水面のまにまに

雨夜

第1話 竜神池の水面

 ぼくが生まれ育った田舎は、なんてことない山のふもとにあって、その山の神さまを昔から信仰していた。

 正確には山の神さまではなくて、山中にある「竜神池」に住んでいる水神さまを信仰していたそうだ。しかし、「神さまの住む場所にみだりに近づいてはならない」という因習がいつのまにか「山に近づいてはならない」というふうに拡大されてしまったことで、山神信仰とごっちゃになったのだと考えている。

 爺さん婆さんたち年寄り連中は水神さまのことを深く信じていて、腕白盛りの子供だった当時のぼくたちが山に遊びにいこうとすると、それはもう、こっ酷く叱られたものだった。

「山に入るな。池に近づくな!」

 近所の年寄り連中から毎日のように口を酸っぱくして言われつづけると、幼心にも「あそこには神さまが住んでいて、近づいちゃいけないんだ」という意識が刷り込まれるものらしい。都会暮らしにおける金銭がそうであるように、田舎暮らしにとってのしきたりというものは絶対的だった。

 しかし、禁止されるとかえって好奇心を刺激しされてしまうのが子供というものだ。


 当時、ぼくたちはまだ小学校の低学年で、夏の暑苦しい校舎で勉強しているよりも外で遊びまわっているほうがずっと楽しい年頃だった。

 外で遊ぶといっても、耳が痺れるくらい蝉の煩い田舎でのことだから、虫取りなんて遊びにもならない。ビデオゲームなんていう洒落たものもなかったし、遊びといえば、みんなで鬼ごっこやかくれんぼをすることだった。

 たとえば鬼ごっこなら、影を踏まないとタッチしたことにならない影鬼、地面より高いところにいるとタッチされない高鬼、鬼にタッチされたひとも鬼になるゾンビ鬼――と色々なバリエーションをみんなで考えて遊んでいた。

 夏休みに入ってすぐのその日、ぼくたちは「ベトナムかくれんぼ」と名づけたかくれんぼで遊んでいた。これは鬼に見つからないように隠れて移動しながら、鬼が隠した財宝を制限時間内に見つけて奪いとる、というようなルールだ。どうしてベトナムなのかというと、隠れて移動できる場所の多い雑木林や山の中でないとできない遊びだったからだ。

 山に入ったことが年寄りたちにばれると煩かったので、いつもは雑木林で遊んでいたのだけど、毎日同じ場所だと飽きてしまうものだ。

「誰もこないんだったら、黙っていれば、ばれないってことじゃない?」

 誰が言ったのかは覚えていないけれど、ぼくたちは「それもそうだ」と納得して、その日初めて山に入り、ベトナムかくれんぼを汗だくになるまで堪能した。たぶん、みんなでやれば怖くない、という集団心理が働いていたのだろう。

 大人たちにばれないように注意して山に入ったぼくたちは、かくれんぼ開始の合図とともに、木々の生い茂った山中で散り散りに別れた。

 ぼくは鬼の背中側にまわり込むために、山中を大きく迂回しようと移動を開始した。

 生い茂った枝葉をできるだけ揺らさないようにして蝉の喚き声に自分を溶け込ませながら山の奥へと進んでいくと、急に視界が開けた。

 そこは大きな水溜りだった。

「違うわ、池よ」

「わっ!」

 そばでいきなり声がして、ぼくは両足を揃えたまま一センチほど飛び上がって驚いた。声のしたほうに頭を向けると、そこには見たことのない少女が立っていて、ぼくをじっと見つめていた。

「ここは竜神池よ。知らないの?」

 少女は教科書を音読するみたいな口調で話しかけてきた。ぼくはそれに答えず、少女をまじまじ見つめ返す。

 小学校がひとつしかない田舎の小さな町だから、子供同士はみんな顔見知りだ。だというのに、ぼくはこの少女に見覚えがなかった。

 ぼくとおない年くらいの、髪の長い子だった。

 抑揚のない声と表情の乏しさで、人形のような印象をまとった少女だ。人形みたいに整った顔立ちに、白い袖なしワンピースが似合っていて、幼心に呼吸を忘れてしまうほど見惚れた。

「ねえ、聞いているの?」

 少女は筆で引いたみたいに整った眉を寄せて、無表情だった声に苛立ちの色を滲ませる。ぼくは咄嗟に返事していた。

「聞いてるよ。ここは竜神池なんだろ」

 そう口に出汁てから、ぼくは自分がいまどこにいるのかを理解して顔を青くした。

『竜神池は神さまの住むところだ。みだりに近寄ってはならない』

 ――いくら子供だからって、この町で生まれ育ったぼくがしきたりを忘れるはずがない。山に入ったのだって「神さまは山じゃなくて池に住んでるんだ。だから池に近づかなければ平気さ」という言い訳めいた考えが心のどこかにあったからだ。

 でも普通、神さまの住んでいる神聖な池といったら、大きくて澄んでいて、もっと神々しいものを想像するではないか。まさかこんな、水溜りに毛の生えたような池が竜神池だなんて誰が思う?

 ぼくが青ざめていると、少女は急にくすくす笑い出した。

「なにが面白いんだよ!」

 ぼくは八つ当たり気味に言い放ったけれど、少女は目を細めて笑ったままだ。

「だってきみ、顔を赤くしていたかたと思ったら今度は急に青くなるんだもの。面白くって」

 どうやらぼくは、彼女に見惚れていたとき、顔を赤くしていたようだった。自分では気づいていなかったことを指摘されて、ぼくは青くなった顔をまた赤くしていたことだろう。

 少女は相変わらず笑いつづけたまま、ぼくのほうに歩いてくる。背はぼくよりも少し低くて、すぐ目の前まで近づいた少女は、ぼくの目を覗きこむみたいに小首を傾げて訊いてきた。

「ねえ、どうしてきみは、そんなふうに顔を青くしたり赤くしたりしているの?」

「それはだって……ここは竜神池なんだろ」

「竜神池だと顔色が変わるの?」

「だって、竜神池には近づいちゃいけないから」

「どうして近づいちゃいけないの?」

「神さまが住んでいるから……」

「神さまが住んでいると、近づいちゃいけないの?」

「それは……おまえだって、神さまが住んでいるんだから近づくなって言われたことあるだろ。だからだよ!」

 あんまり質問攻めされたものだから、ぼくはぶっきらぼうに言い返した。少女は両目を少しだけ丸くする。でも、大して驚いた様子はない。

「どうして、神さまが住んでいるから近づいたらいけない、なんていう話になるの?」

 不思議そうな顔で小首を傾げられても、ぼくに上手い返答ができるはずもない。言い負かされているみたいで苛々して、怒鳴ってしまった。

「そういう決まりだからだ!」

 少女は今度こそ驚いた顔をして息を飲んだ。それでなんとなく満足したぼくは、背中を向けて走り出した。龍神池から離れたかったのもあったし、ベトナムかくれんぼの途中だったことを思い出したからだ。

 ぼくが道草を食ったことが功を奏して、時間差で裏をかかれた鬼が囮役の子を探して離れた隙に、木の根元に隠してあった財宝をぼくが見つけ出してゲームは終わった。

「ゲーム終了、みんな集まれえ!」

 ぼくが大声で呼びかけると、茂みをざわざわ騒がせて、木々の向こうからみんなが姿を現す。

「ほら、ぼくたちの勝ちだ」

 ぼくは手にした財宝――ジュースの空き缶を掲げて自慢した。でも、みんなの視線はぼくが高々と突き上げた手元ではなくて、ぼくの背中に注がれていた。

 不審に思ったぼくが振り返ると、そこにはさっきの少女が背中で両手を組んで立っていた。

「こんにちは」

 少女は口の端をわずかに揺らして微笑んだ。その瞬間、みんながみんな、はっと息を飲んで彼女に見惚れたのがわかった。ぼくたちの仲間には女子もいたけれど、男子も女子もなく彼女に見惚れていた。だけど、ぼくたちが見惚れていたのも束の間のこと、みんなすぐにお互い目配せしあって、ひとつの疑問を共有するに至った。

 この少女は誰だ?

 みんな、彼女がどこの家の子供なのかを知らなかった。小学校がひとつしかない田舎の町だ――同世代の子供がいる家は大抵が顔見知りだから、仲間の誰ひとりとして知らない子がいるなんて、初めてのことだった。

 ぼくたちは目配せだけで緊急会議を開き、その結果、満場一致でぼくが会話役に抜擢されてしまった。場の雰囲気に負けたぼくは、おずおずと少女の前に進み出る。

「おまえ、ぼくの後をつけてきたのか?」

 まずは挨拶代わりにそう訊くと、少女はにこりと頷いた。

「うん、そうよ」

「なんでだよ」

「きみ、面白かったから」

 即答されて、ぼくは頬がかっと火照るのを感じた。

 小学生の男子が友達の見ている前で異性からそういった台詞を言われれば、周りから文字通りに子供じみた冷やかしの声が上がるものだ。けれども、このときばかりは誰も声を立てずに成りゆきを見守っていた。

 ぼくはとにかく話題を逸らそうとして捲くし立てた。

「面白いって何だよ――ああ、そんなことはいいから、おまえ誰だ?」

「え――」

 その質問に、少女はぼくが予想した以上に驚いた顔をして目を泳がせた。

「あ……えっと、そう。親戚のおじさんがここに住んでいて、わたしは遊びにきたの。都会から。だからこの町に知り合いはいないの、うん」

 いかにも即興の作り話という感じだったけれど、その場にいたぼくたちの誰もが、この不思議な少女にそれ以上突っ込んで訊ねる勇気がなかった。あからさまな嘘を吐かれたことでかえって、詮索する気持ちに釘を刺されたのだった。だから、ぼくが少女に訊ねたのはまったく別のことだった。

「おまえ、名前は何ていうんだ?」

「え?」

「だから、おまえの名前だよ。まさか田舎者には名乗る名前はない、なんて言うんじゃないだろうな?」

「そんなことないわ。ええっと、わたしの名前は……そう、ミナモ。水面すいめんと書いて水面みなもよ」

「水面……」

 少女の告げた名前は、ぼくたちにとって衝撃的な響きだった。このあたりの感覚は伝わりにくいかもしれないけれど、ぼくたちにとって女性の名前といえば「~子」というが当り前だったから、水面というのはエリーやジャネットみたいな、外国人のカッコイイ名前に聞こえたのだ。

「わたしの名前は水面。それで、きみの名前は?」

 水面と名乗った少女は初対面のときにそうしたみたく、小首を傾げてぼくの顔を覗き込んで聞いてきた。

「ゆ、雄作。津川雄作つがわ ゆうさく

 ぼくは反射的に首を仰け反らせて答えた。

 水面は「雄作ね」と復唱すると両手を背中にまわしたまま、ぼくの脇をすり抜けて他のみんなからもひとりひとり、名前を聞いていった。

 ぼくたち全員から名前を聞き出した水面は、にこりと微笑んだ。

「これでわたしも、みんなと友だちだよね?」

 ――ぼくたちの誰も、それを否定しなかった。というか、大きく首を縦に振っていた。それからぼくたちは水面も混ぜて、ベトナムかくれんぼを西空が茜色になるまで遊び倒した。

 夕方になり、もう帰らなければいけない時間になった。初めて忍び込んだ森で汗だくになって遊んだぼくたちは、お腹ぺこぺこだった。

「おれ、腹減ったよ。もう帰ろうぜ」

 ひとりがそう言うと、みんなすぐに賛成した。でも、山に入ったことが大人たちに露見すると怒られてしまうので、山に入ったときと同じように別れて帰ることにした。

「ねえ、また明日もここで遊ぶんでしょ?」

 別れ際、水面がぼくたちに笑顔で聞いてきた。ぼくたちにとってその言葉は、「明日もまた禁忌を破って山に入る度胸があるかしら?」という挑発に聞こえた。

 だからぼくは、挑発し返すようにこう返事した。

「もちろんさ。おまえも明日、くるよな?」

 これはもちろん、「明日はわたし用事があって……」というような否定が返ってくることを想定しての言葉だった。しかし水面は笑顔をもっと大きな笑顔にして、首を縦に振ったのだ。

「うん、もちろん! いちばんにきて待ってるから、遅れないでね」

「お、おう……みんなも遅れるなよ。な?」

 内心で冷汗をかきながら頷いたぼくは、辛うじてみんなを巻き込むことに成功したのだった。


 水面と初めて会った翌日も、そのまた翌日も、ぼくたちは神さまのいる池の近くにこっそり集まって遊んだ。ぼくたちは男子も女子もなく、みんな一緒になって野山を駆けまわった。だから女子も、動きやすくて汚れても平気な服装をしていた。

 だけど水面の服装はいつも、白いノースリーブのワンピースだった。

 最初の頃は、そんな格好で山のなかを駆けまわって手足を擦ったり服を汚したりしないものか、と余計な心配をしたのだけど、水面はぼくたちに負けないくらい元気に駆けまわっても、擦り傷ひとつ、汚れひとつ、つくらなかった。

「わたし、ほら、要領がいいのよ」

 ……だそうだ。

 まあそんなものなのかな、とぼくたちは納得して、もう余計な心配はせずに、とにかく毎日のように山で遊び倒した。大人たちが誰も入ってこない山は、ぼくたちだけの秘密基地だった。そうしたドキドキ感もまた、楽しさの一因だったのだろう。

 だけど、そんな秘密基地を長く隠しておくことはできなかった。ぼくたちは毎日泥だらけになって帰ってくるのに、町内の誰ひとりとしてぼくたちが遊んでいるところを見ていないのだ。では一体どこで遊んでいるのだ――ということになれば当然、神さまの住まう山に忍び込んでいるのかもしれない、と疑われるのは自然な流れだった。

 疑われたときのために、ぼくたちは事前に口裏を合わせて知らぬ存ぜぬを徹す、と決めていた。だけど、いちばん気の弱かった賢治けんじが本当のことを親に話してしまったのである。賢治の両親は芝居を打って「いま電話があった。雄作が全部話したそうだよ」と嘘を吐いたのだ。賢治はもうそれで我慢できずに泣きながら、みんなで山に忍び込んでいたことを暴露してしまったのだ。

 たちまち各家に連絡がいって、ぼくたちはそれぞれの親と、なによりも祖父母からこっ酷く叱られるはめになった。

「おめえ、あれほど山さへえるなっったじゃろおがぁ!」

 祖父母の世代に方言全開で怒鳴られると、孫のぼくにも半分くらいしか理解できなかったりした。だけど、そんなことを顔に出そうものなら耳が馬鹿になるまで怒鳴り散らされるのは目に見えていたから、ぼくは神妙な顔で俯いて嵐が通り過ぎるのを待った。

 そうして叱られたその夜は夕飯を抜かれ、いびきの代わりに腹の虫をぐうぐう鳴らして眠れぬ夜を過ごした。

 翌日は嫌になるくらい蒸し暑い快晴だったけれど、ぼくたちは全員揃って外出禁止を命じられていた。家から一歩も出してもらえずに朝から晩まで宿題をやらされていた。

 その翌日も外出禁止は解いてもらえず、さらにその翌日にようやくお許しが出た。もちろん、もう二度と山に近づかないことを正座して約束させられた後で、だ。

 二日の外出禁止で懲りたぼくたちは、もう誰も山に近づこうとは言わず、その日からは小学校の校庭に集まって遊ぶことにした。

 集まった仲間の中に、水面の姿はなかった。山で遊んでいたときは行きも帰りもばらばらだったから、ぼくたちは誰も水面の家がどこにあるのかを知らなかったのだ。

「おい、雄作。おまえも知らんのか?」

 ひとりがぼくにそう聞いてきました。ぼくが水面といちばん仲がよかったからだ。

「いや、知らない」

 ぼくは素気なく首を振ったけれど、内心ではかなり動揺していた。幼心にぼくは、水面から他の誰よりも多く笑いかけられている自負があった。なのに、蓋を開けてみれば、ぼくは水面の家がどこにあるのかも知らなかったのだ。知らないことを疑問にも思わなかったのだ。

 幼心にむず痒い羞恥を覚えつつも、動揺を頬の裏側に隠してぼくはこう言った。

「でもさ、あいつって都会から親戚のおじさんの家に遊びにきてるんだろ。だったらさ、いま家族がこっちに里帰りしている家がないかを大人に聞いたら、すぐにわかるんじゃないか?」

「おお、本当だ。雄作、頭いいな」

 みんなすぐに納得した。ぼくたちは一旦解散すると、家に帰って、親類が泊まりにきている家がないかを母親や祖父母に聞いてまわった。しかし――。

「え……誰もわかんなかったのか!?」

 ――そうなのだ。ふたたび校庭に集まったぼくたち全員が持ち帰った回答は「親類が泊まりにきている家? ちょっと知らないわねえ」だった。

 例年、夏休みの時期になると孫を連れた息子夫婦や、あるいは孫がひとりで田舎の夏を満喫するために親戚の家へ泊まりにくるものなのだが、その年に限って、都会から親類が泊まりにきているという家は一軒もなかったのだ。

 現代の都会暮らししか知らないのでは想像もつかないほど連帯感の強い、当時の田舎でのことだ。ほんの些細なことでも、人の口から口を伝って、あっという間に町じゅうの全員が知るところになる。

 だから、この町にいま〝都会から親類の家に泊まりにきている少女〟がいないことは確実だった。

「じゃ、じゃあ……水面ってどこに住んでいるんだ?」

 蝉があらん限りを振り絞って喚き散らす炎天下の中、ぼくたちは校庭の片隅に集まって立ち尽くしたまま、次にやるべきことを決めかねていた。

「なあ、どうするよ」

 誰かが言いった。

「どうするって言ってもなあ」

「水面ちゃん、どこに住んでる子なんだろうなあ」

「このあたりじゃ見たことないから……やっぱり都会の子じゃね?」

「でもよお、都会からこっちに泊まりにきてるやつ、いないんだろ」

「ひょっとして、あの山に寝泊りしてたりしてな」

 お調子者の正夫まさおが笑うと、みんなして口を噤んだ。正夫はきっと冗談のつもりだったのだろう。みんなが黙りこくってしまったことで、正夫もまた慌てた。

「じょ、冗談だってば。あの山に住んでるのは神さまだけじゃんか」

「……」

 またみんな黙ってしまった。お互いに目を見合わせて、相手が何か言うのを待つような沈黙だった。

 ぼくはこの無言に堪え切れなくて、ほとんど力任せに言い放った。

「そんなの、水面に直接聞けばわかることだろ」

「その水面がいないから、みんな、こうして困ってるんじゃんか」

 正夫が、そんなこともわからないのかよ、という顔をするから、ぼくは勢いに任せて反論した。

「水面ならいるだろ」

「どこにさ?」

「山にだよ」

「山!?」

 みんな一斉にぼくを見ました。

「そう、山だ。水面はきっと山の中で、おれたちがくるのを待ってるんだよ。水面がどこの子か知らないけど、山にいけば会えるって」

 考えるより先に口を突いた言葉だったけれど、ぼくは自分でも、なるほどその通りだ、と思った。山にいけば水面と会えるに違いない。

 だけど、みんなは賛成してくれなかった。

「駄目だよ……山に入ったら、もう一生お小遣いやらないって母ちゃんが」

「おれも夕飯抜きはきついな……」

 みんな口々にぼやいて、ぼくに賛成してくれる友だちはひとりもいなかった。

「なんだよ、おまえら! じゃあいいよ、おれひとりで水面を連れくるから!」

 ぼくはそう言い放つや否や、みんなに背を向けて駆け出していた。苛立った気持ちのまま校門を出たところで歩調を緩めて背後をちらりと振り向いたけれど、誰もついてきてはくれなかった。

「……」

 ぼくは薄情な友だちに苛立ちを募らせながらも、すぐには走り出さなかった。そのうち、みんなが「待って、おれもいくよ」と追いかけてくるのを期待していたからだ。でも、いつまでも経っても誰も追いかけてこなかった。

「いいさ。あんなやつら、もう友だちでも何でもない!」

 心の中で別れを告げたぼくは、山に向かってふたたび走りだした。

 大人たちはぼくらが山に入って遊んでいたことを知っていたから大分警戒していたのだけれど、山に入る道はひとつではない。それに子供のすばしっこさが加われば、大人の目を盗んで山道を駆け上がるなんて造作もないことだった。

 最初は身を屈めて草むらに隠れるようにしながら緩やかな山道を登り、もう人目がないと確信できるところまできたら、後は全速力で走る。水面がいつもぼくたちを待っていたのは、竜神池から少し離れたところの木々が開けた小広場のような場所だ。

「あ、雄作!」

 息を切らせてその場所までやってきたぼくを、顔いっぱいに笑顔の花を咲かせた水面が迎えてくれた。

 水面は満面の笑顔でぼくに駆け寄って――そのまま抱きついてきた。

「わ、わっ……なんだよ、おい、離れろって」

 当時のぼくは田舎の小学生だったから、きれいな女の子に抱き着かれても優しく抱き返すなんてできず、真赤になって「離れろ」なんて言ってしまう。

 でも、水面のほうは田舎の小学生男子のそんな機微をしっかり理解しているようで、ぼくの背中にまわした両手を離しながらも、にこにこと微笑みを崩さない。

「よかったあ。わたし、このまま三日目も待ちぼうけなのかと思って泣きそうだったんだから」

 水面は唇を尖らせて怒ったけれど、それも笑顔のままでの仕草だったから、かえってドキドキしてしまった。

 誰もこない山の中で、ぼくと水面のふたりだけで――あの日あの瞬間のドキドキは、いまでも克明に思い出すことができる。

 竜神池の畔で初めて会った水面は、日本人形みたいに無表情だった。ぼくたちと一緒に遊ぶようになった水面は、いつの間に元気に笑う子になっていた。そして、ふたりだけで見詰め合った水面は、ぼくが生まれて初めて見るような微笑みを湛えていた。

 微笑む水面と目が合っただけで、心臓がきゅっと握られるみたいに震えて、頭のてっぺんまで血がどくどく駆け上がるような、熱いお風呂に叩き込まれて百数えるまで上がってくるなと言われたときのような――。

 とにかくもう頭がぼうっと熱くて、目を逸らさないことには気絶しそうな気がした。水面はそんなぼくの様子に、目を細めて微笑んだ。

「あれえ、雄作ってば赤くなってる? かわいいんだ」

「ばばば馬鹿!」

 思いっきりどもってしまった。

「ふふっ……かわいい」

「ばっ――それよりもさ、みんな探したんだぜ、おまえのこと。おまえの家、どこなんだよ」

 ぼくは無理やり話を換えた。

「え、っと……」

 水面は意外にうろたえて目を泳がせる。

「わたしの家はええと……」

「ええと?」

「……雄作、きて」

「わっ」

 水面は急に深刻な顔をすると、ぼくの手を引いて駆けだした。

 どこに連れていかれるのかと思えば、水面が足を止めたのは竜神池の前だった。相変わらず水溜りみたいな、つくづく名前負けしている池だ。

「こんなところに連れてきてなんだよ」

「あのね、ここなの」

 水面の声はか細くて、ぼくは眉根を寄せた。

「ここ? なにが?」

「だから……わたしの住んでるところが」

「へ……」

 ぼくは間抜けな顔で水面をまじまじ凝視した。

 またまたそんな冗談を――と漏れかけた笑いは、水面の目に浮かぶ真剣そのものの光に黙らされた。水面が大真面目であることは疑いようがなかった。水面は本気で、自分は竜神池に住んでいる、と言っているのだ。

 自分の喉がごくりと鳴る音を、ぼくは聞いた。

「まさか水面、おまえ……水神さま?」

「ううん、違う。雄作にはちゃんと話すね」

 そして水面は話してくれた。


 わたしが生まれたのは、いまから二百年近くも前の明治初期のことだ――水面はそう言って話を切り出した。

 その当時、この町はまだ村と呼ばれていて、頻繁に起こる水害に悩まされていたのだそうだ。そこに旅の呪術師がやってきて、「この村は水神に祟られている。わたしが払ってやろう」と言った。村人は手を叩いて喜び、それで水害が収まるのなら、と呪術師を歓迎した。

 果たして呪術師は見事、水神を山中の小さな池に封じ込めることに成功した。その池こそが竜神池なのだ。竜神池は水神さまの住まう神聖な場所――ではなくて、鉄砲水や洪水、大雨で村を困らせた水神の封じ込められた場所なのだった。

 そして池の封印が解けないようにするため、ひとりの無垢な少女が封印の要として人身御供――つまり生贄として池に捧げられた。人身御供といっても、生きたまま池に沈められたりしたわけではなく、少女は池の番人に仕立て上げられたのだ。

 封印の一部にされてしまった少女は今日までの二百年間余りを、竜神池の番人としてずっとひとりで生きてきた。水神の祟りを恐れた村人は山に近寄ろうとせず、いつしか水神を封じておくために人生を捧げさせられた少女のことを忘れていった。

 名前も存在を忘れられた少女は、ただひとり、歳を取ることも死ぬこともなく、ずっとひとりで生きてきた。

「まあ、たまに雄作みたいな子が山に入ってきてたから、完璧に暇してたわけじゃないんだけれどね」

 番人の少女――水面はくすりと肩を揺らした。

「……」

 ぼくは想像もしていなかった壮大な話を聞かされて、何と答えていいかわからなかった。そんなぼくの様子に視線を投げながら、水面は懐かしむように目を細める。

「何だかんだと、そんなに寂しいわけでもなかったのよね」

「嘘吐くな」

 口が勝手にそう言っていた。

「そんな嘘を吐いたってわかるんだ。だって水面は、さっきあんなに嬉しそうな顔したじゃないか。寂しくなかったら、あんなに喜んだりしなかったはずだ」

 水面はきょとんとした目でぼくを見つめていたが、頬をふいと綻ばせたかと思うと、身体ごとぶつかって抱きついてきた。

「好きよ、雄作」

「――!」

 ぼくはといえば、もう当然のように真赤だった。

「雄作がいてくれるなら、本当に寂しくなんてないよ。明日も明後日もその後もずっとずっと、きてくれるよね」

「……」

「あ……」

 水面はぼくの躊躇いを敏感に察して、ぼくの背にまわしていた両腕からゆっくりと力を抜く。

「ごめん、ここにきたら怒られちゃうんだったね」

「……」

「ごめん、無理言って。わたしは、わたしがここにいるんだっていうことを覚えていてくれれば、それで平気。寂しくないよ」

 水面は微笑んでいた。

 ぼくは心臓をぎゅっと掴まれた。

「平気じゃない」

「え?」

「おれが平気じゃない。そんなの絶対、平気じゃない!」

「雄作……」

 水面の瞳に光るものが見えたように記憶している。ぼくの目にも涙が溜まっていた。

「なあ、逃げようぜ。水面ひとりが犠牲にならなきゃないなんて、間違ってる。おれも一緒にいくから逃げよう」

 水面は微笑みながら、だけどゆっくりと首を横に振った。

「ありがとう。その言葉だけで胸いっぱいだよ。でも、わたしはいけない。わたしが逃げちゃったら雄作の町が大洪水で沈んじゃうかもしれないんだよ」

「でもだからって、町のために水面が犠牲になるなんて、やっぱり変だ。そりゃ明治時代の村人たちは水面に感謝していたと思うぜ。でも、おれたちは自分が水面を犠牲にしてることなんて知らなかった。はっきり言って、おまえなんて見ず知らずの他人だ――そう思ってるやつらのために、この先ずっと犠牲になりつづけるなんて絶対に間違ってる!」

「……ありがとう」

 水面は嬉しそうに、でも困ったように睫毛を揺らして微笑んだ。

「でもね、わたしは知らない誰かのために犠牲になってるんじゃないよ。わたしは、わたしのことを本気で考えて、本気で怒ったり泣いたりしてくれる雄作のために、ここにいるんだよ。ここには雄作のお父さんとお母さんがいて、そのうち雄作が結婚したら子供が生まれて、孫が生まれて――わたしはずっと、雄作の家族を守っていけるの。それはわたしにしかできないこと……すごく嬉しいんだよ」

 なにか一言でも口にしたら溶けてしまいそうな、淡雪みたいな微笑みだった。

「そんなの嫌だ……」

 ぐっと噛みしめた唇の隙間から、それでも、声が零れ落ちる。

「おれ、おれ――水面のこと好きだ。水面と遊ぶのも、話してるのも、走ったり笑ったりするのも全部好きだ。おれ、そんなの全然わかんねえけど、結婚するのも家族になるのも、水面とがいい。だから、水面。おれと、おれと――逃げよう」

 ぼくは手を伸ばした。

「……」

 ぼくを見つめる水面の顔はいまにも泣き出しそうな微笑で、瞳の縁に溜まった雫が木漏れ日に淡く揺れて、きれいだった。

「でも……わたしは、でも……」

「明日、」

 苦しげに絞りだされた水面の言葉を、ぼくは無理やり遮った。

「明日――山を下りてすぐのバス停で待ってるから」

 それだけ一方的に言うと、ぼくは返事を待たずに背を向けて走りだしていた。たぶんぼくは、その場で返事を要求しても断られると直感していたから、無理やりにでも約束させたのだと思う。

 翌日、時間を決めるのを忘れていたことに気づいたぼくは、朝早くからずっと山のすぐ傍にあるバス停のベンチに座って、水面がくるのを待っていた。

 このバス停は町の外に向かうバスがでる唯一の停留所で、数時間に一本しかバスがこない。だから、バス停というより休憩所に近い感覚で使われていた。

 ベンチに座ったぼくは着替えや貯金箱を詰め込んだリュックサックを足元に置いて、ずっと山のほうに視線を向けていた。水面がくるのはそちらの方向しかありえないからだ。

 だけど太陽が中天を過ぎても、水面はやってこなかった。明治時代からずっと山に篭もっていたのだからバス停がわからないのかもしれない、とも考えたけれど、山から下りて町中に向かおうとしたら、かならずここを通るはずだ。朝からずっと見ているのだから、見落とすなんてありえない。

 しかし、太陽が西に大分傾いた頃になっても、日が沈んで夜になっても、水面はとうとう現れなかった。それでも待ちつづけたぼくは、「またあいつは山にいっているんじゃないか?」と危惧して探しにきた両親に発見され、引きずられるようにして家まで連れ戻された。ぼくは抵抗しなかった。

「こなかった――これが水面の答えなんだ」

 その夜は夕飯抜きにされたけれど、食欲がまったく沸かなかったから、どうでもよかった。

 夜中、ぼくは布団に頭から潜り込んで、声を殺して泣いた。


 バス停で待ちつづけた日以来、ぼくが山に入ることはなかった。友だちみんなも親に怒られてからは山に近づかなかったようで、そのうち誰も水面のことを口にしなくなり、やがて彼女のことは記憶の彼方に埋もれていった。

 小学校を卒業して、顔触れの変わらない中学校も卒業したぼくは町を出た。山中の田舎町には高校がなかったからだ。

 生まれ故郷よりずっと栄えた都市で寮のある高校に入学したぼくは、高校卒業後もその都市で就職して田舎には帰らなかった。

 月日は流れる。

 ぼくは職場結婚して所帯を持ち、子供も産まれて、平凡な幸せを築いていた。その子供ももう、結婚を前提につき合う相手がいる歳になっている。

 小中学時代まで過ごした生まれ故郷――水面の守っていた町は、現在はもう存在していない。水没してからもう何十年も経つ。町が沈んだのは、水神の封印が破れて祟りにあったからではない。ダムが建設されたからだ。

 竜神池のあった小さな山もいまは水の中だ。また、ダム建設に際して、あの山は大分削られたのだと聞いている。竜神池があったあたりも削られたらしい。

 町がなくなって、竜神池もなくなって――その時点でもう水面には、無人の町にただひとり留まって水底に沈む理由なんてなくなっていた。竜神が暴れようが暴れまいと、町はどのみち水底に没するのだから。

 ぼくはずっと、二百年振りに自由を取り戻した水面はどこかで楽しく生きているのだと信じてきた。そう思えばこそ、毎年お盆の頃になると、家族に「ダムのそばに親族の墓があるんだ」と嘘を吐いて、ダムに沈んだ田舎の近くまで二時間かけて車を走らせていた。

 水面もきっと夏になると、毎日のように山を駆けまわって遊んだ日々を懐かしく思いだして、ダムの近くにやってくるのではないか――そんな根拠のない勘に誘われたのが始まりだった。

 いまは少々違う理由で、お盆の数日をダムに沈んだ郷里に近い田舎町で過ごしている。

「どうしたの、雄作?」

「ああ、なんでもないよ、水面。少し昔のことを思い出していただけ」

 ダムを見下ろせる山道の片隅に立って物思いに耽っていたぼくは、肩越しに覗き込んできた彼女が問いかけてくる。彼女はそのままぼくの腰に両手をゆるりとまわして、抱きついてくる背中に触れる柔らかな温もりに自然と笑みが零れてしまう。

「昔のことって……雄作がわたしと初めて会って、雄作がまだ自分のことをぼくじゃなくておれって言っていた頃のこと?」

「ああ、そうだよ。その後、きみがバス停に現れなかった日のことや、それからずっと後になって再会した日のことも思い出していた」

「……あのときはびっくりしちゃった。あんな場所で待っていても雄作は絶対こないって思っていたのに」

 頬にそっと唇を寄せてくる水面は、ぼくが子供だったころよりずっと成長していたけれど、まだ二十歳を迎えたばかりにしか見えない。竜神池の番人役を解かれたことで水面はまた成長するようになったのだけど、普通の人よりずっと遅いペースでの成長らしい。

 もういい歳のぼくからすれば羨ましい話なのだが、当人は不満らしい。「もっと大人になりたいのに」なんて唇を尖らせている。

「――でも、あのときは嬉しかったな」

 水面の吐息が耳朶をくすぐってきた。ぼくは少し首をすくめて口の端を緩ませる。

「バス停で待っている。そう約束していただろ」

「うん、してた」

 今度は水面の唇に耳朶をくすぐられた。

 ぼくたち六年前のお盆――バス停で待つと約束したあの日からちょうど二十年後、ダムに近い町のバス停で再会を果たした。

 水面は竜神池から自由になって以来ずっと、夏になるとそのバス停でぼくを待ちつづけていたのだそうだ。ぼくは水面を何年も待たせてしまった。

「約束したのに待たせてしまって、ごめん」

「ううん、最初に待たせたのはわたしだもん。雄作は何年かかっても約束を守ってくれてた――わたし、ものすごく幸せなのよ」

「それはぼくもだよ、水面」

 振り向いて水面の唇にキスすると、向こうからも唇が甘えてきて、じゃれあうように重なった

 ぼくと水面はいま、ダムの堤防を見下ろせる山道の外れに立っている。こんなところまで登ってきてダム見学しようなどと考える物好きは、ぼくたちくらいだろう。事実、あたりには誰の影も見えない。

「ねえ、雄作……」

 水面が餌をねだる子猫みたいな甘え声でささやく。

「来年の今日までお腹いっぱいでいられるように、いっぱい食べさせて……くれるよね?」

「ん……」

 ぼくは答える代わりにもう一度、さっきよりも深く唇を重ねた。

 漏れ出る吐息も、衣擦れも、重なる影も――あの頃から変わらぬままの蝉時雨と深い茂みが覆い隠してくれた。


 ぼくには、ダムから遠く離れた都会の片隅に自分の家庭がある。妻がいて子供がいて仕事があって、ぼくの守るべき平凡な幸せがそこに待っている。

 水面は水面で、人のごみごみ犇きあう都会での暮らしは性に合わないそうで、小さな田舎町でのんびり暮らしている。考えてみれば明治初期の生まれなのだから、現代の忙しない生活スタイルが肌に合わないのも当然のことだろう。

 ぼくと水面が会うのは年に一度、夏の数日限りだけだ。その数日間を、ぼくたちは昔そうしたように、汗だくになるまで遊び倒して過ごす。あの頃と違うのは、ぼくが水面に微笑まれても、照れて目を逸らさなくなったことだろう。いまはどちらかというと、水面のほうが恥ずかしがることが多い。

 水面と過ごす夏のひとときだけ、ぼくの魂は水底に没したあの小さな故郷に帰ることができる。もしも町がダムに沈まなかったとしたら、もしも水面と一緒に逃げていたら――訪れることのなかった幾つもの未来を懐かしむことができるのだ。

 瞳の水面に映る故郷は、今年もまた、ぼくを暖かく受け入れてくれた。

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