第10話 雨上がりの銀色の時

 アスファルトはまだぬれていたが、雨はすっかりあがって月明かりが銀色に路面を照らしていた。むっとするような湿気を吸い込みながら、恭一は走った。クロは何処にいったのだろう。この一月ほど、ずっと一緒にいたわりに、クロのことを何も知らない。一緒にいない時にクロはどこにいるのか、誰と知り合いなのか、お気に入りの場所は何処なのか。そして、嫌がることは何なのか。

 知らなかったとはいえ、悪かったとは思う。親と離されて捨てられるなんて、経験のある人間なんてそうそういるもんじゃない。いったいどんな孤独をクロは抱えていたのか、共感なんて簡単にできない。

クロがはじめて家に来た時を思い出しながら走る。小さなダンボールに入って震えていたクロ。不安そうにダンボールの中から恭一たち家族を見上げていた。あのダンボールの中だけがクロの世界だった。そこから救い出したのが志朗だった。あの時から、クロと志朗の間には、ずっとかけがえない絆があったのだろう。思い出してみる。家に来たクロは、ずっと志朗と一緒だった。小さなクロにとって、ダンボールの中から救いだしてくれた志朗は、世界そのものだったに違いない。

そして、またその世界は奪われた。志朗の死によって。突然死だった志朗。もちろん恭一達家族も突然の不幸に悲しんだ。しかし、世界を失ったクロはどうだったのだろう。どれだけ不安だっただろうか。恭一達は誰も忙しさの中でクロを顧みなかった。単調に餌と水とトイレだけは世話したが、少なくとも一人の個人としてはクロと接してはいなかった。クロの声を聞かない、クロのことを見ない恭一たちは、どれくらいクロを傷つけただろう。

「ごめん、クロ。」

 謝っても、最初から遅い。自分の部屋を手に入れたついでに、クロの面倒を引き受けたぐらいの心構えしかなくて、クロのことを自分の飼い猫のように思っていた自分が、自分勝手で都合がよくて、なんだかとても浅はかに思えた。

 息をきらして立ち止まると、汗が吹き出る。流れ落ちる汗をぬぐうと、手にびっしょりと水の感触がまとわりつく。夜の闇の中で、猫を一匹探すなんて、潮干狩りで落としたコンタクトを探すようなものかもしれない。どうでもいい例えを頭に思い浮かべて頭をふると、再び恭一は走り出した。

 ふと違和感を感じて、立ち止まった。そこはいつも駅に行く途中に通る道だった。しかし、何かがいつもと違う気がした。月明かりを頼りに、よく景色を思い出してみて、違和感の主を発見した。古びた内科の診療所の庭に植えられていた楠の木が、ぱっくりと二つに裂けていたのだ。

 先程の雷のせいかもしれない。あまりに見事にぱっくりと裂けているので、しばらく目を奪われていると視界の隅でエンジ色の布がひらめいた。

「えっ……?」

 あわてて振り返り見ると。すぐ横の塀の上をクラシカルなセーラー服を風にゆらして、少女が静かに歩いていた。黒いまっすぐな髪が特徴的な襟の上に流れている。エンジ色のスカーフがふわとゆれ、少女がこちらを向いた。印象的で大きな黒い瞳が、濡れた輝きを宿していた。

「クロっ!」

「……恭一。」

 歩みを止めて、少女――クロが言った。

「……泣いてたの?」

「……ううん。」

 誰にでもわかる嘘をつかれて、恭一はどうすればクロを連れて帰れるか、真剣に考えた。素直に謝ることがこんなに難しいなんて思いもしなかった。子どもの頃は、女の子を泣かしても「ごめんね。」「いいよ。」で握手をして仲直りできたのに。いつのまにこんなに不器用になってしまったのだろう。

「泣くなよ。」

 口をついて出たのは、こんな言葉だった。自分でも何が言いたいのかわからない。自分にとって、クロはいったいどういう存在なのか。わからない。わからなかったが、いつのまにか失いたくない、大きな存在になっていることは否定することはできなかった。でも、それは家族に対する思いに近いのだと思う。よく犬や猫を飼っている人達が、ペットは家族と言うのと同じだろうと思った。

「みんな、待ってるから、帰ろう。」

「……うん。」

 クロは俯いて小さな声で返事をした。するりと黒い髪が流れて顔にかかる。月明かりでは、クロの表情は見えなかった。

「もう、お前のこと見ないふりなんかしないから。」

 そう言って手を差し出すと、クロが顔をあげた。

「最後まで抱える覚悟がないなら、手なんか差し伸べないで。」

「クロ……」

 クロの大きな目から、涙がこぼれた。

「志朗だって、約束したのに、私をおいて死んでしまって、約束守って……守ってくれなかったもん。」

 ぽたと音がして、涙の粒がアスファルトに散った。

「長老たちの言うとおりだった。ヒトを信じると、つらいことが増えるって。」

「クロ……」

 恭一は大きく息を吐くと、しっかりとクロの目を見た。

「悪かったよ、ごめん。もう、悲しませたりしないから、僕らのところに帰ってきて。」

 クロの抱える孤独を癒せるとは思えなかった。クロの気持ちに寄り添うこともできないと思った。当たり前のことしか言えないのがもどかしかったけど、クロをきちんと取り戻したかった。

「もう一度、信じて欲しいんだ。ヒトを。いや……僕を。」

 塀に一歩近づき、手を差し伸べると、少女の姿がふわっと宙に舞い、恭一の腕の中に飛び込んできた。恭一はぎこちなく少女を抱きしめると、艶やかな黒い髪をなでた。

「じいちゃんも、弘介も心配してた。帰ろう。」

 クロの体は震えていた。恭一はクロの震えがおさまるまで、そっと抱きしめていた。どうすれば、志朗の代わりになれるだろうか。一生懸命考えたけれども、わからなかった。あたり前の言葉しか並べられなかったが、これ以上にクロを安心させる言葉は浮かばなかった。腕の中にクロはいるのに、その距離は絶望的に遠かった。

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