第19話-求愛


 マリさんとの同居生活が5年を迎えた頃、彼女が医師としての研修を受けるために必要な数々の試験を全てパスした。

 僕はその知らせを端末越しにマリさんから聞いた。


「おめでとう」


「ありがとう。仕事が終わったらすぐ帰るね」


「うん。待ってる。気を付けて」


 僕から電話を切る。マリさんが仕事中ということもあって、長話はできない。お祝いは夜にやればいいのだ。

 心配事も済んだので、滞っていた作業に戻る。

 僕はというと、和多田病院でモルモットも続けてはいるが、マリさんを教える傍らで幾つもある医師試験の対策書を作り、それを販売することで生計を立てていた。外では目を塞ぐ必要があったから、普通の仕事は難しかったのだ。現在も家から出るのは病院の時とデートの時ぐらいで、一人で出歩くことはまずない。

 もちろん、対策書はマリさんの試験に協力する過程で、作成したものが原形だ。

 彼女が勉強しているのは、最初の頃はてっきり、看護師としてのスキルアップのためかと思っていた。あるころから、本気で医師を目指していると知って協力したのだ。

 僕の存在は教師として些か卑怯と言えるが、彼女の優秀さに比べれば大したことではない。

 特注の教科書がなくても、遅かれ早かれ、医師になっていたに違いないと確信できるほどだ。

 彼女のすごい所は、看護師として働きながらという点である。前々から勉強をしていたとはいえ、両立できるようなものではない。仮に効率的に勉強したとしても膨大な時間が必要なのが医師という職業だ。その時間を僕と共に過ごした。

 そんなマリさんの頑張りを知っていたから、合格するだろう、とは思っていたけれど、心配しないというのは難しかった。

 自分が医師試験を受けた時の方が緊張しなかった気がする。

 心配事は解決したのに、それからの作業もスムーズに終えることが出来なかった。マリさんの合格の日が来たらやることがあった。その日が来たら、と僕は自分にあることを課していたからだ。

 そのことに気取られ遅くなった晩御飯の支度中に、開錠音が聞こえた。シフト通りの時間に帰宅するかと思いきや、珍しく早くなったらしい。集中力が欠けていたのもあるが、看護師は交代制なのでこんなことは滅多にないので、本来の帰宅時間まで余裕があったから調理を急がなかった。そのせいで晩御飯の準備がまだ半分も済んでいなかった。


「おかえり」


「ただいま」


 マリさんは手も洗わず、僕に近づいてきた。何事かと思い、晩御飯の支度を中断し振り返ると、彼女の腕が伸びてきた。

 つい目を閉じてしまうが、痛みはやってこず、僕の頬に暖かい何かがそっと押しつけられ、首に手を回された。


「勇気を注入してもらったから、幸せを注入してお返しです」


 僕の頬から唇を離し、こちらに顔を見せてから、舌先を半分ほど唇から出して、マリさんは笑った。ぐっと、自分の胸が反り出したような気がする。

 試験の結果発表で珍しく弱気になっている彼女が微笑ましくて、今朝の出勤前にそんな事をしたのだが、慣れないことをするものではない。

 僕は上機嫌なマリさんを適当にあしらって、晩御飯を完成させた。

 ちょっと凝ったメニューとシャンパンでささやかな合格祝いをする。未だに壊れたきりテレビを購入していないので、家の中では会話が主となる。


「おめでとう。これからも大変だけれど、一先ず落ち着けるね」


「ありがとう。医師の研修も長いからね。頑張る」


 マリさんは喜色が満面に出ていて、見ているこちらも口角が上がってしまう。同居していて実感したが、彼女の豊かな表情は悲しみも喜びも深く伝えることができ、感化させる力があった。


「まあ、マリさんが今までしてきた看護師と医師勉強という二足のわらじ生活よりかは楽でしょ?」


「うん。でも、先生の的確な教育がなくなるのは残念ですけどね」


「そうなるね。僕は、医師として施術寄りではなく、研究寄りだったから、マリさんとは方向性が違うし」


「それでも、教わることは沢山ありますよ。技術も知識もね」


 マリさんはアルコールで赤くなった頬を持ち上げて微笑んだ。今日は酔うのが早い。


「私が言いたかったのは、桂君が私の生活を設計してくれたことです。教育という言い方がわかりにくかったのね。桂君、ほんと、人の管理が上手ですよ。カリスマ性ってやつですかね?」


「そんなものはないと思うけどね」


 確かにマリさんがこの日に何の勉強をするか、というのを考えたのは僕だった。効率の良い勉強方法の模索は結構面白く、やりすぎてしまったが、彼女はついてきてしまったのだ。

 会話に間が出来たので、計画の下準備を済ませることにした。自身に課した条件はそれなりに困難なものだった。


「マリさん、話しておきたいことがあるんだ。暗い話だけど、同居して5年目ということで節目として」


 マリさんは背筋を伸ばし両手を膝の上に置いて、どうぞ、と固まったまま言った。


「僕は入院していた時、こう考えていた。誰かのために自分を切り売りさえすれば、誰も傷つかないと。他の人々には未来があり、自分より価値の高い人なのだから、自分が犠牲になればいいのだと。自分にはモルモット以外にそんな役割しか残ってないと考えていた。その考えを確立したのはさ、僕がモルモットになった事で、家族が喜んだんだ。心の底から。色なんて見なくてもわかるくらいに。でも、それだけって納得できなかったから、切り売りを始めた。モルモットという役割を失うのが嫌だったから、実験の行動制限で尚且つ何の力もない僕が出来ることはそれだけだった。そう、自分に言い聞かせ、本当はまだ出来るんだって信じていた」


 あの光景はいくら月日が流れても風化せず、鮮明に僕の心に残り沈殿していた。口にするだけで胃液がせり上がってくる。

 今までの俺を全て否定された瞬間。その時、身を裂いた痛みは消えていない。

 しかし、今は、幾分マシだった。


「それから幸せは誰かに与えたいものだった。そうすれば、存在を、価値を認めてもらえるような気がしたから。自分はこんなにも頑張っているんだから、誰にも迷惑をかけていないのだから、最低限できているはずだと。存在価値を否定されたからこそ、誰かを傷つけることだけはしたくなかった。だけど、どこかで自分の価値はそれだけじゃないと否定することで心のバランスを保っていた。本当はもっとできるんだと信じ手を伸ばさず、できるという可能性を守った」


 僕は強引に押し込んだ記憶を紐解いていた。同居生活が始まったころ、一度結論のようなものを出したが、それは強引に判を押し、箪笥にしまい込んだようなものだ。だから、改めて向き合う必要があった。

 あの頃と違って、落ち着いた状態でマリさんになら話せた。自分の頭に整理してまた保存する余裕があった。


「傷つけるのも傷つけられるのも恐れた。そうやって思考停止し、閉じこもっていながらも、他の価値を見出してほしかった。そんな望みを叶えてくれるように、僕を必要としてくれる君がいて、自分が幸せだと感じられたんだ。人は多様なんだって、傷つけ傷つけられ、愛し愛すことができるんだって諭されたからだ。マリさんのおかげで独りよがりだった僕は変われたんだよ。傷つくことや傷つけてしまうことがあったとしても、小さな役割以外も掴めるって、尊いものが見つけられるって、きっかけを教えてくれた。それを感謝したくてね。ありがとう」


 マリさんは明後日の方向を見て、そうですか、と呟いた。


「本当に、夢、叶っちゃいました」


「そんなしみじみと言わないでよ、マリさん。医師試験が受かったからといって、まだお婆ちゃんの喫茶店をお父さんから引き継ぐのが残っているんだから」


 マリさんの祖母は喫茶店の店主だったが、亡くなってしまい店を畳む、というときに現れたのがお父さんだ。趣味で取得し、着々とランクを上げ、コーヒーのスペシャリストとなっていた彼は、定年退職を機に店を引き継いだそうだ。それをマリさんが継ぎ、3代目になって父を超えるのが夢らしい。

 マリさんは2代目との差別化のため、紅茶や日本茶も勉強している熱心ぶりである。


「それとは違います。今、叶ったんです。桂君の口から幸せだって言わせるって夢」


 マリさんはこちらを向いて、にっこり笑った。

 卑怯な人だと僕は心の中でため息をつく。今、無理にでも何かに悪態をつかないと頭が沸騰してしまう状態だった。

 もう、スウィッチは押してある。今度こそは僕からだ。課した条件は、やりたい事に変化した。


「まだ、もう一つありますけどね」


 マリさんはそこまで言うと赤くなった頬を両手で挟んで立ちあがった。


「寝ちゃう前に、お風呂入っちゃいます」


 マリさんは着替えを取って、お風呂場に向かった。

 すぐに脱衣所の扉が開いたかと思えば、マリさんが頭だけ出した。 


「桂君、寝ちゃだめですよ」


 マリさんがお風呂から上がり、僕が交代で入って出てくると、追加のお酒とつまみの用意がしてあった。

 彼女が準備するお酒の用意はいつも本格的だ。


「そういえば、マリさんと初めてキスしたのもこんな感じだったね。明日がマリさんの休みでさ。あの時、どうして飲もうなんて言いだしたの?」


「桂君が進矢君に言われたダブルデートを肯定したから、私の気持ちに勘付いているのか気になったの。君がここに来た時、あんな状態の君に言うつもりはなかったけど、うっかり告白と取られても可笑しくないようなことを言った気がしたから」


「正直に言うけど、進矢に肯定したのは一刻も早く、あの場から立ち去りたかったからだよ」


 私の勘違いだったんですね、とマリさんは見るからに落ち込んでしまった。

 僕はポケットに手を突っ込み、止まった。出したいはずの言葉が出てこない。

 これを聞いたら言おうと、いう項目を頭の中で決め、自分を追い込むことにした。

 ダブルデートというジャブを放ってから勝負だ。


「俺は言うぞ」


 声を出さず、口だけ動かし自分を奮い立たせる。

 最後の助走にダブルデートを使うことにした。

 マリさんが本格的に試験を受け始めたのは2年ほど前からで、その頃には僕の精神も落ち着いた。アマネさんの事件を機に自分は変われたのだと前向きに思えるぐらいに。

 そこに至るには紆余曲折あったが、簡略化すると二つの段階に分けられる。

 アマネさんを殺そうとしたことを悔やんだ僕が次に悩んだのは、彼女を欲望のはけ口として見ていたことに対する嫌悪だった。

 愛だなんだと言って、求めるだけ求めていただけなのだと。自分が役に立つ証明として、道具のように扱っていたのだと。

 僕を唯一の役立つ存在にしてくれる。自分しかアマネさんを救えない。そのような自惚れで周囲を振り回していたと気づいてしまったのだ。

 だが、それもマリさんとの穏やかな時間が解決した。今はそんな風に嫌悪するほどではない。

 あれも自分の一部だっただけだ。

 愛そうとした結果なのだ、と最終的には受け入れられた。

 しかし、それは簡単なことではなかった。あれを僕の愛の一部なのだと認めることは難しかった。

 愛はこうなのだと、とても綺麗なものだと思って自分を縛ってきた僕には時間がかかった。

 醜いものも綺麗なものも愛。僕に欠けていたのは、自分の汚さを受け容れ、改善する力。考えてしまうものは仕方ないのだから、その後を変えていくしかないのである。

 そして、その感情も悪くない。アマネさんに抱いた気持ちの中に、あんな形のものが一部あっただけだ。悪意だけで構成されていたわけじゃなかった。あの事件さえも、他の色んな要因が混ざりあった末の出来事だ。感情だけで成り立っていたわけじゃない。

 物事は絡まった糸のように複雑なのだ。一本だけではそうならないし、強引に鋏を以て解決すればいいわけではないのだ、と言い聞かせた。

 もちろん、僕が悪くない、と開き直るわけじゃない。

 何かが足りなかったのは事実だけど、僕の感情がいけないものだけで作られたというわけではないというだけ。

 純粋な悪などなく、良いものも悪いものもあったのだ。

 こうやって少ない語彙をこねくり回さないと、僕は答えを出せなかったのだ。

 この長くまとまりのない思考を一言で片づけるなら、愛という言葉は思っているほど狭い定義ではない、となる。

 いろんな形の愛があり、それら全てがあまりにも複雑に細かく構成されていて、そこには善も悪も含まれている。

 そのことに僕はもっと早く気づけたはずだった。なぜなら、感情の、色の、複雑さを知っていたのだから。


「愛は二人で求め合い、応じ、話しあって擦り合わせるものか。言葉にするのは簡単なんだけどな」


 僕の恥ずかしい独り言にマリさんは反応はなかった。以前読んだ小説の一文だが、今の僕とマリさんはこれができているのだろうか?

 危うく、違う命題に逃避してしまう前に意識を戻す。ダブルデートの提案だ。

 自身の精神が落ち着くと、避けてきたアマネさんの様子が気になった。

 だが、マリさんの試験が始まっていた。大事な時期の彼女に影響が出てしまうのではないかと、僕は考え、極力アマネさんの話題は避けたし、集めるようなこともしなかった。

 なので、知っているのは、現在も進矢と交際していることと、入院して1年で退院したことだ。

 つまり、4年もの期間、アマネさんのことを知らない。

 知る機会はあった。進矢とは病院で話す他、定期的に通話もしていたが、僕自身気まずかったのもあるし、マリさんという恋人がいる手前、アマネさんの話はほとんどしなかった。

 だが、ずっと気になってはいた。

 マリさんの試験が終わってから、以前進矢が言ったダブルデートでもしてみるのはどうだろうか、と思うようになったのだ。

 沈んだ話題を変える効果もあるし、話の前後も不思議ではないから丁度いいタイミングだ、と思い、切り出す。

 これが終われば、僕は最後の作戦を決行するのだ。


「今は本当に付き合っているんだから、リベンジってことで、ダブルデートしてみないか?」


「機会があればね」


 文言こそ、前向きな形だったが、色からあまりよく思っていないということがわかったので、またの機会にすることにした。

 祝いの席で他人の話をされるのは確かに気が進まないだろう。

 さて、と思うが躊躇してしまう。もう、ジャブは放った。前々からマリさんが合格したら、と決めていたのに、中々行動に移せない。

 僕は時間を稼ぐために、もう一つ知りたかったことを訊くことにした。女々しい奴だ。


「マリさんさ、あの日散歩している時、わざと胸が当たるように僕の腕を掴んだよね?」


「ええ。桂君、元気なかったですし、茶化そうと思ったのと、ちょっとしたアピールのつもりでしたね。酔ってるからって言わせないでくださいよこんなこと」


「じゃあ、入院してた頃、包帯を変える時に当たっていたのも?」


「そうですよ。もう、恥ずかしいなあ」


 マリさんは小さな手で自分の顔を扇いだ。


「最初の頃は、包帯との格闘で意識してなかったんですけどね。余裕が出てからも、桂君ならと思って止めませんでした」


「嘘だね」


 息を飲み、マリさんは本気で驚いているようだった。僕も当てずっぽうに言ったわけではない。

 彼女の色に嘘です、と濃く出すぎていて、誤解するのも無視するのも難しかった。

 色が見えるので、そもそも隠し事は見分けやすい。しかし、マリさんの場合、色が基本的に安定しているので、少し変わるだけで滅多にない事だから、何かあるのだとわかってしまう。

 またもや逃げている。こうやって何かに意識を飛ばさないと、酸欠になってしまいそうだ。

 異常な僕の態度は、素面だったら見抜かれていただろうが、アルコールによって誤魔化されているようだ。


「白状します。毎朝私が担当だったのも、進矢君の計らいだったの。けど、包帯を変える時、胸が当たってたなんて今、言われるまで気付かなかった。だって、目を閉じた桂君の顔に見惚れていて、ほとんど意識なんてなかったもの」


 僕も恥ずかしかったがこちら以上にマリさんが照れているのを見ると、さらに意地悪したくなった。

 精神に余裕が出て、ようやく、切り出せる。

 用意していた箱をポケットから出し、机に置いて、開けた。


「結婚してください」


 色々考えていたのだけれど、僕には次の語句を繋げることはできなかった。故に沈黙が流れる。マリさんは目を大きく見開き、一瞬で青くなった顔が徐々に赤くなっていく。

 それを観察するように見ていた。不思議と断られるという気持ちはなかったから冷静でいられた。

 あったのは、父親にプロポーズのエピソードを聞いておかなかったのは失敗だった、という後悔ぐらいである。

 だからこそ、マリさんが後ろに倒れそうになったのにすぐ気づき、僕は急いで立ちあがって彼女の背と首元を抱きかかることができた。


「大丈夫ですか?」


「現実だよね?」


「マリさんが信じるならそうだろうね」


 僕が笑うと、マリさんも笑った。だが、彼女の笑顔は徐々に歪んできて、目から涙を流し始めた。

 それでも不安はなかった。なぜなら、彼女の色は喜びに満ちていたからだ。


「桂君から言ってくれると思ってなかったから、嬉しくて。きっと私からだろうと思っていたから」


 マリさんは疲れた顔でもう一度、微笑みを形作った。


「本当に、幸せだよ。桂君。また夢が叶っちゃった」


 



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