第14話 魔術師エルフィオーネという人物



 数えるべき染み一つ無い天井を見上げながら、ぼんやりと思案に耽っていると、いつの間にか夜が明けていた。新しい朝の到来を告げる鶏の泣き声が、遠くから聞こえてくる。

 アルフレッドはカーテンの隙間から差し込む朝日の光を目に受けソファからむくりと立ち上がると、周囲を見渡した。

 襲撃は起こらなかった。すべて世はこともなく、全員、何事も無かったかのように、すやすやと(約一名グースカと)寝息をたてて眠りについている。見張り番のはずのシャーロットも、うつらうつらと舟をこいでおり、今にも眠りに堕ちそうな雰囲気だ。シャーロットの長い耳に、アルフレッドは「もう、寝てていいよ」と耳打ちすると、彼女は「すいません先生……おやすみなさい」と言った後、こてん、とソファーの上に堕ちた。

 アルフレッドは、台所へと向かい、朝食の支度をはじめた。

 保冷箱から、卵や野菜をはじめとする食材を取り出し、キッチンに火をかける。魔術式が刻印されたコンロではなく、薪をくべて火をつける、いささか時代遅れな厨房である。

 パンと、目玉焼き、ベーコン……牛乳に、苣レタスとトマトのサラダ……簡単な物でいいだろう。ついでに、二日酔い対策に、ウシオマルにはトマト汁ジュースでもくれてやる。味噌汁をよこせと言われても無視をするに限る。

 一通り作り終え、料理をトレーに載せおわった頃には、一同もぼちぼちと目を醒ましはじめたようで、ロビーからは眠たげな声が聞こえてきた。


 

「食ったら少し仮眠する。さすがに貫徹は、今日の仕事に障る」

「アルフレッド、お疲れお疲れ!」

 本来の報酬がようやく下賜された。アリシアは眠りに堕ちたシャーロットに膝枕をしながら、眠たげにパンをかじるアルフレッドの白髪頭を子供を褒めるように撫でている。

「アルフレッド殿、やっぱり今日も行かなきゃならんのかのう。昨晩十分に提示金額分の仕事をしたじゃろうに」

 案の定味噌汁をよこせと要求されたが、代わりにトマト汁を手渡されたウシオマルが、酔いどれのぼんやりとした目つきで言う。

「依頼の期間は収穫祭が終わるまでだろ。昨日のアレは、酔っ払いの暴徒の取り締まりみたいなモンで、それが本来の俺たち仕事だ。どうしても嫌なら、あねさんに助っ人を要請しに行くが……」

 ウシオマルはにわかに慌て始めた。

「ややややめるんじゃ、そんなことされたら義姉者にブッ飛ばされる」

「なら、文句言うな。三時間後、九時には出るぞ。昨日のヤツらの残党が、まだ居ないとも限らないからな。気は抜けん」

「大人は大変だねー」

 他人事のように、アリシアが呟く。

「何なら、一緒に社会見学してみるかい? お姫様」

「そうしたいのは山々だけどねぇ、この子らの護衛もしてあげなきゃ」

 アリシアは、未だに泥のように深い眠りについているエルフィオーネと、安らかに眠るシャーロットの寝顔を交互に見遣った。




 三時間後、アルフレッドとシャーロットはほぼ同時に目を醒ました。

 そして身支度の後、アルフレッドとウシオマルは、アリシアとシャーロットの見送りを、玄関で受けていた。

「気をつけてね、アルフレッド、ウシオくん」

「どうか、ご無理をなさらぬよう……」

「なあに、奴ら程度なら、たとえ百人来ようが一捻りじゃわ」

「俺が戻るまで、彼女の護衛は任せるぞ。終わったら、ちゃんと祭り散策には付き合ってやるから。ああ―――そういえば、エルフィオーネも、同じ目的で来てるんだっけか」

「おっ、護衛にかこつけて、美少女三人侍らせハーレム気分を満喫する気かな? この助平スケベ

「ハーレム? ただの引率だろ? 引率」

 にべも無く、あっけらかんとのたまう。これにはさすがにアリシアも、苦笑いを禁じ得なかった。

 二人を見送り、アリシア達が再びロビーに戻ると、藤色の髪の少女―――エルフィオーネが、毛布を膝に上半身を起こし、大きく背伸びをしていた。

「あ、目覚めたみたいね。エルフィオーネさん、気分はどう? 傷は痛まない?」

 歩きながら、気安くエルフィオーネに語りかけるアリシア。

「ああ、侯女殿か。気分なら、すこぶるいい。傷もこれこの通りだ」

 そう言って、シャーロット謹製の包帯を、腹からするりとほどく。一体どこを傷つけられたかわからないくらいほど、傷跡は綺麗に消えうせていた。白く、うっすらと腹筋の筋が見える、健康的な腹部があるだけだ。

「わあ……本当に完治してる。信じられない」

 治療した本人であるシャーロットは再三、目を白黒させた。

「私にこれを巻いてくれたのは、あなただったな。エルフの少女よ。重ね重ね、感謝する。名前は―――ええと、一回聞いたような気もするが」

「シャーロットと申します。宜しくお願いします」

「あらためて、アリシアよ。年上のレディなんだから、侯女殿、なんて呼び方は不要よ。呼び捨てでいいわ。宜しくね、エルフィオーネさん」

「なら私にも、余計な敬称は不要さ。貴族の身である貴女は、下々の者に、敬称を使う必要も無いだろうし、シャーロットに関しては、私より年上であろう?」

 えっ。とシャーロットは返答を濁した。

 確かに、エルフィオーネがただの魔術師だというなら間違いなくその通りだ。

 だが彼女が、もし「エルフィオーネ婦人」本人だと言うなら、その年齢は500歳以上、そしてさらに、「与え姫」だとしたら、実に600歳以上―――。

(まあ、そんなことはない。そんなことはないよね……。ちょっと、空想と現実をごっちゃにしちゃってるみたい……)

 今頃アルフレッドも同じことを考えているだろう。最初は確かにぎょっとしたが―――一夜明けて冷静になってみると、こんなものだ。

「それでエルフィオーネ、何か必要なものある? ご飯とか、お風呂とか」

「そうだな……」

「それともワタシ? なんちって」

 完全に冗談めいた口調で体をくねらせるアリシア。だが、その返答は、想像を絶するものだった。

「ほう、いただけるなら、貰うぞ?」

「えっ? あ、あの……」

「もっともそうなったら、昨日いた世界には永遠に戻れなくなるやも知れぬが、それでも良いか?」

 にやり、と、どこまで嘘か本気か判らない表情で流し目をする。

 引きつった笑いで答えるアリシア。

「えっと、じょ、冗談、だよね?」

「どうかな?」

「そ、その。わ、わたし、そっちのケは―――ごめんなさいっ!」

 本気で狼狽するアリシアを見たところで満足したのか、エルフィオーネはフッと小さく笑った。

「冗談だ。―――だが、世の中にはそれで本気になるような女も、極稀にいる。軽はずみな発言には注意することだ。―――風呂を貰おう。案内して貰っても宜しいか?」


 



「―――本当に、何もしないよね?」

「ははは、本気で驚かせてしまったようだな。私は美少女や美女はもちろん、それ以上に美青少年が―――というより、美しいもの全般をこよなく愛する主義なだけで、心配は無用さ」

 白煉瓦造りで、黴も見当たらない浴場の脱衣籠に、魔術式が設えられたローブ、フリル付きの、ビスチェ仕立てのコルセット、シルクの羽衣、インナー、下着等が次々と投げ込まれていく。

 生まれたままの姿になったエルフィオーネは、長い藤色の髪をばさっと舞い上げ、纏めはじめた。

 まるで若鮎のように、白く均整の取れたボディは、まるで造られた彫刻オブジェのように美しく、かつ、ともすれば儚く壊れそうな危うさをも漂わせている。

 男女問わず見惚れるような光景では在れど―――アリシアは、主に胸元と、くびれと、背丈とを自身と比較しながら、複雑そうな表情を崩さない。

「―――大丈夫。もう五年、いや、四年待つのだ」

「ほっといてよ、もう」

 どうやら、気取られていたらしい。アリシアは顔を紅潮させながら、口を尖らす。



 よいしょ、と、衣服が盛られた脱衣籠を持つと、アリシアは笑顔で言った。

「洗濯しておくわ。破れもばっちり縫って綺麗にしておくから、任せて」

「おおよそ、侯女がするようなことではないな」

「お母様にね、仕込まれたのよ。婦女としてのたしなみってね。そんな教養もってる子なんて、大小どの貴族の姫にもいないってのにね」

 苦笑しながら、アリシアは言う。

「ほう……たしか、アークライト侯夫人は、ナ国人だったな。道理で」

「へえ、よく知ってるね。炊事、洗濯、裁縫、掃除―――都合よく男に尽くすようなスキルばっかり、よくもまあって思うけどねぇ」

「ナ国では、女は家中奥にあって能よく内助に励むが理想、という風潮が根強い。だから、女が表に出て活躍したりする機会は、極端に少なく、歴史に名の残る者は、本当に数える程度しか居ないという」

「ひどい話よね。女を何だと思ってるんだか。―――そう思っちゃうあたり、私ってまだ子供なのかな」

 その質問には返答はせず、ひたすら、くるくると髪を纏め上げていくエルフィオーネ。

「―――だが戦となれば、小国であればたとえ姫であっても、兵士や侍女に混ざり、炊飯や怪我人の救護に奔走するという。普段は奥にある身分の者がだぞ。だが、普段は表に居ないからこそ、領民や兵士達を、平服姿で慰撫し鼓舞していく姿は、実に気高く、そして美しく見えるという―――美しいと言うことは、大事だ。実に大事だ。そうは思わんかね?」

「う、うん」

「まあ、何が言いたいかというと……だ」

 言い終えるのと、髪をまとめ終えるのは、同時だった。

「母上から賜ったその技巧群は、騎士様おとこの心を射止めるのに、非常に大事なスキルであり、これからも鍛錬していく余地があるということだ。―――いるんだろう? 年頃だし、そういうのが」

 アリシアの脳裏には真っ先に、兄の友人であり、自身も実の兄のように慕う、一人の白髪の青年の顔が思い浮かびそうになったが、慌てて霧を払うように霧散させた。彼とはそういう関係ではないのは事実だし、そういう感情を抱くことなど、今更できない。そう、できないはず、なのだ。

「どこをどうまとめたらそういう結論になるかな。って言うか、からかわないでよ! もう!」 

「ははは、すまない。歳若い貴人と親しくなるのは久々だし―――あと、つい昔の友人を思い出したのでな。―――では失礼する」

 どうも話のペースを握られすぎている。アリシアは不本意そうな表情で、浴場へと向かうエルフィオーネの背中を



(えっ……!?)



 背中を、見た。そしてその瞬間、その背に、アリシアの目は釘付けになり、思わず脱衣籠をその場に落とした。



 ―――魔術式だ。



 その白く華奢な背中をびっしりと覆いつくす、魔術式の羅列。大群。ローブと長い髪に隠されて判らなかったが、今はそれが纏め上げられ、その姿を白昼に晒している。魔術師を名乗るにもかかわらず、彼女の術具がどこにも見当たらないと思ったら、そういうことか。アリシアは納得しつつも、信じられないといった面持ちで呆然としている。

 ―――魔術式を、身体からだに刻印する。それが出来れば、理論上、術具を携帯せずとも魔術を行使することが可能になる。自身が術具と同義の存在になるからだ。

 だが、それを行うのは、アルマー王国の法律では禁止されている。

 何故か?

 それは、今までにそれを試して成功させた人間は、全くといって良いほど存在しないからだ。その上に、試した人間はほぼ例外なく、発狂もしくは廃人となっているのだ。まるで、「この世界」から流れ込んでくる膨大にして強大な「情報」や「意思」に脳を焼き焦がされるかのように。

 アリシア自身も、「成功させた人間」を眼にするのは初めてだった。

(まさか、本当に存在するなんて……。しかも、一体何の魔術式!? 見たことも無いほど複雑だけど……)

 今まさにドアの向こうの浴場に姿を消そうとしているエルフィオーネ。アリシアは、慌てて見える範囲で、その魔術式の解読をはじめた。

 だが―――。

「……うっ。ううっ。な、なにこれ……」

 その瞬間、強烈な眩暈と吐き気に襲われた。

 解読しようとして、頭の中に飛び込んできたイメージは、何のものか全くわからない「情報」の海だった。まるで、何をかかれているのか判らない、学術書の文字群の奔流が、否応無しに頭に流れ込んでくる感覚だ。

 それが、まさに津波のように押し寄せ―――今にも頭脳を砕かんとした。

 アリシアはその場に、頭を抱えながら、ぺたんと座り込んでしまった。

 未だに、頭痛がする。

(……伊達やただの刺青ってわけじゃない。正真正銘の魔術式だわ……何かはわからないけど、間違いなく)

 そういえば、シャーロットとアルフレッドが、昨日しきりに話していた。

 彼女と同じ名前を持つという、謎多き歴史上の人物、エルフィオーネ婦人。その正体は、アルマー王国民なら誰でも知っている伝説の英雄「与え姫」である―――そういう設定の下でかかれたアルフレッドの小説「与え姫奇譚」。もし、物語の中から彼女がこの世に顕現したのなら、まさに彼女のイメージで一致する……と。

 空想と現実をごっちゃにして、一体何を血迷ったのかと、そのときは小ばかにしていたが、あの魔術式のせいで、完全に考えが変わった。

 本人は、自身のことを、「ただの暇人」といって憚らないが―――。



(あの人、一体何者なの……?)




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