第5話 迎え火

 部屋に戻ってしばらくすると、ぱらぱらと地面を打つ雨の音が聞こえてきた。あっと思った時には、屋根にうちつけるような大粒の雨音が響き始めた。あわてて窓を閉めるが、少し吹き込まれてしまう。縁側の板間に、てんてんと雨の跡がついた。

 急に暗くなった空模様に、家の中の闇が陰鬱にわだかまった。電気をつけようとして、暗闇の中に光るエメラルドグリーンを見つける。

「クロ、すごい雨だから、出かけないほうがいいよ。」

「うん、そうする。」

クロはたいくつそうにそういうと、外の見える縁側で丸くなった。電気をつけようとして、提灯のことを思い出した。恭一は仏壇の前に進み、仏壇の灯りを灯して、おりんを鳴らす。こぉんと澄んだ音が仏間に響いた。しばらくお題目を唱えた後、立ち上がり提灯の前に立つ。電気式だから、スイッチを入れるだけだ。古めかしいスイッチに力を込めると、ぱちんと音がして、スイッチが入った。

ぽんと青地に桃色の花の影が畳に浮かび上がった。花の間を黄色い蝶が飛んでいる。ふいに明るくなって、クロがくいと頭を上げてこちらを見た。

「はぁぁぁ。」

 提灯の灯りに目は細くなっているけれども、口から洩れたのは感嘆の声だった。提灯の和紙を通した優しい灯りが、夕立で暗くなった家の中を優しく照らしていた。

「なかなか、きれいだろ?」

「うん。」

 クロは嬉しそうに提灯の下にやってくると、遠慮がちに畳に照らし出された桃色の花をてちてちとさわってみる。手元を不思議そうに見たあと、提灯を見上げる姿がなんだか可愛かった。

「クロ、こっちも見てごらん。」

 クロを呼び寄せると、走馬灯のスイッチを入れる。灯りがともり、同じように青地に色とりどりの花が浮かび上がる。電球の灯りが走馬灯を温め、ゆっくりと回りだした。クロの足もとの花がゆっくりと動くと、クロがあわてて飛び退いて、思わず笑ってしまった。

「すごい、まわってる。」

 くるくるとまわる色とりどりの花を踏まないように、クロが右往左往しているが、その様子もまた笑えるくらい愛らしい。動画に撮っておけばよかったと後悔した。

 やがて、少しクロも落ち着いて走馬灯を眺められるようになってきた。

「きれいだろ?」

「うん。」

 素直に頷くクロに、昔の自分も、お盆に出されるこの提灯と走馬灯が好きだったなと思いだす。何が楽しいわけでもないけど、鮮やかな色に照らし出された仏間が、いつもと違った雰囲気で、ここで寝るとダダをこねたこともあった気がした。

「今日はここで、寝ようかな。」

 思いついて言ってみた。どうせ誰もいないのだ、自分の部屋で寝ようと仏間で寝ようと、誰も文句を言う人間はいない。ちょっと昔を思い出してノスタルジックな気分になっているのかもしれない。恭一はぼんやりと提灯とクロを見た。提灯の灯りの中で、クロは夢見がちに座っていた。たぶん、気に入ってくれたんだと思う。自分の好きなものを好きになってくれるのは、相手が誰だろうとうれしい。たとえ猫でも。恭一はなんだか嬉しいような懐かしいような優しい気持ちになって、その光景をしばらく楽しんだ。


 雨はますます激しくなってきた、恭一は重い雨戸を入れると、仏間の冷房を入れた。この雨だ、窓を閉めずに寝るわけにいかない。自分の部屋は蒸し風呂状態だ。実利をとっても仏間で寝ることには意味があった。恭一はカップ麺、クロはドライフードと、さっきの提灯の下の幸せな気持ちから一転、寂しい夕食をとった後、部屋から仏間に布団を運び込んだ。

 雨戸の外で、ざんざんと音がする。さすがにクロも出かけるのはあきらめたらしい。提灯の下で、幸せそうに目を細めて座っている。

「明日はウェットフード買ってきてほしいな。」

「バイト終わったらね。弘介と二人でちゃんと留守番できる?」

「いつも私、一人で留守番できてるけど。」

「弘介と二人ってところがポイントなんだけど。」

「うん、できると思うよ。」

「じゃあ、買ってくるよ。」

「まぐろチーズ!」

「うん。」

 話をしながら布団をひく。クロが気に入った提灯の灯りをじゃましないように、すみの方に布団を展開する。風呂に入って仏間に戻ってきても、まだクロは提灯の下に居た。よっぽど気に入ったらしい。本当は寝る前に提灯は消そうと思っていたのだが、恭一は提灯をつけたまま、布団に横になった。タオルケットをかぶると、目を瞑る。少し灯りがまぶしいが、腕を瞼の上にそっと乗せると我慢できないほどではない。恭一はゆっくりやってくる睡魔に身を任せた。遠くでかすかに雷の音がしていた。


 恭一の規則正しい寝息が聞こえている。クロは飽きることなく、走馬灯を見ていた。くるくるとまわる光の花に、クロの心は弾んでいた。

 その時だった。一瞬、雨戸の隙間から光が差し、遠くで大きな音がした。空気がビリビリと振動する。なんだろうと思って、クロは雨戸の方へ近づいた。もう一度、ピカリと光が差し、今度はもっと近くで大きな音がした。びっくりして、後ずさろうとした所に、もう一度光った。身構えるよりも早く、大気を震わせて大きな音がした。

「ふやぁあ!」

 びっくりして、情けない声を上げてしまった。足に力が入らない。板間をじたばたとする間にも、外ではバリバリと音がしていた。

「恭一、恭一っ!」

 呼んでみるが、恭一はよく眠っているようで、寝返りひとつ打ちはしない。なんとか畳に爪をひっかけて、はいずるように布団の側へと近づくと、ふいに部屋の光がゆらいだ。違和感を感じて、クロは光の方を見る。くるくると回る走馬灯が、ゆっくりとその回転速度を落としていた。ゆっくり、ゆっくりと、回転は遅くなり、やがて、止まった。

 恭一は、走馬灯は温められた空気の作用によって回転すると言っていた。灯りは変らずついているのに、何故止まるのかわからない。クロは想像を超える事態に、すっかり肝を冷やしていた。

 その時、玄関の方で、ガタンと音がした。思わずびっくりして、体がびくりと震える。何の音だろうと気配をさぐると。玄関の砂が踏まれる、じゃりっと言う音がした。

「だ、誰?」

 おかしい。恭一の両親は旅行で、幸枝は彼氏の家にプチ同棲中だ。他の誰かがこんな時間に訪ねてくるのもおかしい。クロが身を竦めていると、玄関の方でギシっという音がした。ヒトが古い築五〇年の廊下を歩いている音だ。自分ならあんな音はたてない。

 ギシっ、ギシっと音はゆっくりと仏間の方へと近づいてくる。誰かが、この仏間を目指している。闇の中に響く足音が、遠雷よりもはっきりと聞こえてきて、クロは恐怖した。畳をバリバリと傷つけて、布団の上に寝ている恭一の側までたどり着く。タオルケットからはみでた腕を、爪をたてないようにして、てちてちと叩く。

「恭一、恭一っ!」

 必死に叩くが、恭一が起きる気配はない。ギシっ、ギシっという音は、ますます仏間に近づいてくる。クロはもうパニックに陥りそうだった。

「恭一っ!」

 叫ぶと、その腕に爪を立てた。

「いたっ!」

 さすがに目を覚まして、恭一がクロを見る。

「……なんだよ、クロ。」

「恭一、誰かが……って、寝ないで、寝ないでっ!」

 再び瞼を閉じようとする恭一を再びてちてちと叩く。恭一は面倒くさそうに瞼を持ち上げると。クロに手を伸ばした。

 仏間の襖の前で、ギシっという足音が止まる。クロの恐怖は最高潮に達した。クロは恭一の手に必死に飛び込む。ゆっくりと恭一はクロを手に抱くと、タオルケットの中へと引っ張り込んだ。冷房の効いた部屋で、ふんわりと温かなタオルケットにくるまって寝るのは幸せだ。ちょっとクロを抱いたら暑いかもしれないけど、まぁ我慢できないほどではない。クロの温もりを腕に感じながら、恭一は再び眠りに落ちた。

 恭一の腕の中で、クロはガタガタと震えていた。誰かが仏間の入り口にいるのはわかっているのに、どうして恭一は起きてくれないのだろう。タオルケットの中に引っ張り込まれたせいで、外の様子を見ることはできないが、鋭敏な感覚は気配をとらえていた。

 やがて、ゆっくりと襖が開かれる音がした。襖のきしむ音が聞こえ、誰かが仏間に入ってくる。身体中の毛が逆立つのを感じた。そして、ヒトが畳を踏む音が聞こえ、ゆっくりと布団へと近づいてくる。

一歩、また一歩。一歩、また一歩。

 そして、枕元で気配が止まった。クロはぎゅっと目を瞑ると、この気配が自分を見逃してくれることを心から祈った。神様も仏様も信じたことはなかったけれども、助けてくれるならなんでも信じてやろうと思った。

「せっかく帰ってきたのに、お前だけか。」

 呟くような声が、上から聞こえた。どこかで聞いたことのある声だとクロは思った。


 次の日、雨戸がしまっていたせいか、恭一は盛大に寝坊をしていた。昨日の雷雨が空気中の埃をすべて落としきってくれたようで、外はバカみたいに青空だったが、ちょっと大きめの鞄にパジャマや着替えを詰め込んだ弘介が家にやってくる時間になっても、恭一は眠りこけていた。

「恭一?」

 玄関で声をかけるが返事がない。ただでさえ時代錯誤で昭和な家なのに、この家のインターフォンは壊れているときている。家の外から弘介が呼びかけるが、雨戸の閉まった家からは何も音がしなかった。

「朝からバイトではないよなぁ?」

 そう思いながら玄関の扉に手をかけると鍵はあいていた。昨日注意した気もするのだが、相変わらず玄関の鍵をかけていない。弘介は半ばあきれながら、扉をあけ、小さな声でおじゃましまーすといった。

 鍵をかけてないのがいけないんだからな。そう思って家の中に入る。靴を脱ぎ、築五〇年の重みを感じる、軋む廊下を歩いて恭一の部屋を目指す。その途中、仏間を通過しなければならない。盆提灯がつられ、走馬灯が雨戸の閉まった暗い部屋の中でくるくると回っていた。朝の提灯ほど、間抜けなものはないなと思って部屋を見ると、部屋のすみに布団がしいてあり、そこに恭一とクロが寝ていた。

 もう一度、よく見てみた。そこには恭一とクロが眠っていた。恭一の腕を枕に、長い髪が布団の上に流れている。ふっくらとした頬を恭一の肩に寄せて、クロがすぅすぅと寝息をたてていた。考えるより先に、弘介は叫んでいた。

「恭一!」

「んあ?」 

 急に大声で呼ばれて、恭一は体を慌てて起こした。腕からクロが落ちて、うにゃっと声を立てた気もするが、びっくりしてそれどころではなかった。

「ん……あ、弘介か。びっくりさせるなよ。」

 横で、クロが頭を落とされたのを不服そうにしている。

「お前、クロちゃんを……」

 後の言葉はうまく出てこなかった。あんな可愛い女の子を抱きしめて幸せそうに寝くさりやがって、うらやまし……もとい、許せない。

「え、あ、ちょとまて。クロ、なんでお前、僕の布団にいるの?」

「昨日起したのに、起きてくれなくって、私を布団にひっぱりこんだんじゃない。」

「なにぃ!?ひっぱりこんだ?」

「え、ちょと、クロ、その言い方はなんか違わない?」

「違わない!」

 昨日の恐怖を思い出して、クロがぷいとそっぽをむいた。そうだ、恭一は自分がこんなに怖い思いをしていたのに助けてくれるどころか、起きてもくれなかったのだ。そっぽを向くクロに何かを勘違いして、弘介が勢いづく。

「恭一、ゆっくり話を聞かせろよ。」

「だから、何なんだよ、2人ともぉ……」

 よくわからないが立つ瀬なく、恭一は情けない声をあげるしかなかった。


「というわけで、誰かいたの!」

 小一時間ほど、事情を整理して、やっと事態は落ち着きかけていた。戸棚にあったロールパンを温めて朝食にしながら、恭一が牛乳をコップに注ぐ。クロが私にもと袖をひいた。

 弘介には麦茶を、クロには浅い皿に牛乳を注いでやると、恭一はクロの言葉をつないだ。

「寝ぼけてたんじゃないの?」

「寝ぼけてなんか、ないもん!」

 牛乳の皿から顔をあげて、クロが言う。

「つまり、夜中に誰かが家の中に入ってきて、それでクロちゃんが恭一を起したんだけど、恭一のバカが起きなくて、あげく布団の中にひっぱりこんだわけだ。」

「あのさ、飼い猫抱いて寝て、何か悪い?」

「猫ならいい。クロちゃんはダメだ。」

 大真面目な顔で弘介が言う。朝目撃した2人の姿は健全な男子高校生である弘介には、かなりうらやましすぎる光景だった。

「でも、結局、誰もいなかったじゃない。」

「確かに、誰かいたんだもん。」

 目にうっすらと涙をにじませて、クロが主張すると、弘介はうんうんとクロを擁護するように、頷いた。

「そうだよ、玄関の鍵、開いてたぞ。」

「あれ、昨日はちゃんと閉めたはずなんだけどな?」

「かけ忘れたんじゃないのか?」

「いや、確かにかけたよ?」

 おかしいなと小首をひねる。そう言えば、クロを抱きしめたとき、枕の側で誰かいたような気がしないもでもない。少しじっくりと思い出してみることにした。

「そう言えば、声聞いたな。」

「声?」

 怪訝そうに弘介が声をあげた。

「うん、枕元で、誰かが『せっかく帰ってきたのに、お前だけか』って……」

「きゃあああああ!」

「うわあああああ!」

 クロが悲鳴をあげて弘介に抱きつき、弘介も青い顔で大声をあげた。

「それって霊的な何かじゃないのか?」

「いやああぁああぁっ!」

 すっかり泣き顔のクロに縋りつかれているのも忘れて、弘介はぞっとして言った。

「いや、別に怖いかんじはしなかったんだけど……って、クロ、お前、オバケだめなの?」

「怖い話は嫌いっ!」

 涙目で訴えるが、恭介にはクロが弘介に腕にくっついているだけにしか見えない。

「クロさ、お前自身がホラーっぽいのに、オバケだめなんだ。」

「そう言えばそうだな。」

 弘介も立ち直って、クロをまじまじとみた。涙でうるんだ瞳がじっと弘介をみつめて、思わずドキっとする。とたんに腕に縋りつかれていることに気がついて、鼓動が跳ね上がった。

「と、とにかくだ。何者かがこの家に入り込んで、クロちゃんをおびえさせたのは事実っぽいな。」

 弘介が意味深に言う。クロが泣き顔をますますひどくする。

「無駄にクロをおびえさせるなよ。夢か何かさ。」

 そう言うとロールパンをお腹におさめてしまって、恭一はテーブルから離れた。

「さっさと制作の続きやろうよ。時間ないんだろ?」

「あ、うん。」

 縋りつくクロを離すのは、少しもったいないなと思っていたら、恭一がクロをひょいと取り上げた。

「さ、部屋に行こうぜ。」

 クロも抱きかかえられるのは不本意だったが、今だなお、この家にいるかもしれないオバケ的な何者かの存在を考えると、誰かと一緒の方が心強かった。大人しく恭一の腕の中に納まったまま、一緒に、恭一の部屋へと向かう。恭一は雨戸がしまったままの、うすぐらい部屋の扉をあけた。

 部屋の中央には、祖父、志朗が座っていた。

 薄い白髪に大きな眼鏡、ゆるっとした甚平を着て、ちゃぶ台の前に座る姿は、生前、よくこの部屋で見かけた姿だった。

「よお。おはよう、恭一。」

「で、出たーーーーーーーー!」

「ひぃぃぃぃぃぃーーーーー!」

「きゃああああああーーーー!」

 晴れた青い空に、3人の悲鳴が混ざり合って響きわたった。

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