第3話 黒猫の彼女
「――というわけなんだよ。」
蚊取り線香の煙がうっすらとたなびく自室に、弘介を呼んで盆の間の自由時間について説明をした。弘介はなんだか難しい顔をしてこちらを見ている。
「説明はそれだけか?」
「え?他に何か説明することある?」
「ある。」
なんだろう。恭一は考えた。そして盆の自由時間のことで忘れていたことを、思い出した。
「そうそう、昨日、僕、黒猫に二十七回前を横切られて……」
「そんなことはどうでもいいよ。」
「そんなことってなんだよ。」
言葉をさえぎられて思わず不平を口にする。しかし、こちらの表情を汲むことはせず、弘介はやっぱり難しい顔をしている。視線の先は恭一ではない。恭一は不思議に思って弘介の視線の先を見た。そこには涼しい顔のクロがしゃんと座っていた。
「どうかした?」
「どうかしたじゃないよ。」
弘介はいらいらしているようだった。何をいらいらしているのか全くわからず、もう首を傾げるしかない。とりあえず、弘介のいらいらの原因といえば、ゲームのことだろうと思い、水を向ける。
「あ、ゲームシナリオのことなんだけ……」
「そんなことはどうでもいい!」
少し語調を荒げて弘介が言う。ますます、意味がわからなくなって、もうこれは素直に聞くしかないと腹をくくった。
「何をいらいらしてるのかわからないんだけど、シナリオはちゃんと書くし、締め切りにも間に合わせるから、何を怒っているのか教えてよ。」
「いい加減にしろよ。教えて欲しいのはこっちだよ。彼女は誰だよ。」
極力語調を押さえて弘介が言った。感情的な弘介にしてはよく我慢している。
「……は、彼女?」
「だーかーら、そこの彼女だよ。」
弘介はまっすぐにクロを指差した。
確かにクロはメスだから、彼女といえば彼女だ。しかし、昨日、クロのことは弘介に紹介したはずだ。何故改めてこんなに語調を荒げて聞いてくるのか意味がわからない。
「なんでお前の部屋に中学生がいるんだよ。」
弘介は大真面目だった。恭一は弘介とクロを交互に見るが、やはり言っている意味がわからなかった。ただ、中学生と言われて、昨日の夜中に見た鮮やかな残像が思い出された。クラシカルなセーラー服、つややかに流れる黒髪。
「な、何が見えてるの?」
おそるおそる聞く。少なくとも、恭一の目には、クロしか映っていない。しかし、長い付き合いだ、弘介が無駄に嘘をつく人間でないこともわかっている。
「だから、そのセーラー服の彼女、誰?」
恭一はごくりとつばをのんだ。弘介が見ているのは、多分、昨日、自分が見た少女だ。
「怒らないよ、怒らないさ。いつの間にか親友が彼女を作ってようと、しかも部屋に連れ込んでようと、そのせいでゲームシナリオが進まなくなってても怒らないさ、でもな……」
「ちょ、ちょっとまって……」
「いや、待たないぞ。そんなことで怒ってるんじゃないんだ。違うんだよ、なんで言ってくれないんだよ。親友に彼女ができたってなら、祝福にするにきまってるだろ、くそー、ちくしょうめー!」
「い、いや、だからさ……」
「お前だけ、充実した高2の夏を過ごすのか、ああ、俺は一人ぼっちか、いや、親友のためだ、俺が我慢すればいいんだろ。幸せになれるのなら、友情より愛情ってか、くそー!」
「こ、弘介、落ち着けって……」
「落ち着いてられるか、親友にセーラー服の似合う、黒髪の超美少女の彼女ができて、落ち着いてられるかってんだ。くそ、うらやましくなんて……うらやましくなんて……うらやましいわー!」
「だから、違うって……」
突然、部屋に涼しげな高い声が聞こえた。
「え、見えてるの?」
声は恭一の後ろから聞こえた。この部屋には恭一と弘介しかいない。どんなにがんばっても、こんな澄んだ高い声を二人とも出せるはずがない。そして、恭一の後ろにはクロしかいない。
恭一はゆっくりと振り返った。そこにはきょとんとした顔のクロがいるだけだった。恭一は、少しほっとした。これで後ろに髪の長いセーラー服の少女がいたらホラーすぎる。空耳か何かだろう。そう思って、視線を弘介の方に戻そうとした時だった。
「ねえ、私のペルソナ見えてるの?」
クロが弘介に話しかけた。クロがだ。ニャーとかじゃなくて、澄んだきれいな高い声で、そういったのだ。恭一は何が起きているのかわからず、その場を凝視するしかできなかった。
「ペルソナってなに?」
弘介がクロに向かって言った。クロに向かってだ。猫に向かってだ。おかしいだろと思うけど、困ったことに、驚きで声がでない。
「ペルソナとは、カール・グスタフ・ユングの概念のこと。ペルソナという言葉は、元来、古典劇において役者が用いた仮面のことだけど、ユングは人間の外的側面をペルソナと呼んだの。その言葉を借りて、私たちがあなたたち人間の姿を取るときに被る人間の姿、つまり外見的風貌を、私たちはペルソナって呼ぶの。」
「か、カール……ユング……?」
弘介が目を白黒させて、恭一に救いを求めてくるが、恭一もそれどころではない。
「なぁ、恭一、彼女何言ってるの?」
「……僕にもよくわからない。」
やっと声がでた。意外にも落ち着いたしっかりとした声が出てびっくりする。
「まぁ、あなた達には難しいかもね。」
わけがわかりませんといった顔の弘介の顔をじっと見ると少女は得意げに言った。あきらかに丸暗記した文章を読み上げただけでしかないたどたどしさなのだが、それに気がつくような余裕は2人ともない。
「あ、あのさ。」
必死にこんがらがる考えをまとめながら、恭一は言葉を絞り出した。
「弘介、誰と話してるの?」
「誰って、お前の彼女の……」
「彼女じゃないけど。」
「まぁ、なんでもいいけど、何聞きたいの?」
「いいから、誰と話してるか教えて。」
「だから、セーラー服の黒髪の超美少女……」
やっぱり、昨日見た塀の上の少女だと思った。
「そのセーラー服って、二本ライン入ってる?」
「え、あ、うん、襟に二本線、エンジのスカーフだけど、見たらわかるだろ。」
「見えないもん。」
「え。」
「見えてないんだって。」
「……えーと。」
「僕には見えてない人が、弘介には見えてるんだよ。」
「つまり?」
「おそらく、霊かなにかではないかと……」
しばらく沈黙が流れた。庭から聞こえてくるクマゼミのしゃんしゃんという大合唱が、この沈黙を際立たせる。うるさいほどなのに、頭が真っ白になってとても静かだった。
「れ……い……」
弘介の言葉に恭一はただ頷いた。そこでやっと二人に、目の前にある非現実が現実的に襲い掛かってきた。
『うわーーーーーーーー!』
クマゼミの声に負けない絶叫が、築五〇年の木造平屋建てに響いた。柿の木についていた何匹かのクマゼミが驚いたように飛び立った。
「うっるさいわね、何事?」
ノックもせずに部屋の扉が開いて、幸枝が顔を出した。
「ね、姉ちゃん。」
さすがに青い顔で、口をぱくぱくさせている弟とその友人の形相に一瞬驚いたが、幸枝は長女らしい落ち着いた様子で、二人を見た。
「姉ちゃん……」
「なに?」
怪訝な様子で眉を上げると、きつい声音で恭一を見る。
「そこに、誰いる?」
おそるおそる、恭一はクロを指さす。そうそうと言わんばかりに、弘介は黒髪のセーラー服の少女を指さす。幸枝は大きな目をくるりと動かすとその指さす先を見た。
「……クロ。」
何やってんのといわんばかりに、幸枝はそういうとため息をついた。
「何騒いでるのか知らないけど、いい若者が夏休みに部屋にこもってるんじゃないわよ。」
「そこにいるのクロだよね。」
「クロじゃないの?」
「いや、クロだけど。」
クロをクロだと保証してもらって、少し恭一は安心した。そんな弟のよくわからない様子に、幸枝は肩をすくめると、外に遊びに行けとだけ言って、来たときと同じように唐突に去って行った。再び戻ってきたクマゼミの音に、少しだけ平常心を取り戻して弘介が口を開く。
「なになになに、見えてるの俺だけ?」
「そ、そうみたいだけど。」
「え、俺、霊感とかないよ、オバケとか見たことないし……」
「オバケじゃない、ペルソナ!」
「え、あ、うん、そのペルソナって見たことないし……」
「またしゃべった!」
たしかに、クロがしゃべっていた。正直、黒髪の少女とかペルソナとかよくわからないけれども、恭一にはクロがしゃべっているという現実だけでお腹いっぱいにびっくりだ。
「えっと、俺にはセーラー服の女の子が見えていて……」
「僕にはクロがしゃべっているようにしか見えないよ……」
もう一度大声で叫びだしそうになった時、少女が立ちあがった。
「だーかーら、両方私だってば。あなたが見てるのが私のペルソナ!」
少女が弘介を指さす。
「それから、恭一が見えてるのが本来の私の姿!」
びしっと恭一を少女が指さす。しかし、恭一にはクロが右手を挙げたようにしか見えない。もう、混乱して頭がおかしくなりそうだが、素朴な質問を口にした。
「あのさ、クロ……でいいんだよね?」
「そうだけど。」
「あ、うん、クロ。なんで弘介には女の子に見えて、僕には猫に見えてるの?」
「そんなの私だって知らないわよ。」
「えっと、じゃあ、なんで話ができるの?」
「私たち高貴な種族ですから、ヒトの言葉くらいしゃべれます。普段はしゃべらないようにしているだけで。」
「そ、そうなんだ。」
あまりに非現実的な光景だが、ここまでリアルだと納得するしかない。とにかく、オバケでないことがわかって、少し安心したような、ますます混乱したような、ぐるぐるする思考を必死になだめすかす。
「つ、つまり、君はクロ……ちゃんなんだ。」
弘介は恐怖をふりきって少女に声をかける。少女……クロは満足そうにうなずいた。
「あ、あのさ、クロ。参考までに聞かせてくれるかな。」
「なに?」
「ふつう、猫って人の言葉しゃべらないし、ペルソナ……だっけ、そのことも人は知らないと思うんだ。」
「当然、このことは私たち高貴な種族の秘密だから。」
つんとしっぽを立ててクロが言った。
「う、うん。だからさ。」
「うん?」
「どうして、僕らにバラしたの?」
「あ……」
クロのエメラルドグリーンの瞳がぱちぱちと瞬いた。
「ど、どうしよう。」
「考えてバラしたんじゃないのーーー!」
再び叫び声が築五〇年の家に響いたが、あきれたのか、もう幸枝が飛んで来ることはなかった。
あまりに暑すぎてクマゼミたちも休憩しているのだろうか、先ほどまでうるさいほどしゃんしゃん鳴いていたクマゼミは静かになった。対照的に目の前の弘介はうるさいほどにまくし立てている。
混乱からなんとか立ち直り、状況を受け入れるが、あまりに現実離れしている。クロが実は人の言葉をしゃべることができて、それどころかペルソナという人間の姿を持っていて、弘介にはその姿が見えているらしい。なぜ恭一や幸枝には見えず、弘介にだけ見えているのかは、よくわからないが、相性とか感覚とかそういったものが関係しているのかもしれない。とにかく、そんなものだと受け入れるしかない。
「いや、大パニックだったけどさ、とりあえず恭一に先こされたんじゃないからいいや。」
「先こされたって?」
「彼女。」
「この状況で、よくそんなこと言えるね。」
なんとなくズキズキしてきた頭を押さえると、恭一は考えた。
「いやいや、恭一、物は考えようだ。せっかくの高2の夏休みにこんな大パニックが起きたんだ、これは楽しまないと。」
「なに、学会にでも報告するの?」
「ばか、こんな可愛いクロちゃんを困らせたいのか?」
「可愛いとか、見えないし……」
「もろ俺好み♪」
「知らないし。」
弘介はクロの前足を取ると軽くぎゅっと握ってニコニコと話し続けている。正直いって、ただの猫フェチにしか見えない。むしろ変態、奇人である。
「なあ、クロ。」
「なに?」
「その、さ。このことがばれると、お前困らないのか?」
「うーん、実は困る。」
「そうだよね。」
「ヒトにこのことがばれると、“呪い”を行って、知られた人を殺さないといけない。」
恭一には呪いという言葉に覚えがあった。
「猫って“呪う”の?」
「うん、実は恭一はもう裁判を見ちゃたから“呪い”の対象なんだけど。」
月明かりの中みた、猫の集会を思い出す。あれはやはり、夢や見間違いではなかったのだ。しかし、相手が猫とはいえ呪われるのは気持ちがよいものではない。
「“呪い”ってどんなことするの。」
殺さないといけないとまで言われているのだ。どんな不幸が襲ってくるのか、考えると背筋が寒くなった。
「そのヒトの前を横切るの。」
「え?」
「そのヒトの前を横切るの。」
さも当然とクロは2回繰り返した。
「それだけ?」
「それだけじゃないよ。私たち高貴な種族、特に黒い毛並を持つ私たちは力ある存在なんだから。私たちが前を横切ると、不幸が訪れるのよ!」
「それだけ?」
負けじと恭一も2回繰り返した。
「そうよ。」
「何か不幸になるように、具体的に動いたりしないの?」
「だから前を横切って……」
恭一はなんだかおかしくなった。すっと腕を伸ばすと、クロの頭をこつんとこづいた。
「いたっ、何するのよ!」
「クロさ、それで、本当に不幸になると思ってるの?」
「えっ、不幸にならないの?」
クロが心底不思議そうな声で聴いてくる。二十七回も黒猫に前を横切られた理由がわかった。クロたちは真剣に、恭一を不幸にするために全力で前を横切っていたのだ。
「なるわけないじゃない。」
もう一度、ちょんと頭をこづく。
「な、なにするのよー呪ってやる!」
「やればいいよ、不幸になんてならないから。」
もう笑うしかなかった。楽しそうに笑う恭一を、弘介はしばらくぽかんと見ていたが、つられて笑うことにした。
「ま、そういうことだからさ。クロちゃん。お互いこのことは他には秘密にしておこうよ。俺たちはクロちゃんの秘密を誰にも言わない。クロちゃんも僕たちにペルソナのことがばれていることは言わない。そしたら、クロちゃんは長老に怒られることもない。」
「“呪い”も続けてていいよ。それで不幸になるなら、仕方がないから。」
恭一はそういうとクロを見た。猫のクロの表情はよくわからないが、なんだが少し頬がふくらんでいるように見えた。
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