VRネトゲにおいでませ♪

雨夜

第1話 冒険は始めるまでも冒険です

 最後の試験を終え、大学生になって初めての夏休みを迎えたその日、わたしは大学構内の大階段を転げ落ちて、右足の脛を骨折した

 運び込まれた病院での診断結果は、骨に軽い罅が入っているとのことで、リハビリも含めて全治二ヶ月ということだった。

 入院の必要はなく、ギプスでがっちり固定された上で松葉杖を渡されて、家に帰された。しばらくは通院するようにと言われたけれど、骨折という言葉から想像していたよりは軽い治療で済みそうなことに、安堵もしていた。

 けれど、二日後から行くはずだった旅行の計画はキャンセルせざるを得なかった。初めての一人旅で、一ヶ月前から計画を立てて楽しみにしていたから、もう本当に泣けてくるほど残念だった。

「逆に考えよう、わたし。試験が終わるまで怪我しないんで済んだなんて、ラッキーだったじゃないか、わたし。やったね、わたし」

 そんな悲しい台詞で、自分で自分を慰めるしかないのだった。


 初夏の燦々とした日差しが差し込む自室で、わたしはベッドで仰向けに寝そべっている。さっきお昼を食べたばかりで、普段なら休みだったとしても部屋でぐうたら寝ていたら、お母さんに怒られるところだ。でもいまは、階段を上り下りするのも一苦労だというのに加えて、楽しみにしていた旅行がふいになったばかりという踏んだり蹴ったりの身の上である。お母さんもさすがに同情しているらしく、空調の効いた部屋でごろごろしながらネットしていても、大目に見てくれているようだった。

「でも、こうしていると……歩けなくても別になんも困ることって、ないかもぉ……」

 わたしはぼんやりと呟く。でも、現実に唇を動かして発声したのではない。首筋に埋め込んでいる通信及び演算のために端末、通称【脳接のうせつ】を通して知覚している仮想空間メタバースのなかで、だ。

 十数年前はみんな、外付けの装置を使ってネットしていたという話だけど、いまどきは脳接を介して手ぶらでネットするのが当たり前になっている。通常は脳と身体とで遣り取りされている神経の伝達に割り込ませる形で、脳と脳接との間で神経伝達を行うようにする。すると、脳接が通信しているサーバー内の電子情報的な空間、つまりはネットを五感で認識し、手で掴んだり足で歩いたりするのと同じ感覚で見てまわれるようになるのだ。

 電子情報的な空間のことをネット、あるいはメタバースと呼ぶわけである。ネットとメタバースは厳密に同じ意味ではないらしいけれど、詳しい違いは知らない。知らなくとも現にこうして、わたしはネットを飛びまわって遊んでいられるのだから問題ない。

 専門家に言わせれば、

「かつてのパソコンやスマートフォンといった装置が脳接に置き換わったことで、インターネットはワールドワイドウェブから次の段階であるメタバースへと移行した。ウェブページを閲覧するために用いられたブラウザは、メタエバースを体感するための仮想身体アバターへと代わったのである」

 ――というようなことらしい。

 小難しいことはさっぱりだけど、技術が進歩したおかげで、寝るときとまったく同じ姿勢でネットを散策することができるようになったというわけだ。

 わたしはいま、電子情報で構成された仮想空間メタバースのなかを歩いている。もちろん、生身の身体で、ではない。同じく電子情報で構成した仮想の身体、アバターで、だ。

 メタバースのなかはさながら万国博覧会だ。海外の遊園地をそのまま模したものがあったり、世界各国の名所や遺跡を細部まで完璧に再現したものもあったりする。ただし、これらの施設サイトは有料だけど。まあでも、現実に世界旅行することの手間と費用を考えれば、格段にお安い価格設定だ。

 世の中の全ては、メタバースのなかにある!

 ……なんて言っている人もいる。

 それはさすがに言い過ぎだと思うけれど、足が動かせなくても退屈しないで過ごせるのは大変に便利で良いことだと思う。

 とはいえ……いくら楽しくとも、何時間も延々とネット散歩をしていたら、さすがに飽きがくる。

「と言っても、ネットを切ってもとくにやること、ないんだよねぇ」

 そもそも、骨折中で身体を動かせないからネットで暇潰ししていたわけだからして。

 丁度そんなときだ、わたしが“それ”に目を留めたのは。

「ネットゲーム……?」

 看板や街頭テレビが犇めき、上空にはアドバルーンが幾つも浮かんでいて、さらにその上を広告用の飛行船が周回している交通広場ポータルサイトで、次はどんなサイトへ行ってみようか……と、だらだら思い悩んでいたとき、足下の床にも広告が入っていることに気がついたのだ。床は石畳が敷き詰められたようになっているのだけど、その石畳の幾つかがモニターになっていて、そこに広告用の映像が流されていたのだ。

 映像のなかでは、ファンタジー調の鎧や剣で身を固めた剣士が、おっかない形相をした竜と戦っている。そして最後にゲームの題名が出てきたところで、映像はまた最初からリピート再生される。

 そのゲーム名には、見覚えがあった。

 【ドーン・オブ・ザ・ルインズエイジDawn Of the Ruin's Age

 通称、ルインズエイジとかDRAディー・アール・エーとか呼ばれているネットゲームだ。総プレイヤー数は日本国内で百万人を超えているとか、いないとか。まあとにかく、一番人気のネットゲームだ。それこそ、ネットゲームに対してとくに興味を持っていなかったわたしでも聞き覚えがあるくらいだ。

 たしか、ゲーム内で稼いだお金を現金に換えることができて、このゲームだけで暮らしているプロのプレイヤーがいる、なんていう話を聞いたような覚えもある。まあ、うろ覚えだし、さすがに誇張された話だろう。

「でも、そんな話がされるくらい人気だっていうことは……やっぱり面白いからなんだよね」

 わたしは自分に向けて呟くと、その場にしゃがんで、足下のモニターに指先で触れた。すると、モニターにぴちょんと波紋が走って、周囲の景色が一度、暗転した後、まったく別の景色――大きな遺跡を前にした景色と入れ替った。

 ギリシャの神殿跡やアンコールワットのような外観の施設サイトは、いま宣伝していたゲーム【ルインズエイジ】の公式サイトだ。

 遺跡の入り口上方を見上げてみると、大きな案内板が浮かんでいる。

「ええと……アバター登録はこっち、ね」

 わたしは案内板で登録場所を確認すると、遺跡のなかへと入った。でも、ここはメタバースだから、現実のように施設内を目的地まで歩いて行く必要はない。入り口から目的の方角へと少しだけ歩けば、ぱっと景色が変わって目的地に到着する。

 アバター登録所、つまり【ルインズエイジ】に新規参加するための登録場所は、どことなく役所や大学の事務局を思わせる間取りだった。

 受付に用意された羊皮紙っぽい書き込み用紙テキストボックスに必要事項を記入して提出すると、登録はあっさり完了した。もっと細々と決めたりインストールしたりすることがあるかと思っていたから、ちょっと拍子抜けだった。まあ、簡単に終わったのだから全然、文句はない。

 登録が完了すると、奥の壁に両開きのいかにも物々しい扉が現れて、ごごご、と重たげに開いていく。開いた扉の奥には、「プレイ開始」という表記が浮かんでいる。つまり、この扉を通ればゲーム内にログインできるということだろう。

 わたしは左手首の腕時計に目を落として、現在時刻を確認した。

 時刻はまだおやつ前で、夕飯までにはまだまだ余裕がある。

「うん、よし。やってみようか」

 わたしは開け放たれた扉を潜った。

 そしていよいよ、初めてのネットゲームが始まる――と思っていたら、まだだった。ゲームを始めるにはまず、ゲーム内で使うためのアバターを作成しなくてはいけなかった。

 メタバースに接続しているいまでもすでにアバターを使っているけれど、このアバターは基本的にのっぺらぼうのマネキン人形だ。服屋さんのサイトで試着するとき用に、自分自身の立体情報から再現した自分そっくりのアバターを使うこともあるけれど、普段はのっぺらぼうにしている人が大半だと思う。なぜなら、普段使うアバターは誰かに見せるためのものではないからだ。

 メタバースには常時、何千人、何万人という人数が接続しているわけで、その全員が現実同様に相互認識できるとしたら、メタバースはすし詰めの通勤電車になってしまう。混雑で転んで怪我したりすることがないとはいっても、単純に他人のアバターが邪魔になって、まともにサイト閲覧できなくなってしまう。だから、メタバース内には基本、自分以外のアバターが書き込まれることはない。無人の街並みを一人で漫ろ歩くのが普通だから、アバターの見た目にこだわる必要性がないのだ。

 さて……普段は意識することのないアバターの容姿体型についてだけど、いざ改めて設定してくれと言われると、非常に困ってしまう。

「ゲーム内での操作キャラクターになるっていうことは、他のプレイヤーからも見られるってことよね。だったら、あんまり変なアバターにはしたくないところだけど……」

 アバター作成室は円形ステージのようになっている。ステージ部分の円盤が回転して、その盤上に立っているゲーム用アバターの姿を好きな角度から確認できるようになっている。そうやって逐一確認しながら、手元にあるDJブースか放送室のミキサー台みたいな卓を操作して、アバターを作るようになっていた。

 たぶん、慣れた人ならこの部屋に備わっている機能を上手いこと使いこなして、思った通りのアバターを作り上げられるのだろう。けれど、わたしにはさっぱり使いこなせそうになかった。それが、奮闘すること三十分の果てに至った結論だった。

「あーもー、これは駄目だー」

 わたしは思い切り大袈裟な身振りで天を仰いで呻く。そのとき、目の端にふっと、壁際のほうにも配電盤みたいなスイッチ群が据えられているのが見えた。

 なんと、操作盤は目の前にこれだけではなかったのか!

「紛らわしいなもうっ」

 ぷりぷり怒りながら壁際の操作盤に近づいてみると、そっちのほうはアバターの形状調整とは直接的に関係しない類の操作を集めたものだった。

 保存済みアバターの数値設定を呼び出したり、今回作った数値設定を保存したり、各種数値をランダム設定させたり……というように、設定中のアバターを丸ごと変換させるようなコマンドが集められていた。細かな数値調整用の操作盤と離れたところに据えられているのは、誤操作してしまわないようにという配慮なのだろう。

「……あ」

 配電盤みたいな操作盤のなかに、ふたつの便利そうなスイッチを見つけた。【立体情報読み込み】と【自動補正】だ。

 まずは前者のスイッチを入れてみると、舞台上に自然体で立っていた設定中のアバターが明滅して、現実のわたしとそっくりの容姿体型になった。生身の身体から採った立体情報がゲーム用アバターにそのまま適用された、ということだった。

 後者の【自動補正】スイッチは、つまみ型をしたセレクタスイッチというやつだった。つまみを捻って一目盛りずつ動かすごとに、

『子供』

『モデル』

『グラビアアイドル』

『マッチョ』

『壮年』

『老人』

 と、説明書きのされた吹き出しが、ふわっと浮き上がってくる。その吹き出しが意味するところは、ステージ上のアバターを見れば、すぐに分かった。

 『子供』につまみを合わせると、アバターの形状が全体的に小さくなった。それに伴って、顔つきも頬が微妙にふっくらした幼げなものになり、胸がへっこんで腰つきも寸胴になる。

 『モデル』に合わせると、今度はぐんと背が伸びて、手足もすらりと長くなる。ついでに腰の位置も高くなって、きゅっと括れができ、さらにはお尻も小さくなったようだ。

 つまり、【自動補正】というのは、アバター全体を大まかなイメージに合わせて自動で調整してくれる機能だった。

「これは便利……!」

 ここ三十分で初めて、顔がにやけた。

 さっきまでの苦労が何だったのかというほど簡単に、セレクタを捻るだけでまったく別の雰囲気を持ったアバターができあがっていく。よくよく見れば、基本になっているわたし自身の面影が見て取れるけれど、ぱっと見は全然別人だ。ただ化粧しただけでは、ここまで七変化する自分を楽しむことはできない。

「ん……でも、もうちょっと鼻をこう、すらっとさせたら……」

 わたしはステージ前の操作卓まで戻って、気になるところの微調整を始めた。何もないところから形作っていくのは至難の業だったけれど、すでに出来上がっている状態から微調整するだけなら、そこまで難しくはなかった。

 というかたぶん、いきなり直接的な数値操作から入ったのが間違いだったのだ。いまやっているように、まず【自動補正】などの機能で大雑把に形を作ってから、数値の直接操作で最終的な微調整をしていく……というのが正しい順序なのだろう。

「それだったら、立体情報の読み込みスイッチなんかはもっと分かりやすい手前のほうに配置しておいてよ、もう!」

 作り方が分からずに手間取った時間を返せっ、と目くじらを立ててみたものの、唇はにんまりと緩んでしまっている。だって、なんだかんだと楽しいのだ。

 色々な箇所の数値を少しずつ変えていくのは、化粧や試着と同種の楽しさがあった。中毒性と言ってもいいかもしれない。現実でする場合だと肌へのダメージだとか後片付けだとか、試着するだけしまくって何も買わずに変えるのは後ろめたいとかの問題が出てくるけれど、メタバース内ではそうしたことを考える必要がない。だから、ついつい止め時を忘れて没頭してしまうわけなのだけど……アバター作りと化粧とでは、その自由度というか変化の幅が違いすぎた。

 あまり調子に乗って数値を変えすぎると、造作が崩れすぎて立方体派キュビズムの人物画みたいなことになってしまう。やり過ぎては操作を巻き戻して……というのを五回ほど繰り返したところで、さすがに疲れた。

「……うん、これ以上は泥沼よね。ここで完成ってことにしときましょ」

 結局、【自動補正】をかけた直後とほとんど変わらない程度のところまで操作を巻き戻して、作成完了のボタンを押した。

 ボタンを押すと、『アバターを確定します。本当によろしいですか?』と最終確認を促す吹き出しが浮かび上がる。

「……」

 わたしは改めて、出来上がったばかりのアバターを見つめる。

 わたし自身の姿を基本にしているのだから当然、わたしの面影は残っている。でも、グラビアアイドルのイメージで自動補正をかけたおかげで、わたし自身よりもずっと可愛く仕上がった。

 目がぱっちり、唇がぽってり。顎の形もきれいな卵形になっていて、頬もふっくらつるりとしていて、見ているだけで撫でまわしたくなる。髪型だけは本物のわたしと同じく黒髪のセミロングだけど、だからこそ、三割増しになった可愛さがはっきりと見て取れた。

 本物よりも良くなっているのは顔だけではない。グラビアアイドルというからには、身体のほうだってばっちり補正済みだ。胸はカップがひとつ分……いや、ふたつ分は確実に増量されている。それでいて、お尻が自然な感じで丸みを帯びることによって、腰のくびれが健康的に強調されている。女子的にはもうちょっと細くてもいいけれど、男子的にはこのくらい肉付きのあるほうが好印象なのかも……?

 まあとにかく、ちょっと悔しくなるくらい可愛くて魅力的なアバターに仕上がっていた。

「なんていうか……複雑ね……」

 なまじ自分自身の面影が残っているのが、なんとも微妙な気分にさせてくれる。けれどもきっと、それはこうして対面しているからだろう。神経を繋げて自分自身として動かしみてれば、しっくりくると思う。

 というわけで、さっさとゲームを開始して、このアバターを動かしてみることにした。

 わたしは最終確認の吹き出しを、手の平でぐっと押す。

『確認しました。プレイヤーアバターとの神経接続を開始します』

 吹き出しに浮かぶ文字がそう代わり、一拍遅れて目の前がすぅっと暗くなる。暗転は一瞬で終わり、またすぅっと夜が明けるように視界が戻ってくるともう、わたしの五感と運動神経は汎用アバターから、いま作ったばかりの【ルインズエイジ】専用アバターへと接続先を移し替えていた。

 さっきまで自分自身だったマネキン風の簡素なアバターが、いまは目の前に立っている。それを見ながら何度か瞬きをして、視覚に違和感がないのを確認すると、続いて首や手足を動かしたり、自分で自分を撫でまわしたりしてみて、他の感覚や動き方にも変なところがないのを確認した。

 ――うん、とくに問題ない。

 体つきが変わっているのもあくまで見た目の上での話で、物理的に重心が変わっていたりするのではないから、軽く背伸びや屈伸をしてみただけで、もう問題なく馴染んでいた。

 さあ、これで確認は終わった。いよいよゲーム世界へログインだ。


 ……まだだった。

 この後さらに、声の設定をさせられた。さすがに面倒だったので地声そのままの設定にしようかと思ったのだけど、実際に鏡を見ながら声を出してみたら、なんだか見た目と声とに違和感を覚えてしまって、結局そこそこの時間をかけて、音程やら音の太さやらを弄くることになった。

 今度こそ本当に全てのアバター設定が終わって、いざゲームを、と思ったところで、頭のなかにお母さんの大声が響いた。

「ちょっと、あんた。いつまでネットしてるの。いくら怪我人だからって、あんまりぐーたら過ごしているんじゃないわよ。もうすぐで夕飯だから、戻ってきておきなさいよ」

 脳接経由でメタバースに意識を飛ばしているときでも、一定以上の音量については耳が働くような仕組みになっているのだ。つまりいま、ベッドで横になってネットしているわたしの横で、お母さんが腕組みして大声を上げたということだ。

 思い切り揺さぶられたりして物理的な刺激を与えれば、ネット接続を外から強制遮断させることもできるのだけど、お母さんもさすがにそこまではやってこなかった。

 強制遮断されると、巨人に頭を掴まれてぶんぶん振りまわされたかのような気持ち悪さに襲われる。わたしは酔うほどお酒を飲んだことがないのだけど、強制遮断の感覚は「一瞬で最悪の二日酔いになった感覚」なのだとか。

「というか、もうそんな時間なんだ」

 独りごちながら時計を呼び出してみると、いつの間にか十八時をまわっていた。我が家の夕飯は十八時半前後だから、お母さんが呼びにきてもおかしくない時刻だ。

「……しょうがない、か」

 まだアバターを作っただけでゲーム本編に触れてすらいないけれど、痺れを切らしたお母さんに揺さぶられて強制遮断させられるのは勘弁だ。続きは夕飯の後とすることにして、わたしはメタバースへの意識接続を終了させた。

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