第2話 冒険がようやく始ま……
夕飯を終えて、入浴の代わりに熱湯で絞ったタオルで身体を拭いた後、わたしは灯りを消した部屋のベッドに再度、身を横たえた。
「さて……」
目を閉じながら首筋に手を添えて、脳接のスイッチを入れる。
背中やお尻に感じていたシーツの感触、後頭部を柔らかく包む枕の感触が水に溶けるみたく、すうっと遠のく。耳に感じていた空気の音も、さぁっと波が退くように遠ざかっていく。
眠りに落ちるときとは似ているようで異なる。意識がはっきりしたまま身体だけが遠ざかっていく感覚は、金縛りや幽体離脱に近い感覚だ……と思う、たぶん。どちらも経験したこと、ないけれど。
意識と身体との繋がりが消えるために時間感覚もあやふやになるのだけど、長くとも三秒足らずで神経接続の切り替えは完了する。遠ざかった身体感覚が逆再生するように戻ってきたのを感じて目を開けると、そこはもうメタバース内だ。
飾り気のない汎用アバターの手を振って操作盤を呼び出すと、お気に入りに登録しておいた【ルインズエイジ】のサイトを呼び出す。景色が瞬時に入れ替って、昼下がりにも訪れた遺跡が、わたしの前に現れた。
わたしは遺跡のなかに入ると、アバター登録したのとは別のほうへと進む。すると、すぐに大きな扉が現れた。すでに登録が終わっている者用の入り口だ。
扉の前に立って、登録時に決めた暗証番号を唱えると、両開きの戸が重々しい響きを立てて奥へと開いていった。扉の向こうには、アバターを作るのに使った部屋が見えていた。
わたしはその部屋で汎用アバターから専用アバターへ意識を乗り換えると、部屋の奥に出現した扉に近づく。扉は自動的に、ぎぃ、と軋みながら開いていく。開いた扉の向こうに見えるのは、セピア色をした石畳の街並みだ。
「ん……」
咳払いをひとつ挟んで緊張を解すと、わたしはセピア調の街並みへと向かって歩き出した。
扉を抜けた瞬間、エレベーターに乗ったときのような浮遊感を感じる。扉越しにはセピア調に見えていた街並みが、フルカラーになって目に飛び込んでくる。同時に音も、全方位から耳へと流れ込んできた。
「うわぁ……」
感嘆の溜息しか出なかった。
石造り、あるいは煉瓦造りといった見た目の建物に、石畳で舗装された通り。中世ヨーロッパを思わせる、綺麗で重厚な街並みが広がっていた。もっとも、わたしは中世ヨーロッパの街並みが実際にどんなものだったのかなんて知らないので、もう少し正確に描写するならば、中世ヨーロッパをイメージした遊園地のような街並みだった。
わたしが立っている場所は、どうやら広場の真ん中だ。校舎がひとつくらい余裕で収まりそうな円形の広場で、ぐるりと見渡してみれば周囲八方向への道が伸びている。見渡した際に気づいたけれど、わたしの背中には扉も部屋もなくなっていた。扉を潜った時点でこの場所に瞬間移動していた、ということだろう。
わたしが辺りを眺めまわしている間も、広場のそこかしこを人混みが行き交っている。ある者は重たげな鎧兜に無骨な斧を背負っていたり、ある者は革で作った水着としか言いようのない姿で、恥ずかしがる素振りもなく闊歩している。
身なりの派手さや、数人で話しながらだったり、きょろきょろと何かを探すようにしながら歩いていたりする様子から、彼ら彼女らがプログラムに沿って動いているだけの非操作キャラ《NPC》ではなく、わたしと同じアバター《PC》なのだと察せられた。
広場には大勢のアバターが行き交っている。その人数はざっと見積もっても、三桁を下るまい。それだけの人数が全て、わたしと同じくいま現在このゲームにログインしている誰かなのだ。ネットゲームとはそういうものだ、という知識はあったけれど、実際に無数のアバターがいるなかに放り込まれてみると、溜息しか出なかった。
「はぁ……この人数がみんな、このゲームを同時にプレイしているのね……ん?」
ふと疑問の声が出たのは、視界の端で『!』マークが明滅しているのに気がついたからだ。
「ん? お?」
浮いている『!』マークに触れようとして翳した手は、空しく宙を泳ぐ。どうも目に映っているだけで、実体があるわけではないらしい。何かの注意を喚起しているのだとは思うのだけど、どうしたらいいのやら……。
と思っていたら、『!』マークから巻物を引っ張るようにして文章が流れ出てきた。文章と同時に音声も聞こえてくる。
「【ルインズエイジ】の世界に初めて降り立った方には、チュートリアル・クエストの受注をお勧めします。チュートリアルを始めますか?」
その案内に続いて、『Yes』と『No』の吹き出しが浮かび上がってくる。『Yes』に手を触れると、今度はちゃんと触れた。
ぴろろん、という効果音が鳴って吹き出しが消え、
「チュートリアルを始めます。まずは矢印に従って移動して、探索者機関の講堂に向かいましょう」
と音声案内が流れた。同時に、鼻先三十センチ程度の空中に大判のハンカチを広げたくらいの大きさをした半透明の地図が表示された。この街の俯瞰図なのは、円い形とそこから伸びる八つの線ですぐに分かった。円い部分には現在地を示すのだろう人型マークがある。円形広場から伸びている道の一本に沿った建物にも赤丸が付けられていて、そこが講堂とやらなのだろう。
「……よしっ」
わたしはひとつ頷くと、地図を頼りに歩き出した。
地図を見ながら人混みを縫って歩くのに少々手間取ったけれど、目的の建物は案外、近くだった。講堂という名前だけあって、学校や公民館みたいな建物だ。
正面玄関は最初から開いていた。入ってみると、なかもやっぱり学校を思わせる造りになっている。
「一階奥の講義室へ行って、教官に話しかけてみましょう」
音声案内に従って、講堂内を歩く。
講義室とやらで待っていた教官NPCは、案に相違して学校の先生という見た目ではなかった。
筋骨隆々の大柄な体格と、皮膚の厚さが五センチはありそうな強面の顔……体育教師というにも凶悪すぎて、鬼軍曹と呼びたくなる見た目だった。身につけている近世ヨーロッパ風の軍服が、筋肉の太さに負けて内側から弾けそうになっているのも恐ろしい。
教官は講義室の前方ど真ん中で仁王立ちしたまま、何もないところをまっすぐに睨んでいる。NPCらしく、入室したわたしに反応する様子はない。
「え、これに話しかけなきゃいけないの……?」
相手がプログラムに従って行動するだけのマネキン《NPC》だと分かっていても、厳つい顔の筋肉軍人に話しかけるというのは少々、度胸が要った。ゲーム慣れしているひとだったら、こんなところで躓くことはないのだろうか?
「ま、まあ……初心者に教えてくれる役なんだし、怖いことはないだろうし……」
わたしは自分自身を納得させつつ、覚悟を決めて教官に話しかけた。
「あの、すいません」
そう声をかけるなり、教官のずっと真正面を向いていた首が、わたしにぴたりと向き直る。
「ひっ」
こちらから話しかけたことで会話フラグが立っただけだ、と分かっていても、喉の奥から変な声が出てしまった。
わたしの怯えた様子を気にするはずもなく、教官は話し始めた。
「きたか、ひよっこ! このわたしに探索者のイロハを教わりにきたのだな!?」
見た目から想像できる通りの、荒々しい胴間声だった。
「はっ、はい」
わたしは思わず背筋を伸ばして、裏声で返事をする。
「よろしい! では、何を知りたい!?」
教官が言うと、幾つかの項目が列挙された吹き出しが浮かんできた。縦に並んでいる項目の一番下に『全ての項目を最初から通して教えてほしい』というのがあったので、わたしはその項目に指先で触れた。
すると、教官が吠えるみたいに言う。
「うむ、よかろう! では、まずは早速、この世界についての話から垂れてやろう!」
教官の話をまとめると、こうだ。
この世界はいわゆるファンタジー的な世界観であり、人間の他にエルフ、ドワーフ、トロール、ゴブリンの五種族が人間同様の社会生活をしていて、魔術や魔力という概念のある世界である。科学技術の発展度合いは大雑把に現実の中世から近世あたり相当で、火薬と単発銃が造られているくらい、だそうだ。
前述した五種族は戦争と休戦を繰り返していたのだが、あるとき突如として、とある島が発見される。【ヴィンセン島】と名付けられたその島には、世界中にその伝説が残されている神話時代の都市【ブリガドーン】の廃墟が広がっていた。
伝説が本当なら、【ブリガドーン】の廃墟には古代の超技術によって造られた素晴らしい品々が眠っていてもおかしくない。五種族は挙って、遺跡への侵入を試みた。しかし、【ブリガドーン】の廃墟は不思議な歪みに包まれていて、上空から遺跡を見通したり侵入したりすることができない。遺跡に入るには、島に上陸して陸路を採るしかなかった。
遺跡を目指す上で起こった何度かの混乱は、五種族の代表によって共同運営される機関を結成させた。この機関の目的は、ヴィンセン島で戦闘が行われないように管理し、遺跡から回収された品々を問題なく五等分されるように相互監視することだった。
最初のうち、この目論見は上手くいっていた。けれども次第に、機関は一人歩きを始めていく。
大陸に送るはずだった回収品の一部を秘匿して、その物品で武装したり、五種族それぞれに「あなた方にだけ特別に、等分した以上の量を売りますよ」と密売を持ちかけたりして資金を稼ぐようになった。
五種族の首脳陣がそれに気づいたとき、【機関】はもうヴィンセン島を領土とした一個の独立国と呼べる力を確立させていた。
プレイヤーは【機関】の治める【ヴィンセン島】にやってきた、あるいはこの島で生まれ育った者であり、【ブリガドーン】遺跡に乗り込んで価値のある品々を回収する【探索者】《シーカー》を志す者だった。
――というような背景設定なのだそうだ。
「わたしからの話は以上だ! 次は実践における技術についてだが、それは彼女から教わるが良かろう!」
蕩々と話し終えた教官が、どこか満足そうな顔で言うと、目の前に講堂内の見取り図が浮かんできて、次に行くべき場所を示してきた。
「地図は見えるな? この部屋を出て左手に進み、右手の角から外に出れば、練習場だ。そこで彼女が待っている。さあ、急ぐのだ!」
教官の大声に急き立てられて、わたしは次なる場所へと移動した。
案内通りに廊下から外へ出ると、そこはちょっとした芝生のグラウンドになっていた。そして芝生の中央には、彼女が仁王立ちして虚空を睨んでいた。
さっきのマッチョ教官が着ていた軍服のスカート版を身につけた、目つきのきつい女性だ。だけど、特徴的なのは目つきではない。透けるような金髪と、長く尖った両耳――彼女はエルフだった。
さっきの講義でざっと紹介された五種族のうちのひとつだ。確か、能力値のうち筋力と体力が低くて、知力が高いという魔術師向きの種族という紹介だった。
そのことを思い出しつつ改めて彼女を観察してみると、軍服姿の彼女は確かにほっそりしていて、腕っ節が立つようには見えない。むしろ、すらっとした立ち姿はファッションモデルのようだ。スカートから伸びた脚線美が艶めかしい。
そういえば、プレイヤーのアバターも人間以外の種族で作れるみたいな説明だったけれど、アバター作成室にそんなスイッチはあったっけ? どこかに種族変更のセレクタがあったのを見逃していただけ……?
でもまあ、いま動かしているこのアバターも気に入っているし、種族変更のためだけに作り直すこともないか。
――なぁんて由無し事を考えていても、話が先に進まない。わたしは、わたしが傍にいても一向に反応を示さず仁王立ちしていたエルフ教官に話しかけた。
「あの、」
「遅いぞ!」
「ひぁ!?」
いきなり怒鳴りつけられて、じつはずっとこちらを認識していたのかと驚かされた。エルフ教官はわたしの驚きを気にすることなく、さらに捲し立ててくる。
「貴様のような新米探索者に、無駄にできる時間はない。必要なことは最短で覚えろ。さあ、知りたいことは何だ?」
鋭い口調に続いて、またも項目の箇条書きされた吹き出しが浮かんでくる。わたしは今度も、一番下に書かれている項目を選んで、上から順に講義してもらった。
実践技術のチュートリアルだけあって、ただ話を聞くだけではなかった。全ての項目について、教わりたい行為を実際にやらされた。マネキン相手に幾つかの異なる武器で攻撃したり、逆に攻撃してくるのを避けたり受けたりさせられた。
実際に身体を動かしたわけではないから、肉体的に疲れるはずがないのだけど、なんだか心地よく疲れた。神経の遣り取りだけでも十分に疲れるものなのか、それとも疲れた気になっているだけなのか……。
わずかに息を荒げているところへ、エルフ教官のそれまでよりも優しげな声が投げかけられる。
「よし、以上をもって戦闘技術の講習を終える。よく頑張ったな。構内に戻って廊下を右手奥へと進めば、次の講習場所が見えてくる。覚えるべきことはまだあるが、この調子で頑張るんだぞ」
「……はぁ」
褒められたのは嬉しいけれど、まだ覚えることがあるのかと思うと、微妙な返事しか出てこなかった。
また館内の一室に場所を戻すと、三人目の教官がわたしを待っていた。今度の教官はドワーフのお爺ちゃんだ。わたしの胸くらいしか背丈がないけれど、骨格ががっしりしていて顔つきも渋く、その上に豊かな灰色の顎髭を蓄えているおかげで貫禄は十分だった。
「よう来たな、ひよっこ。わしは見ての通りに現役を退いた老い耄れだから、荒事の手解きはしてやれん。だが、探索者に必要なのは戦う力だけではないぞ」
コントラバスのような低音の響きが心地よい声で始まった講習は、【採取】と【生産】についてだった。
【採取】とは遺跡内に巣くっている敵性生物、つまりモンスターを倒した際に拾得できる
そして【生産】は、そうして採取された素材アイテムから装備品や薬品といったアイテムを作り出す技能のことを指す。
どちらも戦闘や生存の役には立たないけれど、探索の効率を上げることができる。講習ではどちらも実際に体験させてもらえたけれど、【採取】は正直、面倒だったけれども、【生産】はなかなか面白かった。とくに装飾品の製造は、見た目のデザインをかなり細かく好き放題に弄くれて驚いたほどだ。
一通りの説明と体験を終えたところで、ドワーフ教官は渋いバリトンの声で締めくくった。
「教えたことはまだまだ山ほどあるのだが、いきなり全てを教えても覚えきれまい。ひとまずはここまでとしておこう。さあ、外へ出て廊下の突き当たりから外へ出るがいい。そこで最後の教えを授ける教官が、おまえを待っているぞ」
「まだあるんだ……」
さすがに、げんなりしてきた。でも、あとひとつだ。わたしは溜息を飲み込んで、廊下へと出た。突き当たりの扉から屋外に出ると、そこも芝生のグラウンドになっていた。待っていた教官は、ふさふさの獣耳を生やした子犬っぽい少年だった。もちろん、犬っぽい尻尾も生えている。
「いやぁ、よく来たね。待ってたよ。あんまり遅いから、講習に飽きて帰っちゃったんじゃないかと思ってたよ」
声をかけたわたしに、犬っぽい少年教官は人懐っこい口調で話しかけてきた。なお、犬っぽい耳と尻尾が生えたドワーフ並に小柄な種族は、コボルトだ。
コボルトの教官は、にこにこと愛らしく微笑む。
「ぼくが教えてあげられるのは、ざっくり言うなら生存術だよ。遺跡のなかでは常に緊張を強いられるから、適当なところで休憩を挟まないと参っちゃうんだ。でも、おっかないモンスターがわんさか出てくるところで休憩してたら、不意打ちされて死んじゃうよね。そうならないための“こつ”を、きみにだけ特別に教えてあげちゃうよっ」
前置きが終わると、例によって選択項目が表示される。わたしは、これまた例によって、『全部教わる』の項目を選んだ。そして始まる、生存術の講義。
遺跡内のマップでは時間経過や行動によって、【体調】の値が減っていくのだそうだ。【体調】が下がると、各種行動の成功率が下がっていったり、走れる時間が短くなったりしていく。探索を止めて街に戻ってくれば【体調】を全快するのだけど、いちいちそうしていたら、遺跡の奥まで進めない。ではどうするのかというと、【食料】アイテムを使用すればいいのだ。食事をすれば体調が回復する、というわけだ。
食料品のなかには、例えば干し肉のように保存の利くものもあるけれど、基本的に保存食は体調の回復度合いが少ない。保存できない食料のほうが圧倒的に大きく体調を回復できるため、遺跡内で手に入れた【食材】アイテムを【料理】技能で【食料】にして使用するのが、【体調】維持の基本となる。
また、【料理】をするためには火を熾さないといけない。すなわち、敵の出てくる遺跡内で火を熾して、料理して、食事をするという行為を行うわけだ。この一連の行為をまとめて【キャンプ】と呼び習わしている。
遺跡内で長期滞在するには、【キャンプ】をいかに安全に行えるかが重要になってくる。コボルト教官が教えてくれたのは、【料理】技能や【食料】についての他、キャンプを行うのに適した場所や、有用な技能についての大まかな解説に及んだ。その後、実際に火を熾して料理をすることもやってみた。出来上がった食品を食べてみると、本当にちゃんと味がした。【料理】技能が熟練すれば、出来上がる料理の味も微調整できるようになるということだから、もしかしたらゲーム内で食べ歩きができたりするのかもしれない。
「さて、ぼくの講習はここまで。最初から通してだとかなり長かったと思うけど、最後まで聞いてくれて、ありがとねっ」
コボルト教官がにっこり微笑む。わたしも、ようやくこれでチュートリアル終了か、と表情が綻んだ。
――そこに飛び込んでくる、無駄に威勢の良い大声。
「ちょおぉっと待ったあぁ!!」
何事かと驚きながら声のしたほうを振り向くと、グラウンドの向こうからものすごい勢いで走り寄ってくる人影。左右の側頭部から直角に曲がって天を向く角を生やした、軍服姿の男性だった。角が生えているの、五種族のうち最後のひとつ、トロール族の特徴だ。
トロールというと醜悪な化け物のように描かれることもあるけれど、【ルインズエイジ】のトロールは、細マッチョの野性的で格好いい鬼、という見た目だ。
駆けてきたトロール教官は、彼の胸元よりも背の低いコボルト教官に向かって語気を荒げる。
「待て待て、初心者講習はまだ終わりではないぞ。知っておくべきことはまだあるぞ!」
「それはそうだろうけど、いきなり全ての事柄について捲し立てても、誰もついてこれないよ。だからいまは、最低限これだけは知っておけ、っていうことだけを教えたつもり。ここで教えきれなかった事柄については、先輩探索者さんに聞いてみるといいかもね」
トロール教官にというより、わたしに向けて言ってくるコボルト教官。どうやらこれは、NPC同士の寸劇らしい。わたしはとりあえず、反応を求められるまで黙って見ていることにした。
トロール教官が大袈裟に頭を振る。
「かーっ、分かってねぇな。知らないままじゃ、誰かに騙されるかもしれないんだ。そうなった後で教えられても遅いんだぞ」
「えっ、騙されるって?」
「詐欺だよ、詐欺」
「詐欺!?」
トロール教官の言葉を復唱して驚く、コボルト教官。どうやらこの寸劇は、ゲーム内で使われる通貨と詐欺行為についての講習のようだった。
このゲーム【ルインズエイジ】には二種類の通貨が流通している。ひとつは、遺跡内で得た収集品をNPCに売ったり、NPCから提示される
どちらの
では、銅貨と銀貨はただ単に入手経路が違うだけなのかというと、そういうわけでもない。銅貨はゲーム内で完結している通貨だけど、銀貨は“現実のお金に換金できる”のだ。
銀貨から現金への換金には若干の手数料がかかるけれど、上質の生産品や希少な収集品をプレイヤー間の取り引きで売り捌けば、大量に銀貨を――ひいては、けして安くない現金を得ることも夢ではないとか。
とまあそんなわけで、プレイヤー間での取り引きにおいては銅貨より銀貨のほうが強いということ、売買時に銀貨と銅貨の比率を間違えると損をすること、そして意図的にその間違いを起こさせようとするプレイヤーもいること――を、寸劇形式で教えてもらった。
「原則として、おれたち【機関】の職員は探索者同士の揉め事には介入しない。だから、きみも自衛の意識を持つようにしておいてくれ」
トロール教官がわたしに向けてそう言ったのに続いて、コボルト教官もにっこりと笑いかけてくる。
「さあ、これでとりあえず覚えておくべきことは全て伝えたよ。本当は探索者同士の戦闘についても話しておきたんだけど……さすがに長くなるし、しばらくはそんな戦いをすることもないだろうから、話すのは今度の機会にするよ。それとも、聞いていく?」
「Yes」と「No」の選択を求める吹き出しが浮かんでくる。わたしは即座に、「No」を押した。これ以上の情報を流し込まれたら、脳がパンクする。
「それじゃあ、初心者講習はこれで本当におしまい。でも、また聞きたくなったら、いつでも来てね。じゃ、楽しい探索者ライフを!」
コボルト教官がにっこり笑って、大きく手を振った。その隣でトロール教官も、うんうんと鷹揚に頷いていた。二人の教官に見送られて、わたしは講堂をようやく、後にした。
建物の外に出たところで操作盤を呼び出して時刻を確認してみると、いまのチュートリアルだけで一時間ほど経っていた。
「ええと、どうしようか……」
誰かに話しかけるわけでもなく、独りごちる。
一時間の講習でけっこう疲れたけれど、寝るまでにはまだしばらくの時間がある。
「……うん、試しにちょっと行ってみようか」
わたしはそう決めると、地図を頼りに街の外へと向かった。
地図に城門っぽいマークが描いてあるところを目指していくと、思った通り、そこが遺跡への移動ポイントだった。
ここからでも景色としては街の外に広がる山野や遺跡が見えているけれど、街と街の外は地続きになっているわけではない。街マップと野外マップはそれぞれ別個のマップとして用意されていて、各マップに設置された移動ポイントによって連結されている。
まあ要するに、街の中と外とは門を通ってしか出入りできませんよ、ということだ。
移動ポイントである門は、凱旋門みたいな大きい城門だった。開け放たれている門扉の向こうには景色しか見えていないけれど、その景色から溶け出してくるようにして鎧や法衣を着込んだアバターが現れたり、こちら側から門扉を抜けたアバターが、その景色にすぅっと溶け消えていく。入ってくる人も出ていく人もとくに何かをしている様子はないから、普通に歩いて門を抜ければ、外のマップへ移動できるのだろう。
わたしはちょっぴり緊張しながら、門を通り抜けた。その途端、すっと雨が上がるような自然さで周囲の景色が入れ替った。色鮮やかな煉瓦と燻したような石造りの街並みだったのが、いまは黄緑と深緑の濃淡で染め抜かれた長閑な平野になっている。心なしか、頬に当たる空気も爽やかに感じる。
背後を振り返ってみると、いま抜けた城門があり、開いている門扉の先にはさっきまでいた石と煉瓦の街並みが見えている。実際には門から一歩踏み出しただけなのだけど、わたしの立っている場所から門までは数メートルほどの距離が開いていた。
どうしてなのかな、と考えて思いついたのは、同時に大勢のプレイヤーが門を通ったときに衝突事故が起きないよう、出現地点に数メートルのばらつきを持たせているのだろう。
わたしが門を振り仰いでいる間にも、門から出てきたプレイヤーがわたしの傍らを通り過ぎていく。彼らが歩いていくのをなんとなく目で追えば、大きな毛玉みたいなものに剣を打ちつけたり、もそもそ震えるようにして動く毛玉から逃げながら弓をぴちゅんぴちゅん撃ったりしているプレイヤーの姿が散見できた。
もふもふの毛玉に目の焦点を合わせていると、『玉兎』という文字が浮かんでくる。それが、あの毛玉っぽい動物(?)の名前なのだろう。というか、あれは兎だったのね……あ、良く見たら長い耳っぽいものが毛玉からちらっとはみ出していた。
うさ耳の生えた毛玉は動きも鈍いし、攻撃方法も頭突きしかないみたいだ。プレイヤーから攻撃されても、ほとんどろくな抵抗をせずに倒されていく。街を出てすぐのマップにいることといい、おそらくは初心者でも問題なく勝てる、このゲームで最弱の敵なのだろう。
実際に、玉兎と戦っているプレイヤーが身につけている服は、わたしのアバターが着ている初期装備の服と似たようなものだし、握っている武器、も初心者講習で戦闘訓練したときにもらったデザイン性の欠片もない弱そうな剣や弓だ。
まずは玉兎を何匹か倒して、戦闘に慣れてみましょう――というゲーム運営チームの声が聞こえてくるようだった。
他の人が戦っているのを観察するかぎり、ひとりで戦いを挑んでも負けることはなさそうだ。
「よぉし、わたしも!」
わたしもさっきのチュートリアルでもらった剣を抜くと、手近なところで動いている毛玉に向かって斬りかかった。
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