第4話 監視のバイト
三食部屋つきで交通費もついて日給も高額――バイト情報誌でその広告を見つけたおれは、すぐさま連絡先の電話番号に問い合せた。
連絡先は求人斡旋会社になっていた。用件を告げるとすぐに担当者が電話口に出て追い対してくれた。
「ラッキーですね。これだけ割りのいいバイト、普通はありませんよ」
担当者の男性は笑いながら言った。おれも適当に「ですよね」と相槌を打って、いちばん気になっていたことを尋ねた。
「仕事内容は、井戸の監視、となっているんですけど……具体的にはどういう仕事なんでしょうか」
「ああ、それはですね、この求人を出されたのは山の近くにある旧家の方なんです。わたしも詳しくは聞いていないんですが、何でも田舎の因習だとかで、家にある井戸を一晩見張っていてほしいんだそうです」
「というと徹夜ですか?」
「ええ」
おれは頭の中で瞬時に計算して、「わかりました」と答えた。提示されているバイト代は、山奥の僻地でひとり寂しく夜明かしするだけに足る額だったからだ。
電車とバスを乗り継いで現地に到着したおれは、バス停まで迎えにきてくれていた自家用車に乗って、求人広告を出した旧家まで連れていかれた。自宅を出たのは昼前だったのに、目的の家に到着したのは夕方だった。
門扉の横に「井部」と表札の出されたその家は、おれが予想していたより遥かに立派なお屋敷だった。子供時代にどこぞの資料館で見たことのある平安貴族の大邸宅みたいだと思った。まだ門の前に立っただけだが、四畳半の庭がおまけされた建売住宅しか見たことのないおれの常識外に広大な敷地と、それに見合った馬鹿でかい日本家屋であることは見間違いようがなかった。ついでに言うと平屋のようで、平安貴族の家みたいだと思ったのも、そのせいだった。
「どうぞ、こちらです」
自家用車を運転しておれをここまで運んでくれた若白髪の男性が先に立って、家の中を案内してくれた。靴を脱いで廊下を歩き始めたあたりは何でもなかったが、奥へと案内されるにつれて、おれはさらに驚かされることになった。
この家はまるで迷路だった。襖を開けると壁があったり、外観からは平屋に見えていたのに廊下の突き当たりに階段があったりした。他にも、障子を開けたすぐ先に落とし穴のような空間が空いていたり、一畳もない部屋を通らないと先に進めなかったりと、気味が悪いくらい入り組んだ屋敷だった。若白髪の男に案内されていなかったら、きっと家の中で迷子になっていたことだろう。
案内してくれた男はやがて、古臭い部屋の前にたどり着いたところで、おれを振り返った。
「こちらの部屋で一晩すごしていただきます」
「あ、はい」
おれが返事するのを聞かず、男は元きた道程を戻っていって、すぐに見えなくなった。おれは迷路のただ中に取り残されたも同然だった。部屋には覆いを被された膳が置かれてあって、覆いを取ってみると冷めた夕食が盛られていた。これはつまり、明日の朝になるまで、誰もこの部屋にやってこないということだろう。
鼻腔に漂ってくる黴臭さに入室早々から辟易させられたけれど、それも一晩の辛抱だ。明日になれば高額のバイト料がポケットに転がり込んでくる。それを思えば、黴臭さにも我慢できた。
おれが一晩を過ごすことになった部屋は畳敷きの六畳間で、壁も畳も古びていたけれど造り自体はしっかりしていた。四方を囲む壁の一方には廊下に繋がる襖があり、その正面に当たる壁には障子の嵌った窓が据えられている。障子を開けてみると中庭らしき空間が見えたが、かなり奇妙な光景だった。
中庭というには草ぼうぼうの荒れ放題で、窓から見える正面左右には漆喰の高い壁がめぐっていた。おれが見ている窓の側も壁なのだから、四方を壁に囲まれた中庭というわけだ。
「……中庭、か?」
おれは首を捻った。窓から見える中庭の様子はまるで、誰からもこの場所を見られたくないから壁で囲っているのだ、というように感じられた。窓から見える三方の壁には窓がなく、この中庭を見ることができるのは、おれがいま顔を寄せているこの窓だけだ。
「そうか、井戸の底なんだ」
口を突いたイメージは我ながら的を射ていたと思う。四方を高い壁で囲まれて夕日の差し込まない中庭は、まるで大きな涸れ井戸の底だった。
また、自分で言った言葉で思い出したのだが、おれは「井戸の監視」をするために雇われたのだった。監視するべき「井戸」というのは、この中庭のことだろうか。それとも、伸び放題になっている草むらの中に本物の井戸が隠れているのだろうか?
おれは古めかしい木枠のガラス窓を開けると、窓枠に両手をついて身を乗り出して目を凝らした。すると案外あっさり、草いきれの合間に年季の入った石造りの井戸らしきものが見えた。あれの井戸が、おれが今夜一晩見張ることになる井戸なのだろう。このとき、おれが真っ先に考えたのは、「囲うという字は、壁が井戸を囲っている様子を意匠化したのだな」ということだった。
いちおう仕事だから、おれはしばらく窓から井戸を眺めていたのだけど、じきに飽きてしまった。それはそうだ。番町皿屋敷のようにお菊の幽霊が出てくるわけでもなし、ただ黙々と井戸を見ているだけなのだ。飽きるなと言うほう無理な話だろう。
そもそも、井戸の四方を囲む壁の中で窓があるのはこの部屋だけだ。ということは、部屋にひとつしかない引き戸を開けて誰かが入ってこないかぎり、おれの勤務態度を確かめる術はないことになる。しかも夕飯はすでに用意されていて、朝まで誰も様子を見にやってくる気配はないときた。はっきり言ってこの状況、サボっても構わないぞ、と言われているようなものだった。
井戸を見ているのに飽きて、用意されていた夕飯も食べてしまうと、もう本当にやることがなかった。ちなみに夕飯は冷め切っていたのが減点対象だったが、グルメ番組に出てきてもおかしくないほど豪勢で美味なものだった。
滅多に食べられない美味い飯を腹いっぱい食べて他にやることもないとくれば、瞼が重たくなってくるのが自然の摂理というものだ。おれはいつの間にか、壁に凭れた体勢で眠りに落ちていた。
じりりり!
「――!」
甲高い物音がして、おれは跳ね起きた。寝惚ける暇もないほど急激に覚醒したおれは、音の正体を探して視線を左右に走らせる。
「……電話?」
音の正体は部屋の片隅にぽつんと置かれた電話機だった。いまどきお目にかかることの滅多にない、ダイヤル式の黒電話だ。この屋敷は昭和初期で時間を止めているらしい。
電話はずっと鳴りっぱなしだった。普段だったら鳴り止むまで無視していたところだったが、閉塞感に息を詰まらせていたおれは、ついつい手を伸ばして受話器を取っていた。
『もしもし、繋がったの!?』
おれが何かを言うより早く、電話口の向こうから若い女性の声が響いた。ひどく切羽詰った声だ。おれは自分が他人の家の電話を勝手に取ったのだということに思い至って、しどろもどろに答えた。
「あ……すいません。おれ、この家の者ではないので、よくわからなくて」
そう答えてから、これが内線電話である可能性に気がつき、言葉を切った。迷路のように入り組んだ屋敷なのだから、部屋ごとに内線電話があってもおかしくない。しかし、電話口からの反応はおれの予想とまったく違っていた。
『早く逃げて!』
……。
おれは無言。比喩でなしに目が点になっていた。受話器からは女性の捲くし立てる声が響いている。
『何を言っているのかわからないと思うでしょうけど、とにかくそこは危険なの。あなたは騙されたの。早く逃げて。いますぐ逃げるの。わか――』
おれは電話を切っていた。怖かったからだ。しつこい勧誘の電話を受けたことはあったが、こういうサイコな電話を受けたのは初めてのことで、少々動転していた。受話器を置いてから、切ってしまったのは不味かっただろうか、とも不安になったけれど後の祭りだ。
じりりりり!
また電話が鳴った。さっきの女性からだろうか。取りたくないな。今度こそ無視しよう――一瞬そう考えたのだけど、本当に内線電話が繋がっていて家人からの連絡だったらと考えると、出ないわけにはいかなかった。
甲高いベル音をしばらく聞いてから、おれは呼吸を整えて受話器を上げる。
「はい、もしもし」
『あ、よかった。手遅れなのかと思って焦っ――』
やっぱりさっきの女性だった。おれは即座にフックを押して通話を切った。
なんだ、これは。
いまの女は一体誰なんだ。というか、これは悪戯電話なのか? だとしても、どうしてこの家の連中は電話に出ないのだ?
じりりりりっ。
またしても電話が鳴った。おれは、火傷した指を反射的に耳たぶへ持っていくような速さで受話器を上げてすぐに下ろした。がちゃん、と大きな音を立てて黒電話は沈黙した。またすぐ鳴り出すかと身構えていたけれど、どうやら相手も諦めたようだった。
「……」
急に馬鹿らしくなった。少し落ち着いて考えてみれば、ただの悪戯電話ではないか。大方、どこぞの暇人が暇潰しに出鱈目な番号にかけたのがこの家に繋がったのだろう。その電話にたまたま家人がすぐにでられなくて、おれが三連続で出るはめになってしまった――ただそれだけだ。居眠りしていた不意を突かれたから余計なことを考えて恐怖してしまったけれど、ただそれだけのことなのだ。
おれはこの場に自分ひとりしかいなくてよかった、と心底から思った。電話の音に本気で驚いていた顔を他人に見られていようものなら、恥ずかしくてお嫁に行けなっていた。
「馬鹿らしい」
おれは呟くと、また目を閉じて畳に身体を横たえた。井戸を見張るという仕事はすっかり忘れて、二度寝を決め込むことにした。もう電話がかかってくることもないようだ。おれの意識は眠りの穴へと心地好く落ちていった。
じりりりり!
眠りに落ちた頃合を見計らったかのように、また電話が鳴った。黒電話の呼び出し音がこれほど無骨で無粋だとは知らなかった。
「くそ、何だってんだ!」
せっかくの眠りを邪魔されて怒鳴ったけれど、それで電話が恐縮して鳴り止むわけがない。おれは受話器を取り上げて、電話口に怒鳴りつけた。
「何なんだよ、さっきから!」
だけど電話の相手である女性は、おれの怒りを完璧に無視して一方的に捲くし立てた。
『よかった、まだ生きてたのね。なかなか出てくれないから本当に心配したのよ。何度も言うけれど、そこにいるのは危険なの。あの子は元々、ごく普通の人間だったの。わたしと同じね。だけど彼女は家を栄えさせるために、土地神の捧げものにされてしまったの。だけど土地神は人間を食べたりしない。あの子は閉じ込められたまま、ずっとひとりきりで生きつづけて、とうとう鬼になってしまったの。土地神に代わって繁栄を約束する鬼に――』
女性の声を最後まで聞き取ることはできなかった。急に音が遠くなってノイズが混ざったかと思うと、『アカネちゃん、もう少し頑張っておねが』という掠れ声を最後に、ぷつりと通話が切れた。
「……何なんだよ、本当に」
おれは無機質につーつーと鳴る受話器を耳に当てたまま呻いた。それっきり電話はかかってこなかった。おかげで三度目の睡眠を邪魔されることはなかった。
次に目が覚めたとき、おれは野外に立っていた。いや、この言い方は正確ではない。おれは眠っていながら起きていた。おれの身体は夜の肌寒い空気を感じる野外に立っていて、おれの頭もそのことを認識している。なのに、おれはまだ眠っているのだ。
意識と身体が乖離している感覚。まるでゲームの主人公になったような気分だ。自分ではない誰かがコントローラーを操作して、おれを勝手に歩かせているような。
おれは歩いていた。どこを? 外だ。眼球を左右に向けることもできなかったけれど、ここがどこかという疑問はすぐに解消した。荒れ放題の草むらと、前方に見える壁の漆喰。そして前方に現れた古井戸――ここは部屋の窓から見えていた中庭だ。
状況を整理すると、監視を忘れて眠り込んだおれは、眠ったまま夢遊病者のごとく起き上がって窓を開け放ち、窓枠を跨いで素足のまま中庭に降り、井戸に向かってまっすぐ歩いている最中ということだ。
おれの意識が状況把握に勤しんでいる間にも、おれの身体は緩慢な歩みをつづけて、井戸の縁までやってきていた。目の前に現れた井戸は、窓から眺めていたときよりずっと不気味に見えた。円筒形に石を積んで漆喰で押し固めた井戸は何年も風雨に晒されたことを示すように、欠けたり薄汚れたりしている。こうして目の前にすると、この井戸には釣瓶やポンプのような井戸水を汲む器具が用意されていなかった。井戸だけがぽつんと置き去りにされているのだ。
この井戸は何のためにあるのか。井戸を見張るというバイトには何の意味があるのか。そんなことを考えていると、視線がゆっくり俯いた。おれは腰を屈めて、草むらの中から何かを探す。おれの身体だというのに、おれには自分が何を探しているのか、わからない。
文字通りに草の根を分けていた手が、それを見つけた。土に塗れて汚れた麻縄だ。拾い上げた麻縄は意外に長く、おれは両手を使って縄を手繰った。単調な動作で麻縄を片方の端まで手繰り寄せると、今度はその麻縄を自分の腰に結え始めた。動きは緩慢としていたが迷いはない。コントローラーを操作している誰かは攻略本を片手にしていて、ここに麻縄が落ちていることや、それを拾って腰に結えつけるのだということを知っているようだった。
時間をかけて念入りに結び目が解けないように結んだおれは、腰から伸びる縄を手繰って、もう片方の端を手元まで持ってきた。縄の長さは三メートル以上ありそうだ。手繰り寄せた縄の端を、おれは――。
――!!
おれは死ぬほど驚いた。身体が自由になっていたなら、恐怖映画で惨殺される役者さながらに絶叫して腰を抜かし、あるいは失禁していたかもしれない。その点においては、おれの意識と肉体が分離していたことに感謝できた。
おれを情け容赦ない恐怖に叩き落したのは、古井戸から伸びた腕だった。井戸の暗闇から月光の下へと伸ばされた、女の真っ白い腕だった。白い手はしなやかな指で井戸の縁を這うようにして、おれのほうに向かってくる。おれは死ぬほど怯えているというのに、おれの身体は相変わらず緩慢だが迷いのない動作で、麻縄の片端を握った手を井戸のほうに差し出す。
白い手が、おれの手から垂れ下がった縄の端を握った。そして、しなやかな指をまるで虫が歩くみたいに蠢かせて、麻縄を手繰り始めた。片手の手首から先だけを器用に使って、縄を井戸の中へと引っ張っていく。一度に井戸へと飲み込まれる縄の長さは数センチだけだが、それがかえって恐怖を煽った。
おれを夢遊病者のように操っていたのは、この手だ。井戸の底から片腕を伸ばして、おれの腰に繋がっている縄を引き寄せている人物だ。
――人物、であるはずがない。井戸の中に潜んでいるような存在が人間であるはずがない。
どう考えてもやばい。やばかった。おれはいま、絶体絶命だった。白い手が縄を手繰る速度は笑い出したくなるほど遅かったけれど、おれの両足は立ち尽くしたままだ。逃げようとしても根が生えたように動かない――のではなくて、そもそも両足に力を入れることすらできない。おれの筋肉や運動神経はいまだ、おれの言うことを聞いてくれる状態になかった。
おれは蛇に睨まれた蛙だった。蛇が自分を飲み込んでいくのを、瞬きひとつできずに受け入れるしかできない蛙だ。
嫌だ、そんなの嫌だ。おれは蛙じゃない。人間だ。人間だ!
だけど、心の中でどれだけ叫んで泣き喚いても、おれの身体は弛緩して立ち尽くしたまま、縄が引き込まれていくのを瞳に映しているばかりだ。頼む、頼むよ。誰か助けてくれ、助けてくれ。頼む!
顔色ひとつ変えないで絶叫するおれに何と、助けが訪れた。
じりりりり!
開け放たれた窓から響いた、無骨で無粋で無意味なまでにけたたましい黒電話の呼び出しベルが、おれの耳を劈いた。
その瞬間、おれは尻餅をついた。尾てい骨から背骨を抜けて頭蓋骨の付根まで衝撃が駆け上がったが、そんなことに呻き声を上げている暇はない。おれは空気中を泳ぐように手足をばたつかせながら、壁にひとつだけある窓を目がけて走り出す。電話のベルに驚いた瞬間から、おれの身体は自由を取り戻していた。
しかし逃走は数メートルで中断される。おれ自身の手で腰に結わえつけていた麻縄がぴんと張って、下腹を思いっ切り引っ張られたからだ。
どうせ相手は片手の指でしか縄を持っていないのだから、このまま走って強引に振りほどいてしまえ――一瞬のうちにおれはそう判断して、全力疾走を再開しようとした。だがしかし、井戸の中から麻縄を手繰り寄せる手に、おれは勝てなかった。綱引きにならず、おれはずるずると背後に引き戻される。相手は片手一本で、しかも縄をしっかり握っているのではなく、手首から先だけを使って縄を手繰り寄せている最中だというのに、おれが本気で走って縄を引っ張っても手を離さないどころか、着実におれを井戸のほうへと手繰り寄せていた。
おれは綱引きをすぐに諦めると井戸のほうに向きなおって十歩ほど後戻りした。縄を弛ませるためだ。
白い手はおれの邪魔を意にも介さず、指先の動きだけで少しずつだが着々と麻縄を手繰り寄せている。どう考えたって、井戸の底から手を伸ばしているやつは人間ではない。妖怪か化け物か知らないが、人間以外のものと勝ち目のない綱引きをつづけるよりも、結び目を解いたほうが早いに決まっている。
だけど、それも簡単にはいかなかった。自分で腰に結んだはずの結び目は、どうやったらこれほど固く結べるのかというほど固くて、さっぱり解けなかった。きっと、綱引きをして力を加えてしまったことが不味かったのだろう。
ただでさえ固い結び目に、おれの焦りという不要な潤滑油が加わって、指が滑ること滑ること。おれの知っている結び方なんて蝶結びと固結びくらいのはずなのに、麻縄の結び目はまるで接着剤で固めたみたいに頑固だった。
くそっ、どうしてこんなに固いんだよ!
おれが結び目と格闘している間にも、白い手は着実に休みなく、縄を手繰り寄せている。もうさっきから一メートル分は井戸の中に手繰られているだろうか。麻縄の弛みが短くなるのに反比例して、頭の中のゴム風船が膨らんでいく。この風船が破裂してしまったら、おれは奇声を発して泣き喚きながら縄を引っ張ることしかできなくなるだろう。その前に結び目を解かないと。早く、早く解かないと。
焦れば焦るほど指先が滑る。脇の下や首筋に冷たい汗が滝のように伝い落ちる。
「焦るな焦るな落ち着け落ち着け落ち着け焦るな落ち着け焦るな落ち着け」
気がつくと、おれは呪文のようにそう唱えていた。焦りを言葉にして吐きだすと、僅かだけでも心が落ち着いた……ような気がした。自分の心臓が打ち鳴らす大音響の銅鑼を聞きながら、必死で深呼吸して忍耐力を総動員させ、少しずつ根気よく、結び目を緩めていく。
「――きた!」
何重にも固く結ばれていた結び目のひとつが解けると、後はすぐだった。結び目は、ひとつが緩むと連鎖的に緩んでいく。おれは結び目に両手をやりながらゆっくり井戸へと歩いていた。白い手が麻縄を手繰る分だけ距離を詰めないと縄の弛みがなくなって、結び目を解くのが難しくなるからだった。
おれが自分自身で腰に結えつけていた麻縄を解いて歓喜の顔を上げたとき、井戸はもう目の前にあった。井戸の縁まで後三歩だった。縄の弛みはほとんどなくて、おれが結び目から解放されたのとほぼ同時に、ぐい、と引かれた。解いたばかりの麻縄をまだ握っていたために、おれはつんのめってたたらを踏む。咄嗟に麻縄を手放して井戸の縁に両手をつかなければ、落ちていただろう。両手の間をするすると麻縄が引き込まれていった。
おれの目は反射的に麻縄を――麻縄の先にある白い手を見た。細くてしなやかな女性の指、手首、腕――肘から先は井戸の暗闇に隠れていたけれど、図らずも井戸の中を覗き込むような体勢になっていたおれの目には、肘から上もしっかり映っていた。
井戸の中に女がいた。
何十年も切ったことのないように長い髪に隠れていて表情は唇しか見えなかったけれど、間違いなく女だった。だけど女ではない。女は井戸の中に住まない。ついでに言えば、井戸の闇は深く、けして浅くないことを示している。なのに、女の上半身は手を伸ばせば縁に届くところにあった。暗闇に浮かんでいるのか、それとも下半身が蛇のように長いのか――それを確かめることはできなかった。
女が顔を上げておれを見ようとしたのだ。その瞬間、おれは全身全霊の力で仰け反ると同時にまわれ右して窓へと走り出していた。火傷した指を反射的に耳たぶへ持っていくような、これ以上ないほど自然な反応で、逃げ出していた。
開けっ放しの窓から部屋の中に転がり込むと、井戸のほうを見ないようにして窓を閉じ、障子も閉めた。おれを窮地から救ってくれた電話はいつの間にか鳴り止んでいた。
うるさくて堪らないだけの悪戯電話だと思っていたけれど、あの電話がなかったら、おれはいま頃、古井戸の中であの女に食われていたことだろう。また電話がかかってきたら礼を言わなくては――。
「……んぁ?」
おれは自分の目を疑った。一度両目を閉じて、瞼の上から眼球を指で、ぐいぐいとマッサージしてから改めて部屋を見まわした。そしてやはり、この部屋のどこを見まわしても黒電話なんて存在していないと認めざるを得なかった。
思い返してみれば、この部屋に案内されてきた室内を見渡したときにも、黒電話なんて置かれいなかった。だとしたら一体、おれの眠りを邪魔して、あの井戸から助けてくれた電話は何だったのだ? 寝惚けながら見ていた夢だったとでも言うのか?
そう考えてみると、おれがあの女性と電話で話をしたのは居眠りしていた前後だったし、井戸に引きずり込まれる寸前で電話のベルに助けられたときも、おれは夢遊病者のような状態だったわけだし。
おれはしばらく首を捻ったが、すぐに考えるのを止めた。現に電話がないのだから、考えられる可能性はふたつ。電話がかかってきたのは夢の中でのことだったか、おれが井戸のそばにいる間に誰かが忍び込んで電話を回収していったか、だ。どちらの可能性が正解だったにしても、どうでもいいことだ。
あの電話があったから、おれは助かった。その事実は変わらないのだから。
だが、もう黒電話はない。もしまた同じことが起きたら、今度も助かるとはかぎらない。もう一秒たりとも、この黴臭い部屋にはいられなかった。屋敷の構造が迷路だということは覚えていたけれど、この部屋で朝まで震えているよりも、屋敷の中で行き倒れたほうが、いくらかでもましだ。
翌朝、おれは行き止まりになっている廊下の隅で膝を抱えていたところを、おれをあの部屋まで案内した若白髪の男に発見された。彼に呼びかけられて顔を上げたおれは、たぶん樹海で遭難五日目の自殺未遂者くらいに憔悴しきった顔をしていたと思う。鏡がなくとも、両目の下に濃い隈が浮かんでいることは自覚できていた。
こんな場所にいる以上、おれが「井戸の監視」というバイトを放棄したのは言い訳のしようもないほど明白だ。この場で怒鳴られるのも覚悟した上での仕事放棄だったが、若白髪の男は溜息混じりに何事かを呟いただけで、それ以上怒鳴ったり悪態を吐いたりしなかった。身構えていたおれはかえって拍子抜けしたが、心のどこかではこの事態に納得していた。井戸の監視などという奇妙なバイトをわざわざ雇うような屋敷の人間が、井戸に巣食う女のことを知らないはずがないのだから。
若白髪の男に助けられたおれは、畳敷きの広い部屋に通された。そこで夕食とは比べものにならないほど質素な朝食をいただいてから、屋敷まできたときと同じように、若白髪の男が運転する自家用車でバス停まで送られた。
その後は何事もなく、おれはアパートの自室まで帰りつき、日常生活に復帰している。しばらくは不眠症状と幻覚に悩まされたけれど、いまはこうして、あの一夜を顧みることができるくらい完璧に立ち直っている。
あれからおれは、ふとした会話の折にウィンチェスター屋敷なる建物のことを教わった。アメリカの南北戦争で大儲けしたウィンチェスター銃の開発者ウィンチェスター氏の妻が、悪霊から身を守るために非合理な増改築を重ねて作った巨大迷路のような屋敷のことだ。おれはウィンチェスター屋敷のことを聞いたとき、真っ先に井部家の迷路屋敷を思い出していた。ただし、ウィンチェスター屋敷は外からやってきた霊を迷わせて奥まで入ってこられなくするための迷路だが、井部家の屋敷が迷路化されたのはきっと正反対の目的からだ。
あの井戸だ。人間ではない女の潜んでいた、あの古井戸だ。
井部家の屋敷は古井戸を取り囲む迷路なのだ。それは、外からの井戸に侵入してくる者を迷わせるためではない。内から出ていこうとする者を閉じ込めるための迷路なのだ。あの井戸にいる女を外に出さないようにするための迷路なのだ。おれはそう直感して、確信していた。
だが、屋敷を迷路にして閉じ込めておくだけでは足りないのだ。年に一度か月に一度か、その頻度までは想像できないけれど、井戸の女に生贄を食わせてやらないと駄目なのだ。井部家の人間がどうしてあんな化け物を飼っているのかはわからないし、理由を知りたいとも、井部家があれからどうなっているのかを知りたいとも思わない。ただ、ごくごく稀に馬鹿みたいに好条件の求人広告を見つけると、迷路屋敷での一夜をふと思い出してしまうのだ。
おれという生贄が助かってしまったことで、またバイトの募集が出されたのだろうか?
破格の好条件に誘われたおれみたいな馬鹿が、黴臭い部屋に案内されて、井戸の女に食われたのかもしれない。いや、かりにつぎの
これはおれの推測だが、おれが求人広告に応募する前にも生贄候補が数名、雇われていたのではなかろうか。おれがそう考える理由は、あの朝、袋小路の廊下でおれを発見したときに若白髪の男がぽつりとこう漏らしたからだ。
「またか」
――と。
重ねて言うが、おれは金輪際、あんな迷路屋敷と関わり合いになるつもりはないし、これ以上の余計な詮索をするつもりもない。おれは命知らずの馬鹿ではないし、当分は割りのいいバイトに飛びつかないでも暮らしていける。なぜならあの日、自家用車でバス停まで送ってもらった別れ際に、おれは若白髪の男から単行本ほどの厚さがある茶封筒を手渡されていたからだ。
美味い話には裏があると言うけれど、裏がある分だけ確かに美味しい。だけど、二度は御免だ。いや本気で。
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