第2話 猫の裁判
アスファルトが月明かりを照り返して紫色に輝いている。その夜は不思議な夜だった。バイトからの帰り道、夏の星座が夜空に三角形を描いているが、今夜は月明かりがそれを霞ませていた。月明かりが帰路を照らしている。月明かりという言葉がこんなに似合う夜はないと思った。恭一はわざと街灯のない道を選ぶと、月明かりを楽しむことにした。バイトをしている間も、色々と考えなければならないことはあったが、自分の部屋を得た高揚感が消えることはなく、帰る家に自分の部屋があることに、なんともいえない期待感を抱いていた。
はずむような足取りの向かう先から、ちりんと何か音が聞こえた。ふと視線をやると、一匹の黒猫がビルの狭間に入っていくのが見えた気がした。
「クロ?」
よく似ていたが、クロだろうか。これまで知らなかったが、クロは恭一の部屋を出たり入ったりして、自由に暮らしているらしい。クロの行動範囲なんて、知ったことではないが、こんなところまで行動範囲なのだろうか。家から一〇分ほどの距離がある。別に興味があったわけではないが、何の気はなしに、ビルの狭間をのぞいた。
そこにはたくさんの猫がいた。クロを探し出すことができないほどの、猫、猫、猫。自転車置き場だろうか、意外と人目につかない街の死角だった。猫たちは思い思いの場所に座っていた。月明かりが作り出す猫のシルエットは、影絵のように、紫色に光る地面に映し出されて、何か芸術的な絵かなにかのようだった。
こんなにたくさんの猫たち。この辺りにこんなに猫がいたのかとびっくりする。猫は飼い主も知らない場所で猫の集会をするという話を聞いたことがあるが、これが猫の集会なのだろうか。
その光景に息を飲んだ次の瞬間、美しい影がすっと伸びた。何が起こったのか、わからなかった。猫の影はしなやかに伸び上がると、人の姿をとった。驚いて猫本体を見ると、もうそこには猫の姿はなく、何人かの男女がそこにいるだけだった。年齢も性別もばらばら、大人もいれば子供もいた。
「では、裁判を結審しようか。」
一番の上座らしきところ。壁際に寄りかかる老人が、口を開いた。集まった人間たちが、ざっとそちらを向く。
「3丁目の角の家の主婦、田端房江。罪状、猫の迫害。」
老人の言葉に、集まった人達の中の何人かが声をあげる。
「あいつ、いつも水をかけてくるんだよ!」
「僕は箒でなぐられた!」
老人は言葉を手で制すると、続ける。
「言論は尽くされ、弁護の余地はない。よって、判決。」
何を言っているのだろう、裁判ってなんだ。恭一は目の前の異質な光景から目が離せなくなっていた。
「被告人には、呪いを3ヶ月行う。以上。」
人々は息を吐いて、その言葉を聞き、満足そうに頷いた。呪いってなんだろう。恭一は、興味本位に、少しだけ体を乗り出した。その瞬間、ひとりの少女と目があった。
ちょっと古い型のセーラー服、いまどきの女の子にしては学校基準を守っているのだろうか、スカート丈は膝丈だ。見たことがない、どこの制服だろう。恭一には、心当たりがなかった。二本のラインが入った特徴的な襟に、つややかな長い黒髪が流れていた。月明かりに照らされて、雪のように白い肌は蒼白にさえ見える。
大きく印象的な目が恭一を捕えた。その瞬間、何かにはじかれたように、恭一はビルの狭間から体を逃がしていた。見てはいけないものをのぞいてしまったのではないか、そんな言い知れぬ奇妙さ、本能的な何かが警鐘を鳴らしていた。ビルの狭間からこちらに向かう人の気配を感じ、慌てて恭一はその場から立ち去った。何から逃げようとしているのか、よくわからなかったが、見てはいけないものを見てしまったという気持ちが消えなかった。
小走りに街灯のある通りまで出て、人工の灯りが支配する街に戻ると、恭一は息をついた。闇を払う街灯の冷たい灯りが、今は心強かった。
僕は、何を見たんだ?
ふと、そう思う。とっさに逃げてしまったが、逃げなければいけないようなことは何もしていないと思う。振り返り、来た道を振り返るが誰もいない。恭一は首をひとつひねると、街灯のある道を選んで、今度こそ家路についた。
「ヒトに見られたようだな。」
自転車置き場では、老人が姿勢を変えずにそう言った。集まった人々が不安そうにざわざわと言葉をもらす。
「何処の誰かな。」
「私、知っています。」
ざわめきを破って、セーラー服の少女が、そう言って老人の前に進み出た。
「そうか、猫の裁判を見られてしまった。どうしたらいいか、わかっているね。」
「あの者に、呪いを。」
「そうだ、我々高貴な者の裁判を妨害したヒトには、制裁を加えなければならない。」
「お任せください。みんな協力してくれるよね?」
少女の言葉に、月明かりの下、周りの人々はざわめきを止めて黙って頷いた。
自分の部屋ではじめての朝を迎える。冷房のない部屋で迎えた朝は正直、気持ちのよいものではなかった。暑さのせいでびっしょり汗をかき、暑くて眠っていられなくて目が覚めたのだ。おまけに何故かお腹に乗せたタオルケットの上には暑苦しいことにクロがいた。
「クロ、どいて。」
なんでそこにいるんだと思いながら汗をぬぐって体を起す。クロは体のバランスを崩すぎりぎりまでお腹の上でねばってから、俊敏に畳の上に降り立った。エメラルドグリーンの瞳がじっとこちらを見つめている。その不思議な瞳の色に、何か忘れていることを思い出しそうになったがそれが何なのかは思い出せなかった。
「餌?それとも水?」
起きてクロの皿を見るが、昨日の夜用意した餌も水もまだ、たっぷりと残っていた。
「何なんだよ?」
ひょいと手を伸ばして頭を撫ぜようとすると、クロはすっと後ずさりふぅっと体を膨らませた。
「何か怒らせるようなことしたかな?」
手を引っ込めながら考える。昨日バイトから帰ってきたときにはクロはいなかったはずだ。いつ帰ってきたのかと思って庭に面した大窓を見ると小柄なクロが通れる分だけ、網戸が開いていた。寝る前に閉めたはずだから、恭一が寝てから帰ってきたのだろう。その隙間をぽかんと見つめていると、腕のあたりのかゆみに気がついた。みるとぷっくりと赤く腫れている。しかも2箇所。気がついてみるとあちこちかゆい。反対の腕にも1箇所、脚も3箇所腫れていた。
「クロ!」
どうやらクロが開けた窓の隙間から蚊の侵入を許したらしい。一度気にしてしまうと、かゆみがすごい勢いで襲い掛かってきた。クロをしかるのはとりあえず後にして、かゆみ止めをさがすが、自分の持ち物にそんなもの、あるわけがない。あわてて茶の間に行き、救急箱から液体かゆみ止めを取り出し、腕や脚に塗りたくる。薬の清涼感が肌の上を走るが、かゆみはなかなかおさまらない。
「だぁっ、かゆいっ!」
「うるさい、朝から何騒いでるの?」
眠たそうな声の幸枝の声がした。液体かゆみ止めを手にした恭一の姿を見て、だいたい理解したらしい。面倒くさそうにすっぴんの顔をこすると、茶の間の隣の台所に向かい、牛乳をコップに注ぎながら言った。
「あんた蚊にさされやすい体質だものね。何箇所刺されてるのよ。」
O型は蚊に刺されやすいというが本当だろうか。だとしたら、自分以外B型のこの家では、恭一は蚊にとって格好のカモになっている気がする。
「6箇所。」
「……どんだけにぶいのよ。」
あきれたという様子で、幸枝が言った。
「寝てる間にやられたんだから、しょうがないだろ。」
「蚊取り線香でも焚いて寝ればぁ?」
「真剣に検討しておく。」
やっとひいてきたかゆみにほっとしながら恭一は考えた。姉は冗談でいったようだったが、蚊取り線香の導入は必須だと思う。クロが夜中に部屋を出入りする以上、あの網戸が知らないうちに開閉されるのは避けようがない。クロに出入りを禁止するわけにもいかないのなら、窓の外に蚊取り線香を焚くしかない。現実的に計算し、不幸の最小値を計算するのは恭一の癖だ。ついでに庭の草刈りをすれば蚊自体も減るかもしれない。夏になると、祖父志朗が暑いなか麦藁帽子を被って、草を刈っている姿を思い出した。汗だくになりながら、何をしているのだろうとは思ったが、あれは必要だったのだと気がつく。薬の清涼感がひき、かゆみが治まったのを確認して、液体かゆみ止めを救急箱に戻す。液体かゆみ止めも自分用を購入しておくべきだなと、一人部屋で必要になった物リストに、頭の中で加えておいた。
ニャーというクロの声がしたので、台所の方を見ると、クロは姉に牛乳をもらっているところだった。この件に関しては、奴が諸悪の根源なのだが、さすがにクロを怒るわけにはいかない。怒りの矛先を向ける先がなく、ただため息をつく。その時、クロがこちらを見た。
「呪い。」という言葉が聞こえた気がした。この言葉、聞いた記憶がある、そうだ、昨日の晩だ。月明かりの下で、人の姿をした猫たちが何かよくわらかないことを言っていた気がするけれども。そういえば、あれは夢ではなくて現実だった。あの猫たち……いや、あの人達は何をしていたのだろうか。自分は何を見たのだろうか。
やっぱり夢だったのかもしれない。猫が人になるなんてありえないわけだし、ましてや呪いなんて非科学的すぎる。かゆみのせいですっかり目覚めた頭は、冷静にそう判断した。恭一は台所のテーブルにつくと、姉と一緒に朝食をとりはじめた。テーブルの下でクロがエメラルドグリーンの瞳を鋭く光らせながら、恭一を見ていた。
夏休みなので、普段は夕方からしか入らないバイトを昼の時間も入れていた恭一は、時計を見るとあわてて支度をしてバイトに出かけた。せっかくの高2の夏休みをバイト三昧で過ごすのはどうかと思うが、遊ぶにも元手が必要だし、お金があって困るものでもない。来年は受験であるし、遊べるラストチャンスと思えば、そのためにバイトをしておくことは必要だと考えた。
玄関の松竹梅をくぐって、門扉を出ようとしたときだ。足元を黒い何かが横切った。思わずびっくりして足を止める。見ると、クロだった。
「なんだ、クロか、びっくりさせるなよ。」
そう言ってから、ふと思い当たる。
「なぁ、クロ、お前黒猫なんだから、前横切るのやめてくれよ。」
黒猫が横切ると不幸になるなんて思ってもみないが、全く気にしないかといえば、気にならないわけでもない。そんな恭一の気持ちを知ってか知らないのかわからないが、クロは俊敏に塀に上がると、軽やかな足取りでどこかへといってしまった。恭一はポケットからスマホを取り出して時間を確認した。あまり時間はない。とりあえず不幸には気をつけてバイト先である駅前のコンビニを目指すことにした。
――おかしい。
駅までの道のり、片道十五分ほどの距離だ。そのわずかな距離で、恭一は十三回、黒猫に横切られた。家を出て最初の曲がり角、公園横の通り、酒屋の前、川沿いの道……あちらこちらから、どこからともなく黒猫が現れては恭一の前を横切っていく。あきらかにおかしい。しかも同じ猫が二回登場したような気もしないでもない。クロにいたっては三回横切った。どう考えてもおかしかった。
「高橋君、どうしたの、考えごと?」
昼シフトの和泉が恭一に声をかけた。和泉は若いが主婦で、子供を預けてパートに入っている。普段は夕方引き継ぐときくらいにしか話をしたことがない。恭一のことを姓で呼ぶくらいの距離感を向こうは持っているようだが、気さくなかんじで、話しやすいタイプの人だと恭一は思っていた。バカにされるかなとも思ったが、思い切って恭一は思いを口にしてみた。
「いや、ちょっと、おかしなことがあって。」
「おかしなこと?」
昼食を買い求める客のラッシュに備えて、弁当や惣菜パンを並べながら話をする。今日は前日に比べて5度近く気温が上がると予想されているので、いつもより大目に冷やし麺の類が入荷していた。夕方からのシフトだと、こんなにたくさんの弁当類を並べることがないので、簡単に手順を和泉に説明をうけながら作業をする。
「いや黒猫がね、僕の前を横切ったんです。」
「あらあら、ご愁傷様、怪我しないように気をつけないとね。」
「しかも十三回。」
「……それ、本気でいってるの?」
「信じてくれないなら、いいですけど。」
「いや、そんな漫画みたいな話あるのかなって。」
和泉は笑って言うと、冷やし中華のパックを手際よく棚に並べていく。あきらかに彼女のほうが手際がよい。恭一も一生懸命、手を動かしながら言った。
「さすがにおかしい気がして。」
「何か猫にうらまれるようなことしたとか。」
「猫にうらみ買うようなことは……」
言いかけて、月光の下の猫たちを思い出した。彼等はあそこで、何をしていた。判決と言っていたから裁判か?
「あれ、心当たりあるの?」
「……なくはないです。」
「じゃあ、本当に気をつけたほうがいいね。」
くすくすと笑いながら、和泉が言った。
「笑い事ですか?」
「笑い事じゃない?」
「……笑い事……ですよね。」
黒猫に十三回も横切られたなんて、冗談でしかない。
「しっかし、高2の男の子が何を相談してくるのかと思えば、黒猫に十三回横切られたとか、ちょっとウケるわ。」
「ウケられても困るんですけど……」
「でも猫は人を見下すっていうし、意外と賢いからね。うらまれたら根が深いかもよ。」
そう言って和泉はレジに来た客の対応のためにレジに走っていった。恭一は残った弁当類を棚に並べながら考えた。
猫の裁判。呪い。黒猫が前を横切る。
ばかばかしい。和泉の言葉を借りれば、漫画みたいな話だ。そんなことより、しっかりバイトに集中しよう。もうすぐ昼だ。十二時からのラッシュはすごいと和泉が言っていた。未経験のラッシュに対応するために、少しだけ恭一は気合を入れて、残りの作業を片付けた。
昼になると、びっくりするほど客はきて、棚に並んでいた冷やし麺が飛ぶように売れていく。初めての昼ラッシュをレジでさばき、夕方シフトに仕事を引き継ぐ頃には、恭一はいつもより疲れていた。
「おつかれ、高橋君。」
子供を迎えにいかなければならない和泉はさっさと帰り支度を整えて引き上げていった。恭一も夕方シフトの友達と少し話をしてから帰ることにした。
「外の中学生、恭一の知り合い?」
「え?」
「いや、さっきから、ずっと外で待ってる風な中学生がいるなと思って。」
「中学生に知り合いなんていないけど。」
「じゃあ、待ち合わせか何かかな。暑いんだから、中入ればいいのにと思って。」
そうは言うが、恭一にはその姿を見ることができなかった。もう行ってしまったのだろうか。恭一はお疲れと声をかけると、コンビニを出た。ドアが開くチャイムがなり、自動ドアが開く。むっとする夏の暑さが開いた扉から流れ込んでくる。厳しい西日に目を細めて外に出ようとした瞬間。足元を黒いものが横切った。
踏んでしまいそうになって、慌てて足を引っ込める。閉まろうとした自動ドアが、恭一を挟もうとして、再び開く。来店者を知らせるチャイムがもう一度店内に響いた。
「十四回目。」
恭一の視線の向こうには、クロがいた。今のタイミング、絶対わざとだと思った。クロが足元を横切ったのだ。自分の記憶に間違いがなければ今日四回目だ。クロが何を考えているのかわからなくて、ただこちらを振り返ったクロと目を合わせることしかできなかった。やがて、クロは満足したように、とことこと軽やかに歩いてどこかへといってしまった。三回目に閉じようとした自動ドアの動きで我に返ると、恭一はコンビニを出た。
結局、家に帰るまでに黒猫横切られ記録は二十七回まで増えた。うちクロは二回だ。明らかにおかしい、絶対におかしい。夕食を食べながら、恭一は難しい顔で考えていた。視線の先には、食事を食べるクロがいる。これまでまったく恭一に興味など示したことがなかったクロが今日一日だけで、五回も目の前を横切り、そのうち一回はバイト先までやってきているのだ。何らかの作為を疑わないわけにはいかなかった。
「恭一どうしたの、眉間にしわ寄ってるわよ。」
幸枝に指摘されて、随分と考え込んでいたことに気がつく。そう言えば、姉はクロのことをどう思っているのだろうか。
「姉ちゃん、クロと外で会ったことある?」
「え、クロと?」
幸枝は暫く考えてから、首をふった。
「そう言えば、一度もないわね。特に気にもしてないし。」
「そうだよねぇ。」
もう一度クロのほうを見ると、クロは何か言いたそうな目でこちらを見ていた。やはりその瞳を他の何かで見た気がするのだが、思い出せない。
夕食を片付け、部屋に戻るとパソコンを立ち上げる。SNSに書きこみをしたりネットサーフィンをしたりしながら適当に時間を過ごす。ハッピーエンドになるようなゲームシナリオを書かなければいけないのはわかっていたが、なんだかそういう気分にはならなかった。壁にかけられた数字だけの無機質なカレンダーを見る。確か、弘介はあのゲームを何かの賞に応募するとか言っていたような気がする。メールの履歴を調べてみると、やはり賞に応募するから、7月中には必ずシナリオをあげることになっていた。しかし、まだ夏休みは始まったばかりだ。夏休みの課題とバイト以外は、取り立てて予定もない。時間はつくろうと思えばつくれるだろう。恭一は日に焼けた畳の上に横になると、天井をぼんやりと見た。吊照明の円環の蛍光灯がまぶしく目を焼いた。目を閉じると、バイト疲れと満腹から、心地よく眠気が襲ってきた。今までは、こんな風に部屋の真ん中で寝ていたら、幸枝に踏んづけられても何も文句はいえなかった。安心してまどろめると思うと、手を伸ばしてくる睡魔に抵抗するのをやめた。
風を頬に感じて恭一はふと目を覚ました。どうやら、寝落ちていたらしい。ゆっくりと体を起すと時計を見る。祖父の使っていた古い掛け時計は十二時過ぎを示していた。随分と眠っていたようだったが、さすがに今から何かするような時間でもない。寝なおすかと布団を押入れから出し、畳の上に広げる。蛍光灯を消したところで、先ほど風を感じた理由がふと頭をかすめた。案の定、庭に面した大窓の網戸が細く空いていた。クロが出かけたのか帰ってきたのかどちらかだろう。開けるなら、閉めて欲しいものだと思いつつ、網戸に手をかけた。
庭には、青い月明かりが落ちていた。庭の中央に植えられた古い柿の木の影が色濃く庭に染め付けられている。そして、その柿の木の向こうの塀の上に小さな影があった。クロだ。青い月明かりに、黒い毛並みがしっとりと光って見えた。きれいだなと思った時、思い出した。セーラー服の特徴的な襟の上に流れる、長い黒髪。あの時も月光につややかに光ってきれいだと思った。
思い出したとたん、クロから視線を外したわけではないのに、塀の上にクロの姿を見失った。その代わりに、塀の上にはクラシカルなセーラー服を着た少女が座っていた。あの時と同じように、長い髪が美しく流れている。
こんな時間に、他人の家の塀の上に何故中学生の少女がいるのか。そんな疑問を抱く間もなく、その姿に恭一は釘付けになっていた。あの時の少女だと思う。だが、あの印象的な瞳を見なければ、同一人物だとは言えない。恭一は少女の顔を確かめてみたくて、少し体を乗り出した。その拍子に、古い網戸がぎしりときしんだ。
はっとして、少女が振り向く。印象的な大きな瞳がこちらを見る。黒曜石のような深い黒の瞳が驚きにゆれていた。ほんの一瞬、視線が交錯し、突然闇が訪れた。月灯りを雲が隠してしまったのだ。突然落ちた影に一瞬視界を奪われると、次に見たときには塀の上には少女もクロもいなかった。幻だったのだろうか。そうも思えるほどの一瞬の時間。しかし、その鮮やか過ぎる残像は、いかに現実的な恭一にとっても夢か幻で片付けることができそうになかった。
次の日、やっぱり蚊に刺されて目を覚ました恭一は、薬局に蚊取り線香を買いに行くことを固く決意した。幸いバイトも夕方からだ。昼間は何も予定がない。夏休みだから、だらだら寝ていてもいいが、暑くて布団の中にいるのも難しいし、きちんと起きて朝食をとってから、薬局が開くまで暇をつぶすことにした。
「恭一、あんた、お盆何か予定ある?」
唐突に母親に聞かれて、白飯を口に含みながら答える。
「え、いや、何もないけど。」
塾とかに入れられたら困るな、と思ったがそういうことではないらしい。父親の夏休みがお盆しかとれなかったので、夫婦で旅行に行くらしい。
「一緒に行く?」
「姉ちゃんは?」
「行かないって。」
「じゃあ、僕もいいよ、二人で行ってきなよ。」
夫婦旅行に高2にもなって一緒に行くとか、こっぱずかしくてできるわけがない。予定はなくとも家に居るほうが気は楽だ。母親は嬉しそうに、じゃあ行ってくるといってカレンダーに予定を書き込んだ。
「おじいちゃんの初盆だから、留守にするのは気が引けるんだけど……」
「あ、そうか、初盆になるよね。」
とは言ったものの、その意味はよくわからない。毎年お盆に、回転灯篭や吊るし提灯を下げて、仏壇に落雁をお供えすることぐらいしか思い出せなかった。
「準備だけしていくから、提灯ちゃんと点けてくれる?」
「うん、それくらいなら。」
「さすが長男。」
「電気のスイッチくらい、子供でもいれられるって。」
バカにするなと思いつつ、答える。
「せっかくおじいちゃんが帰ってくるのに、家が暗いんじゃ、ここが家ってわからないからね。おじいちゃんが困らないように、ちゃんとやってよ。」
花柄の派手な提灯や、回転する走馬灯にそんな意味があったのかと改めて知りつつ、恭一はうんと頷いた。まぁ、幸枝もいるわけだし、いざとなればなんとかなるだろう。食事だって、コンビニ弁当のロスをもらってくれば飢えることもない。むしろ自由に過ごせる数日を手に入れたと思えばお得感のほうが感じられた。なんなら、弘介を呼んでもいい。そんなことを考えながら、朝食を片付けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます