第91話 夜更けの酒場にて その3
魔術師の衣装。それと、冗談のように隆起した豊満な胸。
それが、三人が振り返った先に、待っていた光景だった。おそらく、真っ先にこの店の敷居を跨いだのは、彼女の足ではなく、胸だったのだろう。
場にいた全員が、彼女のそのむせ返るような媚態に釘付けになった。戸惑いを隠せぬ者、思わず見惚れる者、ヒューと囃し立てる者。
酒場は、騒がしさを再生しつつあった。
服装、特に後姿はまさに魔術師そのもの。無駄な装飾が一切ない黒のマント、黒の三角帽子、右手には巨大な宝玉を先端に設えた錫杖。同じ魔術師であるエルフィオーネも、一目で魔術師とわかる衣装を纏いそれを自身の看板としているが、今ここに向かってくる彼女は、いうなれば古典も古典―――それこそ、幼児用の絵本の中で描かれるような、人を惑わし
ただし、その外套の中身はというと―――これから男を誑かしますよと大声で宣言するかのような、セックスアピールの塊だ。
整いに整った容貌。豊かな栗色の頭髪。27、8歳といったところだろうか。女盛りの熟れた肢体に、これ以上強調する必要があるのかと言わんばかりに
雑に形容すれば、エルフィオーネを一回り大きく、そして、もう一周突き抜けさせたような、そんな妖艶な女だった。
「すげぇ、あの女。乳から登場しやがった」
思わずゼファーがため息を漏らす。
女は微笑を浮かべながら、コツ、コツと靴音を鳴らし、いちいちポーズを決めるような足取りでカウンターに近寄ってくる。身長は高く、それをヒールで更に底上げしており、立って並べばアルフレッドと比べても差はないだろう(もっとも、被った三角帽子の高さを足せば、この場の誰よりも高くなるのだが)。
気づけば、この時点でエルフィオーネは視線をカウンターの内側へと戻していた。
そうは言っても同性ゆえ「凄いものを見た」程度で興味を失ったのかと思いきや―――。
「……チッ」
グラスを呷った際にエルフィオーネが舌打ちをしたのを、アルフレッドは聞き逃さなかった。
もしや、顔見知りか。同業者ゆえに、過去にいざこざか何かでもあったのだろうか。かたや微笑を絶やさないのに対し、こちらは随分と虫の居所が悪い様子だった。
「……おいアルフレッドちゃん、あの女、俺らのところに来るぜ」
「……ああ。お前、何処の誰か知らないのか?」
「……いや、悔しいが、わからねー。王都やこの辺の有名人はだいたい把握してるつもりなんだが……。くそ……あんな極上の女なのにッ!! 何で情報が無い!!」
エルフィオーネを挟んでコソコソと話をしているうちに、それが通用しない距離まで接近されてしまう。
女が立ち止まった席は―――アルフレッドの左隣の席だった。
「お兄さん。お隣、よろしいかしらぁ?」
―――カウンターに肘をつき、猫背気味の体勢でグラスを口に、アルフレッドは横目でちらと女を見上げるも、その胸で、顔が全部見えない。右端の席でゼファーが恨めしそうに見ているが、生憎、アルフレッドの視界には入らない。
「―――どうぞ」
「ふふ。ありがと」
ちょうど、右隣にはエルフィオーネが座っており、図らずしもアルフレッドは両脇に花を持つことになった。ただし、花と言っても、どちらも妖花の類に他ならないが。
「……あんた、何処からきたんだ? ここいらの人間じゃねぇよな?」
挨拶ついでにアルフレッドは探りを入れた。経歴を根掘り葉掘り問いただすのは、この領内では禁忌ではあれど、エルフィオーネの態度が、どうにも気になったからだ。
「あらぁ? どうしてそう思うの?」
その返答は無防備なようで、隙がない。こちらが逆に探りを入れられているかのようだ。
「ここいらに住んでてて、市井に赴いているんだったら、あんたみたいな美人、話題にならないわけがないからな」
「うふふ。褒め言葉として受け取っておくわぁ。果たして、その通り。私の名前はメルフィナ。見ての通りの、流浪の魔術師よ」
「へぇ……。いつ、このイザキに?」
「ネーオに入ったのが今日の夕方あたりだったからぁ、この港町に入ったのは今から二時間くらい前かしらねぇ。タオロ国から歩いてやってきたんだけど、丸一日じゅう歩きっぱなしだったから、さすがに疲れちゃったわぁ」
な。アルフレッドとゼファーは絶句し、同時にメルフィナの顔を見た。
「あんた、まさかタオロ国からこのアルマー王国まで、陸路でやってきたのか? しかも、たった一人で!?」
同時に周囲の酔客もざわざわと騒ぎ出す。それを見届けた後、メルフィナは胸元に手を潜り込ませると、七色に輝く欠片をつまみ、見せびらかすように衆目にさらした。
「それはまさか……り、竜鱗!!! しかもその色は最も
今度はゼファーが驚愕の声を上げる。竜鱗、と聞いて周囲のざわめきがさらに増す。
「その通り♪ 産地直送とれたてホヤホヤの逸品よぉ。一番綺麗なのを一枚、気絶してる間に採取しちゃった。おかげで路銀のいい足しになったわぁ。これはその欠片ね。後で加工してアクセサリーにでもしようと思うの」
「……なるほど、『陸路』を踏破してきたってのは、フカシじゃないみたいだな。―――あんた、すげぇよ」
アルフレッドは舌を巻きながら素直な感想を言う。
「ふふ、あなたのような戦士にお褒めにあずかり、光栄だわぁ」
周囲が動揺するのに対し、エルフィオーネは全く動じない。それどころか「それで自慢のつもりか」とでも言いたげな、冷めた表情で酒を呷っている。
「だが、わからねぇな、メルフィナの姉さん」
「あら、何がぁ? お兄さん」
「何でそんな危険なルートを通ってまで、このアルマー王国に入国しようとした? 何の目的で?」
「……さあて、ねぇ。未だ見ぬ情熱的な愛や恋を求めて女ひとり、風が赴くままに、旅してみたかったから? 陸路を選んだのは、そうねぇ……潮風は髪が傷むから。そう言ったら、あなたは信じるぅ?」
「タオロ国の連中は、軒並み斐性無し揃いだったと。なるほど、なら、無駄に屈強で情熱的な男が多いこのイザキの港町を選んだのは、正解だったな」
「今だって、そう。呑むにしても、ちょうど、誰かとお話しながら呑みたかったところなの。こうい肌寒い夜はねぇ。人肌も恋しくなるし……フフ」
胸をカウンターの上に預け、魔術師メルフィナは至極挑発的な流し目でアルフレッドを見てくる。こういう規格外の物をまざまざと見せつけられると、本当に同じ人間同士なのかと疑いたくなってくる。男目線にしても。
大変なことに気付いた。右脇から漂ってく気配が、いよいよもって怒気に近いものに変わりつつある気がするのだ。嫉妬……いや、違う。エルフィオーネはそんな陳腐な理由で臍を曲げるような、余裕の無い女ではない……ないはずだ。
いずれにせよ、これ以上の情報を聞き出せる気がしない上に、早々に他所へご移動願わなければ、後が怖い気がする。
「でも悪いが、俺みたいなくたびれた男に、あんたみたいなイイ女の相手はちと荷が重い気がする。右端に、もっとヤる気満々の、適任な野郎が居るんだが、どうかな?」
あからさまに、「いいぞ!」という表情で期待を膨らませるゼファー。こちらは災禍の種を押し付けるつもりなのだが。
「あらぁ。そんなに卑下なさらないで。くたびれてるなんて。まだ若いのにぃ」
「あいにく、ここまでだ。これ以上は会話の発展のしようがねぇ。と、いうのも、俺は魔術師のあんたに興味を持たれる要素を何一つ備えていない。なぜなら俺は」
「私は興味津々だわぁ」
間髪入れずに割り込まれる。
「だってあなたは―――『彼女』に見初められ、付き従われている人物なのだもの。―――嫉妬しちゃうくらいにはねぇ」
その「彼女」が誰を指すかは―――考えるまでもなかった。
「久方ぶりですねぇ。エルフィオーネ『先生』」
「……貴様に『先生』と呼ばれる筋合いは無い。何度言えば、分かる」
アルフレッド越しに、魔術師メルフィナに対して初めて発されたエルフィオーネの台詞は、至極剣呑としたものだった。
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