第17話 「与え姫奇譚」を読んでみた:前編




 この世で最も嗅ぎたくない臭いが体中に、まるで油染みのようにこびり付いているような気がしたので、入念に洗い落とすのについ長湯になってしまった。

 一張羅のジャケットはまだ乾かない。が、構わず、それを預けたまま、アルフレッドは銭湯を出、駆け足でアンズと合流した。

「すまなかったな姐さん。せっかくの仕事上がりなのにヘルプまでさせちゃって」

「ええんよ。可愛いアル坊の頼みなら、どんだけでも聞いたげれるわ。―――それより、呑みに来て欲しいて、どの店の子もそう言うとるんよ。たまには行ってやってな? アル坊はモテるんやから」

 アルフレッドは苦笑する。

「こりゃ参ったな。金策に難儀してるって、言っておいてくれる?」

 しかも今日の仕事の報酬は、アンズにヘルプを依頼したため、代理で働いてくれた時間分を彼女と折半する形となっているのも、地味に痛いところだ。頼んでおいて今更愚痴は吐けないが。

「じゃあ、あたいは先に帰って寝るとすんわ。すまんけど、ウチの愚弟の面倒、引継ぎお願いすんね」

 アルフレッドとウシオマルに背を向け、紫煙を吹かしながら、アンズは右手をひらひらを振り、往来の人ごみへと消えていった。

「はー……まるで針の筵じゃったわ。やっぱり、アルフレッド殿の方がええわ」

「気持ち悪いことを言うなよ。さ、仕事続けるぞ」

「例の詰所での件はどうするのじゃ?」

「俺たちが行って出来る事なんて、もう掃除くらいしかないさ。仕事すっぽかして慈善活動ボランティアであれの清掃にでも行く? さすがに俺は御免だけど」

 ウシオマルは「冗談じゃないわい!」と、ぶるんぶるん首を横に振った。

 昨晩の騒ぎ、本日の惨事と続いたためか、人通りは例年より明らかに減っており、子供達はそれがさらに顕著だ。事件についてヒソヒソと噂をし合っている井戸端会議の様子もちらほら見られる。

 警戒も、さらに厳となっている印象だ。

 アルフレッドやウシオマルのように、金で短期間で雇われた者と違い、官憲のなかには当然、己の使命に燃える者も少なくはない。アルマー王国内で最も治安が良いとされているこのアークライト領は、【蒼雷侯】ジェスティ侯爵の武勇を崇敬し畏怖する者達が多いので、尚更だ。道すがらすれ違う役人達からは重苦しくピリピリとした、時には殺気にも似た空気を感じる。

(ん……?)

 後ろ腰に妙な感触をおぼえ、アルフレッドはその元凶に目をやった。

 視線の先には、先の戦いで、一度も白刃を見せなかった、アルフレッドの愛用の両手剣がある。アルフレッドは、思わず眉を顰めた。




 カタカタ……カタカタ……




 剣が、震えている。

 歩く震動のせいではない。歩調とは全く違ったリズムで、小刻みにカタカタと震え、音を鳴らしているのだ。

 まるで凍えるように、怯えるように? ―――いや、歓喜に武者震いするかのように、剣はアルフレッドの後ろ腰で蠢いている。



(また、増えちまったか……。クソ)



 アルフレッドはばつの悪そうな表情で、顔を背けるかのように、自身の得物から視線を逸らした。




 ◆◇◆◇◆◇





 ―――明日、騎士の叙任の儀が執り行われる。

              三人は、アークライト伯爵に謁見する機を―――





「遅いなあ、アルフレッド」

 窓際から外を眺め、コーヒーを啜りながらアリシアは呟いた。多分、昨日の件で、進展があったのだ。

 室内は静かだ。時折、暖炉の薪がパチッと弾ける音と、ぱらり、と本の頁ページが捲られる音だけが聞こえてくる程度である。

 だがアリシアは気を緩めない。剣を抜く心の備えは、整っている。どこから攻めてこられても対応できる自信がある。






          ―――エディ、いよいよこの日が―――






 部屋全体を目配せしてみる。

 エルフィオーネは、ソファーに腰掛けながら、ある本を読んでいる。そして、その様子を、観察するかのようにじっと眺めているシャーロット。

 エルフィオーネはここを去る前に、最後に一度アルフレッドに会いたいと、彼の帰りを待っている。いわく、まだ正式に礼も言っていない、とのことだ。

 その待つ間が退屈とエルフィオーネがぼやくので、シャーロットは、すぐさま彼女に本を薦めた。

 もちろん、その本とは、アルフレッドの作品である、「与え姫奇譚」である。






 ―――必ず、悪逆の輩ともがらを排す。

             例えそれが、この国への叛旗へとなろうとも―――





 やはり、エルフィオーネの素性のことが気にかかるのだろう。先刻脱衣所で見た、エルフィオーネの背中に刻印された魔術式のことをこっそり話すと、シャーロットはにわかに血相を変えた。

 在り得ないと解っていても、やはり引っかかるのであろう。

 彼女―――エルフィオーネが、500年前の謎の貴婦人「エルフィオーネ婦人」であり、伝説の英雄「与え姫」なのではないか、と。

 アリシアも、今ならその心情が理解できる。脱衣所で見た、常人には絶対に真似できない、生身への魔術式の刻印というわざを見てしまった以上は。






    ―――お前は実の弟と戦うことになる。その覚悟はあるのか――― 






 シャーロットが「与え姫奇譚」を差し出したときのエルフィオーネの反応は、(子供用の書物と誤解していたらしく)半ば笑い飛ばすように、「なんだ、御伽噺おとぎばなしに興味は無いのだが」と、実に淡白なものだった。

 だが、「暗黒時代」を書いた時代物だと教えられた瞬間、表情と目の色を変え、「ほう」と興味津々そうにページを捲りだした。

 そして数時間。

 既に一巻目を読破し、現在の最新刊の二巻に手をつけている。随分と熱心な読みっぷりだ。そんなにも気に召したのだろうか。まるで家族が評価されたかのように、アリシアは少し嬉しい気もした。






 ―――正義や悪……そんなことは、どうでもいい。

                   私は、事の顛末を見届けたい―――






 時折、驚いたような表情を見せたり、記念写真を眺めるかのような穏やかな笑顔を浮かべたり、「ふふっ」という笑い声も漏らしながら、まるで食い入るようにして、エルフィオーネは「与え姫奇譚」を読み耽っている。

 そしてシャーロットは至極真面目な表情で、その様子を見つめていた。




 ◆◇◆◇◆




 ぱたん、と表紙が閉じられたのと、アルフレッドの帰宅を知らせる、ドアの開閉音が響いたのは、ほぼ同時だった。エルフィオーネは静かに瞳を閉じると、安らいだ表情をみせながら、ソファーから立ち上がった。

「あ、アルフレッド、お帰り」

 アリシアがすぐに駆け寄ってくる。

「―――あれ? お風呂入ってきた? ジャケットも洗濯してきたの?」

 石鹸の芳香に、鼻をくすぐらせるアリシア。

「ああ、ちょっとばかり、酷いめにあってだな」

「それって昨晩の事件関連?」

「そんなところ。―――事件は、残念ながら迷宮入りさ」

「どういう意味?」

「全員、殺られた。おそらく『飼主』に」

 アルフレッドはジャケットを脱ぎながらそれだけ言った。どんな風に殺されたかは、敢えて言わず、領民達の身の無事だけは伝えた。これ以上食欲が減退する人間を増やすわけにもいかない。

「なるほど、口封じか。これで、私が奴らに狙われた理由も、闇に葬られてしまった、ということだな」

 両の足で立っているエルフィオーネを見るのは初めてだ。凛とした表情に、ぴんと伸びた姿勢が美しい。

「あんた、もう動いても平気なのか」

「傷の具合のことか? それなら大丈夫、完全に塞がった。見てみる?」

 言いつつ、コルセットを外そうとする。「わかったから」と、アリシアと一緒に慌てて制止するかたちとなった。

「取り敢えずだ。事件は未解決のまま終わったわけだけど―――エルフィオーネさん、本当に心当たりみたいなものは、ないんだな? 疑うみたいで悪いが」

 正体が何者であれ、彼女ほどの高位の使い手であれば、ここではないどこかで、名の一つくらい立っていても何らおかしくはない。それが名声であろうと、悪名であろうと。

 その名を狙った犯行だった可能性は、十分にある。

「いいや。本当に無い。この通り、ただの暇人の放浪者なのでな」

 エルフィオーネは、逡巡する素振りも見せず、即座に首を横に振る。

「この名を名乗るのも、実に久々だ。最近は面白いことがなく、ひとつの所に留まる事も少なくなってきたから、尚更にな。―――だが久々に、興味深い方々に出会え、名を名乗ることが出来た」

 するとエルフィオーネは、いきなりアルフレッドの前で肩膝を突くと、首こうべを垂れた。

「おいおい、やっぱり傷が……」

 いきなりの事でうろたえるアルフレッドをよそに、エルフィオーネは顔を上げる。

「形はどうあれ、重ね重ね貴方達には世話になった。正式に礼をさせてもらうと同時に、どうか、この恩を返させて欲しいと願う」

 ええっ、とアルフレッドの口から躊躇いの言葉が漏れた。

「いや、恩って言っても……俺達としては当然のことをしただけで、なあ?」

「そうそう。美味しい料理も食べさせてもらったし、ねえ?」

「そんなに気負うことは、無いと思いますよ。ね?」

「申し訳ないが、それでは私の気が済まない。何か無いか?」

「そう言われてもなあ……」

 アルフレッドは頭をかきながら、どもる。すると、エルフィオーネは立ち上がり、言う。

「―――それとも、この身をご所望か?」

 その爆弾のような発言に、その場の全員が一瞬、言葉を失った。

「お、おいおい……」

「エ、エルフィオーネ! 何言ってんの!?」

「もちろん冗談ではない。アルフレッド、貴方がどうしてもというなら、甘んじて受ける覚悟はある。この身で満足していただけるなら、一晩、どうぞ好きなようにしてくれて結構」

 エルフィオーネは、豊かに隆起した胸元に手をあてがうと、臆面も無く言った。脳裏に一瞬、よからぬ情景が浮かび、アルフレッドは思わずごくりと喉を鳴らした。

「ちょっ! 何考えてんの! だ、だ、ダメよアルフレッド! そ、そんな爛れた関係! お母さん許さないからね!」

「誰がお母さんだよ……」

 気が動転したのか、アルフレッドのシャツを握りながらしどろもどろに喚くアリシア。

「……この展開、どこかで読んだような……」

 そして顔を赤くしながら、無言で何やら妄想に耽るシャーロット。

 アルフレッドはふう、と一息つき、冷静になる。

 確かに、男としてその精緻な造りの身体を隅々まで堪能したい欲求は、無いわけではない。据え膳食わぬは何とやら、という言葉もある。

 だが、アルフレッドとしては、当然のことをしただけで恩に着せるつもりは毛頭無かったうえに、相手は知り合ってまだ1日しか経っていない、素性も知らぬ、しかも(多分)少女だ。欲求よりも気おくれのほうが先に出て、食指が動こうとはしなかった。極めつけがアリシアの存在だ。

 一体何をもってを収拾をはかればいいのか。アルフレッドは困り果てていた。

「―――ん?」

 つと、エルフィオーネの小脇に、見慣れた本があるのに気づいた。

「その本……」

 アルフレッドは思わずシャーロットの顔を見た。彼女はこくり、とアルフレッドに視線を合わせ、頷く。

「これか? 待っている間暇だったので、読ませてもらった。聞けば、貴方が作者だとか―――」

「ん? あ、ああ」

 アルフレッドは一息置いて、続けた。

「できれば、感想とか聞かせてもらえると、嬉しいかなって」

「いいのか? 遠慮なく行くぞ」

「望むところさ。ただでさえ読者が少ないから、感想は助かるんだ」

「なら―――」

 こほん、と咳をきってから、エルフィオーネは口を開いた。




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