第8話 落雷
調子よくキーボードをたたいていると、遠くで雨のにおいがした。湿度が上がってくるのが肌でわかる。夕立がくるのだろうか。
「雨、降りそうだね。」
「そうだな。この間の夕立は間一髪セーフだったんだよ。」
ここの所、本当に天気が急変することが多い。夕立という呼称より、スコールといった方がしっくりくるんじゃないかと思っていたら、最近はゲリラ豪雨という名前で呼ばれるようになっている。
「この間のゲリラ豪雨、家とか流れてたもんね。この家古いから、ちょっと心配だよ。」
「何、雨漏りとかすんの?」
昭和の映画で、雨漏りを受けるために部屋の中にたらいを置いたりしている光景を思い出して弘介が言った。
「いや、さすがにそんなコントみたいな状態にまでは、なったことがないけど。」
今まではそうだったが、さすがに築五〇年だと心配になってくる。恭介は見るとはなしに、天井を見上げた。
まだ外は晴れていたが、遠くで何かゴロゴロという音が聞こえた。
「あー、雷鳴りだしたね。」
「これは降るわ。」
仕方がないと恭一は立ち上がると、家中の雨戸を閉め始めた。恭一の部屋も雨戸を入れて、大窓だけはガラス戸を閉めずに網戸にしておいたが、風が通らなくなり、室温が上昇するのがわかった。
「アツイ夜になりそうだな!」
「御免こうむりたいけどね。」
弘介が無駄にガッツポーズをして言うので、恭一は笑いながら手をひらひらとふった。外でぱらぱらと音がした。どうやら降り出したらしい。今日はバイトが休みでよかったと思いながら、パソコンの前に座った。ゴロゴロという音は間隔を変えながら、少しずつ近づいてくるようだった。
「そういえば、クロちゃん、雷苦手だったっけ?」
「ああ、そうだったね。寝てるから起こさないでおこうね。」
「ああ、そうだな。」
志朗の横で丸くなっているクロをちらと横目で見て、二人はキーボードの上で指を躍らせた。しかし、二人の願いもむなしく、雷はますます激しくなり、雨音が雨戸を通してもざんざん聞こえるようになると、志朗とクロも目を覚ました。
「おお。すごい雨だな。」
「志朗ぅ。」
雷の音に怯えたように、クロが志朗にしがみついている。
「大丈夫だよ、家の中にいれば平気だよ。」
恭一がなだめてみるが、体をふるふると震わせてクロはすっかり怯えていた。
「よーし、稲妻見に行こうぜ。」
張り切って志朗が立ち上がるのを、弘介が肩をつかんで座らせる。
「じいちゃん、何言ってるの、危ないじゃない?」
「そうだよ、雷鳴が聞こえたらすぐ屋内避難、これ常識!」
弘介と恭一に説教をくらって、納得がいかないという顔をする。
「はあぁ、最近の若いものは意気地がないなぁ。」
「意気地とかの問題じゃないし、身の安全を守る方が先だよ。」
「そうかぁ。そんな人生つまらないぞ、わしの小学校の時の先生はだな……」
言葉にかぶさるように、閃光が世界を白くすると、どどーんと強い雷鳴が響き渡った。
「きゃああああああぁああぁ!」
クロが悲鳴をあげる。腹の底から響くような振動が体に伝わり、思わず恭一も体をすくませる。クロはというと、一番近くにいた志朗に足をもつれさせながら近づくと、必死にしがみついた。
「そんなに怖いか?」
志朗が面白そうに言った。
「怖い、怖いよぉ。」
涙声でクロが言う。面白そうに志朗は笑うと、クロに言った。
「まだまだ、雷は遠い。ピカっと光って数秒間があるからな。本当に近くに落ちる時は、ピカどーんって、光と音が同時にくるんだから。」
志朗の言葉の最後にかぶさるように、閃光が走った。2秒もおかずに、空気を震わしてドゴーンと音がした。再びクロが悲鳴をあげる。
「近くなってきたな。」
「いやぁぁぁぁ、怖いぃぃぃ。」
クロはもうパニック状態だった。外の雨はますます激しく、ざんざんざんざん降っていた。雨戸の上を走る雨どいを勢いよく水が流れいくのがわかった。さすがに恭一も、こんなに水の音が近くでして、雷が近いと、まったく怖くないかというと、そうでもなかった。
「今、2秒くらいだったよね。どれくらい離れてるのかな?」
「光の速度は秒速約三〇万km、だから時間経過は無視。で、音の速度は、空気中で秒速約三四〇メートルだから……」
またぴかっと光った。
「いーち……」
弘介が数えようとして、ドドーンと雷鳴が空気を震わせて響き渡る。
「いっやあぁぁぁぁぁ!」
たまらずクロが悲鳴を上げる。
「つまり1秒だから、三四〇メートルか。」
「近いな。」
「ああ。」
教科書で習ったことも、たまには実地で役に立つものだと思いながら、恭一はクロを安心させることにした。
「大丈夫だよ、クロ。雷は高い建物や、動いてる物に落ちるんだ。家の中にいれば大丈夫だよ。」
「……本当に?」
細められたエメラルドグリーンの瞳いっぱいに怯えを宿して、クロが恭一を見た。
「うん、本当。だから大丈夫だよ。」
「……うん。」
そして、また白光が閃いた。弘介が数を数えようと口を開いた時、耳をつんざくような轟音が響き渡った。
「いやあぁぁぁぁぁぁぁあぁぁ!」
蛍光灯が数回、ちらちらちらとついたり消えたりを繰り返して、そして、真っ暗になり、暗闇の中に、クロの悲鳴が響き渡った。
停電していたのは三〇秒もなかっただろう。すぐに円環の蛍光灯は乾いた音をたてて、灯りがともった。
「落ちたね。」
「うん、落ちたな。」
「近かったね。」
「うん、近かったな。」
まだ、外では雷鳴がとどろいてはいたが、先ほどの音に比べると格段に小さく、遠くなっていた。
「落ちたじゃない、うそつき!」
耳をぺたんとねかせた、クロの非難の声が聞こえた。
「いや、家には落ちてないよ。ちょっと近くに落ちただけだよ。」
とはいえ、家の近くに高い建物はないはずだから、たしかにうそつきと言われればうそつきなのかもしれない。電信柱か街路樹か、なんにしても今確かめに行くのは危なすぎる。再びまわりだした扇風機がからからと音をたてて、生温かい風を運び出した。
扇風機の風をうけて、恭一ははっとした。
「弘介、パソコン!」
「あっ!」
あわてて弘介がパソコンにかじりつく。マウスを動かし、キーボードを乱暴にたたく。最後には電源ボタンを乱暴に数回押して、信じられないという顔をした。
「やべぇ、電源入らねぇ。」
「うそ!」
「一応このタップ、雷サージつきなんだけど。」
「100%は防げないんだよ、うわーしまった、なんで俺コンセント抜かなかったんだ!」
弘介は天井を仰ぎ見ると、そのまま畳にバタンと倒れた。
「終わった、俺の夏……」
「こ、弘介!」
「ありがとな、恭一。一緒に夢をみてくれて。」
「弘介、ごめん、家が古いばっかりに雷ごときで……」
「いいよ、短い夢だったけど楽しかった……」
うつろな瞳に吊照明の円環の蛍光灯が白々と映っていた。
「……恭一。」
どれくらい時間が経っただろう。クロの声がした。どうやら恐怖から立ち直ったらしい。おずおずといった様子で、クロはてちてちと扇風機の足もとをたたいた。古い扇風機はかわらず、カラカラと音をたてて首をふり生温かい風を運んでいた。
「何、クロ?」
「これ、持ってきた時に……」
そういって、クロは扇風機のコンセントケーブルを見た。扇風機のコンセントは、弘介のパソコンのコンセントの横にささっている。その横で、抜かれた状態のコンセントが一本転がっていた。
「あ……」
コンセントのケーブルを視線でたどる。黒いラインは、ちゃぶ台の上の恭一のパソコンにつながっていた。
恭一はパソコンの前に座ると、マウスを動かした。黒い画面から青い壁紙の画面へとかわる。ぽぉんと、OSの音がした。弘介がぴくりと体を動かす。
「今の音……」
「僕の…僕のパソコン生きてる!」
がばりと弘介が起きあがった。
「マジか!」
「うん、さっき扇風機を優先したからコンセント抜いたんだ!」
「でかしたぞ、恭一ぃ!」
弘介は恭一に抱きつくと、頭をガシガシとなでた。
「うえ、やめろよ、暑い、暑いって!それに礼ならクロにいいなよ。」
「おお、クロちゃん、ありがとう!!」
今度はクロを抱きしめると、ぶんぶんと左右に振った。
「ふゃあああぁ。」
びっくりしてクロが間抜けな声をあげる。志朗だけが、事態がよくつかめずに、ぽかんとしていたが、やっと口をひらいた。
「つまり、どういうことだ?」
「雷で、パソコン両方やられたと思ったんだけど、僕のはまだ死んでなかったんだ。」
恭一が目の端に涙をうかべて言う。
「でも、弘介がゲーム作っていたんだろ?」
「うん、今日の午後入力した分は、今、死んじゃったパソコンに入力してるから、復旧不能だけど……」
「午前中にアップした分までは、僕が今テストプレイしてたんだ。」
くるりとノートパソコンを志朗の方に向けると、そこには“White Fairy”のタイトルロゴと、その下にVer.8.14とバージョンが記載されていた。更新するたびに少しずつ内容が変わるので、マイナーアップグレードをかける度に、その日の日付をつけたバージョンを作って、恭一のパソコンに転送していたのだ。
「タイムマシンだよ。全部は戻らないけど、今日の一一時二七分までは戻れる!」
志朗には言っていることの半分もよくわからなかったが、まぁ、なんとかなったのだということだけはわかってほっとした。雷を楽しもうとしていた負い目もあるが、何より、何かに一生懸命になっている孫たちが、その道のり半ばで、強制的に諦めさせられる事態だけは避けられたわけだから、それは歓迎するべきだと思った。
「だけど、今日の午後の作業分が、全部無駄になったんだろ?間に合うのか?」
気がかりを志朗は口にしたが、弘介は親指をたてて言った。
「間に合わせるさ!希望はつながったんだから!」
ポジティブにそう言い切ると、弘介は恭一からパソコンを受け取り、作業を再開した。
必死な弘介の姿に、恭一もいてもたってもいられなかった。慌てて立ち上がると、部屋を出る。まっすぐに向かったのは、姉、幸枝の部屋。元、自分の部屋だ。ノックもせずに扉をあけると、まっすぐに幸枝の机に向かう。机の上には幸枝のパソコンがあった。延長コードごとコンセントを抜くと、走って部屋に戻る。ちゃぶ台の上にパソコンを展開すると、そのままの勢いで言った。
「一台じゃ追いつかないだろ、手伝えることがあったら言って!」
「姉ちゃんのパソコンかよ!」
「おう!」
「殺されないか?」
「これが終わってからなら、半殺しくらい覚悟する。」
恭一は幸枝のパソコンを立ち上げると、弘介の作業を一部もらう。プログラムはわからなくても、テキスト原稿の校正ぐらいはできるだろう。
慣れない作業に食い入るように画面を見ながら、ふと思い出してスマホを取り出した。そして、迷うことなく、電話をかけた。
「……あ、和泉さん。高橋です。はい、あの、急で申し訳ないんですけど、明日と明後日の昼シフト変わってもらえませんか。ホント急で申し訳ないんですけど、緊急事態なんです。」
電話口にむかってぺこぺこと頭をさげながら、必死に頼むと、電話の向こうで和泉が快くシフトを交代してくれた。もう一度丁寧にお礼を言うと、恭一は電話をきった。
「よし、僕の時間も確保したよ。」
「恭一!」
「ここまできたら一蓮托生だよ。僕だけバイトにいけないでしょ。」
「サンキュー!マジでサンキュー!」
涙をこぼさんばかりに感動すると、弘介はすごい勢いで、キーボードをたたき始めた。そもそも一回なおしたばかりのところである、作業が見えている分、スピードは速い。
「私も何か手伝う!」
クロが言った。驚いて、恭一と弘介がクロを見たが、クロはいたって真面目な顔でこちらを見ていた。
「クロがやるっていうなら、やらないわけにいかないよな。」
志朗もにやっと笑って言った。
「クロ…じいちゃん……」
「ありがとう、クロちゃん。やる気超でたよ!」
「じいちゃんもありがとう。でも、パソコンも2台しかないし、やれることってあまりないから……晩御飯をなんとかしてくれる?」
期待せずに言ってみると、頼もしく志朗が頷いた。
「任せておけ。いくぞ、クロ」
「うん!」
志朗とクロは勢いよく、部屋を出て行った。
「いいのか?」
猫とオバケに晩御飯を任せて。という言葉は呑み込んで弘介は言った。
「猫の手でも借りたいでしょ。」
「うまいこと言うねぇ、座布団一枚!」
「冗談言ってるヒマあったら、手と頭を働かそう。」
「おうよ。」
「絶対なんとかしよう!」
「任せておけ、3人とも必ず花火に連れていく!」
すっかり忘れていた約束に、嬉しくなったが、今はまだ礼を言う時ではないと思った。恭一は黙って頷くと、自分の作業に戻った。雨はいつのまにか、あがっていた。
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