が次々に打ち上げられ、夜空に儚い光の輪を一瞬だけ焼き付ける。

 誰もが花火を見ている中、一人志朗だけがクロを見ていた。無邪気に花火を楽しむ様子を見て、安心したような哀しいような複雑な顔をすると、ひとつ首をふって立ち上がった。

 横で何かが動く気配がしたので、恭一が振り向く。そこには志朗が立っていた。

「どうかした?」

 何気なく問いかけると、志朗はこともなげに言った。

「うん、そろそろ行く。」

 トイレにでもいくような気軽な言い方だった。

「行くって、どこに?」

 漠然とした不安が目の前で確実になっていくような気がしたが、それでも恭一は聞くしかなかった。

「送り火が消える前に戻らないとな。」

 恭一は花火の爆音で麻痺した頭で一瞬考えた。お盆の最終日に花火をする理由。それは、死者があの世に帰るための目印の送り火とするためだ。家の仏壇の前の提灯やおがらの焚き火と同じ意味を持つのがこの花火なのだ。

 恭一の後ろの方で、ぱあっと花火が明るく打ち上がった。大きい花火だ。これで花火は終わりだろうか。

「待って、ちょっと待ってじいちゃん。」

 大声をあげるが、花火の爆音にかき消される。クロは恭一が大声を上げていることにすら気づいていない。

「クロを、クロを置いていかないで。」

「クロには、もうお前がいるじゃないか。」

 志朗は優しい微笑を浮かべてそう言った。

「クロの世界はお前が新しく作ってやれ。わしのを引き継ぐんじゃないぞ、新しい世界になるんだぞ。」

「無理だよ。じいちゃんの代わりになんてなれない。」

 志朗は一瞬だけ真剣な目をしてから、優しく諭すように言った。

「誰も、誰かの代わりになんてなれないぞ。お前はお前でいい。お前にクロの世界になって欲しいんだ。」

「じいちゃん……」

 いつの間にか、頬に熱い涙が流れているのに気がついたがぬぐう暇もなかった。志朗はそんな恭一をみてひとつ笑うと、ぐっとその頭を抱き寄せた。

「ほら、男が泣くな、みっともない。クロを頼んだぞ。」

「……うん。」

「お前だから、頼むんだからな。クロを泣かせたら承知しないぞ。」

「……うん。」

「それじゃあ、行くよ。」

 恭一の頭をそっと元に戻すと、急速にその手の感触が消えていくのがわかった。

「じいちゃん、行かないでよ!」

 大きく叫ぶが、再び花火の爆音が連続して聞こえた。フィナーレの花火の連続打ち上げに入ったようだった。空が次々に赤や青に染められて、いく。人々の歓声も最高潮に達した。

「じいちゃん!」

「また、来年帰ってくるからな。」

 花火の光がかき消えるようにふっと、志朗はその気配を消してしまった。神社には祭りの後のわくわくしたような、それでいて少しさびしいような空気がしっとりと流れた。花火の灯りが消えて、再び訪れた闇は、もう真夏の暑さをはらむことはなく、どこか秋の気配を感じさせていた。


「花火、すっごくきれいだった!」

 クロの声で我にかえる。クロは花火の輝きにも勝るともおとらないきらきらとした瞳でこちらを見ていた。

「クロ…・・・」

「どうしたの、恭一?」

 涙の跡を見て、クロが不思議そうに首を傾げる。そして、気がついた。石段にあいた一人分のぽっかりとした空間に。

「クロ、あのね…」

「志朗は!」

 クロが声を上げた。

「あのね、クロ、じいちゃんは……」

「志朗はっ、志朗はどこっ?」

 不安を確信に変えるのはクロの勘がなせる業なのだろうか、クロは慌てて立ち上がると、きょろきょろと辺りを見渡した。花火見物を終えた人々が波を作って境内を後にしようとしているが、その波のどこにも、志朗の姿を見つけることはできない。

「うそ……」

「あのね、クロ。じいちゃんはあの世に帰ったんだ。」

「嘘だよ、志朗が私を置いてくなんて、嘘だよっ!」

 クロが声を上げる。周囲の人がその声に不思議そうにクロを見た。

「ちょっと、クロ、落ち着いて、大声ださないで。」

「嘘だよ、また、置いてくなんて。置いていくなんて、嘘だよ。志朗なら、もう私を一人になんてしないもん。嘘だよ、嘘だよぉ……」

「嘘じゃないよ。よく見て。」

 クロは境内をじっと見渡した。嘘だといいながら、クロには現実がよく見えていた。この境内には、いや、もう、何処にも志朗はいないのだということがわかっていた。それででも、嘘だといい続けなければ自分を保てそうになかった。

「嘘っ!」

 駆け出そうとするクロを、ぎゅっと恭一が後ろから捕まえて抱きしめた。

「嘘じゃないよ、落ち着いて。」

「いやっ、離して、志朗を、志朗を探しにいくのっ!」

「もぅ、じいちゃんは…いないよ…・・・」

 腕の中のクロの力がだんだん抜けていくのがわかった。その瞳いっぱいに絶望をうかべてクロが遠くを見つめていた。

「大丈夫、クロは一人じゃない、僕は、ここにいるから。」

 そう言って、腕に少しだけ力を込めた。クロは背中を向けたまま、大きな声で泣きはじめた。その涙を止めてやることは、恭一には出来そうもなかった。

「クロ、よく聞いて。」

 腕の中で泣き続けるクロに言い聞かせるように、耳もとで恭一は言った。

「じいちゃんは、最後までクロのことを心配してたよ。今だって、きっと、クロの泣き顔が見たくなくて、黙って帰っちゃっただけだと思う。」

 クロの涙が恭一の腕を温かくぬらしている。クロの早い鼓動が肌を通して伝わってくる。クロが猫であるとか、ペルソナを持っているとか、志朗の猫であったとか、色々なことがとても瑣末なことに思えてきた。ただ、今、腕の中にいるクロの涙を止めることができない自分の無力さだけが悔しかった。

「また、来年、帰ってくるって言ってたよ。」

 そんな言葉がなんの気休めにならないことくらいわかっていたが、勝負を対等にするためには、これはクロに言っておかなければいけない言葉だった。何の勝負か、誰に理解されなくてもいいと恭一は思った。死んだじいちゃんとの勝負と言っても、誰も理解しないことくらいわかっていたから。

「だからね、クロ。じいちゃんが帰ってくるまで、僕がクロの世界になるよ。だから、今は……泣いていいよ。」

 クロがゆっくりと振り向いた。印象的で大きな黒い瞳が、涙をたたえてこちらを見ていた。恭一はクロの泣き顔を見たくなくて、そっと髪をかきあげて頭を抱くと自分の肩に押し当てた。クロはそっと恭一に体重を預けると、声を殺して泣いた。

 自分の腕の中で、じいちゃんのことを思って泣かれるのは悔しかったけど、これが今の自分とクロの距離だとしっかり自覚する。これが自分のスタートラインだとしっかりと刻み付ける。

 クロを抱く腕に少しだけ力を込めると、決意を込めて言った。

「これからは、僕がクロを守るから。」

 腕の中で細かく震えながら泣き続けるクロをどうすれば守れるのかなんて、恭一にはまだ、わからなかった。ただ、クロが泣き止むまで、恭一はしっかりと抱きしめていた。

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