第3話 運命の出会い(ある意味で)

 それから三十分後。

「……ふぅ」

 わたしは剣を鞘に収めて、大きく伸びをした。

 玉兎は最初こそ、想像していたよりも手強いと感じたけれど、攻撃してくる直前に必ず、ぶるぶるっと全身を身震いさせる癖があることに気がついたら、あとは楽々だった。

 玉兎はこちらから攻撃しないかぎり襲いかかってこないから、まず一撃、無条件に入れられる。すると、こちらを敵と認識して襲いかかってくるけれど、攻撃前のぶるぶる震える動作に注意していれば、避けるのは簡単だ。

 とはいえ、いったん攻撃態勢を取ると、攻撃が終わるまで他の動作に移ることができなくなるため、調子に乗って剣を振りまわしていると、見えているのに避けられないタイミングで体当たりを食らってしまうこともあった。玉兎の攻撃は、まだ生命力HPの低いわたしにはけして無視できる弱さではなかったけれど、一撃食らった程度なら、倒した後で数十秒ほど攻撃態勢を取らないでいれば、自然回復で上限値まで生命力を回復できた。

 玉兎狩りを止めたのは、延々同じことを繰り返すのに少々疲れたというのもあるけれど、生命力が自然回復しなくなったからだ。

 どうしてそうなったのかについては、先ほどのチュートリアルで教わっていた。【体調】の数値が一定値を下回ったためだ。教わったとおりに食品アイテムを食べれば【体調】を回復させることができるのだろうけど、わたしの所持品に食品はない。それに、街はすぐそこだから、素直に戻ることにした。

 門を抜けて街中に戻ると、減っていた生命力のゲージがじわじわと回復を始める。この分だと、回復施設である宿屋に行く必要はなさそうだ。では、どうやって時間を潰そうか? というか、今夜はこれでログアウトしても良いような気もする……。

 そんなことを漫ろに考えながら歩いていたら、いきなり背後から肩を叩かれた。

「えっ」

 びっくりして振り向くと、見知らぬ男の人が立っていた。

「こんばんは-。ねえねえ、君って初心者?」

「え、あ……え……っと……」

 突然のことに、わたしは返事ができなかった。口をもごもごさせているわたしに、その男性は不機嫌そうに眉を顰める。

「あれ、聞こえなかった? 音声おかしいんじゃない? おーい、もしもーし。聞こえてますかぁ?」

 すっごい軽薄な言い草だ。ついでに言うなら、顔から体つきから着ているものに至るまで全部が全部、軽薄の極みだった。

 ホストクラブで売っていそうな、とりあえずの二枚目顔に、きらきらの金髪。長く尖った耳をしているからエルフ種族だ。体型もエルフらしく長身痩躯なのだけど、はっきり言ってマッチ棒にしか見えない。倒錯的な貴族趣味のレースとフリルたっぷりなスーツを着せた、金髪のマッチ棒だ。

 金髪マッチ棒な彼は、わたしがじっと見ていたことを変なふうに勘違いしたようだ。

「あっ、そうか。そうかそうかぁ。おれに見取れちゃってて、声が出なかったんだね。それなら仕方ないか……ふっ」

 最後の“ふっ”は、顔を撫でるようにして振り上げた右手で前髪をばさっと掻き上げながらだった。見た目から言動の端々に至るまで、軽薄の二字を絵に描いたようなアバターだった。

 わたしはもうこの時点で逃げ腰になっていたけれど、相手はお構いなしに、へらへら笑いながら話しかけてくる。

「で、きみって初心者ちゃんでしょ。ああ、俺くらいになれば見れば分かるんだよ。相手がどれくらい強いか、ってね。あっ、もちろん、俺より強い相手には残念ながらまだ会ったことがないけど……さっ」

 最後の“さっ”で、また髪を掻き上げた。決めポーズらしい。手を振り上げた後、ちらっとこちらに目を向けて、にやりと笑う。でも、わたしがぽかんとしているのを見ると、不機嫌そうに眉根を寄せて咳払いした。

「ん……まあ、初心者ちゃんに言っても伝わらないかもしれないけれど、データ化されないオーラを読み取れる達人が世の中にはいるってことさ」

「……はあ」

 わたしはどうにか返事を絞り出す。何を言っているのか本気で分からなかったけれど、今度はその反応で正しかったらしい。金髪エルフの彼はにんまりと笑って、わたしの両肩をがっしりと掴んできた。

「えっ」

 と慌てるわたしに、彼は軽薄な笑顔で捲し立ててくる。

「君はラッキーだよ。なぜって、俺みたいな上位プレイヤーといきなり出会えたかさ。しかもさらにラッキーなことに、いま、俺がマスターをしているチームにちょうど偶然、空きがあるんだ。本来なら入団テストに合格しないと入れてあげられないんだけど、今回は君のラッキーに免じて、特別に入団させてあげるよ。あっ、でも装備って、いま装備している初期のやつだけ? それはちょっと困るなぁ……ああでも、良いか。しばらくは俺たちで養殖してあげるから、装備が弱くても謝らなくていからね」

「え、っと……装備が弱くて、謝る……?」

 意味の分からなかったところをつい反射的に聞き返すと、エルフの彼は一瞬きょとんと目を瞬かせる。そして、額に片手を当てて天を仰ぐという大袈裟なポーズで嘆いてくれた。

「ああっ、ごめんよ。初心者ちゃんにはまだちょっと早すぎる世界だったかな。うん、そうだね、例えて言うなら……一流レストランのフルコースを食べに行くのに、オーダーメードのタキシードじゃなくて安売りのシャツとジーンズで行ったんじゃ、追い返されても文句は言えないだろう? つまりは、そういうことさ」

「……はあ」

 言わんとすることは分からないでもなかったけれど、出してきた例えにはちょっと……けっこうドン引きだった。

 このゲームのアバターはとてもよく作り込まれていると思うけれど、それでも微妙な表情変化までは再現できていないのだろうか――エルフの彼は、わたしのドン引きっぷりに気がつかない。

「あはっ、そんなに畏まらなくっても良いさ。俺たちチームは寛容だからね。新人ちゃんがどんなに弱くて貧乏でも、俺たちは差別したりしないって」

「……」

 もう生返事を返すのも嫌になっていた。

 これ以上、こうして話をしていても無益っぽい。いつの間にか呼ばれ方が「初心者ちゃん」から「新人ちゃん」に変わっているし、このままだとなし崩し的に仲間にされてしまいかねない。

 もう適当に切り上げて、どっか余所に行こう――。

 わたしはそう決めて、ちょっと用事がありますので、とお別れの言葉を告げようと口を開けかけた。そこへ図ったように、金髪エルフの彼が一拍早く、声を発した。

「あっ、そうだ。この前、超レアな装備を手に入れたから、前まで使っていたのが要らなくなったんだ。新人ちゃんには入隊祝いってことで、それをプレゼントしてあげよう」

「えっ、本当ですかぁ!?」

 プレゼントと言われた瞬間、わたしは反射的に余所行きの高い声でそう返事していた。

 言ってから、はっと正気に返って、自分が情けなくなる。プレゼントと聞いただけで態度を一変させるなんて、自分で自分にドン引きだよ。どこのキャバ嬢だよ……。

 でも、金髪エルフの彼はむしろ嬉しげに口元を歪める。

「もちろん本当さ。普通に買おうとしたら、そうだなぁ……売りに出されることがほとんどない希少品レアだから、値段の相場なんて有ってないようなものだけど、安く見積もっても三万プラチナはするんじゃないかな。あっ、プラチナって分かる? リアルマネーに換算したら三万円は下らないって言えば、伝わるかな?」

「あ、はい……すごいですね……」

 得意満面で値段を語られると、プレゼントの一言で上がりかけた気分が、しおしおと萎えていく。なのに、相手のほうはなぜかますます、得意げに胸を反らす。

「あははっ、すごいなんて全然さ。俺くらいの上位プレイヤーになると、装備に求める質っていうの? 自然と最高級の品質を求めちゃうことになるから、気がつくと、みんなにはちょうど良いかもしれないけれど俺には不足すぎる装備ってやつが山ほど溜まっちゃうんだよね。いちいち売り捌くのも面倒くさいし、かといって捨てるのも嫌みでしょ。だから、君みたいなまだ弱くて貧乏な新人ちゃんに寄付してあげるのも義務かなって思うわけ。持っている者の義務、ノブレス・オブリージュだよ。知ってるかな、ノブレス・オブリージュ」

「……いえ」

 どうせノブレス・オブリージュと言いたかっただけなんでしょ、と思いつつも辛うじて笑顔と呼べる感じに頬を引き攣らせたのは、わたしのなかで葛藤していた打算と嫌悪感が、打算のほうに天秤を傾けていたからだ。

 この人はびっくりするほど勘違いしている系男子だけど、良い装備をくれるというのなら、貰うまでは我慢してあげてもいいんじゃないか――心のなかの悪女が囁いたのだった。

 この後も、エルフの彼は得意満面に蘊蓄を語ったり、自分が如何にすごいのかを自慢し続けた。

 五分か十分か、はたまた三十分は経っただろうか――頭がくらくらしてきて、時間感覚が麻痺してきている。これはもう駄目かも、と思ったところでようやく、相手からチーム勧誘の申請が飛んできた。例によって、イエスかノーかを提示してくる吹き出しを触って、わたしは彼のチームに入ることを承諾した。

 いまさらながら説明すると、チームというのはチーム創設者をリーダーとしたプレイヤー同士の集まりのことだ……というところまではチュートリアルで少しだけ触れられていたから覚えていたけれど、チームに入ることでどんな得があるのかは分からないけれど、メンバー同士はどこにいても会話できたり、お互いのログイン状況が見られるようになったりするのだろう。

 目の前にいるこの人にログイン状況を知られたり、いつでも話しかけられたりするというのは気持ちの良い話ではなかったけれど、装備を貰うまでは我慢だ。それに、ストーカーまがいのことをされたら、そのときはそれを理由にチームを抜ければいいだけだ。

 それにそもそも、この人だって第一印象がちょっと軽薄に思えるだけで、根は真面目な良い人なのかもしれない。もっと言えば、他のメンバーまでこの人みたいに気色悪い……もとい、言動の幼い人ということはないだろう。この人がわたしにちょっかいかけてこようとしても、周りが上手いこと止めてくれるに違いない。うん、違いない。

 自分で自分を納得させていたわたしに、エルフの彼は訊いてくる。

「新人ちゃんでも操作盤の呼び出し方くらいは知っているよね?」

「あ、はい」

 わたしは手振りで操作盤を呼び出す。

「操作盤にチーム関連のコマンドが表示されるようになっているだろ」

「あ……はい」

 それまではなかった項目に触れてみると、名前と顔写真を列記したものが表示される。一番上の顔写真は、いま目の前にいるエルフの彼だ。ということは、これはチームの名簿なのだろう。名簿を指でなぞってみると、画面がスクロールしてさらに何名かの顔と名前が出てくる。人数を数えるまでもなく、思っていたより大所帯のチームだと分かった。

「結構、人がいるんですね……」

 これだけ大勢の人が集まるようなチームのリーダーということは、軽薄そうなのは第一印象だけで、じつはやっぱり好人物なのかも……。

 わたしは顔を上げて、金髪エルフの彼を見る。

 あ……。

 彼は喉を見せるくらい顎を反らして、わたしが思わず漏らした感心の声にご満悦していた。

「いやぁ、これを言うと自慢になっちゃうかもしれないんだけど、そんなつもりじゃないんだ。でも、やっぱり自慢になっちゃうかな。でも仕方ないか、俺のチームがメンバー枠拡張レベル最高マックスの大手チームなのは事実なんだから……さっ!」

 あ、また出た。最後の“さっ”に合わせて前髪を掻き上げる決めポーズ。そしてポーズを決めた後、ちらっとわたしの反応を窺ってくる見下ろすような眼差し。

「あ……は、はは……」

 わたしは求められるままに、唇の端をひくひく引き攣らせる。そんな笑顔と呼べない笑顔でも、金髪エルフの彼は満足そうに相好を崩すのだった。


 そんなこんなで、ゲームを開始して一時間と少しで、わたしは大所帯のチーム【天使と悪魔が交差する地】に所属する身となった。ものすごく反応に困るチーム名だけど、そのくらいは目を瞑る。

 さて……わたしは晴れて入団したわけだけど、歓迎会とはいかなくとも、顔合わせくらいはしてくれるものかと思っていた。だけど案に相違して、金髪エルフの彼こと団長は、わたしを他の団員に紹介しようとはしなかった。

 入団した当日はもう夜も遅かったので、他の誰にも紹介されないことを気にすることもなくログアウトしたのだけど、翌日になっても、そのまた翌日になっても、わたしは団長以外の団員と会うことがなかった。

 操作盤を使って団員名簿を見てみると、何名かがログイン中だという表示になっている。会話先の選択項目に『チーム会話』というのがあって、それを選択した状態で発言すれば、ログイン中の団員全員に、距離やマップと関係なく声を届かせられるはずだ。なのに、何度かチーム会話で団員のみなさんに呼びかけても返事はなかった。

 入団してから三日目の夜。わたしは今日も今日とて、広場の片隅に突っ立って、電話をかけるような感覚で他の場所にいる団員へと呼びかけていた。

「こんばんは、初めまして」

「聞こえてますか? この前、団長さんに入れてもらったんですけど……あれ? やっぱり聞こえてません?」

「あの、すいません。おーい」

 しばらくこうして声をかけていたのだけど、返事はさっぱり返ってこない。三日目ともなると、これはもう本当に疑う余地なく無視されているのではなかろうか、と心が痛くなってきた。

 そんな初っぱなから孤立していたチーム生活でも、団長だけは、わたしがログインすると三十秒以内に個人会話ウィスパーを飛ばしてきた。

「おや、偶然。俺もたったいまログインしたところで、誰がログインしているのか名簿を見たところだったんだ」

 つまりは、

「俺は何時間も前からログインしていて、おまえがログインするのを待ち構えて常に名簿を監視していたわけじゃないんだぞ」

 ……というわけだった。

 見え見えの言い訳に、危うく失笑しそうなるのを、わたしはどうにか堪えた。駄目よ、わたし。いまは辛抱するの。装備を貰うまでの辛抱よ! それに、もしかしたら本当に、わたしがログインしたのと同時に名簿を開いただけかもしれないではないか。

 ……うん、そうだよね。いきなり疑ってかかるのは良くないよね。

 実際、チームに入ってから今日までの三日間、ログインするたびに話しかけてきてくれるのは団長だけだ。ひょっとしたら、何らかの理由で入団早々に総スカンを食らっているわたしと、団員たちとの仲立ちをするために孤軍奮闘してくれているのかもしれないではないか!

 団長の言動からもう少しでいいから思慮深さを感じることができれば、そう信じられるのだけど……。

「新人ちゃん、あれ? 聞こえてる?」

「あっ、はい」

 言い訳から始まって、なぜか自慢話に発展していた団長の話は、いつの間にか終わっていたようだ。わたしが慌てて返事をすると、団長は“ふっ”と息遣いで笑う。

「しょうがないな、新人ちゃんは。どうせ、個人会話ウィスなのを忘れて頷いたりしていたんだろ。ははっ、可愛いな」

 気色悪い納得のされ方をして肌が粟立ったけれど、せっかく勝手に納得してくれているのだから、ここは我慢だ。

「あ……は、はは……すいません、まだ慣れなくて……」

「あはっ、しょうがないなぁ、新人ちゃんは。これは俺がしっかり手綱を握って調……教育してあげないとだな」

 見えなくとも、にやにや品のない顔で笑っているのが確信できた。というかいま、教育と言い直す前、調教って言おうとしてなかった!?

「それじゃあ、新人ちゃん。今夜も秘密のレッスン、頑張ろうか。いつもの場所で待っているから、早く来るんだよ」

 団長は一方的に告げるなり、黙ってしまった。きっと、秘密のレッスンの準備を始めているのだろう。

 秘密のレッスンというのはもちろん、いかがわしいことでは全然ない。ただ単に、団長がわたしの熟練度スキル上げを手伝ってくれていたというだけのことだ。

 わたしが団長からお古の装備を貰うという話だったわけだけど、そのときに団長とこんな遣り取りがあった。

「新人ちゃんの筋力、幾つ? ……え、それだけ。ああ、困ったな。その筋力だと、あげようと思っている武器を装備するには足りないな……よし、仕方ないか。俺が君の能力値上げを手伝ってあげよう」

 ――というわけで、わたしは団長に熟練度上げを手伝ってもらった。それが昨日のことであり、昨日一日だけのことである。それなのに、いつもの場所、なんて言い方をしてくるのがまた、何とも団長らしいというか……いやっ、もしかしたら、わたしの緊張を解そうとして、敢えて勘違いしているような言動を取っているのかもしれない! その可能性は否定できないこともなくはない!

 ともかく、熟練度上げを手伝ってもらえるのもは助かる。一人で玉兎を追いかけまわすより、よっぽど早く上がるのだ。だから、せっかく手伝ってくれるという申し出を断ることもない。つまり、多少のことには目を瞑るべきだ。うん。

 そんなことを考えながら石畳の通りを歩いているうちに、わたしは待ち合わせの場所である小広場に到着した。この広場は、最初に降り立った円形広場をそのまま十分の一ほどに縮小したようなところだ。円形広場から伸びる大通りを外れた場所に位置しているため、人気は少ない。いまも、わたし以外のアバターが十数名ほど、ぱらぱらと散らばって見えいてるだけだ。

 周りを見渡していたわたしの肩が、ふいに背後からぽんと叩かれた。振り向くと、団長が立っていた。

「遅かったね、新人ちゃん」

「あっ……すいません、遅くなりました」

「いいよ、気にしてないさ。そんなことより、さあ行こうか」

 なんだか急かされるようにして、わたしたちは裏門から街の外へと出た。

 なお、街には最初に使った大門の他にも幾つか門がある。一番大きくて大通りに直結しているのが『城門』とか『大門』『正門』などと呼ばれていて、他のは『裏門』と呼ばれている。裏門は城門に比べると、人通りが少ないように見えた。

 団長が裏門のほうに歩いたのは、単に待ち合わせ場所からは裏門のほうが近かったからだろう。普通に考えれば、そうだ。でも、なぜか妙に人目を気にしながら、わたしを急かしていたのが気になった。

 でも、それを真っ正直に聞いたところで、はぐらかされるのがおちだろうし、それにちょっと気になるというだけだし……結局、わたしは何も気がついていない振りをすることにしたのだった。

 団長に連れられて向かったマップは、街から五マップほど離れたところだ。正門から出てすぐのマップは、深緑のなかを玉兎がもそもそ歩きまわっているという、ピクニック気分になる風景だったけれど、連れてこられたマップは鬱蒼と生い茂った木々が日差しを遮り、その上空を野太く囀る大きな鳥が飛びまわっている、おどろおどろしい雰囲気の森林だった。

 このゲームに温度変化の要素はないはずだけど、心なしか肌寒くさえ感じる。思わず肩を揺すったわたしに、団長がにやにやと笑いかけてきた。

「ここはまだ遺跡に入ってもいない、ただの野外マップだけど、新人ちゃんにはまだまだ危険な場所だから、俺から離れるんじゃないぞ」

 しかも、そういって笑いかけてくるだけでなく、馴れ馴れしい手つきで肩を抱いてきた。もう少しで突き飛ばしそうになるところだったけれど、どうにか拳を上げかけたところで踏み止まれた。

「そ、そうなんですか。気をつけますね……」

 わたしは引き攣った顔で返事をしながら、肩を揺すって団長の手を振り払おうとする。わたしが肩を抱かれて困っているという意思表示には十分だと思うのだけど、団長はなぜか、いっそう腕をまわして肩を抱き寄せてきた。なんで!?

「あはっ、震えちゃって可愛いな、新人ちゃんは。仮想現実ヴァーチャルゲームは初めてなのかな? 大丈夫だよ、これは現実のように見えるけれど作り物なんだから。良くできたお化け屋敷と一緒だよ」

 どうやら団長は、わたしが肩を揺すったのを、森の雰囲気に怖がっているせいだと思ったらしい。いや、最初の身震いは確かにそうだったかもしれないけれど、二度目のは明らかに違っていたでしょうに。どうしてそう、好意的に勘違いできるのだろう?

「大丈夫、心配ない。かりに何かあっても、俺が守ってやるからさ」

 目尻を“きりっ”と持ち上げた真剣な顔で言われも、反応に困る。だけどまあ、強い敵が出てきたときに何とかしてもらわないといけないのは事実だろうし、とにかく愛想笑いをしておいた。

「え、っと……頼りにしてますね」

「ああ、任せておけ。何があっても、俺が守ってやるから……さっ」

 また同じ台詞を言われた。しかも今度は、前髪を掻き上げる決めポーズ付きだ。

「は、ははは……」

 乾いた笑いしか出なかった。


 いまさらながら説明すると、【ルインズエイジ】の成長システムは、たぶん他のゲームよりも変わっている。

 このゲームには【レベル】と【熟練度】の、ふたつの軸がある。敵性MOBモンスターを倒せば経験値が溜まっていって、一定値まで溜まるとレベルが上がる。でも、レベル上がることで増えるのは生命力ヒットポイントだけだ。しかも、どれだけレベルを上げていても、街に戻るとレベル一まで戻されてしまう。もちろん、レベルと一緒に上がっていた生命力も初期値まで戻る。

 対して熟練度というのは、技能ごとに設定された経験値のことだ。何かしらの技能を使えば、その技能についての熟練度が上がっていく。熟練度が上がれば、その技能の効果や成功率があがったり、もっと強い技能を習得することができたりするようになる。そして、熟練度はレベルと違って、街に戻ってもリセットされたりしない。

 つまり、【ルインズエイジ】における『キャラ育成』とは、レベルではなく熟練度を上げることを指す。

 さて、わたしがいま上げようとしている技能は【剣修練】と【筋力増強】だ。これは要するに、武器種類カテゴリのなかの剣をより上手く使うための技能である。【剣修練】の熟練度が上がれば、剣で攻撃したときの命中率や威力が上がるし、より強い剣を装備することができるようにもなる。

 【筋力増強】のほうは文字通り、能力値のうち【筋力】の値を増加させる技能だ。このゲームでは、体力や筋力などといった能力値は基本的に、初期値から上昇しない。その代わりに、例えば剣を使い続けていると、筋力を倍率で増加してくれる【筋力増強】技能の熟練度が上がっていく。

 キャラクターの成長要素は【技能】と【熟練度】に集約されている。レベルを上げる意味は、次のような意味合いになる。

「もっと敵の強いマップに行きたいけれど、いまの装備じゃ心許ないから、安全に狩れる敵を倒してレベルを上げて、生命力を増やしてから行こう」

 つまり、装備が良くないと、強い敵――熟練度を上げやすかったり、高額で取引される収集品を落としたりする“美味しい敵”を倒すために、レベル上げという手間を毎度、費やさないといけなくなるのだ。

 その手間が惜しいなら、良い装備を買え。装備を買うお金がないなら現金リアルマネー銀貨プラチナを買え――という集金への構図なのだった。

 まだ始めて三日だけど、熟練度上げの最中に団長がいくらでも教えたがってくるので、このゲームのだいたいのことについて詳しくなってしまった。団長の知識が間違っていなければ、だけど。


 さてさて――。

 わたしと団長は、鬱蒼とした森林マップでの狩りを続けていた。狩りのやり方は、こうだ。

 まず団長が弓を構えて、このマップに多く生息している子象みたいな大きさの青黒い巨大茸を撃つ。鰭みたいな手足が生えていて、意外な速度で二足歩行する茸の怪物『ファンガス』だ。大きな肉厚の嵩には窪みのような両目があって、嵩のすぐ下には牙の並んだ裂け目のような口もある。

 団長の撃った矢が当たったファンガスは、くるっと片足で踊るように団長へ振り返るや、短い足を激しく動かして突撃してくる。その間に団長は弓を仕舞って、剣と盾に持ち替える。そして、肉薄してきたファンガスの体当たりを盾で受け止める。そこでようやく、わたしも動き出して、団長に噛みついているファンガスのお尻に、剣でぺちぺち斬りかかる。

 ファンガスには、最初に定めた攻撃対象ターゲットを攻撃し続ける、という特徴がある。だから、団長がまず最初に攻撃を入れてファンガスの攻撃対象になれば、後はわたしがどれだけ攻撃しても、ファンガスがわたしに狙いを変えてくることはない。安全に好き放題、斬りつけられるというわけだ。

 標的タゲ固定という性質を利用して、強いプレイヤーが標的になって耐えている間に、弱いプレイヤーが一方的に殴って武器技能の熟練度を上げてく育て方レベリングを、パワーレベリングとか養殖とか言うのだそうな。

 養殖するのに適した性質を持つファンガスは、わたしたちみたいなプレイヤーに人気があるようだ。わたしたちが狩り始めてから小一時間ほどが経っているけれど、同じファンガスを他パーティと取り合いになる展開が何度かあった。

 団長が弓で狙ったファンガスを、他パーティから飛んできた魔術が掻っ攫っていったり、その逆に、団長の撃った矢が当たったファンガスに別方向から遅れて飛んできた魔術の火球が当たったり……ファンガスに攻撃するより、ファンガスを確保することのほうが大変だった。

 他人の狙っていないファンガスを探して森のなかを移動しながら狩り、もとい養殖をしているうちに、わたしと団長は最初に狩りを始めたマップからふたつほどマップを移動していた。

 ここも同じく森林マップなのだけど、遺跡に続く道程から大きく外れているためか、辺りに人気はない。ファンガスの生息数は最初のマップより半分程度に減っているそうだけど、取り合いにならない分、養殖はそれまでよりも順調に進んだ。

 最初は初めて見る大きな敵に緊張していたけれど、それもすぐに慣れてきて、団長がファンガスの標的になったら間髪入れずに斬りかかれるようになっていた。何回斬れば倒せるのかも分かってくると、養殖の効率はどんどん上がっていく。その反面、行為はどんどん作業化していく。始めのうちは、団長がファンガスの攻撃を盾で受け止めながら滔々と喋くり倒しているのを聞いている余裕もなかったのが、いまは愛想笑いしつつ「へえ、すごいんですね」とか「えっ、本当なんですかぁ?」なんて相槌を打てるくらいになっていた。

 わたしが十数体目のファンガスに斬りつけているときだった。ファンガスの噛みつきというか頭突きというかな攻撃を受け流していた団長が、何の前触れもなしに言ってきた。

「新人ちゃんって、胸、大きいよね。リアルでもそのくらいあるの?」

「え……」

 思考が止まった。

 ……え、何? そんな話、いましてたっけ? 確か、いまのいままでゲームシステムに関する蘊蓄だか愚痴だか自慢話だかを聞かされていたと思ったのだけど……え、なんで? なんでわたし、胸のサイズを聞かれてたりするの?

 思考停止していても、身体のほうは剣を振るという単純作業を続けている。そのおかげで、団長はわたしの茫然自失に気がつかなかったみたいだ。

「あれ、聞こえなかった? それとも、リアルおっぱいはそれより小振りで恥ずかしいから言えないのかな?」

 団長は想像するように目を細めて、わたしの胸をまっすぐ見てくる。隠そうともしない視線に、ぞわぞわわっ、と鳥肌が立った。アバターに鳥肌を立てる機能なんて付いていないけれど、現実でベッドに横たわっている生身の身体はいま確実に鳥肌を立てている。断言できる!

「ええとですね……あの、団長。そういう質問は、その、ちょっと……」

 わたしは「セクハラは止めてください」を婉曲的に伝えようとしたのだけど、団長はそれを遮って頭を振る。

「ああ、いいよ。俺は紳士だからね、胸の大きさなんかで女の子の価値を決めたりしない……さっ」

 右手で颯爽と前髪を掻き上げる決めポーズ。右手から落ちる剣。まだ倒し終わっていないファンガスが、その顔面に傘の端をぶつけた。団長はいい顔をしたまま、ぐぇ、と蛙の鳴き声みたいな呻きを上げて後頭部からぶっ倒れた。

 吹き飛ばし効果の付いた特殊攻撃、ではない。ファンガスにそんな特殊攻撃がないのは団長自身が語っていたことだし、いまのはたぶん、自慢げに胸を反らして重心を後ろにやっていたせいだ。

「痛って……この野郎!」

 団長はかぁっと顔を怒らせると、剣を拾って立ち上がるなり、息もつかせぬ連続斬りでファンガスを瞬殺した。

「空気読めない奴って最低だよな、ねえ!?」

「えっ……あ、はい」

 いきなり返事を求められて、とりあえず頷いた。戦闘中に変なポーズを取るほうが空気を読めていないと思うのだけど、言ってもどうせ通じまい。それに、機嫌を損ねさせるようなことを言うのも無益なだけだ。

 団長も少しは恥ずかしかったのか、次のファンガスに弓を射てから一分間ほどは、それまでのお喋りを止めて黙っていた。ほっとしたのが半分、手持ち無沙汰なのが半分の気持ちで、わたしも黙々と二足歩行する腐った色の巨大マッシュルームをぺちぺち斬り続けていた。

「で、どうなの?」

 またも唐突に尋ねられた。

「え、何がですか?」

「だから、胸だよ、胸。おっぱい」

「……は?」

 剣を振る手が、思わず止まった。

「おっぱい、現実リアルでもそのアバターと同じくらい大きいのかって、さっきから訊いているんだけど」

「……」

 ああ……そういうことね。黙っていたのは、べつに格好つけようとして失敗したからではなく、わたしがセクハラ質問に答えるのを待っていたからなのですね。

 開いた口の塞がらないでいるわたしに、団長はにやにやと――たぶん本人は爽やかなつもりで笑う。

「あはっ、大丈夫さ。小さくっても、俺はべつに怒ったりしないって」

 小さいと怒る、という発想がもう別世界だ。わたしとは違う世界の住人だ、この人は。

「え、ええっとぉ……ご想像にお任せします、というのは……」

「分かった。そういう言い方をするからには、アバターのより小さいんでしょ。でも、気にすることないよ。そのアバター、Eカップ? Fカップ? それより小さいということは……Dかな? それともC?」

 胸を凝視してくる粘ついた視線に、わたしはもう少しで剣を取り落として、両手で胸を庇うところだった。それをすんでのところで我慢したのは、二人きりという状況で敵対したくないから、と無意識に考えたからなのかもしれない。

 いや、単純に声も出せないほど気色悪かっただけ、というのが正解だろうけど。

 固まっているわたしに、団長はふいに険しい顔をする。

「えっ……まさか、B以下……なんてことはないよね? ね……?」

 まるで医者に診断結果を問い詰める患者のような真剣さだ。質の悪い冗談や下ネタとして言っているのならまだしも、この人は本気の本気で言っているのだ。

 こっ……この人は、この人は……!

 胸のなかに渦巻くこの感情が、怒りなのか呆れなのか戦きなのか、自分でもよく分からなかった。

 身も心も完璧に止まっているわたしに、団長はいっそう厳しい顔で詰め寄ってくる。

「どうなのさ? Cはあるんだよね、最低でも!? ――ああっ、邪魔だ!」

 いまだ団長に頭突きを繰り返していたファンガスを、団長は何だかものすごい剣技でもって一気に倒す。そしてすぐさま、わたしに向き直って肩を掴んできた。

「……どうなの?」

 安心させようというつもりなのか、目元と口元をにやつかせた笑い顔。その顔を見た瞬間、何かがぷつりと吹っ切れた。

「はい、Cですよ。でも酷いです、最低でも、なんて。大きさは並盛りかもですけど、色と形はすごく良いって友達からも褒められたことがあるんですからねっ」

 自分の口が、自分のものとは思えないソプラノの余所行き声で、そう答えていた。ぷんぷんっ、と可愛らしい擬音がしそうな感じに頬を膨らませるという仕草までつけて、だ。

 ぶりっこ演技も甚だしいものだったけれど、団長にはこれが大当たりだった。

「おへっ」

 口で屁をするような声。だらしなく緩んだ、見苦しい顔。さっきまでのわたしなら、ドン引きして固まっていただろう。でも、いまのわたしは違う。

「うふふ、もうっ! なんて顔してるんですか、団長さんったらぁ」

 わたしはくすくす悪戯っぽく笑いながら、じゃれつくようにして団長の胸元を手の平でぺちぺちと叩く。アバター同士でもボディータッチおさわり効果は強力で、団長の顔はますますだらしなくなる。溶けたアイスだ。

「あっ……いや、べつに俺は、そんなこと思ってなかったぜ。だって、新人ちゃんはネトゲも初めて――初体験だと言っていただろ。ということはそのアバター、自分の立体データをほとんどそのまま使ったんだろ。だから、新人ちゃんがリアルでもナイスバディだということは、一目見たときから見抜いていたのさ」

 自分の眼力を自慢するような言い草だけど、単なるセクハラ発言だ。でもわたしは、目を見開いて感心する。

「あっ、すごいです。当たりです。すごい、すごぉい。なんで分かったんですかぁ?」

 わたしが、大袈裟すぎたかな、というくらい感心してみせると、団長はますます嬉しそうに顔をだらしなくさせる。そのくせ、格好つけようとして渋い顔をしようとするから、目尻や頬、口元なんかがひくひく高速で痙攣しているように見えて、わたしは笑いを堪えるのに必死だった。

「まあ、なんていうのかな。俺くらいになると、べつにその気がなくても、アバターを見ただけで、それが本物リアル偽物フェイクかが自然と見抜けてしまうのさ。いや、全然良いものではないよ。偽物だと気がつかないでいるほうが良いものまで、つい自然に見抜いてしまうんだから。真実を知るというのは、世の中が半分も楽しめなくなってしまうということなの……さっ」

 もはや定番の前髪掻き上げポーズ。

「うわぁ、すごいですねぇ!」

 何がすごいと思っているのか、胸の前で拝むように両手を合わせて感心しているわたし。わたし自身なのに、まるで別人のようだ。わたし主演の映画を、画面のなかから見ている気分だ。

 主演女優のわたしは、ぶりぶりのぶりっこ演技でぎゅっと握り拳を作って、きらきらと目を輝かせている。

「うわぁ、うわぁ! すごいですね、尊敬しちゃいます。わたしも、頑張ったら団長さんみたいになれるかなぁ。わたしには無理かなぁ……?」

「あはっ、それは仕方ないさ。本物を見抜く力っていうのは、生まれ持った直感力によるところが大きいからね。ああ……でも、新人ちゃんだったら、俺がサポートして一から教え込んであげれば、ある程度はオーラを見抜けるようになるね。もちろん、俺ほど完璧には無理だけど」

「えーっ、本当ですかぁ?」

「本当だとも。新人ちゃんには常人より少し強いくらいのオーラがある。俺ほどの眼力の持ち主でなければ見抜けない程度のオーラだけど、俺ならそのオーラを開花させてやれる。俺なら、な」

「うわぁ、すごい。すごいです、すごぉい」

 何がすごいんだか、そもそもオーラって何なのかもさっぱり分からないけれど、とにかくスゴイスゴイと呪文を唱えておけば、団長の機嫌は鰻登りだ。

「あははっ、そう騒ぐほどのことじゃないさ。ただ生まれつき、常人よりもずっと鋭いというだけ。ああでも、授業の間違いを俺がいつも冷静に指摘するものだから、小学校教師に睨まれてしまって大変だったことはあったな」

「へぇ、大変だったんですね。でも、すごいですねぇ!」

 そりゃ先生も大変だったでしょうね。

「まあ……見えない奴らが思っているほど良いものじゃないってことさ、見えすぎるってのは……さっ」

 いかにもな台詞と、前髪ばさっと掻き上げポーズ。吹っ切れモードのわたしですら、一瞬、言葉に詰まるほどの打撃力だった。

「あ……あっ、あそこ! ファンガスですよ、行きましょう!」

 そこに丁度良く通りかかってくれた巨大マッシュルームを指さして、わたしは駆け出す。その後ろから、団長の声が笑い混じりに追いかけてくる。

「待てよ、新人ちゃん。俺が先に攻撃しないと、死んじゃうぞ」

 散歩ではしゃいでいる犬に、道路に飛び出すなよ、と笑っている飼い主みたいだ。すると、わたしは犬か? うん、犬だ。

 わたしはいま、強い装備が欲しいという欲望に屈した犬なのだ。犬に徹するのだ。やり遂げろ、わたし!

 自己暗示の仮面を被ったわたしは、それからさらに一時間近く、団長と二人きりでの“養殖狩り”を続けた。その間、団長のセクハラ質問は止むことがなかった。

 その質問ひとつひとつに、わたしは笑顔を絶やさず、虚実を交えて答えていった。思いつくまま答えていくうちに、架空のわたしが出来上がっていく。

 Cカップで、髪は長くて、まったく染めていなくて、高校二年生で、バス通学で痴漢に悩まされていて、でもスカートはみんなに倣って短めにしていて、彼氏はできたことがないけど告白は何度かされたことがあって、甘いものは好きだけど洋菓子より和菓子が好きで、口が小さいからご飯を食べるのが遅くて、コーヒーよりも紅茶よりもジャスミン茶が好きで、ハイヒールは履き慣れていなくて、ブランドものに興味はあるけど買う気はなくて、私服でもパンツよりスカートが多くて、今年の夏は初めてのビキニ水着に挑戦するつもりでいて、国語はわりと得意だけど数学が苦手で、ネットゲームをするのはこれが初めてで、使っているアバターは自分自身の立体データから体型を少し弄っただけのもので――。

 およそ一時間の間に、わたしのプロフィールはそんな感じに出来上がっていた。無数に作られた設定のなかで正解しているのは、ネットゲームをするのが初めてなことだけだ。

 アバターは、立体データから“少し”ではなく、“かなり”弄っているから不正解だ。ただし、オーラが見抜ける、と自称する団長には全てが正解に見えているようだけど。

 ……わたしも大分、嫌みっぽい思考になっている。熟練度もけっこう上がったし、今夜はもう切り上げる頃合いだろう。

「あの、団長さん。わたしそろそろ、ログアウトしないといけない時間なので……」

「なんだ、もうそんな時間か。楽しい時間はあっという間と言うけれど、本当だな」

「本当、そうですね」

「名残惜しいな……」

「そうですね」

「……」

 ずっと喋り続けていた団長の沈黙。まさにここが潮時だ。

「じゃあ、お先に――」

「待って」

 ログアウトするために操作盤を呼び出そうとしたわたしを、団長が引き留める。そして、矢継ぎ早に言い立ててくる。

「ここでログアウトしたんじゃ、次にログインしたとき、困るだろ。だって、新人ちゃん一人じゃ、ここから街までは敵が強すぎて帰れないぞ」

「あ……でも、いいですよ。倒されちゃっても、そんなに減るものもないですし」

 生命力がゼロになって死亡した状態から、誰かに蘇生アイテムを使ってもらったりすることなく自力で復帰するには、装備品を除いた所持品の全てと熟練度の一部を消失さなくてはならない。でも、わたしがいま持っているもののなかに希少品はないし、熟練度の消失も割合制なので、まだそれほど熟練度の育っていないわたしには、大した痛手ではない。何だったら、いまここでファンガスに倒されて、街まで手っ取り早く死に戻っても良いくらいだ。

「だったら、」

 団長が早口で言ってくる。

「何ですか?」

 と、振り向くわたし。

「今夜はもういい時間だし、ログアウトしたらベッドに入るんだろ?」

「え……はぁ……」

「だったら、おやすみのキスをしてあげないと、ね」

「えっ」

 驚いたわたしの眼前に、団長の顔が迫る。避けるための時間的猶予はなかった。

 わたしは正面から抱きつかれて、頬にキスされた。

「……」

 声も出せず固まっているわたしから、団長はさっと離れる。そして、まるでわたしが“感極まっている”とでも思っているかのような顔で、自分の唇に人差し指を当てて、にやりと笑う。

接触防止機能セクハラガードがなかったら唇にキスしてあげられたんだけど、それは今度の楽しみにしておいて……ねっ」

 唇に当てていた人差し指をさっと上げて、髪を掻き上げるポーズ。

 わたしにはもはや、ツッコミを入れる気力もない。ただ黙って操作盤を呼び出し、ログアウトした。


「……はっ」

 瞼を上げると、夜の暗さが目に飛び込んでくる。目が慣れるのを待たずに、わたしは身体を起こした。

 ここは、わたしの部屋だ。あまり見えていなくとも、歩くのに問題はない。

「あ」

 ……前言撤回。

 ベッドから下りようとしたところで、わたしは自分が足を骨折していたのだったと思い出した。さっきまでゲームのなかで自由に歩きまわっていたものだから、すっかり忘れていたのだった。

「わたしの身体って、こんなに重たかったんだ……」

 ベッドの脇に立て掛けていた松葉杖に手を伸ばしながら、わたしは呟く。

 骨折している足のことだけではない。いま伸ばしている腕も、捻っている腰や背中も、それにお尻も、はっきりと重たい。べつに太っているとかではなく、ゲーム内では羽のように軽やかだったから、その反動で重さを強く意識してしまっているだけだ。べつに、骨折に託けて食っちゃ寝しているせいでお腹の肉が厚くなってきたとかでは断じてない。

 でも……

「お夜食は止めにしとこう、うん」

 わたしは独りごちると、松葉杖をついてベッドから起き上がり、部屋を出た。メタバースは骨折を忘れてしまうほど便利なんだから、尿意の処理もメタバースでできるようになっちゃえばいいのに。

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