第2話 人形屋敷の怪

 わたしはこの町が嫌い。

 山の中の小さな、何にもない町。あるのは森と川と田んぼとコンビニもどきが一軒だけだ。こんな小さな田舎町、わたしは本っ当に嫌い。中学校を卒業するまでは我慢するけど、高校は絶対、他所の町にいってやる。そのためには、いまからちゃんと勉強しないと駄目だ。

 三年生の頃までは家でドリルを予習しなくても余裕で百点取れたのに、四年生になると算数が難しくなってきて、密かに焦ってる。

 わたしよりもずっと不真面目で毎日遊びまわってる男子が涼しい顔で百点取ってるのを見ると、すごくムカつく。でも最後に勝つのは努力したキリギリスだってお母さんも言ってたし、負けないんだから。

「ミコはまた独り言か? その癖、いい加減なおしたほうがいいぞ」

「うっさい、ヒロ」

 同級生の、というかクラスメイトの――もっとはっきり言うと、家が近所で同い年の幼馴染みでクラスメイトの野宮弘道のみや ひろみちだ。口うるさいことを言って、突っかかってくる馬鹿男子の名前は。

「突っかかってくるのはミコのほうだろ」

 うるさい、うるさい。あんたみたいな山猿がわたしよりいい点取ってるから悪いんだ。

「そんなことでいちいち怒るなよ。なんだったら勉強、教えてやろうか?」

「必要ない!」

 ああっ、ムカつくんだから、もう!

「そんなことよりさ、ミコ。おまえ、例のお化け屋敷、知ってるか?」

 ヒロはさらりと話題を換えた。こういう、わたしが怒っているのに全然動じないところも嫌い。

 ……でもいい、話に乗ってあげる。

「知ってるわ。町外れのボロい家のことでしょ。幽霊が住んでるとかっていう」

「そう、そこ。んでさ、ユウジのやつが『幽霊なんているわけない』って言うから、じゃあみんなで確かめに行こうぜ、ってことになって――」

「行ったの?」

「うん」

「それ、不法侵入っていうのよ。犯罪なのよ」

「ただの肝試しだよ。それに誰もいなかったし」

 ヒロはまったく悪びれた様子がない。というか、小四にもなってそんな子供じみたことをして恥ずかしくないんだろうか。

「誰もいないただの廃屋だったのね。はいはい、よかったわね」

「いや、でもな……」

 ヒロは急に歯切れが悪くなった。

「ユウジがさ、見たっていうんだよ」

「なにを?」

「だから幽霊を」

「へえ」

 べつに面白くない答えだったから、鼻で笑ってやった。

「へえ……って、ミコ、おまえ反応薄いな」

 ヒロの憮然とした顔に、なんとなく満足。

「だってねえ、お化け屋敷に行って幽霊を見ました……なんて作り話、いかにもあんたたちが好きそうなことじゃない」

「あ、もしかしてミコ、思いっきり疑ってる?」

「ヒロだって本当に幽霊がいると思っていないから肝試しなんてことができたんでしょ」

「う……まあ、そうだけど」

 悔しそうな顔をするヒロに、ちょっと満足。肝試しはあくまで度胸を試す遊び――誰だって本物の幽霊なんかに会いたくない。

 でも、幽霊を見たと言ってるのが裕二ゆうじくんだというのが気になる。裕二くんはヒロと違って真面目で大人しい男子だ。ヒロと違って、幽霊を見たなんて嘘で目立とうなんて考えたりしない。

 わたしはこの幽霊話に少し興味を惹かれた。もちろん、幽霊についてじゃなくて、どうして裕二くんがそんな嘘を吐いたのか、に。

 だって幽霊なんて信じていいのは小学二年生までって決まってるもの。


 つぎの休み時間、わたしはさっそく裕二くんに訊ねてみた。

「ねえ、幽霊を見たって本当?」

「え……」

 自分の机に座って時間割りの確認をしていた裕二くんは、あからさまに眉をへの字にして迷惑そうな素振りを見せた。

「……ヒロから聞いたの? 騒ぎになると嫌だから、あんまり喋らないでほしいって言ったのに」

 それは無理な相談だろう。ヒロの口は鍵のない扉どころか暖簾だ。千客万来だ。

「ヒロに話したらもう、クラス中どころか学年中に広まってると思ったほうがいいよ」

「ああ、やっぱり……」

 裕二くんはがくりと項垂れた。だけど、慰めてやっている時間はない。休み時間は短いのだから。四時間目が終わって昼休みまで待てばいいのだろうけど、まだ三時間目が始まる前だ。わたしはそんなに気が長くないし、きっと昼休みになったら幽霊話を聞きつけたみんなが一斉に押し寄せるだろう。その輪に混ざるのは疲れそうだし、幽霊に喜んでいるように見られるのも癪だ。わたしが興味あるのは幽霊じゃない。

「ねえ、裕二くん。本当は何を見たの?」

 単刀直入、駆け引きなしで核心を突いてみた。裕二くんは小さい種類の犬みたいな顔できょとんとして、それから質問の意味をすると、眉を今度はローマ字のVにしてわたしを睨みつけた。

「谷山さん、ぼくが嘘を吐いてるって思ってるんだ」

 普段は大人しい裕二くんに睨まれて、わたしは小さく身動ぎした。だけど、この程度で引き下がっては女が廃る。あ、ちなみに谷山というのはわたしのことだ。谷山美佳子たにやま みかこでミコだ。

「いいよ、隠さなくっても。わたし、ヒロと違って口は堅いよ。だからさ、教えてよ――幽霊がいるなんて嘘を吐いてまで隠したかったことが、何なのかを」

「……」

 裕二くんは口を噤んで、わたしを睨みつけたままだ。どうも説得のやり方を間違えたみたい。裕二くんは十分の休み時間が終わるまでずっとダンマリをつづけ、何も話してくれなかった。

 わたしの予想通り、昼休みになると裕二くんの机はクラスのみんなに取り囲まれた。

「ねえ、あのお化け屋敷で幽霊を見たって本当?」

「どんな幽霊だったの? あそこって一家心中があったんだよね」

「え、あたしが聞いたのだと、強盗殺人で一家惨殺されたって話だったよ」

「違うってば、心中でも強盗でもなくて、怨霊に呪い殺されたんだってば」

「そうじゃなくて、ある日突然、一家揃って行方不明になったんだよ」

 裕二くんを囲んだクラスメイトは口々にお化け屋敷についての噂を捲くし立てたけれど、裕二くんは仏頂面で黙ったまま、幽霊話を広めた張本人のヒロを睨むばかりだ。

 でも、当のヒロは早々に教室を逃げ出してドッジボールで遊びにいってしまった。みんなに囲まれて教室の外にでられなかった裕二くんは、ヒロがいなくなってからも黙秘しつづけた。

 期待していた幽霊話が一向に聞けず、さすがにみんなも飽きてきた。昼休みの三十分は貴重だ。

 みんなの興味がなくなりかけていたタイミングを見計らったみたいに、裕二くんはふいに不敵な笑いを浮かべて、一言ぼそりとこう言った。

「そんなに気になるんだったら自分で行けばいい。べつに止めないよ」

 彼を囲んでいた男子数人が「そんな言い方ないんじゃねえのか?」と声を荒げたけれど、裕二くんはそれ以上何も口にせず、唇をにやにや笑わせるだけだった。

「おい、こんなやつ放っておいて校庭に行こうぜ。せっかくの昼休みが無駄になるぞ」

「おう、そうしようぜ」

 何人かが教室を出ていくと、それに促されて「裕二くんから幽霊話を聞こうツアー」は解散した。

 わたしは昼休みの最初から教室に残って一部始終を遠巻きに眺めていた。裕二くんに話を色々聞きたかったけれど、野次馬の輪に加わりたくなかったからだ。だけど、その輪が散り散りになって裕二くんひとりが残された後でも、ずっと口を固く結んで前方を睨んでいる裕二くんに話しかけることはできなかった。

 その日は午後の授業が始まってからもずっと、裕二くんの不機嫌はつづいた。放課後になっても裕二くんは機嫌が悪いままで、誰とも喋らず帰っていった。掃除当番を堂々とサボって教室を出ていったのだけど、誰も文句を言わなかった。だって怖かったんだもん。

 わたしが教室掃除を終わらせてランドセルを背負うと、ヒロが話しかけてきた。

「なあ、帰りにちょっと寄り道していかないか?」

「……どこに?」

 なんとなく嫌な予感がしたけれど、一応聞き返した。そうしたらヒロは、じつに淀みなくこう答えた。

「お化け屋敷に」

「予感的中……」

「は?」

「ヒロ、あんたさあ、馬鹿でしょ」

「おまえより成績いいぜ」

「死ね!」

「ひどっ」

 本当にムカつくやつだ。

「どうして、わたしがあんたにつき合ってお化け屋敷なんかに行かなきゃいけないのよ」

「だってよ、他のやつら、怖がって誰も行きたがらないんだよ。で、しょうがないから、しかたなくミコを誘ってるんだよ」

「……」

 しょうがないから、しかたなく……ね。

「ほんっと、あんたってムカつくこと言う天才よね」

「まあな」

「誉めてない!」

「んなことはどうでもいいんだよ。行くか、行かないか、それだけ答えてくれれば」

 なんで、あんたのほうが苛ついた顔してるのさ。

「行くわよ、行けばいいんでしょ」

「なんでミコが苛ついた顔してるのさ」

 うるさいっつーの。

「ほら、行くんでしょ。だったらさっさとする。わたし、家に帰ったら勉強しないといけないんだから」

 わたしはヒロの手を引いて、さっさとお化け屋敷に向かうことにした。廊下で「ふたりっきりでこれからデート?」なんて冷やかされたけれど、そんなのいまさらだ。いちいち気にしてやるほど暇じゃない。

 わたしとヒロは学校を出ると、いったん家に帰ってランドセルを置いてからお化け屋敷に向かうことにした。ヒロの馬鹿は「どうせなら夜にこっそり抜けだして行こうぜ」と馬鹿を言ったけれど無視した。

 ランドセルを置いて身軽になったわたしたちは、それぞれの家から徒歩一分とかからない三叉路の中央で落ち合った。通学路の途中で、待ち合わせるときは大抵ここだ。ちなみに朝の登校時に会うことはない。だって、ヒロの登校時間に合わせたら、朝から全力疾走か遅刻かの二択にしかならないんだもん。

 遅れてやってきたのはやっぱりヒロのほうだ。

「悪い、悪い。出がけに母ちゃんに呼び止められてさぁ」

「普段から馬鹿なことばっかりしてるから信用なくなるのよ」

 ヒロは過去にも泥鰌を獲ろうとして他人さまの田んぼを荒らしたり、案山子に悪戯書きしたりしていたから、そんなに急いでどこへ遊びにいくのか、とお母さんから問い質されるのだ。

 まあ、いまでもお化け屋敷探検なんて馬鹿なことをつづけているんだから、その心配も実になっていないわけだけど。

「ちょっと勉強する振りだけでもしておけば、うるさく言われなくて済むのに」

 わたしはテレビの海外ドラマっぽく肩をすくめた。

「でも、おれのほうがミコより成績――」

「うっさい!」

「なんだよ、そっちから話を振ってきたくせに」

「ああっ、ブツクサうるさいなあ。ほら、さっさと行ってさっさと帰るんだから。行くよ」

 わたしはヒロの手を引いて――というか、手首を掴んで連行した。

 最近噂になっているお化け屋敷というのは、町外れにある廃屋のことだ。もともと一軒家の貸家で、去年までは普通に家族が住んでいたのだけれど、その家族がいつの間にかいなくなって以来、ずっと誰も住んでいない。

 最後に住んでいた家族がどうしていなくなったのかは、よく知らない。一家心中だとか強盗殺人だとか幽霊に連れ去られたとか、変な噂ばかりが耳に入ってくる。どうも、ある日突然、なんの前触れもなく一家揃っていなくなった――というのが事実で、それに色々なバージョンの尾ひれがついたということみたい。

 そんな借家に住みたいという人もなく、取り壊すのもお金がかかるし、その借家は荒れ果てるに任せて放置され、一年経ったいまでは誰からも「お化け屋敷」の名で呼ばれているというわけだ。

 待ちあわせた三叉路からお化け屋敷へ向かう途中、ヒロが急にぴんと気をつけ姿勢になって満面の笑顔を浮かべた。前方から歩いてくる白いワンピースの女性に気がついたからだ。

水面みなもお姉さん、こんにちは!」

 ワンピースの女性もヒロの声に気づいて足を止めた。

「あら、ヒロくん。それにミコちゃんも。ふたりとも、こんにちは。今日は一緒にお出かけなの?」

 女性は目を細めて、わたしたちに微笑んだ。

 彼女の名前は水面さん。いつも「水面さん」とか「水面お姉さん」と呼んでいるから、苗字は知らない。他所の町からやってきた人で、近くの食堂でウェイトレスをしている。細くてきれいな人だから、水面さん目当てのお客さんも多いんだとか。

 ……ヒロも水面さん目当てのひとりだ。立ち止まったヒロの両足は根っこが生えたみたいに重く、押しても引いても動かない。

「はい。ミコがどうしても一緒にきてくれってうるさくて……ああ、これがミコじゃなくて水面お姉さんだったら嬉しいのに」

「誰がいつ、うるさかったのよ!? ヒロが誘ったんでしょ、ひとりじゃ怖いからって」

 わたしがヒロの後頭部を思いっきり叩いてやると、水面さんは愉快そうにくすくすと笑った。普通にしていると中高生と勘違いしちゃいそうなほど若いのに、ふとしたときに見せる笑顔や遠くを見る目は、とても大人っぽくて――ヒロじゃなくても見惚れちゃうのはしかたないと思う。

 悔しいけれど、わたしよりずっと素敵な人だ。でも、いまは負けてるけれど、十年後にはわたしだって知的でスマートな美人になっているから、そのときこそ勝負だ。

「ほら、ヒロ。早く行くよ」

 頬っぺたをだらしなく緩めるヒロの手を引っ張って先を急ごうとしたけれど、ヒロはなおも足を踏ん張って抵抗する。

「いたたっ、おいミコ、ちょっと待てって――ねえ、水面お姉さん。お姉さんもよかったら一緒に行きませんか?」

 なんとヒロは大胆にも、水面さんをお化け屋敷潜入ツアーに誘ったのだ。わたしは、どうせ断られるのに……と思ったのだがなんと、水面さんは子供みたいに目を輝かせて両手をぱんと打ちあわせた。

「いいの、わたしも一緒に行って?」

「もちろんですとも!」

 わたしが口を挟む前に、話は成立してしまった。わたしは「水面さんが迷惑してるでしょ」と言おうとして口を開きかけたまま、固まるしかなかった。

 三人になったわたしたちはお喋りしながら町外れに向かった。

 お喋りの内容は、まあどうでもいい。ヒロがひたすら水面さんに話しかけて、水面さんが大げさに驚いたり笑ったりして、わたしはそれを隣で聞いている――そんなところだ。

 わたしたちは畑を縫うような畦道を抜けて、山のほうへと近づいていく。問題のお化け屋敷は大分、山に近いところに建っている。土砂崩れでもあったら怖いと思うのだけど、その分きっと家賃が安かったりするのだろう。

 山のふもとに佇む、大きいけれど煤けてボロボロの一軒家――わたしたちを出迎えたのは、そんなオンボロ屋敷だ。垣根も塀もなく、いかにもお化けが出そうな煤け具合の外壁や罅の入った窓を道沿いからも見ることができる。小さな庭があったけれど、それも草ぼうぼうに荒れ果てていて見る影もない。

「……」

 わたしたちは誰ともなく足を止め、午後の暖かな日差しの中でも不気味な気持ちにさせるお化け屋敷を眺めていた。

 水面さんが感心の溜息を吐く。

「ヒロくんたち、あそこに入ったんだ……怖くなかったの?」

「まさか、怖いだなんてそんな……」

 乾いた笑いを浮かべるヒロを、わたしはふっと鼻で笑ってやった。

「前は幽霊なんて信じてなかったから怖くなかったけど、いまは幽霊がいるかもしれないと思って怖いんでしょ」

「ばっ、ばばばか! そんなことあるわけ――」

 面白いくらい滑舌よくどもったヒロをもっとからかってやろうと息を吸い込んだら、水面さんにタイミングを奪われた。

「わたしも怖いわ。あそこ、本当に何かいるっぽいよ」

 水面さんはごくりと生唾を飲む。わたしとヒロは互いに不思議そうな顔を見合わせた。水面さんの口振りが、まるで本当に霊感があるかのような言い方だったから、ちょっと引いてしまった。

 目配せし合うヒロとわたしを他所に、水面さんは右手親指の爪をかりっと噛んで、厳しい顔でお化け屋敷を睨んでいる。その仕草はとても演技に見えなくて、水面さんが本気で身構えているのがわかった。

 爪をがじがじ噛みながら、水面さんはわたしたちのことなんか見えないみたいにお化け屋敷を睨んで、小声でぶつぶつ言っている。初めはお経でも唱えているのかと思ったけれど、よく聞いたら全然違って、ただの独り言だった。

「嘘……こんなの、まさか……こんなところに、信じられない……でも……」

 その声は口の中で噛むような小声だったから全部は聞こえなかったけれど、水面さんが本気で恐れおののいているのが伝わってきた。見ているこっちまで怖くなくってくる仕草に、ヒロが神妙な顔で喉をごくりと鳴らした。たぶん、わたしも同じ顔をしていたことだろう。

 まだお化け屋敷の敷地に入ってもいないのに、ムードはもう肝試しを通り越して、自分たちがホラー漫画の登場人物になったかのような恐怖が漂っていた。

「……どうするの?」

 わたしが訊ねると、頭よりも口のほうが発達しているヒロにしては珍しく、口をもごもごさせて言いよどんだ。

「いや、うん、そうだな……うん。でもやっぱり、せっかくここまできたんだし、このまま帰るのって負けた気分がして嫌じゃねえか?」

「べつにしないけど」

 わたしが即答すると、ヒロは途端に情けない顔をする。

「だってさあ、みんなに言ってきちゃったんだよ。もう一度行って幽霊がいるかいないか確かめてきてやる。ちゃんと行った証拠も何か持って帰る――ってさあ」

「……馬鹿」

 他に言うべき言葉が見つからなかった。でも、情けない顔した馬鹿を相手にしていたら、怖気づいているのが馬鹿らしくなってきた。

「いいよ、わかった。さっさと行って、さっさと帰ろう」

 わたしはヒロの手を引いて廃屋に近づいた。水面さんはずっと真剣な眼差しで廃屋を睨んでいたけれど、わたしとヒロが歩き出すと、一歩遅れてちゃんとついてきた。

 水面さんは美人で優しくて憧れだけど、たまに妙なことを口走ったり、急に難しい顔をして黙り込んだりするという変わった癖がある。水面さんの働く食堂の常連さんに言わせれば、そういうところも「神秘的でいい」らしい。美人は得だ。

 前方に近づいてくるオンボロの廃屋と、背中から聞こえてくる水面さんの意味不明な呟きと――変な雰囲気に前後を挟まれながら、わたしたちはお化け屋敷に乗り込んだ。

「この前はどこから入って、どんなふうに探索したの?」

 黙っているのが嫌で、わたしは適当な話題をヒロに振る。

「いまと同じ。玄関の鍵が壊れて開いたままだから、そこからお邪魔して、あとは一階、二階とまわって帰った」

「けっこう広いの?」

「入ればわかるよ」

 ヒロは玄関の扉を手前に引いて開けた。ぎいい、と錆びた蝶番の上げる悲鳴がいやに雰囲気を煽ってくれた。

 薄暗い玄関に恐る恐る入ると、正面に廊下がまっすぐ伸びている。廊下の脇には上向きの階段があって、途中で折り返しになって二階につづいていた。外観の大きさに相応しく、天井が高くて廊下も長い。家というよりもテレビドラマにでてくる民宿とかペンションを思いだす内観だ。

 それにしても、わたしって小四にしては色々な漢字を知っていると思う。これが成績にいまひとつ結びつかないのが目下の悩みだ……なんて、お化け屋敷にまったく関係ないことを考えようとするのは、ここが想像していた以上に薄暗く、怖い場所だったからだろう。

「な? けっこう広いし、それにけっこう怖いだろ」

「……まあね」

 なぜか得意げなヒロの態度がムカついたけれど、素直に同意しておいた。声を荒げてはいけないような気がしたからだ。

「ねえ、ヒロ。裕二くんはどのあたりで幽霊を見たって言ってたの?」

 わたしが訊ねると、ヒロより早く水面さんが「幽霊」の一言に反応して、喉をひくっと鳴らした。普段なら耳に届かないようなその音にびっくりして、わたしもヒロも背筋を伸ばして気をつけしてしまう。

「……水面お姉さん、大丈夫です?」

 ヒロが心配そうに問うと、水面さんは明らかに無理しているのがわかる作り笑いで頷いた。

「うん、平気よ。気にしないで――さ、ほら、早く行きましょ」

 そう言うと、水面さんは先頭に立って埃だらけの廊下をすたすた歩きだした。ちなみに三人とも靴は履いたままだ。廊下も壁紙も埃と泥で汚れていたから、靴を脱ぐ気にならなかった。けれど、それでも土足で家に上がるのは悪いことをしている気分にさせられた。

 民宿やペンションのようだといっても、あくまで一軒家だ。全部の部屋を見てまわるのにさして時間はかからないだろう。わたしたちは廊下の手前側から一部屋ずつ覗いていった。

 裕二くんは拗ねてしまって、「もう一度行ってじっくり見てくればわかるよ」の一点張りで、どこで幽霊を見たのか教えてくれなかったらしい。だからわたしたちは、こうして一部屋ずつ見てまわる他なかったわけだ。

 屋内もお化け屋敷の呼び名に相応しく、どこも空気が薄汚く澱んでいる。玄関に近い部屋から、トイレ、洗面所と浴室、物置に使っていたらしい和室が襖つづきで二部屋。廊下の突き当たりには居間と食堂がつづいていて、そのさらに奥には洋間が一部屋あった。

 これでまだ二階にも部屋があるのだから、やっぱり一軒家にしては広い。どうしてこんな田舎町の外れに、こんな立派な家が一軒だけぽつんと建っているのか、不思議でしかたない。

「なあ、ミコ」

 ヒロが話しかけてきた。澱んだ空気を吸うのが嫌で息を潜めているけれど、声はそれほど震えていない。一階の部屋をすべてまわって何もないことを自分の目で確認できたからだろう。

「何よ」

「おまえさ、どっかで幽霊、見たか?」

「ううん、見てない……と思う」

「だよなあ。水面お姉さんはどっかで見ました?」

「え?」

 話を振られた水面さんは、こっちが驚くくらい素っ頓狂な声を上げた。

 水面さんはずっと心ここに在らずでぼんやりしていて、最初は先頭に立って歩いていたはずなのに、いつの間にか最後尾になっていたほどだ。

「え、何? どうしたの、ヒロくん」

 慌ててとり繕うように聞いてくる水面さんに、ヒロは苦笑した。

「……その様子だと、水面お姉さんも幽霊は見ていないっぽいですね」

「あ――うん、ごめんなさい。とくに変わったものはなにも見てないわ」

 そりゃ、話しかけられて驚くくらいぼんやりしてたら、まわりを気にしている余裕なんてなかっただろう。思考が飛んじゃうほど怖いんだったら、家の外で待っていてもよかったのに――と呆れながら水面さんの横顔を見上げたところで、わたしは考えを変えた。

 部屋の中は薄暗くて埃っぽかったけれど、見間違いなんかじゃない。水面さんの唇は微かに上下していて、本当に微かな声でひそひそと何かを言っていた。

 水面さんがぼんやりしているように見えたのはずっと、見えない誰かと話していたからだったのだ。

「――!」

 わたしは心臓を冷たい手で撫でられた気がした。こんなに怖いと感じたことは生まれて初めてだ。

 考えてみれば、水面さんはこの家――お化け屋敷の前まできたときからすでに変だった。ひょっとしたらあのときもう、幽霊は現れていたのかもしれない。ただ姿が見えないだけで、ずっと水面さんの傍にいて、水面さんを狂わせようとしているんじゃないか――。

「ヒロ!」

「わあっ!」

 わたしが急に大声を上げたせいで、ヒロは足の裏を五ミリほど宙に浮かせて驚いた。着地して埃を舞い立たせたヒロは、身体を冷汗で冷たくしているわたしと反対の真赤な表情で食ってかかってくる。

「なんだよ、いきなり叫ぶな――」

「あのね、外に出よう」

 わたしはヒロの言葉を遮って言った。一瞬、小馬鹿にするような顔をしたヒロだったけれど、わたしが真剣な目をしているのに気づいてくれたみたいで、笑いかけた顔を険しくさせる。

「……まさか、幽霊、出たのか?」

「たぶん。でもよくわからない。でもとにかく、ここにいたらヤバい気がするの。ねえ、早くでよう」

「お、おう……あっ、まだ駄目だ。ここにきたって証拠がまだ……」

「そんなのいいから!」

 この期に及んでまだ、わたしの真剣さがヒロにはよく伝わっていないらしい。証拠とか下らないこと言ってる場合じゃない。早くここから離れないと水面さんが本当におかしくなっちゃうかもしれないのに――って、えええ!?

「ちょっとヒロ! 水面さんは!?」

「え? あ……あれ?」

「あれ、じゃないわよ! 水面さん、どこ!?」

 わたしの声は自分でも耳が痛くなるほど、きんきん上擦っていた。でもだって、しかたない。だってヒロと話していた隙に、水面さんの姿がどこにも見えなくなっていたのだから。ちょっと騒いだだけで埃が舞い上がるほどなのに、水面さんは何の前触れも痕跡もなく、消えていたのだ。

 きっと、水面さんは幽霊に連れていかれたんだ。この家に以前住んでいた家族と同じように、幽霊に誘拐されちゃったんだ。どうしよう、どうしようどうしよう。早く逃げないと、わたしたちも誘拐されちゃうかも。ああでも、水面さんを助けないと。いま逃げたら水面さんが……でも逃げたい逃げたい逃げたい。

 ――わたしが頭の中身を恐怖でいっぱいにしていた数秒のうちに、ヒロは駆け出していた。

「水面お姉さぁん!!」

 ヒロはいま一周したばかりの室内を大声で呼びかけてまわった。わたしも置いていかれるのが嫌で、急いでその後を追いかけた。もうもうと舞い上がる埃に涙が出そうになったけれど、立ち止まらずに室内を二周して水面さんを探した。だけど水面さんの姿は一階のどこにもなかった。とすると……。

「二階に上がったのか?」

 言うが早いか、ヒロは玄関すぐ脇の階段を駆け上がって二階に向かった。段が腐っていたりしないかとわたしは冷や冷やしたけれど、たぶん前回来たときに確認済みだったのだろう。それか、水面さんのことが心配すぎて、足元を確認する余裕もなかっただけかも。

 とにかく、わたしもヒロの後を追って二階に上がった。

 階段はけっこう段差が急で、その上、窓もないから暗いしで、ここを駆け上がれたヒロが素直にすごいと感心した。

 階段を上がると廊下が左右に伸びていた。向かって左はすぐ扉に突き当たり、右は廊下に沿って扉がふたつ、突き当たりにひとつ見えた。ヒロも水面さんも姿が見えない。でも、廊下に薄っすら積もった埃が舞い上がって空気が揺らいでいたから、ついさっきヒロがこの廊下を走っていったのは間違いない。問題は四つの扉のうち、どこを開けたのか、だ。ヒロたちが前回探索したときのものらしい足跡が幾つもあって、埃に残った足跡を追うことは無理そうだった。

 わたしはぷっと小さく吹きだした。

「……べつに間違えたら罰ゲームってわけじゃあるまいし」

 わざわざ声に出したのは、変な雰囲気に飲まれそうになっている自分を笑い飛ばすためだ。

 ひとりで突っ立っていると精神衛生によろしくないことがわかったので、わたしはとにかく動くことにした。

 とりあえず、いちばん手近な左手の扉を押し開ける。元から鍵はないみたいで、ノブを捻ると耳障りな音を立てながら扉が開いた。むわっと黴臭い空気が流れ出してきて、この部屋がずっと密閉されていたことを教えてくれた。ということは、ここにヒロは来ていないというわけだ。もう部屋に入る理由はなくなったわけだけど、押し開けた扉の隙間から見えた室内の様子に、思わず立ち止まって見入ってしまっていた。

「やだ、キモい……」

 そこは板敷きの部屋で、正面と右手の壁にある窓は日焼けした薄いカーテンで遮られていた。誰かが暮らしていた部屋ではないらしく、壁一面に棚が据えつけられていた。そして、その棚だけでなく床にも、足の踏み場もないくらいぎっしりと、人形が飾られて――ううん、詰め込まれていた。

 棚と床だけではなく、壁の高いところには磔にされたキリストみたいに手足や首に釘を打たれた人形が縫い止められていて、天井からも紐で首や足を括られた人形が吊り下げられていた。

 どう見ても、ここは人形置場なんかではなかった。この部屋は人形捨て場、いいや人形の処刑場か墓場だった。

 わたしだって扉を開けるときに多少の覚悟はしていたが、さすがにこの光景は予想外だ。足がすくんだというか、あまりの異様さに精神的ショックを受けて、わたしは立ったまま気を失いかけていた。

 それでもどうにか寸でのところで踏み止まって、壁に手をついてよろけながら、後退りして人形墓場の外に出るなり扉を閉めた。

「――っふえ」

 扉を閉めた途端、我ながら情けない声が漏れた。足から力が抜けて、埃と泥とその他で薄汚れた廊下にくたりと尻餅をついた。

 そのまましばらく動けなかった。扉を閉めるまで緊張していた反動で、心臓が弾けちゃうのではないかと心配になるくらいバクバク鳴って、背筋や脇の下を滝のような冷汗が伝った。

 何分間かそうして廊下に座り込んでいると、ようやく落ち着いてきた。いつまでもこの部屋の前にはいたくない。わたしはさっさとふたりを探すため、立ち上がってお尻についた汚れを払うと、階段から向かって右方向にある手近な扉に手をかけた。

 そこは人形部屋より広くて、布団のない骨組みだけのベッドがふたつ並んでいる部屋だった。夫婦の寝室、という感じだ。

「ここは普通みたいね」

 わたしはそう声に出して胸を撫で下ろした。この部屋はベッドと色落ちしたカーテン以外に何もなく、がらんとしていて変なものが隠れられるような余地はなかった。

 しかし、油断したのが失敗だった。人形のインパクトが強すぎたせいで、基本的なことを忘れていた。

 幽霊は普通、目に見えないのが当たり前なのだ。だから、見えないからといって、何もいないと油断してはいけなかったのだ。

『……どうしようか』

「え?」

 急に聞こえてきたひそひそ声に、わたしはびくっと背筋を伸ばして呼吸を止めた。心臓はその反対に、勢いよく脈打って、耳の内側でどくどくと早鐘を打つ。

 息を止めたまま、あたりを見まわしてみる。だけどやっぱり誰もいない。思いきって勢いよくまわれ右をしてみたけれど、いつの間にか誰かが背後に立っている、ということもなかった。

「……気のせい、だったのかな」

 と呟いたとき、なんともまあタイミングよく、また小さな声が部屋のどこからか聞こえてきた。

『ねえ、どうするのさぁ』

「――!」

 もう空耳でないのは間違いなかった。

 せっかく止まった脇の下の冷汗がまた滲むのを感じる。身動きしたら駄目な気がして、わたしは目玉だけを左右に動かして声の正体を探した。

 ……駄目だ、やっぱり誰もいない。わたしは一体どこの誰から話しかけられてるの!?

 とにかく返事しなくちゃいけない――ううん、違う。本で読んだことのある怪談だと、霊の呼びかけに答えてしまったことが原因で不幸なことが起こるのが定番らしい。だからここは、ずっと黙っているのが正解のはず。

「……」

 話しかけられているのに黙っているというのが、こんなにプレッシャーだったなんて知らなかった。息をするのもつばを飲み込むのもしてはいけない気がして、喉が震えて変な声を上げてしまいそうになる。気を抜いたらたぶん、オペラ歌手みたいな悲鳴を上げていただろう。

 わたしが息を止めていたのはたぶん二秒か三秒くらいのことだ。

『だからどうする――』

『考えてるんだよ、うっさいな』

 声がもうひとり分聞こえてきて、ふたつの声は話し始めた。どうやら最初の声は、わたしに話しかけてきていたのではなかったらしい。というより、話している声たちは、わたしのことなんてまるで気づいていないようだった。

 話し声の様子からして、どこか違う場所でされているひそひそ声の会話を糸電話で盗み聞きしているような感じだった。どこに糸電話があるのか知らないけれど、わたしのまわりを見えない幽霊が取り囲んでいるのわけではないようで、その点だけは安心した。

 声の数はいつの間にか三つ、あるいは四つ以上に増えていた。

『二日連続なんて初めてだね』

『どうする食べる?』

『お腹減ったね』

『動くの面倒……』

『わたし、こう見えてもベジタリアンなの』

『眠いよぅ』

『きみたち、あんまり騒がないでくれないか』

『うっせえ』

 一体何の相談をしているのか不明だけど、まったくまとまりがないことは、よくわかった。

 それにしてもこの会話、どこから聞こえてきているのだろう?

 さっきの人形部屋にも廊下にも人の気配はなかったから、まだ入っていない隣の部屋からだろうか。いや、それにしては声がはっきり聞こえすぎている。声の感じは遠くの会話が聞こえてきているというより、大勢が小声で会議しているのをイヤホンで盗聴しているような感じだ。

「う……」

 ふと、気色悪い光景を想像してしまった。さっきの人形たちが、わたしたが扉を閉めてから一斉に話し始めるという光景だ。部屋の位置関係を思い浮かべると、たぶんこの部屋の戸口から見て左手の壁は、さっきの人形部屋とくっついてるはずだ。壁越しに聞こえてくる会話だったら、こんなふうに聞こえるかもしれない。

 何十体もの人形が目も口も動かさないで、お互いに明後日のほうを見つめながら、それぞれ自分勝手なことを喋りつづける――ファンシーさのかけらもない光景を想像してしまって気分が悪くなった。

 もうこれ以上この会話を聞いていたくなくて、わたしは寝室だったらしい部屋から廊下に戻った。できるかぎりそっと扉を閉めようとしたのだけど、とっくの昔に錆びている扉はぎいぎい軋んだ。話していた連中にばれたかもしれないけれど、そんなのいまさらだ。

 さて、二階に四つある扉のうち、ふたつは調べた。残るは後半分だ。

 わたしは気を取りなおして、もうひとつ右隣の扉に手をかけた。

「……ん? あ、あれ?」

 扉は開かなかった。ドアノブは左右にまわるのに、なぜか開かないのだ。

「あれ、おかしいなあ」

 わたしは何度かノブを左右にがちゃがちゃ捻って格闘してみたけれど、ドアはやっぱり開かなかった。部屋の内側に向かって開くタイプの扉だから、たぶん扉の手前に家具を重ねるとかして開かないようにされているのだろう。……まさか、誰かが部屋の内側から扉を押さえているということはない、よね?

 これ以上考えるとまた怖いことになりそうなので、この扉は後まわしにして最後の扉を開けに行くことにした。

 ――と、そのとき。

「うわあああ!!」

 耳にいきなり飛び込んできた叫び声に、わたしは口を固く閉じた。心臓が飛び出さないようにするためだ。耳の内側で心臓がどっくんどっくん大太鼓を叩いている。

 だけど驚いている場合ではない。いまのはヒロの悲鳴だった。ヒロの声にかぎって聞き間違えたりするはずがない。

「ヒロ!」

 わたしは最後に残った扉――階段からいちばん離れた、廊下右手の突き当りにある扉に走り、体当たりするようにして開けた。この扉はすんなり開いたから、勢いあまって転びそうになった。でも、そんなことを気にする暇はなかった。

「あ……ヒロ!!」

 部屋に飛び込んだわたしは、壁際で仰向けになって倒れているヒロを見つけた。

「ヒロ、大丈夫!? どうしたの、ねえ起きてよ。死んでないよね、馬鹿!」

 わたしは大慌てでヒロのそばに膝をついて肩を揺さぶった。揺らしてから、テレビドラマの中でお医者さんが「揺らしたらいけない!」と言っていたことを思いだして、ぱっと手を離す。

 わたしがヒロに止めを刺しちゃったのではないか、と青くなったけれど、幸運にもそれはわたしの心配しすぎで終わった。

「う、ん……あたたっ」

 ヒロは眉をしかめて頭を押さえながら目を覚ました。

「あ……ヒロ、よかった。死んじゃったんじゃないかって心配したんだから、馬鹿!」

 思わず目尻がうるっときたのを隠そうとして、ヒロの頭を叩いた。

「ぬあぁ!」

 ヒロは大げさに呻いて頭を押さえた。

「痛ってぇ……コブになってるのに叩くなよ」

「そんなところにコブなんて作ってるほうが悪いんだよ」

「何だよ、それ――あ! そんなことより水面お姉さんは!?」

 ヒロはがばっと跳ね起きて室内を見まわした。わたしもつられて、ぐるりと見まわす。この部屋はどうやら子供部屋だったみたいだ。

 扉を開けて左手の壁際――ヒロが倒れていたそばの壁際には中身のほとんど入っていない大きな本棚が据えつけられていて、その反対側、つまり戸口から見て右手奥の隅には学習机が置いてあった。

 学習机近くの壁には、黄ばんで文字の消えかかった時間割がセロテープで壁に貼ってあった。

「くそ!」

 どんっ、と鈍い音がした。振り返ると、ヒロが本棚が置いてあるほうの壁を叩いていた。

「どうしたの? っていうか、何があったの? 水面さんはどこにいったの?」

「……消えたんだよ。この中に」

「は?」

 わたしは口をぽかんと開けて聞き返していた。だって、ヒロが顎をしゃくって指したのは、ヒロがいま叩いた壁だったからだ。

 混乱しているわたしに、ヒロは壁を睨んだまま話してくれた。

「おれがこの部屋に入ったとき、水面お姉さん、誰かと言い争っているみたいだったんだ。でも、お姉さん以外に誰もいなくて、おれはどうしていいのかわかんなくて戸口に突っ立って見ていたら、そしたら突然――」

 ヒロはそこで言いよどむ。

「そしたら突然、どうしたのよ?」

 つづきを催促すると、ヒロはごくりと喉を鳴らしてからもう一度、壁にとんと拳を当てた。

「水面お姉さん、独り言を止めたと思ったら突然、この壁に向かって飛び込んだんだ。危ない、壁にぶつかる――って思ったのに、水面お姉さん、まるで壁なんてないみたいにすり抜けて消えちゃったんだ。見えないお化けが壁の中に引きずり込んだんだ。それでおれ、びっくりして叫んじゃって、とにかく追いかけなくちゃと思って同じように飛び込んだんだけど……」

「壁に頭をぶつけて気絶した、と」

 そうだ、とヒロは頷いた。

 ――正直、何と言っていいか、わからなかった。

 壁をすり抜けたなんて言われて「へえ、すごいね」と拍手できるほど、わたしはお化けや超能力を信じていない。だけど、ヒロの態度は冗談を言っているように見えなかった。いくらヒロでも、こんな状況で笑えない冗談を言うほど馬鹿じゃない……と思う。嘘じゃないと思うからこそ、わたしは混乱していた。

 とにかく状況を整理しよう。こういうときは指差し確認だ。わたしはヒロが手を当てている壁に人差し指を向けた。

 水面さんはこの壁の中に消えた。

「この壁の向こうにも部屋があるんだとすると……」

 あるのだとすると、その部屋は、いまわたしとヒロのいる子供部屋と、さっき扉が開かなくて入ることのできなかった部屋とで直角に挟まれた角部屋ということになる。あるいは、扉の開かなかった部屋が横長であるか、だ。

 角部屋があるにせよ、横長の部屋にせよ、この壁の向こうにも部屋があるのは間違いないと思う。そうでなかったら、水面さんを壁越しに引き込んだものの潜んでいるスペースがないわけだし。

「……あれ?」

 ちょっと待って。壁の向こうにも部屋があるのだとしたら、この部屋からも角部屋につづく扉があってもいいのでは?

 わたしはもう一度、水面さんが消えたという壁を見た。ヒロは、水面さんは壁の中に引きずり込まれたと言うけれど、壁には亀裂もへこみもない。ただ、昔は白かったのだろう、埃まみれで茶色くなった剥がれかけの壁紙があるだけだ。念のために壁を叩いてみたけれど、どこにも音の違う部分や、回転扉みたいに裏返るところはなかった。

 左手側の壁で他に目につくところは、奥の隅に寄せて据えつけられた壊れかけの本棚だ。本棚には色褪せた教科書やノート、印刷のすっかり薄れた漫画雑誌などが疎らに収められている。本棚の足元には棚から落ちたらしい本が散らばっていて、わたしはその一冊を拾い上げてみたけれど、呪文が描いてあったりはしなかった。

 水面さんを追いかける手がかりになりそうなものは、やっぱりどこにもない――いや、待って。

「――そっか」

 わたしはぽんと手を打った。

「ヒロ、手伝って。あの本棚をずらすよ」

「え――おう、わかった」

 ヒロはすぐにわたしの考えていることを理解してくれて、痛む頭を撫でるのを止めて手伝いにきた。本のほとんど入っていない本棚は思ったより軽くて、ふたりがかりで一気に引き倒すことができた。

 どぉん、と大きな音を立てて倒れた本棚が裏側を見せると大量の埃が舞って、わたしは思わず目を瞑って息を止める。

 埃まみれの風が収まってから目を開けると、やはりあった。

「こんなところに扉が……」

 ヒロは驚いていた。わたしが本棚を倒したがっているのは理解していたけれど、ここに扉があるということまでは考えていなかったみたいだ。

 わたしは裏返しになった本棚に片足を乗せて、扉に手をかけてみる。幸いにも鍵がかかっていたり打ちつけられたりはしていなかった。それに、扉は横にスライドさせて開ける引き戸で、倒した本棚がつっかえて開かないということもない。

「行こう、ヒロ。水面さんはきっとこの扉の向こうにいるんだよ」

「おう!」

 わたしとヒロは勇んで引き戸を開けた。壁の反対側にある敷居のスライドが埃で目詰まりしているらしくて重たかったけれど、戸をがたがた呻かせながら、どうにか通り抜けられるだけの隙間は開けられた。

「ミコ……」

「うん」

 わたしたちは頷き合うと、抉じ開けた隙間に身体を滑らせた。

 身体を横にして引き戸を抜けたわたしとヒロはまず、その部屋の暗さに圧迫感を覚えた。そして次に――三方の壁を埋め尽くすリョウキテキな光景に「ひぁ」と間抜けな悲鳴を上げてしまった。

 わたしとヒロの入ってきた壁を除いた三方の壁には、何枚もの板切れが打ちつけられていた。たぶんこの部屋は、わたしの想像した通りに角部屋だったのだと思う。向かって正面と右手の壁を覆った板は窓を塞ぐためのもので、左手の壁に打ちつけられている板は扉を塞いでいるのだと思う。塞がれた扉はたぶん、廊下で扉を開けることのできなかった部屋とつながっているのだろう。

 わたしが部屋の中を観察していると、隣で同じようにきょろきょろしていたヒロが急にびくりと震えた。

「な、なあ、ミコ……」

「何よ……ちょっと、そんな青ざめた顔しないでよ。怖いじゃない」

 隣で怯えられると、わたしだって怖さを我慢できなくなる。こういうときは怖くても強がるのがルールじゃないの!?

「でもさ、ミコは気にならないのか?」

「何がさ」

「何って――あのさ、ここを見てみろよ」

 ヒロが振り返りながら指したのは、いま入ってきた引き戸だ。わたしはヒロの指につられるようにして振り返ってみたが、最初はヒロが何をそんなに怖がっているのかわからなかった。

「……あれ、つっかえ棒?」

 わたしが見つけたのは、引き戸をスライドさせるための敷居に落ちていた二本の棒だった。細い竹竿を短く切ったものらしく、太さはそれほどでもない。よく見ると、元は一本の棒だったものが真ん中から折れて二本になったものらしい。引き戸が重かったのは、スライドが埃で目詰まりしていたからではなく、この折れた棒が邪魔になっていたからだったみたい。だけど、これのどこが怖いんだろうか?

「ねえ、ヒロ。これのどこが、そんなに怖いのよ」

 わたしが疑問をそのまま口にすると、ヒロは顔を青ざめさせたままで、馬鹿にするように唇を歪めて笑った。

「いいか、この部屋には扉がふたつある。窓もふたつだ」

「うん」

 わたしは頷く。

 ヒロは、テストでわたしが間違えたところを無理やり教えてくるときの嫌味ったらしい口調で話をつづけた。

「窓ふたつと扉ひとつは、内側から板を打ちつけられている。んで、おれたちが入ってきた扉も、こっち側から支え棒で塞がれていたんだぞ」

「……?」

 わたしにはまだ理解できなかった。確かにヒロの言う通り、引き戸の敷居は本棚のあった子供部屋ではなく、こちら側に壁に沿って溝を走らせている。ということは、引き戸を支え棒で開かないようにさせようとしたら、この部屋からじゃないと無理なわけで……。

 ……あれ?

「ちょっと待ってよ、これって……え、嘘……」

「やっとわかったのか」

 ヒロが無駄に勝ち誇った顔をした。だけどわたしには、そんなことにムカついている余裕がなかった。今度はわたしが顔色を青くする番だった。

 この部屋は扉も窓も全部、部屋の内側から塞いであるのだ。出入りできる場所をすべて塞いだ誰かは、この部屋から出られなくなったはずなのだ。なのに、それなのに――この部屋には誰もいないのだ!

「おれが思うにさ」

 悲鳴も出ないわたしの耳をヒロの言葉が撫でる。

「この部屋をこんなふうにしたのって、部屋の外にいる何かから身を守るためだったんじゃないか、って思うんだ」

「……普通、そういうときは何かじゃなくて誰かっていうものでしょ」

 どうにか口をきくだけの元気が戻ってきた。というか、話でもしていないと本当にどうにかなりそうだ。きっとヒロも同じ気持ちだからこそ、こうして話しているのだろう。

 でも、ヒロの言葉を聞いて、また気分が悪くなった。

「だってさ、誰かっていうのは相手が人間だったとき限定の表現だろ」

「……」

「……」

 ふたりして黙ってしまった。ヒロはやっぱり馬鹿だ。自分で言って怖くなるようなことを口にするな。


 このまま黙っていると二番目の部屋で聞いたような変な話し声みたいなものを聞いてしまう気がして、わたしはとにかく思いつくままに話した。

「せっかくだから聞いておくけど、あんたの考えている何かってどんなのよ?」

 ヒロは言葉を探すような間を置いてから答えた。

「それはほら、悪霊とか幽霊とか――」

「わたしは違うと思うな」

「どうしてさ?」

「だって、霊だったら扉を板で塞いだって、壁をすり抜けられそうじゃない。さっきの水面さんみたいに――あ!」

「あ」

 わたしとヒロは同じ顔で口を開けて、目を見合わせた。ふたりとも室内の光景にすっかり気を取られてしまって、水面さんのことを忘れていたのだ。

 探すまでもなく、この部屋に水面さんの姿がないことは明白だ。この部屋には板の打ちつけられた壁と板敷きの床以外には降り積もった埃しかなく、どこにも隠れられる場所なんてなかった。

「水面さん、一体どこに行ったのよ……」

 わたしは途方に暮れるばかりだったけれど、ヒロは眉を寄せて考え込むと、閉ざされた部屋の一方――何枚もの板で塞がれた扉のほうを指差した。

「たぶん、あの扉の奥だよ。というかもう、そこしか考えられないじゃん」

「……うん、確かにそうね」

 わたしもヒロが見つめる扉を見据えた。その奥にあるのは、廊下からは扉が開かなくて入れなかった部屋だ。水面さんは隣の子供部屋から壁をすり抜けてこの部屋に連れ去れたのだから、きっと同じようにして、さらに隣の部屋まで連れ去られたのに違いない。

 ヒロがふと呟いた。

「でも、どうして水面お姉さんだけ連れ去られたんだろう。みんなで探検したときは何も起きなかったのに……」

「そんなの知らないよ」

 わたしは拳を握りしめた。自分自身を勇気づけるためだ。

「何か理由があるんだったら、後で水面さんに直接聞けばいいじゃない」

「……それもそうだな」

 ヒロは笑って頷いた。

 それから、わたしたちは打ちつけられた板を外す作業に取りかかった。釘は錆びていて、このバリケードが相当前に作られたことを語っている。この家に住んでいた家族が失踪する直前に塞がれたのかもしれない。家族の身に何かが起きて、最後に残ったひとりがこの部屋に立て篭もった。だけど努力は実らず、見えない何かに捕まって、出口のない部屋の中からどこかへ消えてしまった。そう、水面さんのように――。

 そこまで考えたところで、わたしは大きく頭を振って嫌な想像を追い払った。水面さんはどこかに消えたりなんてしていない。きっとこの扉の向こうにいるはずだ。絶対そうに決まってる!

 一秒でも早く扉を開けたかったけれど、バリケードを剥がすのは思った以上に大変なことだった。バールだかレンチだか名前を忘れたけれど、とにかくテコの原理で板を外す道具がないことには話しにならない。

 結局、一度ふたりして一階まで戻って、使える道具がないかと探すはめになった。運がいいことに階段を降りてすぐの玄関に投げ捨ててあった工具箱からレンチだかバールだか、L字形の金属棒をすぐに見つけられた。

「どうしてこんなところに工具箱が?」

 という疑問には、何となく答えが想像できた。ここがお化け屋敷と呼ばれるようになってから、ヒロたちみたいに肝試しに来る人がけっこういた。普通は開かない扉があったら怖くて放っておくと思うけれど、中には抉じ開けようと考えた人もいたのだろう。この工具箱や金属棒はそんな馬鹿な人が置いていったものかもしれない。

 ……なのにどうしてバリケードが壊れていないのか、どうして持ち帰らずに置いていったのかなどは考えないことにした。だって、バリケードを壊そうとしたら怖い目に遭って脇目も振らず逃げだしたんだとしか考えられないからだ。あ、考えちゃったよ。うぅ。

 ともかく、わたしとヒロはときどき交代しながら、錆びついた釘で馬鹿みたいに固く打ちつけられた板を一枚一枚外していった。

 ふたりとも時計なんてもっていないし、この部屋は窓も塞がっていて最初から暗く、どのくらい時間が経ったのかがよくわからない。でも、玄関を開けてからもう二時間近く経っているような気がする。外もそろそろ薄暗くなってきているはずだ。早く帰らないと夕飯抜きにされるかもしれない。

「やった、やっと全部外れた!」

 わたしが酸欠状態で朦朧とする身体を休ませていると、ヒロが心底嬉しそうな声でガッツポーズを取った。見ると、扉を塞いでいた板はきれいに剥がされて、そこらに転がされていた。わたしが休憩している間にヒロが頑張ってくれたみたいだ。

「ごめん、あんまり手伝えなくて」

「いいって、いいって。逃げないでいてくれるだけでも助かってるし」

「馬鹿。水面さんを置いて逃げるわけ、ないでしょっ」

「おまえ、そういうところ責任感強いもんな」

 一仕事やり終えたことで、わたしもヒロもちょっと笑顔が戻っていた。

 でも、ヒロの顔はすぐに引きしまった。視線は、邪魔だった板を外されてようやく現れた扉へと向けられている。ノブがついていて、こちら側に開くようになっている開き戸だ。

「ミコ、心の準備はいいか?」

 横目で問いかけられて、わたしは強く頷く。

「とっくにできてるよ。もうだいぶ時間も経ってるし、早く行こう」

「おう」

 ヒロはドアノブに手をかけた。鍵のかかっていない扉は、ぎいぃ、と嫌な音を立てて開いた。

 わたしは気がついたらヒロの背中にまわっていた。いつもだったらこんなこと絶対しないのだけど、いまは非常時だ、緊急時だ。わたしはヒロの背中に抱きついて、肩越しに扉の奥を覗き込んだ。

「あ!」

 先に叫んだのはヒロだ。だけど、それは恐怖の叫びではない。扉を開けた先、部屋の真ん中でこちらに背を向けて座り込んでいる水面さんを見つけたからだ。

 でもわたしは、ヒロの背中に隠れたままだった。だって、これって恐怖映画でよくあるパターンじゃないか。主人公が逸れてしまったヒロインを見つけて安心したと思ったところで、ヒロインがくるっと振り向くと実は悪魔だったとか、顔だけドクロだったとか――うあ、思わず想像してしまった。

 自分の想像で怖くなって、わたしはヒロの肩をぎゅっと掴んだ。

「水面お姉さん……よかった、無事だったんですね」

 ヒロが話しかけても水面さんはすぐに反応せず、背中を向けて座ったまま身動ぎひとつしない。わたしはふと階段を上がってすぐ左手の部屋で見た人形を思いだしたけれど、水面さんの肩は一定のリズムで緩やかに上下していた。ちゃんと呼吸しているから、人形でも死体でもない。ちゃんとした、生きている人間だ。

「……水面さん?」

 呼びかけても一向に反応しない水面さんに、ヒロの声にも遅ればせながら不審の色が濃くなっていく。ヒロの足が一歩、前に出た。わたしはその場に立ったままだったから、自然とわたしの手は、掴んでいたヒロの肩から離される。

 ヒロはたった数歩の距離をものすごくゆっくり歩み寄って、水面さんの肩を叩いた。その途端、

「きゃ!」

「うわあ!!」

 肩を叩かれた水面さんが小さな悲鳴を上げて、それに驚いたヒロがアクションゲームの主人公みたく飛び上がって驚いた。

 可愛い悲鳴を上げて振り返った水面さんは、驚いて声も出ないわたしとヒロを見て、瞳をぱちくりさせる。

「あれ、ヒロくん。それにミコちゃん……なぁんだ。脅かさないでよ、もう」

「驚いたのはこっちですって」

 わたしは深く溜息を吐いて胸を撫で下ろした。水面さんはいつもの水面さんだった。恐怖映画みたいな展開は、わたしの考えすぎだったみたい。

 ヒロも口から飛び出しかかった心臓を飲み込んで元の位置に戻したらしく、大きく深呼吸した。

「でもよかった。水面お姉さんが無事で」

「……ああ、ごめん。心配かけちゃったね」

 水面さんは申し訳なさそうに眉を下げてから、嬉しそうに口元を綻ばせる。

「ありがとう、心配してくれて。でもこの通り、わたしは大丈夫よ」

 水面さんの微笑で、部屋の空気が柔らかくなったような気がした。それで、わたしにもようやく室内の様子に目をやるだけの余裕ができた。

 この部屋にも窓がひとつあったが、隣室と同じように板で塞がれていて暗かった。窓があるのと反対側の壁にも、部屋の内側から板が何枚も打ちつけられて塞がれていた。板と板の隙間からドアノブが見えている。塞がれた扉は位置的に考えて、廊下に面しているはず。さっきわたしが開けられなかった扉だ。これだけ板を打ちつけられていれば、鍵がかかっていなくても開かないのは当然だ。

 内装は何というか――何の印象もない部屋だった。絨毯も敷いていない板敷きの床で、空っぽの棚と四足で背凭れのない丸椅子がぽつんと置かれているだけで、目につくものは他になかった。広さも隣の子供部屋に比べて狭く、収納部屋として使われていたのだろう。

 でも、じゃあ、どうして、水面さんはこの部屋に連れてこられたのだろうか? ということを考えていたら、この家には水面さんに壁をすり抜けさせた何かが潜んでいたのだということを思い出した。

「ねえ、ヒロ。水面さんも無事だったんだし、早く帰ろうよ」

 わたしが袖を引っ張ると、ヒロもすぐに頷いた。

「うん、そうだな――もうけっこう遅くなってるし、こんな気味の悪いところ、さっさと逃げましょう」

 言葉の後半は水面さんに向けられたものだ。ヒロは水面さんに手を差し伸べる。

「ん……そうね。わたしもお腹が減ったし、帰りましょっか」

 水面さんは笑いながらヒロの手を取って立ち上がった。わたしはそのときになって、水面さんがヒロの手を握ったのと反対の腕に人形を抱えていたことに気がついた。

「水面さん、それ……」

 わたしが目で人形を示すと、水面さんは小首を傾げるようにして、自分が小脇に抱えている人形に目を落とす。綿とフェルト製のヌイグルミみたいなお姫さまで、レースたっぷりの白いドレスを着ている。ドレスがちょっと黄ばんでいるのが残念だけど、小さな女の子が抱えたら似合いそうだ。

 水面さんは目線を人形から戻すと、ちょっと困ったように笑った。

「ああ、この子ね。この子は何ていうか――そう、もうここに閉じ篭っているのに飽きちゃったんだって」

 苦笑しながらそう話す水面さんに、わたしとヒロは横目でアイコンタクを交わす。

 水面さん、大丈夫かな? 一時的なものだろ、きっと。

 コンマ五秒の目配せ会話が聞こえてたわけではないだろうけど、水面さんは首をぶんっと大きく横に振った。きれいな黒髪と埃っぽい空気が揺れる。

「あっ、いまふたりとも、こいつ大丈夫かなって顔したでしょ。全然大丈夫よ、おかしくなってたりとかじゃ全然ないから。とにかくただ、この人形も連れて帰ろうって――あっ、ほら。ヒロくん、言っていたわね。ここに来た証拠を持って帰らないといけないって。ちょうどいいから、この子を明日、学校に持っていくといいわ。ね、そうしましょう。はい決まり。決まったら、もうさっさと帰りましょう」

 水面さんは早口で捲くし立てると、軽やかなスキップで、わたしとヒロが苦心して板を剥がした扉から出ていった。

「……本当に大丈夫かな?」

 その背中を目で追いながら、ヒロがぼそりと呟いた。

「本人が大丈夫って言うんだし、大丈夫なんじゃない?」

 わたしは投げやりな感じで答えた。

「そんなことより、とにかく外に出ようよ。ずっとここにいたら、わたしたちのほうが大丈夫じゃなくなっちゃうって」

「それもそうだな」

 ヒロの苦笑を合図にして、わたしたちは水面さんの白いワンピース姿を追いかけた。外はもう日が沈んでいるんだろう――ただでさえ薄暗かった室内はさらに暗くなっていて、段差の急な階段を下りるときは足を踏み外しそうで怖かったけれど、何かに足を取られることも、変な声を聞くこともなく、わたしたちはお化け屋敷の外に出ることができた。

 外は予想していた通り、もうすっかり日が暮れて真っ暗になっていた。

「ふたりとも、時計ある?」

 水面さんの問いかけに、わたしもヒロも首を横に振った。でも暗さからして、たぶん午後六時はまわっていると思う。来たのは午後三時くらいだっただから、三時間近くもお化け屋敷の中にいたことになる。思わぬ大冒険になってしまった。

 ヒロがぶるっと身震いした。

「うわあ……こんな時間に帰ったら、母さんにぶん殴られちゃうよ」

「わたしも、晩御飯抜きにされるかも……」

 せっかくお化け屋敷から生きて帰ってこれたというのに、家に帰ってからのことを考えると暗い気持ちになった。わたしとヒロはまるで打ち合わせていたみたいに揃って溜息を零した。それが面白かったのか、水面さんはくすくす声を立てて笑った。

「ふたりとも、そんな暗い顔しちゃって。大丈夫よ、お家の人はちゃんと明りをつけて待っていてくれるから」

 水面さんは愉快そうに笑うと、町中に戻る道を歩きだした。わたしはヒロに横目で目配せする。

 いまのって上手いこと言ったつもりなのかな?

 そうなんじゃないの、とヒロも目で答えた。


 家に帰ったわたしは覚悟していたほど怒られなかった。水面さんが一緒に謝ってくれたからだ。

「わたしの部屋でミコちゃんの宿題を見てあげていたら、ついつい時間を忘れてしまいまして。もう暗いし、一刻も早く送っていこうと思いましたら、お宅に一言お電話するのも忘れてしまいまして――ご心配かけてしまって、すいませんでした」

 水面さんがそう言って頭を下げてくれたおかげで、わたしは「今度から遅くなるときはちゃんと電話しなさいよ」と軽く頭を小突かれただけで済んだ。

 水面さんはヒロの家でも同じように謝ってくれたらしくて、わたしたちはふたりとも、無事に夕食を食べることができた。服や髪が埃っぽくなっていたのには眉をしかめられたけれど、お母さんはそんなに気にしていない様子だった。外で遊んで泥塗れになって帰ってくることも少なくないしね。

 それにしても、水面さんって食堂に入り浸っている男性からだけじゃなくて、お母さんたちからも信頼されているんだということを改めて思い知った。

 その夜、わたしは電灯をつけたまま布団に入った。明るいせいでしばらく寝つけなかったけれど、暗くした部屋の中で寝れるほどの度胸はなかった。

 目を閉じたまま、わたしはずっとお化け屋敷のことを考えていた。

 いまになって気がついたのだけど、あの家に住んでいた一家がいきなり行方不明なったとしたら、警察が家を調べないわけがない。わたしたちがやったのはフホウシンニュウでも、警察がやる分には怒られない。

 警察じゃなくて近所の人だったとしても、家の中を調べたら、あのバリケードに気づいて、わたしとヒロがやったよりずっと手際よく板を剥がしてその中も確認したはずだ。

 なのに、板は剥がれていなかった。ちゃんと見たわけではないけれど、一度剥がした後にまた打ちつけたような釘の穴もなかったと思う。つまり、考えられる可能性はこうだ。

 あの家に住んでいた一家は失踪なんかしていないくて、バリケードを作ってから普通に引っ越していった。だから警察がカタクソウサクすることもなく、肝試しにきた人もバリケードを剥がそうとはしなかったという可能性が、まずひとつ。もうひとつの可能性は、家族が失踪した場合だ。警察がやってきてカタクソウサクした後で、誰もいなくなった家に忍び込んでバリケードを作った人がいたか、だ。

 どちらにせよ、誰かがバリケードを作った事実は動かせない。でも、どんな理由で?

 とくに、本棚を倒して入った部屋の窓と扉はすべて部屋の内側から板を打ちつけて封鎖されていた。あれをやった人は室内に閉じ込められていなくては辻褄が合わない。

 だけど、あの部屋には誰もいなかったし、何もなかった。というか、誰もいなくなってしまったから「お化け屋敷」なのだし。

 じゃあだったら、本当に一体、誰が板を打ちつけたのだろう……?

「あ――」

 そのとき、わたしの頭の隅っこを突拍子もない考えが時計兎みたいな早足で駆けていった。

 あの部屋に誰もいなかったというのは間違いだ。誰もいなかったけれど、水面さんが抱えていたお姫さま人形があったじゃないか。

 わたしが想像したのは、人形のお姫さまが階段脇の部屋を占拠した人形たちと一緒になるのを嫌がって逃げまわり、小さい身体で必死にバリケードを作って閉じ篭ったはいいけれど、今度は外に出られなくなって困り果てていた――という場景だった。いや、バリケードのひとつは人形のいた部屋の外から打ちつけられていたから、逃げ込んだつもりが追い詰められて、さらに閉じ込められてしまったということになるのかも。

 そこまで考えて矛盾に気がついた。

 お化け屋敷にいた人形は、水面さんに壁をすり抜けさせて密室の中まで引きずり込んだのだとしたら、自分だって壁をすり抜けて外に出ることができたはずだ。

 ……あれ?

 でも、そうだとしたら、人形部屋に詰め込まれていた他の人形たちも壁をすり抜けることができたと考えるべきだろうから、そもそも窓と扉を塞ぐ意味がないということになる。

 じゃあ、どういうことなんだろう?

 もうすっかり眠気はどこかに飛んでいて、わたしは天井を見つめながら考え込んだ。

 あの部屋は内側から出入り口が塞がれていた。だけど部屋の中には誰も――死体もなくて、あったのは人形がひとつだけ。

 だから、部屋を閉ざすことができたのは、あの人形しかいない。それから、部屋を閉ざしたということは、窓と扉を塞いでおけば外から入り込まれることがないからで――つまり、お化け屋敷の人形たちは壁をすり抜けることができないということだ。

「ということは、壁をすり抜けたのは人形がやったことじゃなくて……水面さんが自分でやったこと、とか?」

 口から零れた呟きに自分で驚いてしまった。わたしの脳内で、水面さんが自分から壁に飛び込んですり抜ける光景が再生されたのだけど、それがまた、とても自然な光景で驚いたのだった。

 案外この想像が当たりなのかもしれない。水面さんはあれで神秘的というか謎めいたところのある人だ。どうしてこんな田舎町にやってきたのか、出身はどこなのか――とか、プロフィールに空白が多い。水面さんの身の上話を聞いたことのある人って誰もいないんじゃないかと思う。

 謎という点では、お化け屋敷に残されていた大量の人形たちや、内側から閉ざされた部屋もそうだし、改めて考えてみれば謎だらけじゃないか。

 でも結局のところ、それらは全部わたしの妄想だ。バリケードを作ったのがお姫さま人形だとか、水面さんが自分から壁をすり抜けたのだとか――それが妄想なのか本当なのかを確かめる方法なんてない。本人に聞いたって真面目に答えてもらえるはずがないし。

「……寝よ」

 わたしは布団を頭まで被って、無理やり眠ることにした。明日も学校があるし、明後日には算数のテストだ。この前のテストはまたヒロに負けた。今度こそ勝つ。そのためにも、明日は今日みたいに遅くまで遊んだりしないで、ちゃんと勉強しないと――。

 そんなことを考えているうちに、わたしはいつの間にか眠りに落ちていた。目が覚めたらもう完璧にお化け屋敷での三時間は過去のことになっていて、いつもと何にも変わらない毎日がつづいていた。人生ってそんなものだ。

 そうそう、水面さんがお化け屋敷から抱えてきたお姫さま人形はいま、わたしたちの教室にある。お化け屋敷からの帰り道で、ヒロが水面さんから無理やり受けとらされたのだ。

「大丈夫、祟ったりしないわよ」

 水面さんのあっけらかんとした笑いに、ヒロが海老みたいに腰を引きながら人形を受け取っていたのが面白かった。

 翌日、ヒロがお化け屋敷にちゃんと行ってきた証拠として学校に持ってきたお姫さま人形は、そのままずっと教室に置きっぱなしになっている。なぜか先生も文句を言ってこないので、教室の隅で花瓶と並んでちょこんと座っている。

 黄ばんでいたドレスはクラスメイトの誰かが持ってきたらしいピンク色のドレスに着替えさせてもらっていて、とても満足そうに見える。

 わたしに人形の表情なんてわからないし、お化けや超能力なんて信じられないけれど、このお姫さまはこう言って微笑んでいるような気がするのだ。

「あんな辛気臭い廃墟から助けてくれて感謝するわ。あそこの連中とはそりが合わなくて困ってたのよ。ここも子供ガキっぽい連中ばかりだけど、毎日掃除してる分だけ、向こうよりはまあマシね」

 ――と。

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