第5話 オカガミサマ

 わたしたちの小学校ではちょっと前まで七不思議が流行っていた。

 東階段に午前二時から二時半の間にだけ現れる『地下室への階段』。普段は使われていない花壇跡には夜になると花の代わりに腕が生えてきて、人間を地中に引きずり込もうと手招きするのだという『おいでの花壇』。そのトイレの個室に入ってしまうと二度と出られなくなる『開かずの男子トイレ』。体育倉庫の外から鍵穴を覗くと内側から睨み返される『体育倉庫の住人』。誰もいない夜の教室からすすり泣く声が聞こえてくる『すすり泣く教室』。女子トイレのいちばん奥の個室で「花子さん、入ってますか」と呼びかけながらノックすると、「わたしは花子じゃない!」と怒鳴り返される『偽花子』。

 全部で六つしか知られていないのにはいくつかの理由が噂されていた。

 七つ目を知ってしまうと呪われる、七つ目を探そうとした生徒が消えてしまうというのが七つ目だ、七つ目がないのに七不思議と呼ばれるのが七つ目だ――色々と噂はあったのだけど、結局よくわからないまま七不思議ブームは去ってしまった。

 いまの流行はオカガミサマだ。

 オカガミサマは簡単に言ってしまうと、コックリさんやエンジェルさまと同じような占いである。でも、オカガミサマで呼び出すのは狐の霊でも天使でもない。「未来の自分」なのだ。

 大きめの鏡にマジックで鳥居と「はい、いいえ」の選択肢、それに五十音のひらがな、一から九までの数字を書く。要は、コックリさんで使うお呪いの紙を鏡で作るわけ。その鏡に十円玉を置いて、何人かで集まって人差し指を乗せる。

「オカガミサマ、オカガミサマ。どうか未来の姿をお映しください」

 この呪文を参加者みんなで唱えると、鏡を通してやってきた参加者誰かの「未来の自分」の魂が十円玉に乗り移って、自分の知っていることを答えてくれるというわけだ。

 オカガミサマが流行った理由は簡単。

「これはコックリさんと違って、霊を呼ぶんじゃなくて未来の自分を呼ぶんだから安全なの」

 という理由からだ。冷静に考えてみると、よくわからない理由だけど、「安全だ」と言われると「安全なんだったら、やらないと損だ」という気になってしまうのだ。

 そんなよくわからない理由と気持ちで、わたしは放課後の教室に残って、机に置いた四角い鏡をみんなで囲んでいるのだった。

 マジックでごちゃごちゃと文字が書き込まれた鏡を囲んでいるのは、わたしを含めて五人――わたし、ミコこと谷山美佳子と、ヒロこと野宮弘道、ミーくんこと三苫昭歩みとま あきお、ユッキこと上山友紀かみやま ゆき、アッコこと安藤誠子あんどう せいこの五人だ。土曜日の授業がお昼で終わって、みんなが早々に帰る中、わざわざ居残った物好き五人である。

「それじゃ、いい? お呼びするよ」

 アッコがわたしたちをぐるりと見まわして、わたしたちの他に誰も残っていないのに声を潜めて合図した。それにつられて、わたしたちも無言で頷く。

 わたしたちは右手の人差し指を十円玉に乗せて、一斉にお呪いを唱えた。

「オカガミサマ、オカガミサマ。どうか未来の姿をお映しください」

 ……何も起きない。もう一度、みんなでタイミングを合わせて同じ呪文を唱えた。やっぱり何も起きない。

 場に白けた空気が漂いかける。それに先んじたのは、ヒロとふたりだけの男子、ミーくんだ。四年生になってから転校してきたばかりだけど、運動神経がいいのに大人しい性格で男女問わずに好かれている。

 ミーくんはいつも通りの穏やかな口調で言う。

「もう一度だけ言ってみようよ」

「おう」

 ヒロがすかさず頷いて、「せーの」と勝手に合図を送るから、みんな慌ててそれにつづいた。

「オカガミサマ、オカガミサマ。どうか未来の姿をお映しください」

 三度目の呪文。タイミングがばらけたけれど、今度は反応があった。

「あっ」

 ユッキが可愛い声で小さく叫ぶ。ユッキは顔も可愛いほうだけれど、何よりも声が堪んないくらい可愛い。

 叫んだり息を飲んだり、あるいは「おお」と歓声を上げたりするわたしたちの視線は、五本の人差し指で押さえられながら動き出した十円玉に注がれていた。

 マジック描きの鳥居に置かれた十円玉は小刻みに震えている。

 すかさずアッコが言った。

「未来の魂がお出でくださったのですか?」

 すると十円玉が、鏡に擦れてキィと嫌な音を立てながらまっすぐに動き、「はい」と書かれた上で止まった。

「名前と年齢は?」

 待ちきれないとばかりにヒロが十円玉に問いかける。

「ばかっ、もっと丁寧にお聞きしないと怒って帰っちゃうかもしれないでしょ!」

 アッコが噛みつくみたいにヒロを叱ったけれど、十円玉はべつに気分を害した様子もなく、またガラスをぎぎっと擦りながら五十音の行列を泳いで、いくつかの文字と数字を示す。

 ユッキが十円玉の踏んでいく文字を読み上げていく。

「……み、こ、二、六……二十六歳のミコ?」

 その言葉に頷くかのように、十円玉は「はい」の位置に止まった。

「……」

「……」

 みんなの視線がわたしに集まっているのを感じる。感じるというか、実際に集まっている。誰も言葉がない。驚いたような困ったような顔をしていた。ただひとり、ヒロだけが楽しそうな顔で目を輝かせているのが気に食わない。あいつ、未来のわたしに何を聞くつもりだ!?

「それじゃ、二十六歳のミコに質問です」

 やはりというか、ヒロが真っ先に意気揚々と質問した。

「ミコは二十六歳になってもまだ独身ですか?」

「ばか! なんてこと聞くの!!」

 わたしは怒鳴ったけれど、そんなことで怖がるようなヒロじゃない。他の四人はさすがに躊躇うような顔をしていたけれど、未来の魂を呼んでいる間は十円玉から人差し指を離してはいけないルールだ。

 しかし、十円玉はぴくりとも動かなかった。さすが、十六年後とはいえ、わたしはわたしだ。ヒロのお馬鹿な質問につき合ってやるほどお人好しじゃない。

 だがしかし、ひとりで勝ち誇るわたしの耳に届いたのはヒロの馬鹿笑いだった。

「あっはははっ、やっぱりミコ、いき遅れてやんの」

 一瞬どういうことかと首を傾げたけれど――。

「あ」

 十円玉は「はい」の上に乗ったまま、ぴくりとも動いていなかったのだ。「独身ですか?」という質問に対して「はい」と答えている……。

「ば、ばかっ、二十六はまだ適齢期ど真ん中よ!」

 わたしの口から出た負け惜しみは何というかもう、思いっきり負け惜しみだった。まあそもそも、結婚している自分の姿が想像できなくはあるのだけど。

 なにがそんなに楽しいかと呆れるほど笑っているヒロに、いつもアッコの半歩後ろをついてまわっている引っ込み思案のユッキが珍しく、咎めるように唇を尖らせた。

「ヒロくん……そんなふうに笑うの、よくないと思うよ……」

 珍しく他人に意見したユッキだったけれど、その声はやっぱりか細い。だけど小さい声なのにものすごくよく通るから、染み込んでくるみたいに妙な説得力があるのだ。ヒロも思わず、ごくっと笑い声を飲み込んだ。

 静まったその一瞬にすかさずアッコが口を開く。

「それじゃ改めて――未来のミコに質問です。ええと……誰か、質問ある?」

 いきなり口ごもったかと思うと、アッコはわたしたちを見まわして質問を促してきた。みんなてっきりアッコが質問するものと思っていたから、不意打ちされて目をぱちくり泳がせた。

「いや、いま考え中」

「ごめん、もうちょっと待って」

「えと……」

 三人三色の戸惑いが口から漏れた。

 でもそれはそうだ。二十六歳のわたしといったら、いまから十六年後ということになる。そんな未来の相手に「明日の漢字テストは何が出ますか?」と尋ねても、覚えているはずがない。というより、十六年後の魂がきたということ自体、かなり珍しい。というか初めてだ。

 わたしがオカガミサマをやったのはこれで三回目だけど、アッコとユッキのふたりはここしばらく毎日のように放課後の教室で適当な誰かを誘って、こうしてオカガミサマをしていた。そのふたりも、十円玉が「二、六」と指したとき、目を丸くしていた。

「二十六歳って言われると……何を聞くか、けっこう迷うね」

 みんなの内心を代弁するように、ミーくんが苦笑した。「そうなのよね」とアッコが乗る。

「いつもだったら十歳って答えが返ってきて、〝何月何日ですか〟って質問をつづけるのにね」

 アッコの言葉に、ユッキも黙って頷いた。

「さすがミコ。二十六歳にもなって子供の遊びにしゃしゃり出てくるなんて、目立ちたがり屋だな」

 これは言うまでもなくヒロの発言だ。ひとりで大笑いしてるあんたに言われたくないわ!

 場の雰囲気が脱線ムードになったとき、さりげなく流れを元に戻したのは、転校生のミーくんだ。わたしたち五人の中でいちばん空気の読める男子だ。転校してきたのが四月だったら、学級委員に満場一致で推薦されていたかも。

「ぼくが質問してもいいかな? ――未来のミコに質問です。十歳から二十六歳までの間でいちばん流行った映画のタイトルは何ですか?」

 ミーくんの質問に、十円玉はしばらく動き出さなかった。ヒロがこれ見よがしに欠伸して大口を開けた瞬間、人差し指の下で十円だがピクリと震えたかと思うと、迷いなく鏡面を滑り出した。とても五人のうち誰かひとりが動かしているようには思えなかった不規則さと、鏡と十円玉が擦れる音とで、背筋がぞわっとした。

 十円玉は次々にひらがなを示して、こう告げた。

『わ、か、ら、な、い』

 じつにわたしらしい答えで、なんだか安心した。でもこの答えって、面白い映画をたくさん観たからどれがいちばんなのかを決められないのか、それともさっぱり映画を観ていないからわからないのか――どちらとも受け取れる回答だった。

 十円玉の答えにミーくんは小さく呟く。

「谷山さん、映画はあんまり観ないのかな……そうだ、谷山さんも何か質問してみたら?」

 言葉の後半は、わたしに向けての呼びかけだった。

「へ?」

「谷山さんだったら、将来の自分に聞きたいこと、色々あるんじゃないかな」

「聞きたいこと、ねぇ」

 わたしは首を捻った。いきなり話を振られても咄嗟に思いつかない。

「ええと……あっ、じゃあ質問です。二十六歳のヒロは真面目に働いていますか?」

「何だよそれ!?」

 ヒロが食ってかかってきたけれど、そんなことはお構いなしに十円玉は動き出し――躊躇なく一直線に「いいえ」の上に乗った。

「あっはっはっ」

 わたしより早く、アッコが大口を開けて豪快に笑った。

「こんなデタラメで笑うな!」

 ヒロがむっと目尻を吊り上げて抗議したけれど、アッコは目を細めてヒロを睨み返した。

「……デタラメって聞き捨てならないわね」

「だってデタラメだろ。未来のミコがこの十円玉だなんてさあ」

「本当よ。これはコックリさんみたいな霊を呼ぶのと違うんだから、信憑性あるの!」

「シンピョーセーねぇ」

 鼻で笑うヒロ。ますます顔を真赤にさせるアッコ。ユッキはふたりをおろおろ見比べているばかりだし、わたしはわたしで「怒ってもヒロを楽しませるだけなのに」と胸の中で肩をすくめているだけだ。

 こういうとき、落ち着いた笑顔で場を取りなすのはやはり、ミーくんだった。

「まあまあ、ふたりとも落ち着いて。ヒロは言い過ぎだし、安藤さんもカリカリしないで」

 やんわりした言葉でふたりを止めてから、ミーくんは「でも」とヒロを見やって、少し意地悪く笑った。

「ヒロも案外素直だね。大人のミコに何を聞いていいかわからなくて照れちゃうなんてさ」

「な……!」

 絶句したのはヒロだけじゃない。わたしもだ。だけど、わたしたちが反論を口にするより早く、ミーくんは悪戯っぽい笑顔で十円玉に質問した。

「未来のミコに質問です。あなたは過去にヒロとつき合ったことがありますか?」

 きゃあ、と歓声を上げたのはわたし以外の女子ふたりだ。わたしとヒロはあまりのことに目を皿にように丸くするばかりだった。

 そうしている間にも、十円玉はぎぎっと擦れながら動いて、なんと「はい」で止まったのだ。

 きゃあんっ、とまた歓声が上がった。ユッキが興奮した表情で目をきらきら輝かせて、わたしを見てくる。

「やっぱりね。わたしずっと思ってたもん。ヒロくんとミコ、いつも口喧嘩してるけど絶対に好き合ってるって」

「そんなわけない!」

「んなわけあるか!」

 いきなり乙女モードになったユッキに対して、わたしとヒロの反論する声がきれいに重なった。それがますます、ユッキの瞳を輝かせてしまう。

「ほら、いまだって息ぴったりなんだもん。子供のうちは全然考えられなくっても、大人になったら素直になっちゃうのよ、こういうのって。ああ――いいなぁ、幼馴染みって」

 瞼を揺らして自分の世界にうっとり浸るユッキには、いつもの引っ込み思案な面影がどこにもない。まるで別人みたいな態度に、わたしとヒロだけじゃなくてミーくんも面食らっている。ただひとり、アッコだけは「はぁ」と深い溜息を吐いていた。

「ユッキって、この手の話題になると性格変わっちゃうのよねぇ……ほら、落ち着きなよ、どうどう」

「え――あ……ごめんなさい……」

 アッコの声で我に返ったユッキは、わたしたちから向けられる視線に顔を真赤にして項垂れた。照れて茹蛸になっている親友に助け舟を出すようにして、アッコがつぎの質問をする。

「ええと、未来のミコに質問です。二十六歳のわたしやユッキはどうしていますか?」

 ひどく漠然とした質問だったせいか、十円玉はしばらく動かなかった。だけど三十秒ほど待つと、のろのろと滑り出して、五十音のひらがなから『な、か、よ、し』という文字を順に示した。

 アッコとユッキの頬が同時に緩む。照れたような嬉しそうな、見ているこっちがむず痒くなるような笑顔だ。女同士で照れながら互いをちらちら見つめ合う姿は、なぜだかどうして、見てはいけないような気分にさせられた。ヒロは「アホらしい」と鼻で笑っている。ミーくんも苦笑しながら、でもちょっと羨ましそうに目を細めた。

「ふたりは大人になってからもずっと友だちなんだね。ぼくとヒロはどうなんだろう。質問してみようか」

「馬鹿、恥ずかしいから止めろ」

「はいはい」

 慌てて止めたヒロに、ミーくんがくすくす笑う。そんなやりとりを見ているうちに、わたしは質問をひとつ思いついた。

「じゃあ次はわたし。未来のわたしに質問です。二十六歳のヒロは真面目に働いていますか?」

「はあ?」

 ヒロが目を剥いて睨んできたけれど、もう遅い。十円玉はアッコが質問したときより早く動き出す。十円玉は「し」の文字から滑って、「いいえ」に移動した。何ともまあ予想通りだ。

「ヒロはやっぱり大人になっても不真面目なんだ」

 わたしはここぞとばかりに大笑いしてやったのだけど、ヒロは予想以上に憮然とした顔で唇をへの字に結んでいる。

「……?」

 ヒロの苛立った表情に、わたしの笑い声も萎んで消えてしまって、その代わりに疑問符が表情に浮かぶ。わたしはてっきり、ヒロは「おれは真面目に働かなくても十人並みなんだよ」とでも言ってくると思ったのに、ここまで怒るとは予想外だ。

 ヒロは憮然とした顔のまま、わたしたちに鋭い視線をぎろりと走らせながら唸った。

「誰だよ、いま十円玉を動かしたのは」

 その言葉がどんな意味なのか、わたしはすぐに理解できなかった。だけどアッコは、コンマ一秒の早業で理解したらしく、即座に両目を吊り上げて怒鳴り返す。

「ちょっとあんた、それはどういう意味よ!? 動かしたのは、十円玉に宿った未来のミコに決まってるでしょ!!」

「アッコ……おまえ、まさか本気で言ってるんじゃないよな。未来だとか魂だとか、こんな鏡と十円玉で呼べたら、誰も神社でお参りなんかしないっての」

「な――何よ! そんなこと言って、あんただってさっきから質問してるじゃないのよ!」

「本気で質問してるわけないだろ、馬鹿じゃねえ?」

 ヒロはこれ以上ないくらい馬鹿にした顔で笑った。アッコの頬がさっと朱色に膨れ上がったけれど、その表情はすぐに怒りから挑発の笑いに変化した。

「あ、そっか。あんた、二十六歳にもなって無職だって言われて悔しいんだ。図星だと思ったんでしょ。本気でそうなると思ったんでしょ。そうじゃなかったら、いちいち怒ったりしないわよねえ」

「……あんまりうるさいと女でも殴るぞ」

「口で勝てないと暴力? うっわぁ、最低ね」

「おまえさ、本当にいい加減にしろよ」

 ヒロとアッコの間に一触即発の火薬臭い空気が漂う。だけど、わたしの意識は全然違うところに向けられていた。というよりも……どうしてヒロが怒ってしまったのかがわからなくて、ずっと考えていたのだ。

 黙って考えていたのだけど、やっぱりわからない。

「ねえ、ちょっと聞いていい?」

 気になって気になってしかたないので、わたしはいまにも掴み合いの喧嘩を始めそうなふたりの間に割って入った。ふたりとも恐い目でわたしを睨んできたけれど、それは覚悟の上だ。

「あのさ、どうしてヒロが怒ったのかよくわからないんだけど……。だってヒロ、テストの点はいいけれど、授業中はいつも不真面目でしょ。どうして真面目に仕事してないって言われて、そんなに怒るの?」

「……」

「……」

 ふたりとも、わたしを見つめたまま黙り込む。だけど恐い目はしていなくて、むしろ口をぽかんと開けた呆れ顔をしていた。

「――っ」

 ミーくんがいきなり吹き出したかと思ったら大笑いしだした。笑い方まで爽やかなんだけれど……笑われているのは、ひょっとして、わたし?

 どうして自分が笑われているのか見当つかなくて憤慨していると、ミーくんは笑い混じりに説明してくれた。

「たぶん、谷山さんは〝ヒロの仕事態度が真面目かどうか〟という意味の質問をしたんだよね。でもヒロは〝自分が仕事をしているかどうか〟という質問に取ったんだよ。だから、〝いいえ〟という答えが返ってきたら嫌な気分になるし、嘘だって怒ったんだよ」

 丁寧に説明されても、言われたことを飲み込むまでに少しかかった。口一杯に頬張ったご飯を噛まずに飲み込んだときのような気分で、たっぷり十秒ほど頭を全力回転させて、ようやくヒロが怒ったりミーくんが笑ったりした理由が理解できた。

「ああ!」

 理解できたと同時に叫んで、ついでに呆れて、さらに笑ってしまった。ヒロもアッコもまったく、どうしてそんな勘違いをしたのかなあ。それに、そんなことで喧嘩する必要もないだろうに……まったくもう!

 わたしは呆れ顔で息を吸い込むと、まだ睨み合っているふたりに言い聞かせるように大きめの声で質問した。

「未来のわたしにもう一度質問です。ヒロはちゃんと就職しましたか?」

 ヒロが「あ」と間抜けな声を漏らした。四の五の言わずに、さっさとこう質問すれば、話はそれで済むのに。

 十円玉は待っていましたとばかりに、「いいえ」から一歩動いて「はい」の上で止まった。

「よかったね、ヒロ。ちゃんとお勤めしてるんだって」

 これ見よがしににっこり笑ってやると、ヒロはまた仏頂面でそっぽを向いた。でも今度の無言は怒っているからじゃなくて、安心しているからだった。わかりやすいやつ。

 そもそも、ヒロは不真面目だけど要領がいいから、受験や就職で失敗している姿が想像できない。だからこそ、ヒロがこんなふうに勘違いすると思わなかったのだ。

「さて、ヒロ。これ以上何か言うことはあるか――」

 と、わたしが勝ち誇ってヒロを見た瞬間、それまでずっと黙っていたユッキがいきなり「ああ!」と歓喜の叫びを上げた。

「そっか、そういう意味だったんだ。やっとわかったよ! ふたりがいきなり喧嘩を始めちゃうから、わたしもう驚いちゃったよ」

 ユッキがこの上ない笑顔で話すものだから、わたしたちは互いに瞬きしながら顔を見合わせた後、誰からともなく笑い出した。

「え、え?」

 ユッキひとりだけ、いきなり笑い出したわたしたち四人の顔を不思議そうに見まわして唇をタコみたく突き出す。その顔が無性におかしくて、わたしたちはまた笑ってしまうのだった。

 ひとしきり笑って場が和んだところで、ミーくんが、こほん、と空咳をして、わたしたちの視線を十円玉に戻させた。

「せっかく十六年後の未来からやってきてもらったんだし、もうちょっと質問をつづけていいかな?」

 その提案に誰も反対しなかった。ヒロはオカガミサマをあんまり信じていないみたいだったけれど、これ見よがしに反対するほど空気の読めないやつではない。

 異議がないことを確かめたミーくんは、十円玉に向かって質問を再開した。

 ミーくんが未来のわたしに訊ねたのは「そちらでいま流行っているものを教えてください」という、毒にも薬にもならないことだった。まあきっと、わたしたちが質問しやすい空気を作るために、率先して他愛もないことを聞いたのだろう。感心してしまうほど気配りのできる男子だ。

 それからしばらくは、十六年後の流行語を聞いたり、いま人気のアイドルが結婚しているかだとか引退しているかだとかを聞いてミーハーに盛り上がって楽しんだ。小一時間ほど質疑応答を繰り返したところで、ずっと十円玉に指を乗せたままの右手が疲れてきた。そろそろ終わりにしようかという空気が流れたとき、芸能人にほとんど興味がなくて暇そうだったヒロが首をぐいと突きだすようにして質問した。

「おれから質問。二十六才までの経験人数は何人?」

 ――一瞬、場が凍った。

 さっきの言葉は全力で訂正。ヒロは空気が読めない。非常に読めない。究極的に読めない。アッコとミーくんは何のことかわからずに目を瞬かせてきょとんとしているけれど、ユッキは真赤になった顔を俯かせて唇を噛んでいる。

 わたしの顔に浮かんだのは、恥ずかしさでも怒りでもなくて、能面みたいな無表情だった。

「ヒロ……あんた、最低サイテー

 わたしに睨みつけられたヒロは、素知らぬ顔で明後日のほうを見て口笛を吹く真似なんてしている。そんな状況なのにも関わらず、十円玉は最短距離をまっすぐに滑って、一から十まで並んだ数字のうち、「一」の上で止まった。

「え、ひとりだけなんだ……」

 真赤になって恥ずかしがっていたはずのユッキが、意外そうな声でぼそりと呟く。ものすごくプライドを傷つけられた気がして何か言い返そうと思ったのだけど、こんなときに言うべき言葉をわたしは知らなかった。

 わたしが口を金魚みたいにぱくぱくさせているうちに、また変なスイッチが入ってしまったらしいユッキが質問を重ねた。

「そのひとりって野宮くんですか?」

「おい馬鹿!」

 この質問にはヒロも慌てた。わたしをからかって遊ぶつもりだったのに、自分も巻き込まれるとは思っていなかったのだ。わたし同様、ユッキを甘く見ていたらしい。

 今度も十円玉は、五本の人差し指を乗せたまま躊躇いなく動いて、「はい」と答えた。きゃあ、とユッキが桃色の歓声を上げた。

「経験がひとりってことは……それってつまり、ずっと野宮くんとつき合ってる、ということですか?」

 ユッキは止まらず、さらに質問をつづけた。十円玉はすぐさま反応して、今度は「いいえ」を示す。

「え……」

 暴走するユッキを止めようとしていたアッコとミーくんが、唇を小さく開けて目を見合わせる。わたしも文句を言うより、十円玉の返答が気になった。ヒロも同じらしく、何か言いたそうな顔だったけれど黙っている。

 わたしたち四人のそんな反応がまったく目に入っていないらしいユッキは、首を傾げながら質問をつづける。

「それって、つまりその……野宮くんとつき合っていたけど別れちゃって、それ以来ずっとひとり――ということですか?」

 十円玉はすぐに反応したけれど、答えを迷うように小刻みに震えて鏡面をきいきい擦ってからようやく、「はい」で止まった。

「……」

 気まずい沈黙が四人の間に流れる。ユッキを除いた四人だ。ユッキはすっかり自分の世界に浸っていて、さっきから妄想を口から垂れ流しにしている。

「そんな! ふたりはずっと一緒にいたのに――ううん、きっと一緒にいすぎたから上手くいかなかったのね。お互いを知りすぎていたから、ほんのちょっとしたすれ違いが許せなくなってしまったのね」

 自分の妄想で涙ぐんだユッキは、鼻を啜りながらつぎの質問をする。もはや誰も口を挟まなかった。

「未来のミコに質問です。いま、野宮くんとの仲はどうなっていますか?」

 わたしは不覚にも答えが気になって、十円玉を凝視してしまった。十円玉は五十音のひらがなが並んでいる場所に移動して、蛇行するUFOのように四つの文字を踏んだ。

『こ、ろ、し、た』

 ――五人全員が息を飲んだ。ひっと喉の鳴る音が聞こえるくらい痛い沈黙。それにつづいてユッキが「いや!!」と叫び、わたしが弾かれるように手を十円玉から離していた。十円玉が急に、触れているのも気色悪いほど恐いものに思えたのだ。

「あっ、手を離しちゃ――!」

 アッコが咄嗟に叫んだけれど、もう遅い。わたしが勢いよく手を離した反動で、十円玉は残っていた四つの人差し指も跳ね除けて鏡から飛び出し、硬質な音を響かせながら床を転がった。

 十円玉が転がっていく音がきこえていたけれど、誰も拾いにいかなかった。みんな、鏡に人差し指を乗せたまま、呆然としていた。口にださなくとも、わたしを含めたみんなの頭は『こ、ろ、し、た』の四文字で許容量の限界になっていることは一目瞭然だった。いつも冷静なミーくんや、オカガミサマをあまり信じていない様子だったヒロですらも、十円玉を拾って戻すということが咄嗟に考えられないほど驚いていた。

 居心地の悪い沈黙を破ったのは、柄になく弱気なアッコの声だった。

「オカガミサマ、途中で終わらせちゃったね」

「あっ」

 ユッキが両手で口を押さえた。もう十円玉に指を乗せている必要がないから、気兼ねなく両手を使えるわけだ。

「ど、どうしよう。ねえ、どうしよう、アッコ。どうするの? これ、中断したらいけないんでしょ。ちゃんと帰ってもらわなかったら、ミコが……」

 ユッキの両目にじわっと涙が溢れる。でも、泣き出したいのは、わたしのほうだ。

 オカガミサマはコックリさんと同じで、最後に「今日はありがとうございました。もうお帰りくださって結構です」と言って、十円玉が鳥居に戻ってからでないと指を離してはいけない決まりなのだ。そうしないで指を途中で離してしまった場合、やってきた魂は帰れなくなる――つまり、わたしは二十六歳のある日、車に轢かれるか心臓発作を起こすかして突然に死んでしまうことになるのだ。

 ああ、なんだか本当に泣きたくなってきた。べつにオカガミサマを信じて参加していたわけではないけれど、いまの空気はすごい嫌だ。みんなが息を飲んでいて、ユッキがめそめそ泣いている。なんでこんなに重苦しいの? ただ、たまたま放課後の教室に居残った五人で「せっかくだし」と遊び半分で始めただけのことなのに。

 自然と首が俯いてしまう空気の重たさに耐え切れず、誰が言い出すともなく、この集まりは解散になった。帰り道が違うミーくんはひとりで、アッコは泣き止まないユッキを宥めながら帰っていく。わたしは何となくヒロと歩調を合わせて帰宅した。隣同士の自宅に帰りつくまで、わたしもヒロも黙ったままだった。

 その晩は布団に入ってからもなかなか寝つけなかったし、その上、心臓に手を突っ込まれて魂を抜かれる夢まで見た。今日はせっかくの日曜日だというのに、気分はさっぱり盛り上がらなかった。


 雀の世間話が耳に爽やかな日曜日の午前中も、いまのわたしにとっては灰色だ。二階の自室で問題集とノートを広げた勉強机に向かってはみたものの、広げたノートのページは白紙のままで一向にペンが動かない。

 一晩明けてもまだ頭の中がぐるぐるする。昨日のオカガミサマが気になって、他に何も考えられない。いっそのこと外出して、本当に何も考えられなくなるまで全力疾走でもしようか――などと、まったく実行する気のないことを考えていたら、窓の外から物音が聞こえてきた。瓦屋根を歩いてこっちに近づいてくる足音だ。

 わたしはべつに振り向きもしなかった。隣家の二階から屋根伝いにやってくる相手なんて、ヒロ以外にいないからだ。

「よう。何やってるんだ?」

 鍵のかかっていない窓を開けて入ってきたヒロは、窓枠に腰かけたまま、持参した濡れ雑巾で足の裏を拭きつつ声をかけてきた。何度言っても窓からの訪問を止めないから、せめて部屋に入る前に足を拭けというのだけは守らせている。

「ヒロ、何の用? いま、あんたの相手をする気力、ないんだけど」

 わたしが机に頬杖をついたまま横目で睨みつけると、ヒロはそれには答えず、一方的に切り出してくる。

「おまえさ、十円玉が勝手に動いていたって本当に思っているのか?」

 ヒロは窓枠に腰かけて拭き終った両足をぶらぶらさせたまま、珍しいものを見る目でこれ見よがしに笑った。

 わたしは不安を隠しているつもりだったに、ヒロには通じていないようだ。気づかない振りをする気づかいをヒロに求めたところで溜息の材料が増えるだけだから、この際、そこは気にしないことにする。しかしムカつく笑い方だ。

「馬鹿だな、ミコ。あんなの誰かがずるして十円玉を動かしていたに決まってるじゃん。それかほら、指の震えが伝わって十円玉のほうが勝手に動いたみたく感じる、ってテレビでもやってたぞ」

「……ヒロこそ本当に、わたしたちの誰かがばれないように十円玉を動かしていたって思うの? 指が震えたくらいで、あんなに動くと思ってるの?」

「う――」

 ヒロはわかりやすいほど唇を尖らせて言い淀んだ。

 昨日のオカガミサマで動いていた十円玉は、間違いなく指の震えなんかのせいではなかった。それに、誰かがわざと動かしたようにも思えない。わたしもヒロも、オカガミサマをしたのは昨日が初めてだから、絶対に誰かがわざと動かしたりしていなかったのだ、とは言いきれない。だけど、誰かが面白半分でやったにしては、最後の『ころした』はやりすぎだろう。

「何だったんだろうな、結局」

 ヒロの呟きはわたしの気持ちを代弁していた。わたしとヒロ以外の三人――ミーくん、アッコ、ユッキのうち誰かが意図的に十円玉を動かしていたのだとしたら、性質が悪いけれど冗談で済ませられる。だけどもし、わたしたちの誰でもない何かが十円玉を動かしていたら……。

 背筋に寒気が走った。

 もし本当に二十六歳のわたしが鏡の中からやってきて十円玉に宿っていたとしたら、わたしはヒロを殺した後、二十六歳で死ぬという未来が待っていることになる。考えただけで頭が重くなって、何度頭を振っても重さを振り払えなかった。

 わたしは今度こそ、顔に出た不安を隠しきれなかった。

「おいおい、ミコ。そんな顔しちゃって本気で怖がってるんじゃないよな? 実際、途中まではみんなで悪戯していたわけだし、最後のだって上山があんまりうるさいから、ミーか安藤が冗談のつもりでやったんだろよ」

「え……途中までは、みんなで……?」

 わたしが反射的に聞き返したら、ヒロは「しまった」という顔で口を噤んだ。だけど、いまさらそんな顔をしても遅い。

「どういうことよ、みんなで悪戯してたって。ちゃんと話しなさい!」

「わっ、わかったから襟を放せって」

 掴み上げていた襟首を突き飛ばすようにして放してやると、ヒロはわざとらしく鼻息を荒げながら、普段は気にしてもいない襟元を正す。そうやって無意味に勿体つけてから、「確認したわけじゃないけど、たぶんな」と前置きをして話し始めた。

「何回目かの質問で上山が〝そちらで流行っているダイエット法は何ですか?〟って聞いただろ。で、それに対する答えが〝納豆〟だったよな?」

「うん」

「あれな、おれが十円玉を動かして答えたんだ」

「ええ!?」

「上山ってたしか納豆が嫌いだっただろ。だから、からかってやろうと思ってさ」

「……」

「あ、一応言っておくけど、たぶんミーや安藤もやってたぜ。つまり、誰かが質問したことに対して面白い答えを考えついたやつが、それとなく十円玉を動かしていたんだろうぜ。てっきりミコもやってると思ってたんだけど、本気で十円玉が勝手に動いてると思ってたんだな」

 ヒロはわざとらしく笑ったけれど、わたしに食ってかかる元気はなかった。言われてみれば確かに、未来の魂なんて与太話を信じるよりも、誰かの悪戯だったと考えるほうがずっと当たり前だ。むしろ、どうして「誰かの悪戯だとは考えられない」なんて思っていたのか、自分でも不思議でしかたがない。

 わたしの心が読めるんじゃないかと疑ってしまうタイミングで、ヒロがまた口を開く。

「たぶん、最後の〝ころした〟ってのが印象強すぎたんだな。最後の答えが冗談にしてはきつすぎたから、それ以前の冗談ばっかりだった質問まで、本当に未来の魂が答えたみたいに錯覚しちゃったんだろうよ」

 何とも冷静な解説だ。わたしが本気で眠れなくなるほど悩んでいたことを「錯覚」の一言で済まされたのは気分がいいものではなかったけれど、まあ許せる。

「じゃあ、つまり結局、ヒロはあの『こ、ろ、し、た』というのは三人のうち誰かがわざとやったことだって言うのね」

「……う、ん」

 途端にヒロの声も歯切れが悪くなった。そうなのだ、問題はそこ、最後の返答なのだ。

 もうこの際、途中の質問に対する答えについては、ヒロやアッコ、ミーくんが十円玉を動かして遊んでいたということで納得してもいい。ユッキについては、そういう悪戯をするよりも、されるキャラだ。終始驚いたり笑ったりしていたし、本気で信じていたような気がする。

 問題は最後の質問についての答えだ。

 わたしたち五人の内の誰かが、「十六年後、わたしとヒロの仲はどうなっていますか?」という問いに対して「殺した」と答えたことになると、それは本当に未来の魂が十円玉に宿っていたという考えと同じくらい、気持ちが悪いことだった。アッコ、ミーくん、ユッキの中に「わたしがヒロを殺すことになる」という未来を暗示する答えを創作しただなんて、やっぱり考えたくない。いま頃、三人の内の誰かが、わたしの怯えている姿を想像して笑っているかもしれないと思うと、泣きたくなる。友だちにからかわれていることにではなく、友だちを疑っている自分自身に、だ。

 ヒロがわたしの表情を窺うようにしながら唇を動かす。

「あの三人の内で、あんな面白くもない返事を考えそうなやつというと――安藤か?」

「……」

 わたしは何も答えられなかった。さっきはわたしの心を読んでいたみたいだったのに、空気が決定的に読めていない。少しは察して言葉を慎むとかできないのか、この男は。

 でも考えたくはないけれど、三人の中の誰か、と考えると――どうしても消去法でアッコが最後まで残ってしまう。ミーくんは大人顔負けに空気の読める男子だし、ユッキは少女漫画的な話になると見境がなくなるみたいだけど、悪戯をしかけるよりも、しかけられる側だ。となると、ちょっと押しの強いところがあるアッコの顔が最後まで残ってしまうのだ。

「でも、いくらアッコでも、あそこまで直接的な言葉は出さないと思う。殺した、だなんて……」

「あ、そうか。きっとこういうことだったんだ」

 ヒロが右手のグーで左手のパーを殴って、いきなり大笑いした。

「こういうことって、どういうことよ」

「だからさ、アッコは『ころした』の後にもっと言葉をつづけるつもりだったんだよ。でもミコが指を離しちゃったせいで、殺した、で終わっちゃったんだよ」

「なによ、それ。まるでわたしが悪いみたいな言い方じゃない」

 ヒロの言ったことに内心で頷きながら、それでも顔に浮かんだのは苛立ちの表情だった。

「そんなふうに言うんだったら、ヒロは『ころした』の後にどんな言葉がつづいたと思ってるのか言ってみてよ、ほら」

「そうだな……」

 ヒロは親指と人差し指で顎を撫でながら考え込んだ。「ころした、ころした……」と呟いていて、傍から見ている人がいたら驚いたことだろう。わたしも一緒になって考えてみたけれど、さっぱり思いつかなかった。それによくよく思い出してみると、あのとき十円玉は『ころした』の「た」で止まったはずだ。「た」よりまだ先があると思えなかったからこそ、わたしは驚いてしまったのだ。それをヒロはまるで、わたしが早合点したから悪いみたいな言い方をして……ああ、やっぱり「ころした」の後になんて何もつづかないような気がする。

「あっ、こういうのはどうだ?」

 ヒロが指をぱちんと鳴らす。

「アッコは『ころした……なんてうそ』って、つづけようとしてたんだよ」

 わたしは少しだけ吟味してから、「なるほど」と頷いた。たしかにそれなら、「た」で一度止まったのも納得できる。だけど何だか嘘っぽい。

「ヒロの言う通りだとしても、そんないかにも演技っぽいことをしたら、嘘だってバレバレになるんじゃない?」

「それは――そうだよ。ほら、安藤は自分以外にも十円玉を動かしているやつがいることを知っていたんだから、演技だってばれてもいいと考えていたんだ」

「それは違うと思うな」

 わたしの知っているアッコは、みんなに演技だとばれている状況でなお演技をつづけるような性格ではない。たとえば怪談をしているときだったら、誰かひとりだけでも最後まで怖がってくれないとモチベーションがつづかない性格だ。少なくともユッキが信じ込んでいたのだから、種明かしをしようとは考えなかったと思う。

 ユッキは本当に未来の魂がやってきて十円玉を動かしているのだと信じていた。そしてアッコは、ユッキに「じつはわたしが動かしていたのよ」と暴露するつもりなんてなかった。つまり、『ころした』の後に文字をつづけようとはしていなかったのだ。

 わたしはこの推理をヒロにも聞かせると、ヒロはちょっとの間だけ黙考したけれど、すぐにオーバーアクションで肩をすくめて頭を振った。

「それは論理の飛躍ってやつだろ。安藤はもうオカガミサマに飽きていたから、べつに上山に真相がばれてもよかったと考えていたのかもしれないし」

「でもさあ、やっぱり変よ。『ころした』で止めた後にまた動かすつもりだったにしては、あれは時間をかけすぎだったと思う」

「そうだったか? べつにおまえが十円玉を弾いたりしなければ、時間をかけすぎだった、なんてこともなかったと思うぜ」

「う……でも、それでもやっぱり、なんだか変な気がするんだってば!」

「そんな、気がするってだけで反論されてもなあ。第一さ、安藤がやったんじゃなくて、上山がオカガミサマを本気で信じてるんだとすると、もうミーがやったとしか考えられないんだぜ。おまえ、ミーがあんな下らないことをしたと思ってるのか?」

「う……でも、それを言ったら、アッコだってあんなこと言わないよ」

「じゃあ消去法で上山か?」

「それも違うと思う。っていうか、消去法で考えるのがおかしいんだよ」

 ほとんど売り言葉に買い言葉で飛び出した言葉だったけれど、それがわたしの結論だった。

 わたしたち五人の中に、十円玉を動かして『ころした』と言わせた犯人はいない。真犯人はあの場に居合わせていて、かつ、わたしたち五人以外の誰か――だ。

「……おい、ミコ。おまえまさか、この期に及んで本当の本気で、未来のおまえが十円玉を動かしていた、なんて考えてるんじゃないよな」

 それは語尾の上がる疑問形ではなく、念を押す口調だった。

 わたしは首を縦にも横にも振ることができず、ただじっとヒロを見つめ返した。ヒロの喉仏がひくりと揺れるのが見えた。

「違うって言いたいのなら言いなさいよ」

 思わず語気を強くしたけれど、ヒロは何も言わなかった。

 何だかんだ言って、ヒロだって「未来の魂が本当に呼びだされた」という可能性を否定できないのだ。ううん、否定できないからこそ、わたしに考えさせて「そんなのありえない」って否定させたかったのかも。

 でも、オカガミサマが本当だという可能性を否定するのは、三人のことを疑うということだ。どっちが真相だとしても、嫌なことには変わりない。

「……あれ?」

 わたしは大事なことを忘れているような気がした。何かひとつ、とっても大事なことを考え忘れているような歯痒い感覚だ。ううん、大事なことではなくて、当たり前すぎて眼中になかったこと――。

「あ――!」

 ヒロだ、忘れていたのは。

 わたしでもミーくんでもアッコやユッキでも、もちろん二十六歳のわたしでもないとしたら、残っているのはヒロしかいないじゃないか。面と向かって話している相手だったから、ついうっかり考えから抜け落ちていたのだ。

 わたしの視線にヒロは一瞬たじろいだけれど、すぐに意味を察したらしい。こういうときの勘は本当に鋭い。

「ミコ……おまえさ、おれのこと疑ってる目をしてないか?」

「あらぁ、そんなことないんだけど。そんなふうに見えちゃうのって、心に疚しいところがあるからじゃない?」

「疚しいところがあるのはミコのほうなんじゃねえの? まさか最後の最後で、おれへの殺人予告をするなんてさぁ」

「ふぅん。ヒロはわたしが自作自演で驚いた振りをしているって言いたいんだ」

「他にどう言ってるように聞こえるんだよ」

「……」

「……」

 もうこれ以上、お互いに話すようなことはなかった。

 ヒロは最後にわたしをひと睨みすると、きたときと同じく、窓枠を跨いで屋根伝いに帰っていった。ヒロとわたしが隣同士に住んでいる幼馴染みだということを嫌でも意識させられる往復方法だった。ヒロはいつになったら屋根から屋根に飛び移る猿みたいな真似を止めてくれるのだろう。まさか中学生になってもつづけるつもりじゃないよね?


 ヒロが帰っていったからといって、集中力が戻ってきたりはしなかった。開いたままのノートには、気がつくと五十音のひらがなや横棒と縦棒を二本ずつ組みあわせた鳥居が落書きされていて、慌てて消しゴムをかけては、また頬杖をついたまま鉛筆をぐちゃぐちゃ動かして落書きをして――の連続だった。

「これじゃ駄目だ!」

 わたしは椅子を後方に蹴飛ばす勢いで立ち上がった。このまま座っていてもどうせさっぱり捗らないのは目に見えている。お昼ご飯までにまだ時間もあるし、散歩でもして気分転換してこよう。

 階段を下りて玄関に向かう途中、茶の間でテレビを観ていたお母さんに声をかける。

「母さん。ちょっと外に出てくるけど、買いものとかある?」

 出かける報告ついでにそう尋ねると、母さんは居間のテレビに向かって座ったまま首だけをこちらにめぐらせた。

「蛍光灯の買い置きが切れてたのよ。お金はそこの財布に入っているから、適当に持っていってちょうだい。あ、蛍光灯の長さ、間違えないように注意してね」

「うん、わかった」

 相変わらず無用心だなと思いながら、卓袱台に出しっぱなしの財布からお金を取った。お札一枚あれば、十分にお釣りがくるだろう。

「それじゃ、行ってきます。お昼には帰ってくるから」

「はあい」

 茶の間からの間延びした声に見送られて家を出た。

 さて、気分転換したくて外に出たわけなのだけど、外に出たからといって、重苦しい頭がただちにすっきり爽快になったりはしない。

 千切れ雲の流れる青空はやはり灰色のセロファンを被せたみたいに見えたし、歩くリズムに合わせて頭に浮かんでくるのは昨日のオカガミサマのことばかりだ。

 最後のあれは本当に未来のわたしが答えたのだろうか。どうしてわたしはヒロを殺してしまったのだろうか。わたしとヒロはどっちから告白してつき合い始めるのだろうか。つき合うっていうのは、いまの関係とどう変わるんだろう。どうして別れてしまったんだろう、どうして殺してしまったんだろう――。

 どれだけ忘れようとしても、気がつくとオカガミサマの答えたことについて考えている自分がいる。散歩して脳内の空気を入れ替えれば何とかなると思ったのだけど、見事なまでに失敗だった。

 考えごとをしながら、わたしの足は駅前に向かっていた。べつに駅前まで歩かなくとも近所に電気屋はあるのだけど、歩いていたらいつの間にか駅前まできてしまっていただけだ。

 よく晴れた日曜日ともなると、駅前の商店街は笑顔の人々で賑っている。わたしのように浮かない顔をした子供がひとりで歩いているのは場違いな気がして、自然と首が項垂れてしまう。

 そうやってアスファルトを見下ろしながらとぼとぼ歩いていると、ふいに前方から聞き覚えのある声をかけられた。

「あら、ミコちゃん?」

「あ……水面さん」

 正面から歩いてきたのは細身で黒髪の似合う和風美人、水面さんだ。今日はワイシャツに細身の八分丈ジーンズ、踵の低いサンダルという見るからに普段着姿だったけれど、まったく野暮ったく見えないのが羨ましい。

「どうも、こんにちは。今日は定食屋さん、お休みなんですか?」

 わたしはぺこりとお辞儀して、小さな疑問を口にした。水面さんは定食屋さんでウェイトレスをしていたから、日曜日でも仕事があるのではないかと思って聞いたのだけど、不躾な質問だったかもしれない。

 だけど水面さんは、わたしの心配を他所に、笑顔で頷いて答えてくれた。

「うん、定休日ではないんだけど、うちのお店は勤め人のお客さんがほとんどだから、日曜日はそんなに混まないのよ。だから、お店はやっているけれど、わたしはお休みをもらっているというわけよ」

「へえ、よかったですね」

 わたしが無邪気にそう言うと、水面さんは苦笑いして小さく肩をすくめた。

「まあ、半分は嬉しい、かな。このお休みは、ボーナスを現物支給する一環なのよ。つまり、お休みは多目になるけれどボーナスはなし、ということ」

「……はあ」

 水面さんは笑い話みたく話したけれど、はたして一緒に笑うところなのか残念がるところなのかがわからなかったので、曖昧な顔で首を傾げるみたいに頷いておいた。

 そこで一瞬、会話が途切れた。そのとき、頭の中でぱっと電気が弾けた。

 そうだ、水面さんだったら、オカガミサマのことで相談に乗ってくれるかもしれない。少なくとも最初から笑い飛ばしたりしないで、真剣に聞いてくれるに違いない。もしかしたら、わたしやヒロでは到底思いつかないような、すごい解決方法を教えてくれるかもしれない!

 水面さんに相談するという閃きはこれ以上ないくらい素晴らしい発想だ――きっと表情に出るくらい自分自身の思いつきを褒め称えていたのだろう。わたしが相談を持ちかけるより先に、水面さんのほうから話を切り出してきた。

「何だか心ここにあらずという感じだけど、ひょっとして、わたしに相談したい悩みごとでもあるのかしら?」

「え、あ――はい!」

 ずばり言い当てられて思わず仰け反りながら、仔犬の尻尾みたいに首をぶんぶん頷かせた。返事してから、水面さんの休日を邪魔してしまっているのではないかと気になった。だけど水面さんは本当にわたしの心が読めているかのように、唇の両端をほんのり揺らして微笑んだ。

「わたしなんかでよかったら、喜んで相談に乗らせてもらうわ。でも、ここで立ち話は足が疲れそうだし、そこで食事しながらでもいいかしら?」

 水面さんは通り沿いのすぐそこに見えている喫茶店を顎で指して、朝ご飯がまだなのよ、と笑窪を見せて子供っぽく笑った。

 喫茶店に場所を移すと、わたしは水面さんじゃなかったら到底打ち明けられないような馬鹿らしい悩みを聞いてもらった。

「……」

 わたしが昨日の放課後にあったことを話し終えると、水面さんは満足そうな溜息を漏らした。べつにわたしが二十六歳で死ぬと予言されたことが嬉しいわけではなくて、単純に満腹したからだ。

 窓際の席に向い合って座るわたしと水面さんとで挟んでいるテーブルの上には、空いた皿がいくつも並んでいる。わたしの手元にあるのはミルクティーひとつだけで、残りの皿は全部、水面さんのだ。水面さんがきれいに平らげた皿には、三段重ねでレタスやカツを挟んだハンバーガーのお化けみたいなホットケーキが乗っていた。あれだけあった食べものが細く括れたウェストに収まるなんて、食べるところを目の当りにしていても信じられない。

「話、ちゃんと聞いてくれてました?」

 デラックストリプルホットケーキバーガーの最後のひと切れを飲み込んで満足顔をしながらコーヒーを口に運んでいる水面さんを見ていたら、ついそんな失礼なことを言ってしまった。

 慌てて口を閉じたけれど、水面さんはまったく気にしていない様子で食後のコーヒーをこくりと喉に送ってから、にこりと微笑む。

「大丈夫、ちゃんと聞いていたわ。ミコちゃんはヒロくんたち五人とコックリさん――じゃなくて、オカガミサマをしたのよね。そうしたら、ミコちゃんがヒロくんを殺したというお答えがあって、驚いたミコちゃんは十円玉を落としてしまった……で、いいのよね」

「はい」

 わたしは頷いた。

「……」

「……」

 沈黙の代わりに、店内にずっと流れている音量低目のジャズが耳に入ってくる。耳の奥が痛くなる感覚に堪え切れず、わたしが先に声を発した。

「それでその、わたし、何だか気になっちゃって……でもやっぱり心配のしすぎですよね」

「さあ、どうかしら」

 水面さんは意味ありげに微笑してコーヒーカップをソーサーに戻すと、テーブルの上に両肘をついて組んだ両手に顎を乗せ、わたしをじっと見つめてきた。

「ミコちゃんの心配が当たっているかどうかを確かめる最高の方法、教えてあげましょうか?」

「本当ですか!?」

 目を丸くして叫んでしまった。それが期待どおりの反応だったのか、水面さんは悪戯っぽく微笑しながら唇を動かす。

「とっても簡単よ。十六年待てばいいの。そうしたら、当たっていたかどうか、百パーセントわかるわ」

「……」

 落胆したついでにちょっぴりムカッときた。水面さんだったらそういう馬鹿にした態度をしないと思ったからこそ相談したのに。

 そんな思いが顔に出ていたみたいで、くすくす笑いをしていた水面さんはこほんと咳払いをして笑いを飲み込む。

「ごめんなさい。こう言ったらミコちゃんはどんな顔するか、見てみたくなっちゃったのよ。ごめんね」

「……そういうぶりっ子、似合わないですよ」

 謝られてもまだ少し怒っていたから、お返しにそう言ってみた。そうしたら水面さん、アヒルみたいに唇を尖らせるものだから、わたしも怒っていられなくなって笑ってしまった。

 わたしの笑い声に誘われたのか、水面さんも小さな鈴を転がすみたいに笑い出す。天辺に上りかけた日差しの降り注ぐ窓辺で、わたしと水面さんはしばし笑い合った。何とも健全な雰囲気に、気持ちが和らぐのを実感できた。笑う門には福きたる、という諺は案外本当だ。

「――さて」

 空気が暖かくなったところで、水面さんは最後に大きく傾けて飲み干したコーヒーカップをソーサーに戻すと、ゆっくり立ち上がった。

「それじゃあ、行きましょうか」

「行くって……どこへ?」

 座ったまま見上げて問うと、水面さんはさも当然のことを質問されて面食らったかのように大きく瞬きしてから、ぴっと人差し指を立てて悪戯っぽく笑った。

「もちろん、小学校よ。ミコちゃんの教室にお邪魔するの」

「どうして?」

「決まってるじゃない。もう一度、オカガミサマをするのよ」

「ええ!?」

 叫んでから、ここが他のお客さんもいる喫茶店だということを思い出し、わたしは慌てて両手で口を塞いだ。水面さんはそんなわたしの様子に声を立てないで微笑むと、立てた人差し指を左右に揺らしながら先をつづけた。

「これからミコちゃんの教室に行って、オカガミサマをするの。昨日の状況をできるかぎり再現してみるわけね。これから向かえば時間帯もちょうどよく再現できそうだし――それでまた十円玉が勝手に動き出したら、オカガミサマは本物ということね」

 昨日の再現だなんて、まったく予想外の提案だった。もしまた昨日と同じことが起きたら……と思うと、すぐさま賛成することはできなかった。

「あ、でも、オカガミサマは最低三人じゃないとできないって……」

「あら、そうなの? だったら、ヒロくんも誘いましょう。どっちにしろ、ミコちゃんは一度お家に戻らないと駄目でしょうし、ちょうどいいわ」

 わたしの控えめな反論はあっさり片づけられてしまった。たぶんヒロは、水面さんも一緒だとわかったら即座に全面賛成するに決まっている。水面さんは自分の案にすっかり乗り気のようだし、もう逃げられそうにない。

 ……って、よく考えてみたら、逃げることもないのだ。再現してみて十円玉が動かなかったら、昨日のはやはりミーくんかアッコの悪戯だったと判明する。それはそれで後味のよくない結末だけど、安心はできる。

「――わかりました。ヒロはたぶん家でテレビゲームしてると思うので、誘ってみますね」

 わたしがそう言うと、水面さんは楽しそうに両手を叩いた。

「そうと決まったら早く行きましょう」

 言うが早いか、水面さんは伝票を摘み上げて、レジへと歩いていった。

 わたしはミルクティーを奢ってもらったお礼を述べて、一度水面さんと別れた。きっとお母さんが昼食を用意して待っているはずだから、家でお昼を食べてからヒロを誘って三十分後に学校の校門前で待ちあわせましょうと約束した。蛍光灯を買って帰るのも忘れなかった。

 わたしの予想通り、ヒロは自分の部屋でテレビゲームに熱中していた。わたしが部屋の窓越しに声をかけると、話に水面さんの名前が出た途端、ヒロはコントローラーを放りだして玄関に駆け下りていった。


 日曜日の学校は正門も昇降口も鍵がかけられていて人気がない。だけど裏門には鍵がないし通用口も開いているから、職員室か用務員室にいけば大人がいるのだろう。わたしたちは休日だけど、日曜日に働いている大人の人もいるのだと実感する。

 通用門で靴を脱いで校舎に入ったわたしたち三人はまず昇降口に向かい、わたしとヒロは上履きに、水面さんは来客用のスリッパに履き替えた。

 三階にある四年二組――わたしたちの教室に向かうまでの間、誰とも会わなかった。週に六日は何往復もしている廊下なのに、人気のない廊下を歩いていると、まったく知らない場所に迷い込んでしまったような気がしてくる。

「おおい、ミコ。どこまで行くんだよ」

 背中にヒロの声が当たって、いつの間にか教室を通り過ぎていたことに気づいた。

「何をぼんやりしてんだよ」

 ヒロが馬鹿にした顔で笑ってきたけれど無視して教室に入った。いつもがらがら騒がしい引き戸をできるだけ静かに開けると、誰も座っていない椅子と机が目に飛び込んでくる。いつもとおなじ教室のはずなのに、なんだか違って見える。空気の匂いが違うというのか、なんだか違うのだ。わたしが鼻先に感じたその違いに立ち止まっている脇をヒロがすり抜けていく。

「何でそこで立ち止まるんだよ」

「……何でもない」

 横目に変な顔をするヒロに、わたしは恥ずかしさを隠してぶっきらぼうに言い捨てる。ヒロに話しかけられたら、一瞬感じた奇妙な空気はどこにもなくなっていた。そういえば、空気に匂いなんてあるのだろうか。

 教室の後ろには、銭湯の脱衣所にある棚みたいに間仕切りで区切られた棚が据えられている。ちなみに棚の上には、いつぞやお化け屋敷からもち帰ってきたお姫さま人形がピンクのふりふりドレスを着てちょこんと座っていたりする。

 ヒロはアッコの棚にまっすぐ向かうと、まったく遠慮のない手つきでアッコの私物を探った。そしてすぐに目的のもの――五十音のひらがなや鳥居の絵が描かれた鏡を見つけた。アッコはオカガミサマで使う鏡を学校に常備しているのだった。

 ヒロは棚から持ってきた鏡をアッコの机に置くと、ポケットからとりだした十円玉をその上に載せて、じつに嬉しそうな顔で水面さんに話しかけた。

「準備完了です。こんなふうに、十円玉に人差し指を乗せてください」

「わかったわ」

 水面さんが言われたとおりに人差し指を伸ばすと、細くてしなやかな指先が十円玉の上でヒロの指先と触れた。その瞬間、ヒロの頬が真夏に放置したアイスみたいにだらしなく緩んだ。見ていたわたしの腕にぶわっと鳥肌が立つくらい間抜けでイヤらしい顔だ。

「オヤジか、あんたは!」

 わたしの呻き声も耳に届いてないみたいで、ヒロはでれでれ笑いで人差し指に全身系を集中させている。馬鹿だ。こいつは正真正銘の馬鹿だ。

「ミコちゃんもほら、指を乗せて」

「はあ」

 水面さんはヒロの顔に気づいていないのか、それとも気づいていながら大人の余裕で受け流しているのか、早く始めましょう、と催促してきた。

 わたしが十円玉に指を乗せると、これで本当に準備完了だ。

「この後どうするのかしら?」

「呪文を唱えてオカガミサマを呼ぶんですよ。ええと……ミコ、呪文ってどういうんだっけ?」

「昨日の今日でもう覚えてないの? まったく――」

 いったん言葉を切って軽く息を吸うと、わたしは耳にしっかり残っている呪文を口にした。

「オカガミサマ、オカガミサマ。どうか未来の姿をお映しください。と、これをみんなで揃えて言うんです」

「なるほどね。それじゃあ、言うわよ――オカガミサマ、オカガミサマ。どうか未来の姿をお映しください」

 水面さんがいきなり始めたから、わたしとヒロも慌てて口早に呪文を唱えた。

 ……十円玉は動かない。

「動くまで呪文を唱えるんです。普通は三回目くらいで動きだすとか言ってたかな」

 アッコが昨日、オカガミサマを始める際に言っていたように記憶している。わたしの言葉に水面さんは「じゃあ」ともう一度息を吸う。

「オカガミサマ、オカガミサマ。どうか未来の姿をお映しください」

 今度はわたしとヒロもタイミングぴったりだった。けれど十円玉はぴくりともしない。三本の指を乗せたまま沈黙している。

「普通は三回以上、呪文を唱えるんだったわね。はい、もう一度」

 水面さんは幼稚園の先生みたいに元気よく、三度目の呪文を声にした。だけどもやはり、十円玉はまったく答えてくれなかった。

 わたしたちはそれからさらに五回、この呪文をくり返したのだけど、十円玉は鳥居のマークに居座ったまま動きだしてはくれなかった。

「ほら、やっぱり未来の魂がやってくるなんて嘘っぱちだったんだよ」

 ヒロが、そらみたことか、とばかりに笑う。

「じゃあやっぱり、あれはヒロの仕業だったのね」

 わたしが言い返すと、ヒロは笑い顔を崩さずにしゃあしゃあと言ってくれた。

「もちろん、ミコの自作自演だった可能性も強くなったわけだな」

「……」

「……」

 睨み合ううわたしとヒロ。その横合いから滑り込むようにして耳に入ってきたのは、水面さんの涼やかな笑い声だった。

「ふたりとも本当に仲良しで羨ましいわ。わたしもこんな幼馴染みがいたら楽しかっただろうな」

「楽しくなんてないですよ」

 と、大声でヒロが否定してから、水面さんにしか向けない爽やか少年の笑顔でこう先をつづけた。

「でも、水面さんみたいに素敵な女性と幼馴染みだったら、その幸運にきっと毎日感謝しただろうな」

「あらあら、お世辞が上手なのね」

 水面さんが左手で口元を隠すように微笑する。ヒロも「お世辞なんかじゃありませんよ」と爽やかに笑っている。ふたりとも右手の人差し指は十円玉に乗ったままだから、ものすごく滑稽な絵だ。

 ふたりの指だけではなくて、わたしの指もまだ十円玉に乗っている。未来の魂をやってきた気配がさっぱりしなくとも、まっさきに指を離すのは躊躇われるのだ。ヒロと水面さんもおなじ気持ちなのだろうか。

 そんなことをぼんやり思いながら視線を十円玉に向けているときだった。

「きゃっ!」

 わたしは何よりもまず、小さく叫んでいた。わたしの悲鳴とほぼ同時に、ヒロと水面さんも驚いた顔をする。わたしの悲鳴に驚いたからではなくて、人差し指の下で十円玉が身震いするように動いたのを感じたからだ。

 三組の視線が、鏡に描かれた鳥居の上に止まる十円玉に注がれる。身震いを始めた十円玉は、注がれる三本の視線から逃げるようにして動き出した。

「おい、ミコ。おまえが動かしてるんだろ」

 ヒロの顔は笑ったままだったけれど、唇の端は不自然に震えている。わたしも似たような顔をしていたかもしれない。

「違うわよ。ヒロこそ、そんなこと言って、あんたが自分で十円玉を動かしてるんじゃないの?」

「そんな馬鹿なことしてねえよ」

 となると――わたしとヒロの視線は自然、水面さんに吸い寄せられる。水面さんは小刻みに震える十円玉を感歎の吐息混じりに見つめていたけれど、わたしたちの視線に気づいて顔を上げる。

「……あら? ひょっとして、わたしが動かしてるように思っていない?」

「いえ、そんなわけじゃ」

 わたしが口ごもると、水面さんは唇に柔らかな弧を描いて悪戯っぽく微笑んだ。

「そうよ……って答えたほうがいいのかしら?」

 肩から力が抜けたと思ったら時間差で否定されて、安堵の溜息を急に飲み込まされた喉が痞えそうになった。それでも人差し指はしっかりと十円玉を押さえていたのだけど、そのときなんと、十円玉が勝手に動いた。

「きゃっ」

 慌てて体勢をなおして天井を映している鏡面を覗き込むと、十円玉はまるでそう滑るように計算されていたかのごとく、「はい」の上に止まっていた。それがまるで、十円玉が「はい、わたしが自分で動きました」と意思表示しているように思えて、背筋に寒気が走った。

 昨日のあれは誰かの悪戯だって証明されなければならないのだ。そうでなかったら、わたしもヒロも二十六歳までに死んでしまうことが運命と決まってしまう。わたしはヒロを殺したくなんてないし、事故死も心臓発作も絶対に嫌だ。

「ヒロ、いまのはあんたが動かしたんでしょ!?」

 怒鳴りつけるように、というか怒鳴りつけると、ヒロはさすがに面食らって背伸びするみたいに軽く仰け反った。だけどすぐ、人の気も知らないで怒鳴り返してくる。

「動かしてないって言ってるだろ!」

 また不毛な口喧嘩になりそうだったけれど、それを止めたのは水面さんのよく通る声だった。

「動かしたのは誰でもないわ」

「――!」

 水面さんの涼やかな声が告げたのは、いちばんききたくない答えだった。それがヒロの口からでた言葉だったら即座に嘘だと言いきれるのに、水面さんが言うと本当にしか聞こえなくなる。水面さんの口元には楽しげな微笑が浮かんでいるけれど、冗談を言っているようには見えなかった。

 突然、水面さんの顔が歪んだ。わたしの両目に涙が溜まったせいだった。

「大丈夫よ、泣かなくても」

 水面さんは優しげに目を細めて先をつづけた。

「いま十円玉を動かしたのは、わたしでもヒロくんでもミコちゃんでも、もちろん未来の魂でもないわ。そうね、わかりやすく言うと――指が勝手に動いちゃったのよ」

「……?」

 首を傾げるわたしとヒロを交互に見やって、水面さんは言葉を探すように唇を湿らせながら説明してくれた。

「わたしも知りあいから話を聞いたことがあるだけなのだけど、たしか自動運動とか不覚運動というのだったかしら。ほら、ふたりともずっと気をつけの姿勢で立っていて足が疲れて震えたりした経験、ない?」

「あります」

 わたしは自由なほうの手で涙を拭いながら頷いた。ヒロがちょっと考えるような顔をしたのは、こいつが全校朝礼のときいつも、休めの姿勢でふらふら傾きながら立っているからだ。

 水面さんはさらにつづける

「それから緊張するとやっぱり震えるでしょ。そんなふうに、筋肉って意識していなくても勝手に動いてしまうことがよくあるのよ。例えば、人差し指を十円玉から離してはいけない、と脅されている心理状態で手首を浮かした不自然な体勢をずっと保っていなくちゃならないときなんか、とくにね」

「あ……」

 わたしはぽかんと口を開けていまの説明にものすごく納得した。だけどヒロは違ったみたいで、水面さんに対して珍しく反対するような意見を述べた。

「でも、水面お姉さん。さっき動いたのはそれで納得できるんですけど、昨日のはもっと思いっきり動きまわってたんです。指の震えだけであんなに動いていたっていうのは、ちょっと……」

 今度はヒロの言い分に納得させられてしまった。悔しいけれどヒロの言う通りだ。さっき十円玉が「はい」に滑ったのは指が震えた弾みだったかもしれないけれど、昨日は五十音のひらがなから『ころした』の四文字を順に指し示していったのだ。寒さで凍えていたり、依存症とかいう病気にかかっている人でもなければ、あれだけダイナミックに指が震えたりはしない。

 だけど水面さんは、その指摘を待ってましたとばかりに、髪を揺らして大きく頷いてみせた。

「いい質問だわ。たしかにヒロくんの言う通り、ちょっと指が震えたくらいで十円玉はそんなに動かないわ。でもね、昨日のことをよく思い出してみて。昨日、十円玉が問題の四文字を指したのは、オカガミサマを始めてから一時間近く経った頃だったのよね?」

 あっ、とヒロが叫んだ。

「そうか。一時間もこんな体勢でいたら、いまよりもっと震えてたはず――」

「その通りよ、ヒロくん。それにもうひとつ重要なことがあるわ。昨日、ヒロくんは何度か自分の意思で十円玉を動かしていたのよね。だとしたら、他の三人も同じように、自分の意思で十円玉を動かしていたかもしれない――ここまではいい?」

 わたしとヒロが首をこくんと振るのを確認してから、水面さんはつづきを話す。

「たぶん、最後の質問をしたとき、何人かが同時に十円玉を動かそうとしたのよ。きっと面白い答えを思いついたんでしょうね。でも、その子たちの思いついた答えは、それぞれべつの言葉で、それぞれべつの方向に十円玉を動かそうとした――」

「――震える指で別々の方向に動かそうとしたから、十円玉は結果的にまったく見当違いにふらふら滑って、『ころした』と答えたように見えてしまった、ということですね」

 ヒロが水面さんの言葉を引き継いでそう締めくくった。水面さんは目をわずかに見開いてから、大きな笑顔になった。

「そのとおりよ、ヒロくん。つけ加えて言うなら、みんな心のどこかで『本当に未来の魂が宿っていたらいいのに』と思っていたから、十円玉が不規則に動きだしたとき、十円玉がちゃんと文字の上を通っていくように、自分でも気づかないくらいの小さな力を加えていたのかもしれないわね」

 これで説明するべきことは全部話したとばかりに短く息を吐いた水面さんは、ふいに唇の端っこで悪戯っぽく笑った。

「結局のところ、全部ただの偶然だったのよ。たまたま同時に違う方向へ押された十円玉が、たまたま『ころした』と読めるふうに動いてしまった。そしてたまたま十円玉をそのタイミングで落としてしまったから、何だか恐いムードになってしまった――コックリさんをやると十回に一回は重なるものよ、そういう偶然は」

 水面さんは笑いを飲み込むと、天井に向けて両手を大きく伸ばしてストレッチした。そのまま頭の後ろで左右の肘を交互に押さえながら、わたしとヒロに視線を投げてくる。

「ふたりもやってみたら? 気持ちいいわよ」

「はい!」

「そうですね」

 わたしとヒロは同時に言うと、水面さんと同様に腕を組んだり手首をぶらぶら振ったりして凝りを解した。十分間ほど十円玉を押さえていただけにしては大げさなストレッチだったけれど、おかげで頭に新鮮な血がたっぷりまわって、ものすごく晴々とした気分になれた。ついさっきまでの、十円玉から指を離したら死ぬと思い込んでいた自分が馬鹿みたいだ。

 ――ああ、そうか。

 わたしが馬鹿のままだったとしたらきっと明日、教室に入るなり「オカガミサマで本当に未来の魂がきた!」と声高に話してまわっていたことだろう。というか、アッコあたりは昨夜の段階で友だちに片っ端から電話をかけて話していたかもしれない。

 こんなふうに、ただの偶然だったことが、さも超常現象のように語られるという行為が積み重なっていくうちに、みんなが心の底で「オカガミサマは本物なのかも」と思うようになる。そう思っている人がオカガミサマをやるから、ほんのちょっと指が震えただけのこともオカガミサマの仕業に思えてしまう――そうやって連鎖していくのだろう。

 どんなにすごいマジックも、種明かしされてしまえばもう怖くない。むしろ、お呪いが本物らしくなっていく仕組みを面白いと感じる余裕さえできていた。

「なんか、種が割れてみると案外詰まんないもんだな」

 ヒロはもう鏡と十円玉にすっかり興味を失くしたようで、詰まらなそうにしている。恐怖がなくなったところまではわたしと一緒だったけれど、ヒロはわたしほど興味を惹かれなかったみたいだ。

 大きく伸びをしつつそんなことを考えていると、水面さんが胸の前でぱんと手を叩いた。

「さてと、もう用事も済んだわけだし、帰りましょうか。もしかしたら用務員さんに怒られるかもしれないしね」

 その言葉に、わたしもヒロも同意した。そういえばオカガミサマのことにずっと気をとられていて、宿題がさっぱり進んでいないことを忘れていた。日曜日を挟むからといって、いつもより大目に宿題を出されていたというのに。

 きっとこんな心配、ヒロはしないんだろうな。こいつのことだ、どうせ「宿題なんて明日、授業中にやればいいじゃん」と言うに決まっている。たまにその図太さが羨ましくもなる。

 なんだか無性にムカついてきた。

「ヒロ、明日は絶対、宿題を写させてやらないからね」

「はあ? 何だよ、いきなり。というか、あんなのべつに写すまでもないだろ」

「その言葉、明日も言えるか楽しみね」

 わたしとヒロは廊下に向けて歩きだしながら、いつもの言い合いを始めていた。

 だから、最後まで教室に残っていた水面さんが、ロッカー上の棚に飾られている人形に向かって「もう悪戯しちゃ駄目よ」とでも言うかのように指を突きつけたのを見ることはできなかった。


 ●


 水面があたしを指差して、声を出さずに唇だけで「もう悪戯するんじゃないぞ、このやろう」と注意してきた。

 心外だ。あたしはただクラスメイトとして、クラスのみんなと一緒に遊んでいただけなのに。子供の遊びに保護者が口を挟むのってよくない。

 保護者っていうと微妙に意味合いが違う気もするのだけど、あたしは実家を飛び出してきた身分だから、頼れる相手は水面ひとりだ。べつに頼りにするようなこともないんだけどさ。あたしはあたしで毎日楽しくやってるし。……夜はみんな帰ってしまうから寂しくてちょっぴり泣いたりしたこともあるけど。そういえば、うっかり泣き声を聞かれちゃって騒ぎになりかけたこともあったっけ。あのときはちょっぴり反省したわね。

 ――っと。

 自分語りをしている場合じゃなかったわ。あたしの身元引受人こと水面が睨んでいるから、ちょっとはしおらしく反省した振りくらいしてやらないと。それにしてもレディを指差すなんて失礼極まりないわね、まったく。あたしが人形だと思って、軽く見てるんじゃないかしら。

「こらっ、ちゃんと反省しているの?」

 あうっ。

 つかつか歩み寄ってきた水面に鼻先を突かれた。わたしが動けないとわかっているのに、この仕打ち。ひどい話よね。

「こぉらっ、聞こえているのよ」

 今度は鼻先を指でぐりぐりされた。これはひどい、ひどすぎる。あたし、豚鼻にされちゃうよ。ああもう、ごめんなさい。謝るから止めてよお。

「何を謝るのか、ちゃんと言ってみなさい」

 悪戯してごめんなさい。みんなが楽しそうで羨ましかったから、最後にちょっとだけ悪戯して十円玉を動かしちゃったの。でも、あんなに驚くなんて馬鹿みた……あうっ、ごめんなさい、ごめんなさい。本当に反省してる。してます。だから鼻をぐりぐりするの止めてよお。

「もう二度と、そういう笑えない悪戯はしない?」

 はい、二度としません。今度はもっと笑える悪戯にします。

「……まあいいわ。今度またやったら、幽霊屋敷に連れ帰してやるだけだし」

 二度と絶対金輪際しないから、それだけは本気で勘弁してください。いまさら実家に帰ったら、どんな手荒い歓迎を受けるか、わかったものじゃないんです。せっかくもらったおニューのドレス、汚されたくないです。

「だったら、少しは大人しくすることね」

 はい、かしこまりました、奥さま。

「誰が奥さまよ、誰が」

 ……。

「いまさら人形の振りしちゃって――」

 水面がまた無遠慮にあたしの鼻をぐりぐりしてこようとしたとき、廊下のほうから子供の声が飛んできた。ミコとか呼ばれてた子の声だ。

「水面さん、どうかしたんですか?」

「あ――ううん、何でもないのよ。ただちょっと、小学校って懐かしいなあ、と思ってね」

「ああ……そっか。水面さんにも小学生のときがあったんですよね」

「それはそうよ。もう百年くらい昔のことのような気がするけれど」

「百年も経っていたら、水面さん、もうお婆ちゃんですね」

 ミコの言葉に水面は笑ったけれど、頬が微妙に引き攣っている。いい気味だ。

「わたし、もうちょっとだけゆっくりしていくわ。ミコちゃんはヒロくんと一緒に、先に帰っていて」

「え――そうですか。それじゃ、そうしますね」

 ミコは軽く頭を下げてから、また教室を出ていった。廊下から男の子が「おれも水面さんと一緒に残る」と騒ぐ声が聞こえたけれど、「追憶の邪魔になるでしょ」と窘める声と一緒に遠ざかっていった。ツイオクなんて小難しい言葉を使うあたり、ちょっと自慢げで小賢しい。

 水面は小さく笑いながら子供ふたりを見送ると、置きっぱなしの鏡と十円玉のところに向かう。あたしの鼻をぐりぐりするのには飽きたらしい。

 十円玉にそっと人差し指を置いた水面が小声で歌うみたいにささやいた。

「未来のわたしに質問です。そちらは何十年後ですか? それとも何百年後? ヒロくんにミコちゃん、葵ちゃん……それに雄作さんや紅子ちゃんはまだ生きていますか? 新しい友だちはできていますか? ちゃんと生活できていますか? ――井戸に投げ込まれて本物の化け物になったりしていませんか?」

 質問してからすぐに水面は苦笑した。

 そりゃ笑うだろう。そんな質問をして本当に鏡の中の自分が答えてくれるというのなら、占い屋は食べていけなくなる。あたしが占い師の生活を心配してやる義理なんてないけれど。

 あたしがしてやるべきは、鏡面に置かれた十円玉を動かして面白い答えを言うことだ。でもまあ、ここはひとつ水面を元気づけてやる答えでも――。

 そう思った矢先、あたしも水面も予想していなかったことが起きた。十円玉が動き出したのだ。

 水面の人差し指が十円玉を押さえていたままだったから、あたしは最初、水面が自分で十円玉を動かしているのかと思った。だけど、水面の引き攣った顔と小さな叫び声で、そうじゃないんだって、すぐにわかった。

 逆に水面は、あたしが悪戯したんだと思ったらしくて、こっちを振り返って睨んできた。あたしじゃないって!

「あんたじゃなかったら、何だという――」

 水面の声はそこで唐突に途切れた。瞳が大きく見開かれて絶句した。

 十円玉はもう指が離れているというのに、そんなことはお構いなしに鏡面を高速で踊りまわっている。鏡面に描かれた五十音を次々に踏んで、ぎぎ、ぎぎっと嫌な音をさせている。あたしも水面も、十円玉を止めるべきかもしれない、なんて考えることもできないまま、その動きに見入っていた。

 十円玉の動きは速すぎて、綴られる単語のすべては追いきれなかった。だけど、幾つかは読み取れた。

『しぬ』

『ひとり』

『かなしい』

『つらい、くるしい、もういや、ころせ』

 それらの単語が何を意味しているのか、ちょっと考えてしまった。

 このお呪い――オカカガミサマは確か、未来の自分を呼び出して、未来のことを教えてもらうという趣旨のお呪いだったはず。ということは、いま十円玉を動かしているのが、あたしでも水面でもないとしたら、何十年後か名百年後か知らないけれど未来の水面ということで……。未来の水面が「未来はどうなっていますか?」という質問に対して、ネガティブな単語のオンパレードで答えたということで……。

「いっ……嫌、嫌だ――やだ……やだやだっ嫌だあっ!!」

 水面は大きく頭を振って叫んだかと思うと、鏡を床に払き落とした。がっしゃぁん、と派手な音が響いて鏡が砕ける。あたしは大いにびっくりした。鏡の割れる音にも驚いたけれど、水面でもこんなに取り乱すことがあるんだってことに驚いた。

 あたしが呆気に取られている間に水面は教室を飛び出して、そのまま廊下を走っていってしまった。あたしだって、できることなら追いかけたかった。だけど生憎、あたしは人形だ。歩ける足がない。十円玉なら動かせても、自分は動かせないのだ。

 こんなときばっかりは、自分が人形だということを恨めしく思う。こうなるともう、後は廊下を歩いているだろうふたりに期待するしかなかった。


 ●


 おれがミコと話しながら廊下を歩いていると、背後からいきなり甲高い叫び声と金属音が響いてきた。

「いまの何!?」

 ミコが両目を丸く見開いて、おれに聞いてくる。わかるわけがないだろ、と答えるつもりで口を開いたが、はっと閃いた。

「鏡が割れたんだ。それで水面お姉さん、びっくりして――」

 おれがそう言っているところに廊下を走る音が重なる。背後から近づいてくる足音は考えるまでもなく水面さんの足音だ。

「お姉さん、大丈夫ですか!?」

 と訊ねるつもりだったのに、水面お姉さんはおれやミコのことを丸っきり無視して駆け抜けていってしまった。あまりに突然のことで、おれもミコも声をかける暇がなかった。だけど、おれははっきりと見た。

 水面お姉さんは泣いていた。

 追いかけなきゃ――そう思ったときにはもう、おれは走り出していた。背中のほうでミコが叫んでいるような気がしたけれど、構っている暇はない。お姉さんは廊下を曲がって踊り場に入った。早く追いかけないと階段の上にいったのか下にいったのか、わからなくなってしまう。

 全力で走ったお陰で、踊り場に滑り込んだところで、階段を上るお姉さんの後ろ姿を見つけることができた。お姉さんは階段をどんどん駆け上がる。階段に、おれとお姉さんの足音が不規則に響く。階段を上った先には屋上に出る扉があったけれど、鍵がかかっているはずだ。つまり行き止まりだ。

 その後どうすればいいかはさっぱり考えつかないけれど、扉の前で捕まえられると思った。

 ところが、最後の数段を駆け上がったお姉さんが躊躇いなく扉のノブに手をかけると、扉はまるで鍵なんてかかっていないみたいに抵抗なく開いたのだ。鍵の外れる小気味いい音がしたから、鍵はちゃんとかかっていたはずだし、お姉さんが鍵穴に鍵を差し込んだような素振りはない。おれには後ろ姿しか見えなかったけれど、お姉さんはノブを掴んで押し開けただけに見えた。

 たぶん鍵が壊れていたんだろう――予想外のことではあったけれど、おれはそれで納得することにして、お姉さんを追って屋上に飛び出した。最悪の事態を想像してしまって、鍵のことでぐだぐだ悩んでいる余力なんてなかった。

「お姉さん!」

 叫びながら屋上に飛び出したおれの両目に、お姉さんの後ろ姿が飛び込んできた。

 お姉さんは、おれに背中を向けて真っ青な空を見上げていた。腰の少し上まである長い黒髪がそよ風に揺れるのを見た途端、おれの心臓がぐらりと揺れた。よく「心臓を鷲掴みされる」という表現があるけれど、そういうのとは少し違った。積極的に掴まれたのではなくて、心臓のほうが自分からこてんと転んだみたいな、すごく自然な感覚だった。

 有体に言えば、おれは水面お姉さんの後姿に見惚れたのだ。

「……ごめんね、変なところ見せちゃって」

 お姉さんは背中向きのまま、おれに笑いかけた。

 顔は見えなかったし、声の調子もいつもと変わらなかったけれど、何となく感じた。お姉さんがおれに背中を向けて空を見上げているのは、両目一杯に溜まった涙をおれに見られたくないからなのだ、と。

 お姉さんはおれに背中を見せたまま、鼻をすんと小さく鳴らした。

「ねえ、ヒロくんはさ、将来の夢ってある?」

「おれの夢……えっと……」

 格好悪いことに、おれは返答に詰まってしまった。

 だって、おれはまだ小学生で、毎日遊びまわるのが仕事なんだぜ。将来の夢なんて考えたことがない。せいぜい、中学になったら中間テストや期末テストやらがあって、受験とかもすることになるのかな――と、おぼろげに思うことがあるくらいだ。

「将来は、その……中学生になって、高校生になって、それで大学にいって……」

 おれはしどろもどろにそう答えた。我ながら馬鹿らしい答えだと思っているのに、それしか話せなかった。

 お姉さんに失望されたかもしれない、と不安になったけれど、そんなことはなかった。お姉さんはおかしそうに笑いながら、ようやくこちらに振り返った。

「いい夢じゃない、子供らしくて。ヒロくんの未来はきっと、この空みたいに、ばーっとどこまでも広がってるんだよ。だから、いまは漠然としか考えられないだけ」

 水面さんは優しく微笑んで、もう一度空を見上げた。おれもつられて空を見上げたけれど、本当はつられたからじゃなくて、悔しかったからだ。

「……」

 子供ガキみたいなことしか言えなかった自分が悔しかった。お姉さんに子供扱いされたことが悔しかった。自分が子供なんだという、すごく当たり前のことを突きつけられて、ものすごく悔しかった。

「早く大人になりたい」

 思わず、空を見上げたまま呟いていた。ベタな台詞を言ってしまった自分に恥ずかしくなって、おれは雨に汚れたコンクリートのタイルへと視線を急降下させる。

 お姉さんの風鈴を揺らしたみたいな笑い声が、おれの耳をくすぐった。

「いいね、いまの台詞。わたしも昔はよく考えていたわ、早く大人になりたいって」

 その言葉はますます、おれを惨めにさせた。自分が子供で、お姉さんが大人なんだと思い知らされて、歩いたら十歩もしない距離がものすごく遠く感じた。

「……水面お姉さんは、どうして泣いてるんですか?」

 だからおれは話を逸らしたくて、そう言った。すると、お姉さんは目元を拭って恥ずかしそうにはにかんだ。

「これは、その……うん、将来への不安というやつかしら。あ、前途有望な男の子に話すことじゃなかったね」

 ぢくり、と胸に針が刺さった。細いやつじゃなくて、太い待ち針だ。

「おれ、男だ! 男の子じゃない!」

 そう叫ばすにいられなかった。お姉さんのいまの言葉は、おれにとって最高の侮辱だった。自分の頭に血が上っていく音が聞こえて、悲しくないのに目頭が熱くなる。

 だけど、急上昇した血はお姉さんの一言で爪先まで一気に流し落とされた。

「生意気なこと言わないでよ」

「え……」

 おれは自分の目と耳が馬鹿になったんじゃないかと疑った。なぜなら、お姉さんの声も表情も、これまで一度だって見たことがないほど冷たいものだったからだ。

「子供が知ったふうな口をきくな、と言ったの」

 お姉さんがおれを睨む。正面からではなく、上からだ。身長差の分だけ高い目線が、おれを冷たく見下ろしている。見下す、というやつだ。

 冷たい声がおれの頬を平手打ちする。

「ヒロくんが、どれだけ勉強ができて運動も得意だったとしても、しょせんは〝できのいい子供〟なのよ。そう、子供――どこまでいっても子供なのよ、きみは。子供、子供!」

 冷たかっただけの声がどんどん熱くなっていく。お姉さんに睨みつけられた頬がちりちりと焦げたみたいに痛い。

「ヒロくん、きみはとっても純粋な男の子よ。これは嫌味でも皮肉でもないわ。本当にそう思っているの。だって、未来や将来なんてものを何ひとつ考えなくても生きていけるんだもの。自分の未来に何の不安も抱いていないのは、ものすごく幸せで純粋なお子さまだってことの証明よ」

 柔らかそうな唇から淀みなく溢れる悪意に、足が震えた。

 おれは両手で腿を抓るように握って、震えを飲み込む。自然と頭が垂れていたのは、お姉さんの視線が怖かったからじゃない。いまのお姉さんは見たくなかったからだ。おれは、お姉さんにこんな嫌な表情をしてほしくなかった。こんな表情をしたお姉さんを記憶に留めたくなかった。

「わたしの悩みをわかってくれる人なんて、どこにもいないわ。そんなのわかってる。わかってるのよ。だから、お願いだから、わかった振りして生意気なこと言わないで!」

 お姉さんの言葉は痛かったけれど、お姉さんにこんな表情をさせて、こんな言葉を言わせてしまう自分自身の情けなさのほうがもっと痛くて悔しかった。油断したらいまにも零れそうな涙を、固く瞼を閉じて押さえ込む。そうしたら、目から涙が零れる代わりに、口から気持ちが溢れた。

「おれ、お姉さんの悩み、わかんないかもしれない。けど、話してほしい。力になりたい。おれ、お姉さんに頼ってもらえる男になりたい。おれ、おれ――早く大人になりたい」

「軽々しくそんなことが言えるから、子供だっていうのよ」

 冷たい笑い声で耳を打たれたけれど、何と言われようともこれが本心だ。お姉さんの心に届かなくても、本当にそう思っているんだ。他に何が言えるってんだ!

「早く大人になりたい」

 大人なら届くところにも、子供の手じゃ届かない。こんなの嫌だ。

「早く大人に――!?」

 両目をきつく瞑って俯いておれを、温かくて柔らかい影が包んだ。

「へ……」

 回転の遅れた頭が一拍遅れで、お姉さんの両腕がおれの首に巻きついたのだと理解する。いや、もしかして、これはひょっとして――巻きつくじゃなくて、抱きつくとか縋りつくというやつなんじゃないか?

「……ヒロくんはまだ子供よ。でもね、将来絶対、ものすごく素敵な男になるわ。わたしが保証する」

 お姉さんの声が耳朶の上端から聞こえてくる。目の前が暗くて、いい匂いがして、それで柔らかくて――これって、この柔らかいのって、ひょっとして、これって――。

 おれが全身真赤な茹でダコ状態になっていると、目の前を包んでいた柔らかいのがそっと遠ざかる。いま思っていたことがバレたのかと思って舌を噛み切りたくなるほど恥ずかしくなったけれど、そうじゃなかった。

「でもね、焦って大人になることない。ゆっくりでいいの、ゆっくりで。ゆっくり時間かけて、いい男になりなさい。大丈夫……わたし、長生きだから」

 お姉さんはたぶん、小さくはにかみながら微笑んだのだろうと思う。ちゃんと見ていたら、少なくともこの先五年は目を閉じただけで、にやにや笑いが止まらなくなっていたに違いない。

 だけど残念なことに、おれはその笑顔を目に焼きつけることができなかった。なぜって、お姉さんが離れ際に残していった、額に触れた最高に柔らかい感触を覚えることに記憶回路を全力回転させていたのだから。

「ありがとう。追いかけてきてくれて」

 お姉さんはもう一度微笑むと、立ち尽くすおれの脇をすり抜けて校舎の中に戻っていった。

 背後でドアノブを捻る音がしたけれど、おれは振り返ることもできない有様だった。頭も身体もイッパイイッパイで、頭の天辺から湯気になって空に昇っていきそうなくらい煮え滾っている血を冷ましてからでないと動けそうになかった。

 水面さんが校舎に戻ってから一分か二分くらいして、おれはようやく身体を動かせるくらいまで興奮を冷ますことができた。

 ぎくしゃくする手足を動かして校舎の中に戻ると、扉を開けてすぐそこの階段の段差に、ミコが背中を向けて座っていた。

「なんだ、ミコ。いたのか。水面お姉さんは?」

「……先に降りてった。鏡を割っちゃったから片づけるんだって」

 おれの質問に、ミコはこっちを見ないまま、ぶっきらぼうに答えた。

「な、なんだよ、怒ってるのか?」

「べつに」

 と答える声は、誰がどう聞いたって機嫌のいい声には聞こえない。

「おれ、おまえを怒らせるようなこと、したっけ?」

「べつに――だから怒ってないし!」

「いや、怒ってるじゃん……」

 ミコの声音はもう完全に機嫌悪いを通り越して、怒った声になっている。だけど、おれにはミコがなんで怒っているのか、理由がさっぱりわからない。ただ、おれはミコに対して何も変なことをしていないと断言できる。

 理不尽さに対する怒りが沸々と込み上がってきた。

「あのさ、なんで怒ってるのかくらい言えよ」

「……本当に何でもないの」

 ミコはいきなりトーンダウンしたものだから、何だかおれが一方的に苛めているみたいになって気まずい気分になった。勝手に怒って勝手に落ち込むとか、何て勝手なやつなんだ!

 ミコは背中を向けたまま立ち上がると、そのまま振り返らずに階段を下り始めた。

「わたしたちも戻って片づけの手伝いをしにいくよ」

「お、おう」

 おれもその後を追いかけた。

 ミコがどうして機嫌悪かったのかが気になって、前を歩くミコの背中に向かって何度か問い質そうとしたのだけど、結局できなかった。どうせ聞いても答えてくれなかっただろうけど。

 ――ふと、大人の男になれば、ミコが機嫌悪かった理由もわかるのだろうかと思った。

 だけど、その理由がわかってしまうのは、それはそれでとてつもなく厄介なことのようにも思えて、水面お姉さんの言う通り、急いで大人になることもないのかもしれないなあ、と思ったりもするのだった。

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水面のまにまに 雨夜 @stayblue

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