第3話 赤い交換日記

 わたしこと宮田葵みやた あおいはいま、ものすごく困っていた。

 発端は一週間前の晩に見た夢から――ううん、たぶんその直前、出前を届けにいった先でのことが大元の原因なのだと思う。

 わたしの家は「宮田食堂」という定食屋をやっている。わたしが小学五年生のときにお母さんが亡くなって以来、わたしもお店の手伝いをしている。中学生になってからは、お父さんが「おまえは手伝いより勉強しろ」と口うるさいけれど、いまのところは無視して手伝っている。

 来年は高校受験があるから、いまほど手伝えなくなるかもしれない。だからいまのうちに、できるだけ手伝っておきたいのだ。

 その日も、わたしは学校から帰ってきて制服から私服のシャツとジーンズに着替えると、愛用のエプロンを身に着けて食堂に顔を出した。

「あら、お帰りなさい、葵ちゃん」

 わたしに気づいて笑顔で声をかけてきたのは、アルバイトの水面さんだ。いくら小さいお店といっても、お父さんひとりで料理から出前までこなすのは大変だったから、水面さんが働いてくれるようになって大助かりしている。

「ただいま、水面さん。……あ、これ出前? わたしが出前してくるよ。どこに届ければいいの?」

 テーブルに置いてあった岡持を持ち上げながら、わたしは厨房にいるはずのお父さんに話しかけた。

 お父さんはわたしが手伝うことを渋るような顔をするけれど、他に頼める人がいないから「いいから勉強しろ」とは言ってこない。水面さんはよく働いてくれるのだけど、この町にきてまだ日が浅く、土地勘がまだあまりない。お店の近所なら出前を任せられるのだけど、ややこしい場所になるとわたしの出番というわけだ。

 以前はお父さんが自分で出前運びもしていたのだけど、最近は夕飯時に備えての仕込みが忙しくて厨房から手が離せないことが多い。その理由を一言で言ってしまえば、水面さんが美人だからだ。

 水面さんがうちで働くようになって以来、お昼時や夕飯時のお客さんが、ぐんと増えた。その内訳の九割以上が水面さん目当ての男性客なのだから、それだけでもうバイト代以上の働きをしてくれている。

 お店が繁盛して忙しくなるのはいいことだけど、お父さんとしては、わたしが出前の手伝いをしないとお店を切り盛りできないことが不満のご様子だ。わたしだってちゃんと勉強時間を確保しているし、定期考査だって悪くない点を取っているし、心配無用なのに。

 うちの経営事情はともかく、あのときわたしは岡持を片手に自転車を漕いで出前を届けに向かったのだった。

 注文があった先は、うちから大分離れたアパートの一室だった。色々なものが古臭い町だけど、そのアパートの古さはとくに際立っていた。壁は黄ばんでいて、ところどころに罅が入っている。ちょっと大きな地震があったら間違いなく崩れるだろう。部屋だって、絶対にお風呂なしでトイレとキッチンは共用だ。もしかしたらお風呂はないかもしれない。

 こんな戦前から建っていそうなアパートに住んでいる人がいるなんてこと自体が、わたしには信じられなかった。

「ええと、二〇三号室ね」

 わたしはメモしてきた部屋番号を確かめてからアパート内に入った。建物の中も外見の印象そのままに古びていて、空気が黴臭い。本当に人が住んでいるのか疑わしくなるほどだ。

 まさか人間の住人はもういなくて、出前を頼んだのは幽霊ではあるまいか――なんて下らないことを考えながら階段を上って、ひとりで苦笑した。お腹が減って出前を電話注文する幽霊って、なかなかシュールで面白い。

 二〇三号室のドアは、ぎしぎしと不吉な音をさせる階段を上がってすぐに見つかった。ホテルみたいに部屋数が多いわけではないから、すぐに見つかるのが当然だけど。

「どうも、宮田食堂です」

 部屋の戸口にブザーやチャイムなんて洒落たものはついていなかったから、わたしはドアの内側に呼びかけながらノックした。大きく叩いたら戸に穴を開けてしまいそうで、小さなノックしかできなかったけれど、声は部屋の中まで届いていたはずだ。しかし、部屋の中からはなんの物音もしない。困ったな、と思いながらドアノブを何の気なしに捻ってみたら、開いた。

「あれ……」

 一瞬驚いたけれど、出前を頼んでおきながら外出していると考えるよりは、タイミング悪くトイレに入っていると考えるほうが妥当だ。だから、わたしはノブから手を離して、もうしばらく待った。

 だけど、何分待っても部屋からは何の反応もない。いい加減、出前のラーメンが伸びてしまう。これで文句を言われでもしたら最悪だ。

「すいません、いないんですか?」

 わたしは少々強めにノックして返事がないことを確認してから、ノブを捻って室内に入らせてもらった。性質の悪いクレーマーがいたら逆に文句をつけてやろう、というくらいに意気込んでのことだったのだけど――部屋には誰もいなかった。どこかに隠れているのかもしれないと考えて室内を探してみたが、そもそも隠れられる場所が押入れくらいしかない狭い部屋だ。トイレと洗面所のドアを開けてみただけで、誰もいないことは疑いようがなかった。

「……出かけてるんだよね」

 そうだ。

 きっとこの部屋の住人は、出前を頼んでから急に外出しなくてはならない用事ができて、慌てて外出したのだ。そのとき慌てすぎて鍵をかけ忘れてしまったのに違いない――わたしはそう納得して、とりあえず注文品のラーメンを小さな卓袱台に置いて帰ることにした。

 怖いことを想像してしまう前にさっさと帰ろうとしたのだけど、こんなときにかぎって、わたしの頭は余計なことに気をまわしてしまう。

 勝手に上がり込んだことを謝るメモくらい残していったほうがいいのでは?

 そんな考えが脳裏を過ぎって、玄関のドアにかかっていた手を止めさせた。

「……」

 後で不法侵入扱いされては堪ったものではない。わたしは溜息を吐きながら、まわれ右して部屋に戻った。だけど、わたしのポケットにはボールペンが入っていたのに、紙が入っていなかった。だから、裏が白紙のチラシでも落ちていないかと思って、部屋を見渡した。

 そこで気がついたのだけど、この部屋は奇妙に殺風景だった。アパート自体が見たことないくらい古臭かったから最初は気づかなかったのだけど、この部屋には生活感がなかった。卓袱台と敷きっぱなしの布団と隅っこの小さな文机以外、何もなかった。新聞も雑誌も本も、なかった。

「あ――」

 だから、部屋の角にくっついて置かれた文机にぽつんと置いてあった赤いノートを見つけたとき、小さな声を漏らしてしまった。

 見てはいけないとは思いつつも、わたしは好奇心に負けて、そのノートを手に取ってしまった。それは赤い無地の表紙をした大学ノートだった。

 適当に捲ってみたページには最後までびっしりと文字が書き込まれていた。ちゃんと読んだわけではないけれど、どうも日記のようだった。それも交換日記だ。だって、ノートに書き込まれた文字は、どう見ても違うひとが書いたとわかる二種類の筆跡によるものだったから。筆跡の一方はいかにも男性らしい乱雑なもので、もう一方はペン習字でも習っているかのような整った文字だ。

 交換日記はノートの最後までつづいて、最後のページにはたった一文、整った文字でこう書かれていた。

『いまから訪ねます』

 ……。

 どうでもいい一文なのに、わたしはなぜか背筋に冷たいものが伝うのを感じてノートを閉じた。途端に、他人の交換日記を勝手に読んでいるのだという罪悪感が思い出されて、わたしはノートを放り投げるようにして文机の上に戻した。

 結局、他にちょうどいい紙が見つからなかったので、わたしはメモを諦めて部屋を出た。勝手に上がってしまったことは、後で丼を回収しにきたときに謝ればいい。


 その夜、わたしは夢を見た。

 わたしは夢の中で日記をつけていた。あの赤い大学ノートに、だ。

 明らかに夢だとわかっていながら、わたしは自室の勉強机に向かって、なぜかそこに置いてあった赤い大学ノートに今日一日のことを書きつけている。学校で山田くんがすっ転んだ、今日の水面さんは薄手のセーターとジーンズで微妙に体型が出ていてセクシーだった、奇妙な出前注文を受けた――そんなことをページの最下段まで書き綴った。

 日記を書き終わると、わたしはいつの間にかパジャマ姿になっていて布団に横たわる。わたしは夢の中でも眠りについたわけだ。だけど夢はまだ終わらない。わたしが眠った部屋の中に、窓の外から入ってくる人影があった。赤いノースリーブのワンピースを着た女性だ。顔はよく見えないのだけど、手足がすらりと長くて、手入れがいまいちそうな黒髪が腰くらいまで伸びている。

 赤いワンピースの女性は、わたしがさっきまで日記をつけていた勉強机の前に立つと、赤いノートを手に取ってページを捲る。わたしが書いたばかりの日記を読んでいるようだった。そして読み終わると女はペンを取り、つぎのページに長々と書き記した。彼女は左利きだった。

 彼女は日記を書き終わると、開け放したままだった窓から外に出ていった。

 夢はそこで途切れた。

 翌朝、奇妙な気分で目を覚ましたわたしは、いっそう奇妙な気分になる事実に気がついた。わたしは布団に入る前、確かに窓を閉めた記憶がある。それなのに窓は全開まで開け放たれていた。

「……」

 わたしの視線は開けっ放しの窓に向けられたまま固定された。視線をほんのちょっとずらせば、勉強机が目に入る。それが怖かった。もし机の上に、あの古アパートで見た赤いノートが置いてあったら……と思うと、怖くてしかたなかった。

 しかし、いつまでもそうして固まっているわけにはいかない。

 わたしは意を決して机の上を見た。

「……っはぁ」

 我ながら盛大な溜息が零れ落ちた。机の上には授業で使う教科書とノート以外、余計なものは置かれていなかった。

 やっぱりあれは、ただの夢だったのだ。窓が開けっ放しだったのは、わたしの勘違いだ。

「ふふ――っ」

 急におかしくなって、わたしは笑いながら布団から起き上がった。さあ寝ぼけるのはお終いだ。さっさと着替えて顔を洗ってご飯を作って食べて歯を磨いて、学校に行く支度をしよう。


 ところが、翌日の夜にもまったく同じ夢を見たのだ。いや、まったく同じではない。昨日の夢では、わたしは赤いノートの表紙を捲ってすぐ、つまり一ページ目に日記を書いた。だけど今夜の夢では、一ページ目と二ページ目がすでに埋まっていた。

 一ページ目には昨夜、夢でわたしが書いた内容がそっくりそのまま書いてあって、二ページ目にはわたしではない別人の日記が書かれていた。わたしはその筆跡に見覚えがあった。

 まるでペン習字でも習っているかのような、きれいで読みやすい字――あの誰もいないアパートで見つけた交換日記に書かれていた筆跡の片方とそっくりだった。

 いや、そっくりというのは控えめすぎる表現だ。夢の中のわたしは直感していた。

「あのアパートで交換日記をしていたのは、赤いワンピースを着た女だ」

 夢の中のわたしはその直感をごく当然のように受け止めながら、ワンピース女の書いた日記を読んでいた。日記の内容は狂的でも何でもない。

『今日は新しい友だちができた。かわいい女の子。もっと仲良くなりたい。わたしのことを知ってほしいな』

 そのような内容だった。

 わたしはそれを読み終えると、隣の白紙ページに今日の日記をつけ始めた。その晩の日記も他愛のない内容で、日記を書き終えたわたしはノートを閉じて布団に入る。するとまた、鍵をかけたはずの窓から赤いワンピースの女が部屋に入り込んでくる。女はわたしが書いたばかりの日記を読むと、ページを捲って自分の日記を書き記す。

 そして女が窓から帰っていったところで夢が途切れて、朝を迎える――明らかに昨夜見た夢のつづきだった。

 わたしはそれまで過去に見た夢のつづきを見た経験がなかったから、驚くと同時に楽しんでいた。

 ……このときはまだ、恐怖を感じてはいなかった。怖さを感じたのはさらに翌日、三夜連続で赤いワンピースの女と交換日記をする夢を見たときだ。

 日記の内容はいたって普通だったが、同じシチュエーションの夢を三晩つづけて、しかも目が覚めても日記の内容まではっきり覚えているなんて、ちょっと普通では考えられない。

 わたしはぞっとした。

 確かに日記の内容は当たり障りのないことだったが、日記を書いている相手は当たり障りの集合体だ。いくら夢とはいえ、閉まっているはずの窓から入ってくるとはどういうことだ。しかも、わたしの部屋は二階だし、それに朝起きたら本当に窓が開いているというのは冗談にもならない。

 その冗談にもならない夢が、今日まで一週間、一晩も休まずにつづいているのだ。夢の中で赤いワンピースの女が書く日記の内容は、日を追うにつれて不気味なものになってきていた。

『赤い服が好きなの』

『猫が好き。でもすぐに引っ掻くから、前足をちょん切っちゃうの』

『右手が痒いの。掻き毟ったら血が出た。赤くてきれい』

 女の書く日記はどれも、短くて散文詩みたいな文章の羅列がページ一枚分びっしりと書き込まれている。正直言って、もうかなり気持ち悪い。もうこんな夢なんて見たくないのに、眠るとかならず、あの女と交換日記をする夢を見てしまうのだ。

 わたしは日記の夢を見始めてから四日目には、寝ること自体が怖くなっていた。とは言っても夜通し起きていられるわけもない。日付を跨ぐくらいまで頑張って起きていても、それ以上は無理だった。気を抜いた瞬間に眠ってしまって結局、交換日記の夢を見てしまうのだ。そして翌日は寝不足状態で過ごすことになり、夜になると耐え切れずに眠ってしまって、また夢で日記をつけることになる――この循環から逃れることはできず、どう足掻こうとも交換日記の悪夢から逃れることができないでいた。

 こんな調子だったものから、わたしの体調は最悪だった。学校でも友だちから「悩みがあるなら話して」と心配されたし、自宅でもお父さんがなにか言いたげな顔でちらちら視線を投げてきたりしている。父さんはお客に対しても無愛想だけど、娘に対しても口数が少ない人だから困る。いまは水面さんがいるから問題ないけれど、こんな性格でよくいままで飲食店をやってこれたものだ。

 色んな人に心配してもらったけれど、わたしは誰にも交換日記のことを打ち明けられずにいた。だって、どんなふうに説明したところで、わたしがノイローゼだとしか思われないに決まっている。

「最近いつも決まって、知らない女性と交換日記をする夢を見るの。それが怖くて寝不足なのよ」

 もし、わたしが友だちからそんな相談をされたら、「そう、疲れてるのね」としか答えられない。だからわたしも、みんなには「ううん、心配しないで」と笑顔を見せるだけだった。

 だけどただひとり、わたしがはっと息を飲む質問をした人がいた。

「葵ちゃん……最近、変な人につけまわされたりしていない?」

 そう訊ねてきたのは水面さんだった。

 それは交換日記の夢を見るようになってから一週間目になる日の放課後、気分転換にお店の手伝いをしようと食堂に下りてきたときのことだった。

 エプロン姿の水面さんが、「変なことを聞くけど」と前置きしてから、恐る恐るといった態度でそう聞いてきたのだった。

「え?」

 わたしは驚きに目を見開いた。

 水面さん以外、寝不足で目の下に隈を作ったわたしの表情を見て漠然と心配してくれる人はいても、具体的なことを質問してきた人はいなかった。

「水面さん、何か知ってるんですか!?」

 わたしは思わず詰め寄ってから、水面さんの言っていることが現実の人物についてのことかもしれない可能性に思い至る。例えば水面さんにストーカーしている男性がいて、そいつがわたしに迷惑をかけているのだ――とか、そんなふうに水面さんが勘違いしている可能性だ。

 だって、わたしは夢の内容について誰にも話していない。だから、夢にでてくる赤いワンピース女のことを水面さんが知ってるわけがない。

「あはは……いえ、知ってるわけ、ないですよね。すいません」

 わたしは水面さんに詰め寄った姿勢のまま苦笑した。だけど水面さんは神妙な面持ちを崩さない。

「髪が長くて、赤い服を着た女性に、心当たりはない?」

「――!」

 びっくりした。びっくりしすぎて、目の奥がくらりと揺れるほどだった。喉が痙攣して声もでず、わたしは水面さんを大きく見開いた目で見つめることしかできない。だけど水面さんはその態度で、わたしの言いたいことをすべて察してくれた。

「そう……やっぱり心当たり、あるのね」

 水面さんは心配が当たってしまったことを悔やむように、短いけれど深い溜息を吐いた。

 わたしは震える喉を強制労働させて、声を絞りだす。

「どうして水面さんが、あの女のことを知ってるの? ううん、どうしてわたしが見てる夢の内容がわかるの!?」

 わたしは水面さんのエプロンを掴まんばかりに詰め寄ったのだけど、ひらりと身をかわされて宙を掴んだ。つんのめって慌てるわたしを水面さんが今度はよけずに抱き止めてくれる。食堂内でのことだったから、お客さんがわたしたちのほうに目をやってきて、少し恥ずかしかった。

 水面さんはわたしの肩に手を置いて微笑みながら、わずかに眉を寄せて考える仕草を見せる。

「いまは話し込むほど時間もないし、店仕舞した後で葵ちゃんの部屋にお邪魔してもいい?」

「ええ、はい……」

 本当はいますぐにでも話を聞きたかったけれど、仕方なしに頷いた。

「じゃあお店が終わったらね。こっちはわたしひとりで大丈夫だから、部屋で宿題でもしながら待っていて。葵ちゃんにいつも手伝ってもらっていたら、わたしがクビにされちゃうもの」

 それがわたしの身体を気づかっての言葉だということは、考えずともわかった。たぶん洗面所にいって鏡を見たら、自分で想像している以上に青白くなっている顔が映ることだろう。そんな顔をした子供がいたのでは、お客さんだって食事が不味くなるに違いない。

 本当は、部屋にひとりでいるのも落ち着かないから気晴らしにお店の手伝いでもしようと思っていたのだけど、ここは素直に水面さんの気づかいを受けることにした。

「うん、わかりました。元気のない店員がいたんじゃ、お客さんも食欲わかないだろうし」

「そうそう。葵ちゃんはのんびり勉強でもしてなさいな」

「はあい」

 わたしは冗談めかして返事すると、二階の自室に戻った。

 階段を上って自室に戻り、戸を閉めた途端、急に疲れが襲ってきた。頭がぐらりと揺れて、三つ折りに畳んだままの布団にばたんと倒れそうになる。だけど、右足を一歩踏み出して堪えた。倒れて眠ってしまったら、また交換日記の夢を見てしまいそうで怖かったからだ。

「よしっ、勉強しよ」

 眠気覚ましに頬を両手でぴしゃりと叩いて、わたしは机の上に問題集と教科書を並べた。勉強すると目が覚めるような特異体質ではないけれど、ここ数日の睡眠不足で授業に身が入っていないのも確かだ。せめて復習をきちんとしておかないと、テスト前が大変なことになる。

 寝ても覚めても気苦労からは逃れられない運命らしい。

「はぁ……わたしも大変だなぁ」

 溜息を吐きながら、わたしは眠ってしまわないように用意した洗濯バサミを早速ひとつ、頬に挟んだ。

 泣きたくなるほど目が覚めた。


 夕食時が終わって表を歩く人通りがなくなった頃、うちも店仕舞の準備を始める。ずっと開けていても、常連さん以外のお客さんがくることは滅多にないし。

 水面さんが店先に出て暖簾を下ろしたら、その日の余りものでお父さんが夕飯を作ってくれる。大抵、水面さんも一緒に食べていく。

「どうせ家に帰ってもひとりですし、バイト料の一部を現物支給してもらえると助かります」

 水面さんもそう言って喜んでいるし、わたしも嬉しい。毎日朝晩、お父さんとふたりきりの食卓では飽きてしまう。お父さんだって、二人前より三人前のほうが作り甲斐があって楽しそうだ。

 今夜の夕食は麻婆豆腐だった。

 食べ終わった食器を洗うのはわたしの役目だ。といっても最近は水面さんが手伝ってくれているから、ほとんど時間がかからず終わっている。

 食後の一仕事を終えると、わたしと水面さんは階段を上ってわたしの部屋に入った。もちろん、中断していた話のつづきをするためだ。

 座布団に座って向かい合うと、わたしは我知らずに唇を舐めて湿らせた。聞きたいことは山ほどあったけれど、かえって何から訊ねればいいのやら、迷ってしまう。

「ええと……水面さん。なんで水面さんは、わたしの見ている夢の内容を知っていたんですか?」

 わたしの問いに、水面さんは直接答えることは避けた。

「その話をする前に、まずは葵ちゃんが見てる夢のことを詳しく話してくれるかしら?」

「あ、はい」

 わたしは小さく頷いて、言葉を探しながら交換日記の夢を話した。それから、この夢を見るようになった切欠だと思っている古アパートでの出来事も話した。

 わたしの話を黙って聞き終えた水面さんは、空間の一点をじっと見つめて考え込んだ。

「……」

 わたしはすぐにでも水面さんの話を聞きたかったのだけど、水面さんが考えているのを邪魔してはいけないと思って、じっと待った。

 たぶん一分か二分か、待ったのはそのくらいの時間だったと思う。水面さんは珍しく歯切れの悪い口調で話し始めた。

「ええとね……まず言っておくけれど、わたしはその日記の女性と何の面識もないのよ。ただね、その……」

 水面さんは本当に言いにくそうに口をもごつかせた。わたしは話のつづきを早く――と促そうとして、あることに気づいた。

 水面さんはさっきから、わたしの背後にちらちらと目をやっているのだ。まるで、そこにいる誰かを盗み見ているかのように。

「――っ」

 喉が引き攣った。

 わたしの背中には押入れがある。だけど押入れの襖はきちんと閉めていたはずだし、そもそも、この家にいるのはわたしと水面さんとお父さんだけだ。押入れに隠れてふざけるような誰かなんていない。強盗が潜んでいるのなら、水面さんはきっと気づかない振りをして、わたしを階下に連れ出そうとするはずだ。

 わたしは、水面さんの視線が意味するところを直感していた。だけど、その直感が正しいのかどうかを水面さんに問うことができなかった。

 沈黙はたぶん短かったと思う。先に意を決したのは水面さんだった。

「あのね、いるの。葵ちゃんの背中に、その……赤いワンピースの女性が……」

 ああ――やっぱりそうなのか。

 もうわたしは背中を振り返れない。鏡を見るのも嫌になった。あの女はやっぱり幽霊だったんだ。あのおんぼろアパートに出前を届けたときから、赤いノートを開いたときから――わたしはあの女に取り憑かれていたのだ。

 アパートの住人はきっと、わたしを誘き寄せるためにあの注文したんだ。戸を開けたままにすれば、わたしが勝手に中に入って、あの赤いノートを見つける。そしてページを捲って読んでしまうことまで見越していたんだ。きっとノートを読んでしまったことがスイッチになって、わたしは取り憑かれてしまったんだ。

 ……あ、違う。たぶんもっと最悪だ。

 あの部屋の住人はたぶんもう、この世のどこにもいない。うちに電話して出前を注文したのは、あの女本人なんだ。

 アパートに置いてあった赤いノートの最後にはこう書かれていたはず。

『これから訪ねます』

 つまり、あの部屋の住人はワンピース女の訪問を受けて、そして――きっと殺されたんだ。そして、わたしはつぎの獲物に選ばれてしまったんだ。いつかわたしも、夢での交換日記に『これから訪ねます』と書かれて、あの女の訪問を受けるんだ。夢に現れて日記を書いているだけなら、気味が悪くてもまだ許容できる。だけど、それだけで終わるはずがない。そう遠くないうちに――そう、あの赤いノートが最後のページまで埋まったとき、わたしの前にあの女が夢から現実に抜けだして、わたしを殺しにくるんだ。わたしは殺されて、その代わりに赤いノートだけが残されるんだ。

「葵ちゃん、落ち着いて!」

「あ――」

 左頬に走った痛みが、わたしの思考を現実に引き戻してくれた。水面さんの右手が中途半端に持ち上げられているのは、わたしの頬を平手打ちしたからだ。

「ごめんね。でも落ち着いた?」

「はい……」

 わたしが頷くと、水面さんは肩を揺らして笑みを浮かべる。

「よかったわ。葵ちゃん、ものすごく怖い顔をして固まっちゃったから、もうどうしていいかわからなくて……それでつい叩いちゃって、ごめんなさいね」

「ううん、それはいいんです。おかげで頭がすっきりしましたし。でも……」

 でも、頭がすっきりしたからといって、一週間つづいている夢が嘘になるわけではない。

「あの、水面さん。わたしの背中に、その、いるって……本当ですか? 水面さん、そういうのが見える人なんですか?」

「嘘を吐くんだったら、もっと面白い嘘を吐いているわよ。……ずっと昔に神さまとふたり暮らしをしてたから、色んなものが見えて当たり前になっちゃってるのよね」

「へ? 神さまと?」

 水面さんが突然口走った言葉にわたしが目を点にしていると、水面さんは悪戯っぽく笑った。

「ね、面白い嘘でしょ」

「……」

 水面さんって、いつもは素敵なお姉さんなのに、たまに性格がわからなくなる。わたしも水面さんくらい大人になれば、大真面目な顔でさらりと冗談を言えるようになるのだろうか。そんな冗談が言いたいかどうかは別として。

「冗談はいいとして――葵ちゃん、もう心配しなくていいわ。わたしね、見えるだけじゃなくて、ちょっとしたお払いもできるの。だから大丈夫、葵ちゃんに危険なことは起きないから」

 水面さんの笑顔に、わたしは喜ぶより先に驚いた。

「お払いなんてできるんですか!?」

 わたしが顔をずいと近づけたら、水面さんは笑顔を引き攣らせて目を泳がせた。

「あ、はは……まあ、たぶん、ね。ただし、いまの状態だとまだ手が出せないのよ。葵ちゃん、交換日記のページが後何日で最後までいくかは覚えていない?」

「ええと……すいません」

 目を瞑って夢での光景を思い出そうとしたのだけど駄目だった。日記の内容は覚えているのに、ノートの残りが後何ページかまでは記憶していなかった。

 ただ、交換日記のノートは表紙こそ全面真赤で不気味だけれども、中身はごく普通の大学ノートだ。普通の日記帳みたいに一年分もある分厚いノートではない。わたしとワンピース女で一ページずつ、一日二ページ使って一週間が経ったわけだから、いままで使ったページ数は二十八ページになる。ノートを手に取った感触を思い出してみると、それでだいたいノートの半分くらい埋まっていたと思うから、後もう一週間ほどで最後のページまでいくと予想できた。

 そのことを話すと、水面さんは何事かを考えている顔で頷いた。

「じゃあ今夜もし余裕があったら、ノートのページ数を数えて、後何日で埋まるのかを確認しておいて」

「わかった、やってみます。でも夢の中でのことだから、ちゃんとできるか自信ないですけど」

「大雑把にでもわかればいいわ。最後が近くなったら泊り込めばいいんだし」

「え?」

 首を傾げるわたしに、水面さんは大真面目な顔で人差し指を立てている。

「決戦は交換日記が終わる日よ。その晩になったら、わたしもこの部屋に泊まらせてもらうから」

「……はい」

 わたしは小さく頷いた。

 今日はこれでお開きになった。帰り際、水面さんは「夢に見るだけだから、ちょっと気持ち悪いだけよ」と肩を抱いて元気づけてくれた。だけどそれって、あんまり慰めになっていないです……。

 その夜もわたしは交換日記の夢を見た。夢の中のわたしは、わたしだけどわたしではない。自分が出ている映画を観客席に座って見ているような変な感覚だ。見ているのは自分なのに、手足を動かしているのは他人。

 ああ、今夜もまた交換日記をさせられるのか――いい加減諦め気分だった。わたしは、自分の身体が椅子に座って赤い大学ノートを開くのを見ている。

 ノートには、昨晩にワンピース女の書いた日記がある。夢のわたしは今日一日の出来事をノートに記す前にそれを読む。

『今日はホームセンターで芝刈り機を買った。いつも鉈やノコギリじゃ進歩ないもの。今回は急がないといけないかもしれない。あの女、人間じゃない。危険だ。でも早いうちにいい道具が見つかってよかった』

 そのような内容の日記だった。

 相変わらず意味不明の日記だけど、珍しく短文の羅列ではなくて普通の文章だ。それにしても『あの女、人間じゃない。危険だ』とはどういう意味だろうか。水面さんのことを指しているのだろうか?

 この日記が書かれたのは昨日だから、もしこれが水面さんのことを指しているのだとしたら、ワンピース女は水面さんのことを昨日かそれ以前から知っていたことになる。

 そして、水面さんがいるから急ぐ、と書いているわけだ。芝刈り機で急いで何をするのか知らないけれど。

 わたしの意識は思索に耽っていたけれど、夢の中のわたしは淡々とペンを走らせて今日の日記をつけていた。そして布団に入って目を閉じる。目を閉じたはずなのに周りが見えるのも、これが夢だからこそだろう。

 わたしが寝息を立て始めると窓が開き、いつもの赤いワンピースを着た髪の長い女が部屋に入ってくる。二階の窓だというのに非常識な女だ。

 そこまではいつものことだったのに、それからの展開がいつもの夢と決定的に違った。窓枠に片足をかけて部屋に上がり込んだ女は、左肩に金属の棒を担いでいた。棒の下端には大きな鉛筆削りみたいなものがついていて、上端には円盤状のノコギリがついている。わたしはこの器具を実際に見たことがなかったが、ほとんど直感的に理解していた。

 これが芝刈り機だ。

 ワンピース女は、いつもは鉈やノコギリでやることをするために、芝刈り機を抱えてやってきたのだ。いつもは赤いノートが最後まで埋まったときにすることを、今回は急いでするために。

「そノ通りヨ」

 ワンピース女は何ヶ月も櫛を通していないようなぼさぼさの前髪で両目を隠したまま、唇をにたりと歪ませた。銀紙を噛みながら喋っているような耳障りな声をしている。

 夢の中のわたしは布団に入って寝たままだ。わたしの意識はこうして起きて、自分の身に迫っている危険を察知しているのに、わたしの身体は一向に目覚めてくれない。夢の中のわたしが起きないのなら、わたし自身が本当に起きればいい。こんな夢から目を覚ませば、きっと助かるはずだ。早く目が覚めろ、目が覚めろ、目が覚めろ!

「くクく……無駄ヨ。起きれヤしないサ」

 女は耳障りな調子で笑って芝刈り機のエンジンを吹かした。円盤ノコギリが高速回転する。唸るエンジンにあわせて女が笑う。ぐけケケけケけケ。

 聞いているだけで耳がずたずたに切り刻まれそうな高笑い。それなのに、夢のわたしも現実のわたしも、どちらもさっぱり目を覚ましてくれない。意識だけがこうして覚醒したまま、芝刈り機が布団ごとわたしを切り刻もうとするのを見ていることしかできない。何なの、この拷問は!

「痛イよ、痛いヨ……うくグクぐクく」

 女はわたしの寝顔を見下ろして、唇をにたにた笑わせる。身体を左右に揺らしながら、ゆっくり見せつけるように芝刈り機を振り上げる。あれが振り下ろされたら、わたしの身体は真っ二つだ。……ううん、芝刈り機ではきっと真っ二つにならないだろう。芝刈り機を使ったことなんてないけれど、ノコギリ状の回転刃で人体を一刀両断にするのは無理がある。ごりごりと刃を押しつけられて、時間をかけてゆっくりと、皮膚も脂肪も筋肉も血管も内臓もぐちゃぐちゃのミンチになるまで切り刻まれていくんだ。嫌だ、そんなの嫌だ、嫌。こんなに嫌なのにどうして目が覚めないの!?

 唇はおろか瞼ひとつ動かせないまま、わたしは意識だけで泣き叫んだ。けれども心のどこかで理解していた。わたしは絶対、起きることがないのだ。もう遅い、逃げられない。このまま苦しみながら芝刈り機の餌食になるしかないのだ。

「くひゥグくキきケケけ」

 非音楽的な笑いとエンジン音の協奏を聞きながら、わたしは人生最期に耳にする音がこんな狂った音楽であることを悲しんだ。

「諦めちゃ駄目よ、葵ちゃん」

 ――!

 耳に突然飛び込んできたのは、紛れもなく水面さんの声だ。

「おのレ……」

 ワンピース女は芝刈り機を振り上げたまま、初めて表情を変えた。口の端から真赤な血が伝うほど下唇をきつく噛みしめると、勢いよく顔を上げて部屋の戸口を睨みつけた。その拍子に前髪が跳ねて、満月のように見開かれた両目が露わになる。黄色く濁った瞳孔は、激しい怒りでぐつぐつ煮え立っていた。

 怒り狂うワンピース女とは対照的に、開け放った戸口に立つ水面さんの声は涼やかだ。

「胸騒ぎがするから様子を見にきてみたら――呪いをフライングするだなんて、反則よ。ルール違反だわ」

「るールはあたシの気分ヨ」

「そう言うと思ったわ」

 水面さんは鼻で笑いながら部屋に入ってくる。これだけ騒がしくされたら、いくら夢とはいっても目が覚めていいだろうに、わたしは相変わらず安らかな顔で眠ったままだ。眠っていながら部屋の情景がしっかり見えているというのも変な感じだが、夢だと思えば、もう何でもあり、だ。

 ワンピース女と水面さんは、わたしの眠っている布団を挟んで対峙した。

 水面さんはいつものラフな装いと違って、白いノースリーブのワンピース姿だった。そして片手には……なぜかフライパンが握られていた。お店の厨房でいつもお父さんが振っている、鉄製の重たいフライパンだ。

 赤いワンピース姿で芝刈り機を肩に担いだ女と、白いワンピース姿でフライパンを提げた水面さん。そして、ふたりの間ですやすやと眠るわたし――これほどシュールな夢を見ている中学生は日本中探してもいないだろう。

 ワンピース女と水面さんは睨みあったまま微動だにしない。一触即発の熱気沸き立つ空気というのを、わたしは初めて目の当りにした。ふたりの眼光に温められた空気が本当に揺らめいているのだ。夢だから、かもしれないけれど。

「キさま、何者ダ?」

 ワンピース女の呻くような問いを、水面さんは無視する。

「あんたこそ何よ。最初はあんまり薄っぺらかったから見間違いかと思ってたくらいよ。そのうち段々色が濃くなってきたと思ったら、趣味の悪い格好してるし」

「黙レ。地味ナ女が喚クな」

 ワンピース女がまた口の端から血を垂らして呻いたが、水面さんはまたも無視した。

「あんた、かなり前からわたしのことに気づいていたでしょ。わたしのことを怖がっていたでしょ」

「……」

「あんたが葵ちゃんの肩越しにわたしを見て怯えていた姿を思い出したら、ぴんときたのよ。それで急いで戻ってみたら案の定、フライングなんてずるをしているし」

「勘のイいやつ。いヤ、これモ神通力か……やはりキサまハ危険だ!」

 おしゃべりの時間はそこで終わりだった。

 赤いワンピースの女は、言葉の最後と同時に芝刈り機を大上段から振り下ろした。

「おっと!」

 水面さんが避けていたら、空振りした芝刈り機が布団ごとわたしの身体に当たっていたことだろう。だけど水面さんは後ろや横に避けようとせず、わたしの寝ている布団を飛び越えてワンピース女に体当たりした。槍と同じで、芝刈り機の刃がついているのは柄の先端部だけだ。懐に潜り込んでしまえば、金属の柄に打たれることはあっても、回転するノコギリの餌食になることはない。

「おノれ!!」

 ワンピース女もそれがわかっているのだろう、背後の開け放された窓に向かって大きく飛び退くと、そのまま夜の屋外に消えていった。とても膝丈のワンピースを着た女性の動きとは思えない――いや、体操選手だってこんなに跳ぶことはできないだろう。

「逃がさないわ!」

 水面さんもワンピース女を追いかけて何の躊躇いもなく、窓枠に足をかけることもなく、屋外へと飛び出していった。

 わたしもここが二階だということを忘れて窓を乗り越えた。窓の外に飛び出してから、自分がまだ部屋で寝ていることに気がつく。身体は眠ったまま動かなくても、意識と感覚は自由に動かせるらしい。どうせ夢だし、細かいことはどうでもいい。わたしは水面さんを追いかけた。

 水面さんとワンピース女のふたりは、窓の上――緩い三角形に傾くトタン屋根の上でチャンバラをしていた。

 赤いワンピースを着た女の振りまわす芝刈り機がエンジン音の唸りを上げ、白いワンピースを着た水面さんがそれをフライパンで受け止めて火花を散らせる。水面さんは芝刈り機の回転刃を受け流しながら間合いを詰めようとし、ワンピース女はそれを嫌って、振りまわした芝刈り機で牽制しながら飛び退く。

 現実ではありえないほど大きな満月に照らされた赤と白の影は、まるで屋上で円舞曲ワルツを踊る妖精のように見えた。ふたりの手にした芝刈り機とフライパンが撒き散らす火花に目を瞑り、互いの口から迸る気勢を無視すれば、だけど。

 意識だけのわたしには、踊るように戦うふたりを見守ることしかできない。もちろん、応援する相手は水面さんだ。

「水面さん、やれっ、そこだっ、いけ!」

 だけど、わたしの応援も空しく、戦いは徐々にワンピース女の有利へと傾いていく。細かい動きで突きだされる円盤ノコギリが水面さんのワンピースを裂き、頬に朱色の線を引いて、逃げ遅れた髪の束を夜空に舞い散らす。

 だけど、回転する円盤ノコギリは水面さんの肌一枚しか切り裂かない。水面さんは切られても平気なところを切らせるに任せたまま、ワンピース女をじっと見据えてタイミングが訪れるのを待っていたのだ。

「――ええいっ!」

 横から首筋を狙って薙がれた芝刈り機を、タイミングばっちりで斜め上に振り抜かれたフライパンが弾き返した。

「グあっ!」

 ワンピース女は辛うじて芝刈り機を手放すことだけはしなかったが、片腕を大きく開いた体勢になって懐をがら空きにさせた。まるで用意されたような空隙に、水面さんの身体がするりと滑り込む。滑り込んだと同時に左足が絶好の位置にだんっと大きく踏み込まれて、黒光りするフライパンが甲子園級ピッチャーの投球フォームよろしく大上段から身体ごと叩きつけられる。

 がぅん!

 鈍くて重たい破砕音が、ワンピース女の利き手である左の肩をへし折った。

「ギうっギャいイイッ!!」

 夜空に絶叫が響いた。堪らず手から取り落とされた芝刈り機が、トタンの三角屋根をごんごん打ち鳴らしながら落ちていく。

 勝負あった、とわたしは存在しない拳を握った。

 ワンピース女の左腕はだらりと垂れて上がらなくなっている。芝刈り機も屋根から路上に身投げしていて、拾いにいく余裕はあるまい。水面さんがもう一発決めれば、それでもう終わりだ。

 だけど、水面さんはそうしなかった。

「……もう、これでいいいでしょう」

 水面さんはフライパンを構えていた右手を下ろして、緊張を解いた。止めを刺す気はないらしい。

 そのことに戸惑ったのは、わたしだけではない。ワンピース女も事態を飲み込めずに、噛みしめた下唇から着ているワンピースよりも真赤な血をだらだら垂れ流しにしたまま、水面さんを睨みつけている。

「キさま、情けヲかけルつモりか……?」

「あら。あんたみたいなのでも、情けなんて言葉を知っているのね」

「誤魔化すナ!」

 ワンピース女が怒鳴ると同時に唇から血が飛び散る。

「べつに誤魔化してるわけじゃないわ」

 水面さんは駄々っ子をあやす母親みたいに、肩をすくめて苦笑する。

「これ以上殴り合いをする必要が、本当にもうないのよ。外はもう夜明け――葵ちゃんもじきに目を覚ますわ」

「あたシは何度ダッてくルゾ」

「それは無理よ」

 水面さんはくいっと顎を持ち上げて、艶然と微笑んだ。

「なぜかって言うとね、わたしは明日……いいえ、もう今日ね。今日は仕事も何もないの」

「……?」

 わたしもワンピース女も、水面さんが何を言っているのかわからなくて首を傾げてつづきを待った。

「わたしは今日、朝から晩まで寝ている予定よ。あんたと夢の中でとことん話し込みながら、ね」

 笑顔で言いながら、水面さんはワンピース女の怪我していない右肩をぐわしと掴む。水面さんの迫力に飲まれてか、ワンピース女は抵抗せずに口を半開きにしてよろめいた。

「おっと、逃がさないわよ。さあ、葵ちゃんが起きる前に場所を移しましょうか」

「いヤ……待テ……ア、ちょっト!?」

 嫌がるワンピース女に水面さんが無理やり抱きついたところで、ふたりの姿が滲むようにして消えた。意識だけのわたしはふたりを追いかけようとしたけれど、それはできなかった。逆に背中から誰かに引っ張られて、後頭部から倒れ込むような感覚に襲われる。

 そして――はっと目が覚めた。

「……朝?」

 身体がやけに重たい。起きたばかりで頭に血が巡っていないこともあるだろうけれど、夢の中でずっと意識だけだったことが原因の大半だろう。身体というのは、こんなにも重いものだったのか。

 感覚の変化についていけず、わたしは上体を起こしたまま、しばらくぼんやりしていた。粉薬みたいな眠気の粒子が、開け放たれたままの窓から差し込む朝の空気にさらさらと溶けていく。

 頭をひとつ振って立ち上がったところで、わたしは自分の隣で水面さんが横になって眠っていることに気がついた。服装は夢で着ていた白いワンピースではなく、昨日着ていたラフな服装のままだ。すやすやと穏やかな寝息を立てる水面さんの右手には、なぜか、フライパンが握られていた。

「……起こさないほうが、いいんだよね?」

 夢の中でのことを思い返しながら、わたしは水面さんを起こしてしまわないようにそっと布団を出た。水面さんはいま頃、自分の夢にワンピース女を引っ張り込んでいるのだろう。

「……」

 わたしは夢での出来事を改めて思い出した。昨夜の夢だけではなくて、この一週間ずっとつづいた夢はすべて、ただの夢とは片づけられないリアリティがあった。冷静に考えれば、フライパンを握って眠る水面さんがわたしの夢に入り込んできたと考えるのは馬鹿らしいことだし、水面さんがわたしの夢から赤いワンピースの女を自分の夢に連れ込んで語り合っていると考えることも馬鹿らしかった。

 だけどもしかりに、わたしの見た夢がただの夢じゃなかったとしたら、水面さんの夢の中ではいま、どんな会話が繰り広げられているのだろうか。あんな怖い女性と話し合いができるのかは謎だけど、夢に現れた白いワンピース姿の水面さんだったら、きっと相手がどんなに抵抗して逃げまわったとしても、疲れ果てるまで追い回して話し合いの席に座らせることだろう。

 逃げまわる赤いワンピースの女と、フライパンを片手に嬉々としてそれを追いかける水面さん――そんな光景を想像して、わたしはひとりで笑いながら階段を下りた。

 珍しくお父さんがわたしよりも先に起きていて、厨房で首を傾げていた。

「お父さん、どうしたの?」

「おう、おはよう、葵。……そうだ、昨日遅くに水面さんがきたんだけど、おまえの部屋に上げてよかったよな?」

「うん、ありがとう。えっと、水面さんに相談したいことがあるって前から話していて、それで今日は何も予定がないって聞いたから、遅かったけれど泊まりにきて、一晩中話を聞いてもらっていたの。水面さん、いまはわたしの部屋で寝ているから、できたら起こさないであげて」

 わたしが即興で作り話をすると、お父さんは腑に落ちないといった表情で眉を寄せたけれど、すぐに別の心配事を思い出した。

「そうだ、葵。水面さんのことはいいとして――フライパン、知らないか? 朝ご飯に目玉焼きでも作ろうと思ったんだが、いつものフライパンがないんだよ」

「ああ……フライパンね。うん、ちょっと待ってて」

 わたしが半笑いで部屋に戻って水面さんの右手から静かに離したフライパンを持ってくると、お父さんはものすごく変な顔でそれを受けとった。

「……年頃の娘が何を考えているのか、おれにはわからんよ」

 お父さんはフライパンを片手に、しみじみと嘆息した。


 それからどうなったかと言うと、わたしがあの赤いノートで交換日記をする夢に魘されることはなくなった。

 あの日、水面さんはわたしが学校から帰ってくると、ちょうど起きたところらしく、わたしの部屋で床にぺたんと座ったまま目を擦っていた。

「ただいま、水面さん」

 わたしが鞄を置きながら笑うと、水面さんは天井に向けて両手を大きく伸ばしながら欠伸をして、わたしを見上げた。

「おかえり、葵ちゃん……それから、おはよう」

 水面さんは頬を緩めて微笑んだ。思わず抱きつきたくなるような、あどけなくて愛らしい笑顔だった。

 ――水面さんに後ろを向いてもらっている間に着替えてから、わたしはいったん階下に行ってインスタントコーヒーを淹れてくる。湯気を立てるコーヒーで目を覚ました水面さんは、今朝、わたしが目を覚ましてからのことを話してくれた。

 水面さんはやっぱり、ワンピース女を自分の夢に引きずり込んだのだそうだ。わたしの夢の中で戦っていたときは互角の勝負だったけれど、水面さんの夢の中では水面さんがいちばんに決まっている。

 ワンピース女は最初、夢から脱出しようとしてさんざん逃げまわったらしい。だけど、それはお釈迦様の手から逃げようとする孫悟空みたいな空しい努力に終わって、最後には精根尽き果てて逃げるのを諦めたのだそうだ。

 その後は本当にじっくり話し合ったらしい。夢の中特製のどれだけ飲み食いしてもなくならない紅茶とクッキーを頬張りながら、とことん話し込んだのだそうだ。

 ワンピース女がどうしてワンピース女になったのかも、そのときに聞いたらしい。彼女は血の涙を流して紅茶をごくごく、クッキーをぼりぼり貪りながら、聞くも涙、語るも涙の物語を打ち明けてくれたのだと水面さんは言っていた。

「もうね、涙なしには聞いていられなかったわ。わたしもひとつボタンかけ違えていたら、彼女と同じ目に遭っていたかもしれないし――もうね、全然他人に思えなくて意気投合しちゃったわ。あ、彼女の生い立ちについては聞かないで。誰にも話さないって約束しているの」

「はあ……」

 とても寝起きとは思えないテンションで水面さんはしゃべりつづけた。ワンピース女がじつは料理上手だったり、紅茶にとても詳しいことなどを、わたしが聞いてもいないのに話してくれた。

 こうなるともう、いつまでも「ワンピース女」と呼ぶのは悪い気がしてくる。だけど彼女自身も自分の名前を覚えていないらしく、水面さんが名前を尋ねると、しゅんと項垂れて血が伝うまで下唇を噛みしめたのだとか。

「それでね、じゃあ今度までにわたしが名前を考えてあげる、って言ったの。そしたら彼女、もうすっごい喜んじゃって。彼女ね、笑うと可愛いのよ。ああでも、あんなに期待されるとプレッシャーよね。彼女、どんな名前が似合うかしら――葵ちゃんも一緒に考えてくれる?」

「へ? え、はぁ……」

 わたしは目をぱちくり瞬かせて頷くことしかできなかった。

 どうして彼女が交換日記をするのか、赤い大学ノートにはどんな謂れがあるのか、どうして人間を殺そうとするのか――核心に触れることは何ひとつとして、水面さんは「彼女との約束だから」と言って教えてくれなかった。

 だけどそれでも、わたしはふたつのことをなんとなく確信していた。ひとつは、もうわたしの夢に彼女が現れないということ。もうひとつは、今後、誰かがあの赤い大学ノートを見つけることがない、ということだ。

 ……しかし、後者の確信は外れることになる。

 一週間後、わたしが水面さんの部屋に遊びにいったとき、文庫本に混じって置かれた赤い大学ノートを見つけるのだ。ノートの表紙には丸っこい文字で『水面と紅子の交換日記』と書かれていた。

「赤い服で紅茶が好きだからアカネちゃん。あ、紅色のベニに子供のコと書いてアカネって読ませるの。なかなか素敵でしょう?」

 赤い大学ノートに気づいて固まっているわたしに、水面さんは得意げに胸を張るのだった。

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