第20話-嘘偽


 結婚を申し込んだものの、ほとんど変わったことはなかった。

 我々は籍を入れなかったし、結婚式も挙げなかったからだ。

 事実婚を選択した理由は、手続きが面倒というだけで、何かしらの事情や信念があったわけではない。

 だから、変化といえば、薬指に指輪が嵌ることになるのと、それを買いに二人で出かけることが決定したぐらいだ。

 流石に結婚指輪を選ぶのは二人でしたい、とマリさんが稀な我儘を言ってくれたので、彼女が3連休の時に少し遠出して購入することになった。

 その際、僕は化粧まで使って変装した。一重瞼が二重になり、白い肌を少し黒くしたり髪を後ろに流したりと別人と言っていいほど本格的だった。そうすることで、指輪を目できっちり見て、話しあって決めることができた。

 指輪は後日受け取るものだと思っていたが、小一時間で完成するとのことだったので、街を練り歩いてから、結婚指輪を受け取りに行くことにした。

 その前に、家族には報告しなかったしする予定もないが、進矢には報告したかった。

 プロポーズを申し込んでから、定期的にかかってくる彼からの通話が中々来なかったので、こちらから何度か掛けたが一度も繋がらない。

 今もコールしてみたが繋がらなかったので、事後報告に諦めた。

 僕らは時間になったので宝石店に行った。挙式をする予定がないので、もらったその場ですぐ指輪を嵌めた。

 その後は、小洒落たホテルで早めのディナーを食べ、久しぶりの外食を満喫した。


「帰ろうか、マリさん」


 まだ時間はあったが、結婚指輪を受け取ってから、どうもマリさんが暗いようなので、そう提案してみることにした。


「桂君、もう一つ我儘いいかしら?」


「僕にできることなら何でも」


「旅行に行きましょう」


 マリさんは笑顔を作るものの、何か不安に思っている様子だった。それは濃密なもので、簡単に解決できる問題ではないことを示していた。


「構わないよ」 

 

 不安が何であれ、構わない。僕は待とう。

 マリさんのオーダーは大雑把で、バンガローに泊りたい、人が少ない所がいい、というもので具体的な場所の指定はなかった。

 旅行代理店で、今日行けて、これらの条件が叶えられる場所と交通手段を仲介してもらい、無事その日の受付が終わる前にバンガローについた。

 バンガローといっても、お風呂もあり、家財道具が一式揃っているので、ホテルと大差がない。

 山に来たから、何かしたいことでもあるのかと思いきや、マリさんは着いてから一日中バンガローの中で過ごした。

 夜だからということもあるだろう。

 だが、中での様子が普通ではなかった。彼女は何か考え事をしているようで、他愛ない会話さえできないほど集中していた。

 僕は彼女が答えを出すのを待っていたが、結局、翌朝のチェックアウトの時間まで解決しなかった。

 入浴や睡眠ではいい案が出なかったらしい。

 

「マリさん、帰り支度終わったから帰ろう」


「いや」


「何を言っているんですか。明後日から仕事でしょう?」


「何もかも捨ててここで生活しましょう」


 色を見るまでもなく、おかしい。責任の塊みたいな人の言う台詞ではなかった。


「どうしたの?」


「ごめんなさい」


 謝ってマリさんは顔を手で覆い泣き始めた。

 僕には何に対して言っているのか検討もつかないので、彼女が泣き止むまであやすしかなかった。

 涙は次々と零れる状態のままだが、途切れ途切れに喋れるくらいに回復したマリさんは口を開いた。


「進矢君が死んだの」


 僕はその言葉の意味がわからなかった。完璧超人である進矢が、病気の僕より先に死ぬだって?

 冗談はよしてくださいよ、と言うつもりが顎すら動かない。

 マリさんの嗚咽から漏れた色が如実に事実だと語っていた。


「彼は一週間前からテロリストに拘束され人質になって、国との交渉材料にされたの。それが世間にわかったのが昨日の昼。そして今日、交渉が決裂して殺されたことが報じられたの」


 足元に衝撃が走る。マリさんにしがみつかれていた。

 僕はいつの間にか土間まで移動していた。無意識のうちに扉へと駆け出していたようである。

 まだ混乱している僕に向かって、マリさんは叫んだ。

 

「君が時間を巻き戻したら、私はこれまでを忘れてしまうわ。今ここにいる私が消えてしまう」


 マリさんは僕の足元から見上げるように涙や鼻水やらで汚れた顔を向けて言った。

 彼女の言葉で、繰り返しをしなければ進矢が死んだままなのだと理解した。そう、今駆けつけたところでどうにもならない。


「だったら、今の私を幸せにしてからにしてよ。どうせ戻るのだからいいじゃない。次の私は別人だし、その別人すら、君が選んでくれるとは限らないでしょ?」


 マリさんは卑怯だ。どこまでも僕への思いやりに満ちた色を魅せられたら何も言えなくなる。

 色が、彼女の一連の行動は、消えてしまう記憶を惜しんでの自己保身などではないと証明していた。

 全て僕のためなのだ。

 混乱した頭では真意はわからない。

 だが、仮にこの場で色を感じることが出来なかったとしても、彼女の優しさを疑わなかっただろう。僕らの関係はそんなに柔じゃない。

 しかし、マリさんは僕が黙っているので怒っているのだと勘違いしたのか、慌てて言葉を継いだ。


「別に私を捨てたっていいから、私に黙って、繰り返さないと約束して。これだけはしないで。別にアマネさんの所に行ったっていいし、私を物のように扱ってくれてもいい、他の全てを捨てても何も言わないから、何を命令されても喜んで従うから、これだけは誓って。お願いよ」


「わかった」


 僕はそう答えるしかなかった。マリさんを取るのか、進矢を取るのかを選ぶなど、優柔不断な人間には不可能だった。

 選ぶならどちらも叶えられる方向だ。マリさんの懇願を受け止め遂行し、それが終わったら時を戻せばいい。

 もう一度言葉にして、約束をし、僕は外に出してもらえた。


 

 

 事件の詳しい話を聞くと、進矢は自ら人質になったらしい。

 彼が偶然いた建物にテロリストが現れ、中にいた人々が人質になっていた。彼は医師としての魔法のような力があったから、上手いこと逃げおおせたはずだが、自分と引き換えに全員を解放するという条件で、身を捧げたのだ。

 なので、アマネさんは無事だった。それも彼女を送り届けたのが祖谷だというのだから驚きだ。

 彼も偶然、その建物にいて、進矢に頼まれて彼女を守ったらしい。

 だから、アマネさんも、祖谷も通夜にいた。

 さめざめと泣くアマネさんと静かな祖谷だったが、色はアマネさんの方が薄く、祖谷の方が悔やんでいた。

 色で感情の重さを比較できるものではないが、祖谷が悲しんでいることは事実だ。

 力を認めていたからこそ、進矢のことを羨み妬んだのだろう。憧れの感情が人を傷つけることもあれば、こうやって誰かを思いやることもできるのだ。

 通夜自体は小規模なものだった。

 進矢が人質になって死んでしまったのはニュースで大々的に知らされたし、進矢は元々テレビにも出ていた人気者だったから、彼の通夜には大勢の人が詰め寄せると予想できたので、身内で行うことになったのだ。

 国の不手際で将来を約束された人材を失ったことに対する責任として、国のお偉いさん方も参加を表明したが、進矢のお父さんが全て却下した。和多田病院の院長である彼にはそれぼどの権力があり、怒りがあった。

 そんなところに僕は呼ばれたので、参加することができたのだ。

 目を瞑ったまま、進矢を失った人々の痛みを感じた。僕の葬式があったとしても、こんなに悲しんでくれる人はほとんどいないだろう。

 

「進矢の人徳だな」


 僕は麻痺していたのだろう。それか戻せると考えていたからかもしれない。

 進矢の死をそこまで悲しめなかった。

 いや、それも間違いだ。身体に異常が出ないよう、過去の繰り返しで、堪える術を学んだだけだ。


 通夜が終わって、彼の両親に家で晩御飯も誘われた。最初は辞退したのだが、進矢の遺書があるから来て欲しいと言われたので断れなかった。

 晩御飯を食べた後、進矢の部屋でそれを受け取り、その場で少し一人にしてもらった。部屋の中にいると二人で過ごした時間を否応なしに思いだす。まだ僕が自分の無力さを思い知っておらず、親友に遠慮を感じていなかった頃の話から、今に至るまで。

 それらの思い出はもう、僕の中にしかない。それを一緒に作った友はもういないのだ。

 頭が少しでも回るうちに、と人生二度目となる自分以外の遺書を読もうと封筒を開けると、端末にデータ受信の知らせが入った。

 それは手に持つ封筒からだった。進矢は遺書という形で遺言を残していたが、僕の目に配慮して、音声形式も用意していたらしい。包帯を取らず、そのデータを受信した。


「もし、思っていることを親友に伝えられなかったら、と考えてしまって柄でもないけど、遺書を書いてる。桂ちゃんは、今も昔も俺の目標。星のような存在。これは誇張でもお世辞でもない。それが俺の親友に対する評価なんだ。和多田進矢の半生はずっと桂に向かって走ることで成り立ってきた。そうやって思われるのは、鬱陶しかったかもしれないけど、本当に憧れているんだから許して欲しい。一人の男が生涯ずっと惚れ込んでしまうぐらい素晴らしいものを持っている。これだけは確かなんだ。だから、何もしていないし、できないなんて思い上がりは止めてくれ。俺はそう感じ、考えたんだ。もし、それがなくても、昔、誰も助けてくれなかった俺を掬い上げてくれたのは桂なんだ。誰かのために何かをできる君が好きなんだ」


 そこで一度、音声が途切れた。データの記録を見ると、2本あり、今再生したのが7年前。もう一つが3年前のものだった。

 それを再生させるのを待った。

 進矢は僕が彼に抱いていた劣等感を知りながらも、僕を尊敬してくれていた。その真実は胸を穿った。


「俺だけが捻くれてしまったんだな。進矢」


 独りで友に語りかけ、彼と出会った頃を思いだした。

 昔の僕は嘘を正当化させることが得意だった。それを以て正義を振りかざしていた。その姿に進矢は憧れたらしい。

 だが、そんなことは長く続かなかった。気づいてしまったんだ。正義でい続けるには悪と敵対しなければならないと。

 僕は弱く汚い人間だった。それで上手に人生を運んでしまった。傷つかず、傷つけてばかりだったから、痛みで成長できなかった。だから、成長もせず、痛みに怯えた。

 そんな人間が取った選択は、誰もを喜ばせ敵を作らないというものだった。

 誰からも好かれたいわけでなく、誰からも嫌われたくなかったのだ。

 幸い、人のために何かをするのは嫌いではなかった。

 が、それも終わってしまう。自身が楽しもうとせず、淡々とこなすようになった。

 それはモルモットになった時である。己が義務だと自分に言い聞かせた。価値なしの烙印を恐れるあまり、自分の感情を捻じ曲げた。

 僕が甲種になった時、母さんが言った言葉で、僕の人生を全て否定された気がした。どうしても、その考えが消えない。

 だからこそ、そうならないために切り売りを始めた。傷つけらる痛みを知っているからこそ、昔より誰かを傷つけるのを怯えて。

 誰かに僕が生きていて欲しいと思ってもらいたい、と願いながらモルモットとして生きた。


「でも、そんなこと頼まなくたってお前が思ってくれてたんだな。進矢」


 進矢に感謝することでようやく落ち着いた。次の音声を再生する。


「どうしても言っておきたいことがあるんだ。前に一度相談したけど、アマネが突然泣くって話。その原因はフラッシュバックと思っていたが、それだけではなかった。彼女は乙種を治したことで感覚は戻っても思考はそのままだったんだ。アマネは全ての悪事が自分のせいで起きたと考える。滅茶苦茶な話だけど、彼女は本気でそう思い込んでいるんだ。笑えるようになったけど、それより多く悲しんでしまう。それを減らす方法は不幸を失くすことだ。だけど、彼女の周りから不幸な事を失くすなんてことは不可能だろ? だからこそ、俺は根気よく隣で支える。でも、もし俺がいなくなったらどうなるんだろうかって考えてしまうんだよ。アマネが誰の頼りもなく、生きていくのは難しい」


 長い沈黙があった。進矢の呼吸から強い戸惑いを感じた。あの進矢がだ。


「時々、いいや、いつも桂ちゃんならもっと上手くできたんじゃないかって思うんだ。けど、そうやって頼ることが負担になってるってマリさんに言われるまで気付かなかった。だから俺は桂ちゃんに弱音を吐かないようにしたんだ。だけど、同時に気づいた。俺が本当に頼れるのは桂ちゃんだけなんだって。君以上の優しい人を知らない。君以上に信頼できる奴がいない。君以上の友がいない」


 僕の目からとめどなく涙が溢れた。嗚呼、と納得してしまった。

 僕は沢山の人から愛されているのだと。



「だから、桂ちゃん、俺が死んでしまったら気が向いた時でいいから、アマネの話し相手になってやってくれないか? 強制じゃないけど、知ってるんだぜ? 困っている人を放っておけるような人間じゃないって。そして、桂ちゃんには誰かを救える優しさがあるんだって。俺を助けてくれた時のように。そして、その行為の力を知っているんだ。桂ちゃんの言葉には人を動かす力がある。力不足を恐れ、遺書を書いてるわけだけど、死ぬつもりはないよ。まあ、この手紙が読まれることがないよう、祈っているんだけど」




 僕は次の日、進矢の火葬を見送ってから家に帰宅した。

 入った途端、マリさんに抱き付かれた。彼女はどうやら玄関で待っていたらしい。

 急いで包帯を取ると、彼女が泣いていることがわかった。いつも綺麗だった部屋は乱れに乱れている。

 リビングにあった観葉植物が倒れたのか、土が至る所にあり、旅行に持って行った荷物が散乱していた。

 まだ夕方前なのに、窓とカーテンが閉め切られているため、薄暗いため廃墟のようだった。

 僕はそんな所で泣く女性に目を向けるだけで、優しい言葉も抱き付きあやすこともしなかった。それらがマリさんに救いをもたらすように思えなかったからだ。なぜなら、彼女は強い自責の念で自分を縛っている。そして、何より僕のことを考えている。

 だったら、僕は彼女に事実を突きつけよう。思いやりを踏みにじることになろうとも、これ以上重荷を背負わせるわけにはいかない。

 これは使命感などではなく、僕が自覚なければならない責務を肩代わりしてくれていたマリさんに対する感謝だ。僕を守るために隠し続けるという行為から、その重圧から彼女を解放してやりたいというエゴだ。

 いつまでも子供のような願望は捨てなければならない。

 ずっと成りたかった大人になる時間だ。身体だけ大人になって行動が伴っていない自分を変える時が来た。


「もういいんだよ。マリさん」


 僕は泣いてるマリさんに向かっていきなり言った。

 マリさんの約束の真意を思い知ったのは、進矢の通夜だった。あの手紙を読んで涙を流した時、気づいてしまった。


「僕はいつか繰り返すんだろう。だけど、それはアマネさんのためでもなく、進矢のためでもない。誰がためでなく、自分のためだ。ようやく気付いたんだ。何千、何億、と繰り返せば、永遠と表現して差し支えない時を巻き戻せば、できないことなんて――ないはずだって。全てを救えるはずだって」

 

 マリさんはさらに声を上げ激しく泣き始めた。賢い女性だから、彼女が隠してくれていた事実に僕が気づいてしまったことを悟ったのだ。

 確信をもって言える。僕がこの家に来て、テレビを壊したのは彼女だ。事故や故障などではないだろう。

 進矢にアマネさんの情報を知らせないようにしたのも彼女だ。

 進矢の件など、彼女のような心根の優しい人間ならまずしない。あまりにも不自然だった。それらは全て情報を遮断するためだ。

 初めから信じてくれていたのだ。マリさんは公園で吐露した僕の滑稽無形な話を全て信じ、真剣に考え、僕を守ろうとした。

 事故、天災、殺人。理不尽な現象を知って、覆すことが出来てしまうのが、繰り返すという事なのだと。

 時間の巻き戻しは不可能を可能にすることができるかもしれない力だと理解したのだ。アマネさんを救ったように、不都合を捻じ曲げられる力。

 そして、それらを持つ責任から逃げ続ける事は難しいというのも。

 いつでもやり直すことが可能なのだから、いつだって引き返せる。大きな力を得た責務はいつまでも追ってくる。


「マリさんは繰り返すことによって、救える命を直視させないよう、僕を遠ざけた。時間を巻き戻すということは不幸な未来を変えることができるってことだから。不幸を知って動かないのは見殺しだって気づいたからだよね」


 マリさんは答えなかった。今も必死に頭を働かせ、僕を打ちのめす言葉を探しているのだろう。

 事故で死んだ人を救うことは簡単だ。一日前に行って行動を変えてやればいい。

 それでも隠したのは、僕に終わりのない道を歩ませたくなかったから。

 僕が口にした事実を僕から隠し、たくさんの人間を救えるのに行動しなかった、と責め、囁き続けられる重圧を僕の代わりに彼女は背負い続けた。

 悲しむ人々を見て、それを救う手段を忘れようとした。 

 つまり、ありとあらゆる知識を習得し、鍛錬し、それ等を以てして、また繰り返すことで不可能を可能にできるはずだ、とわかっていて動かず黙っているという行為は、犠牲になる人間を見捨てるのとかわらない。それを無視してマリさんは僕の前で笑っていたのだ。

 繰り返しに終わりはない。

 制限を超えれば、当然、前提条件も変わる。習得したものによって前提条件が更新されれば、救う人々も増え続ける。今、不可能なことでも未来ならどうなる?

 全員救うまで終わりはない。際限のない理想。それを探し決断する旅に僕は出たかった。

 

「時間を戻す。それはつまり、いつでも決断を覆し、修正することが可能な能力だ。だったら、常に正解で、尚且つ最善でなくてはならない。総べての選択を見つめ直し、悩み続け、今までの積み重ねをなかったことにしても、万物を最善にしなくてはならない。その末に悲しみを刈り取る方法があり得るのなら、いつか掴み取れる。それまでトライ&エラーすればいい。何度も何度も積み重ねて、理想という塔を創り上げなければならない。それが僕の責務だ。時に逆らう者の宿命さ」


 得た分の力の責務に応える。それが僕の考える大人だった。

 やっと、無力な人間じゃなくなるんだ。

 なのに、どうして、マリさんはこんなにも悲しい顔をしているんだろう。

 彼女は、僕を非難するように睨みつけ、大きく息を吸った。


「そんなのあんまりです。アマネさんが世界の悲しみを自身の痛みのように感じてしまうからって私を捨てるなんて。私を幸せにしてくださいよ。何でもしますから」


 マリさんは支離滅裂になっていることさえ気づいていなかった。彼女は自分のことを捨てていいと言ったし、繰り返しさえしなければ、アマネの所へ行っても構わないとまで言ったのだ。それに何故、マリさんがアマネさんの症状を知っている?

 悲劇を装っても、どれほど熱情を込めて言ったとしても、彼女の言葉にはならない。その熱情は嫉妬などとは違う痛みなのだから。どこまでも僕のために、彼女は嘘をつく。

 もう、そんなことからは――。


「マリさん。そうやって誤認させようとしたって無駄だよ。アマネさんのためじゃない。言ったじゃないか」


 口に出してから、本当に言ったことがあるかわからなかったことに気づいた。ここ数日、妙な記憶の混濁があって発言に責任が持てない。だが、この勢いで畳みかけないとこの先が辛くなるのはよくわかっていた。

 今のマリさんには、今しか声をかけられない。


「実は僕の夢は、何かを救うことだったんだ。独善的な理想。今までと同じだ。切り売りして勝手に満足していた僕と。だから、マリさんが幸せになったら巻き戻す。そして世界を救うまで何度も繰り返す。今までありがとう。でもいいんだ。これが僕のハッピーエンドなんだから」


 僕は笑う。マリさんは泣き続ける。

 マリさんは僕を信用していたのだ。僕なら必ず、世界を救うために行動してしまうと。

 繰り返し続け、知識を技術を蓄積し、悲しみを完全に刈り取る方法を探し続けるのだと。

 そしてその不毛さを想像だけで理解した。救う対象もきちんと定まってない中途半端な理想の惰弱性を。

 際限のなく積み上げた塔の不安定さを。

 だからこそ、繰り返すことを忘れさせようとした。世界の痛みを救えると自覚しないよう声を遮断した。

 繰り返しという終わりのない旅を恐れ、僕を守ろうとしたのだ。


「もう――」


 そこでマリさんは黙った。静寂は彼女の瞳に光りを灯す。

 何故、そんな目で僕を見るか、本当にわからなかった。

 どうして、こうも、人のことを思いやれるのだろうか。


「いいえ、私は諦めません。これからも説得して、桂君を諦めさせてやります。そして、私を幸せにしてもらうっていう、願いを叶えてもらいます。絶対負けないんですから」


 マリさんは泣きながら笑って茶化すように言った。


 しかし、勝負は僕の勝ちだった。いつも上手の彼女に。悲しい初勝利になってしまった。

 

 マリさんの懸念通り、僕は繰り返し続けることで擦り切れた結果だった。

 そう、時間を巻き戻したのは3回などではなく、何度も経験していたのだ。世界を救おうとして、擦り減ってしまい記憶を一時的に失ったのだろう。次の旅路に向けて心を癒すために。

 何度繰り返しても、自分が強くなっているわけではない。痛みに慣れたわけじゃない。苦痛を感じても一時的にどうにかなる方法を蓄積してきただけだ。いつかは爆発してしまう。

 そうやって自分を騙し進んできただけだったから、どこかで壊れてしまう。それでも、僕は懲りずにまた動き出したのだ。

 記憶を取り戻し合点がいった。今までに経験したことがあったからこそ、身につけた覚えのない格闘や捕縛の技術があり、乙種の治療薬を開発できた。

 今考えてみれば、いくら乙種の治療薬の開発だけに執念を燃やしたとしても、数十年で開発できるものではない。

 全て忘れていた積み重ねを拾い上げてきたに過ぎないのだ。

 ようやく僕は旅に出る準備が出来た。

 そのことを自覚すると、ある夢を見るようになっていた。


 僕はいつもソコに立っている。無数の墓標。一人の人間が木のように地植えされていて、そこから枝分かれするように幾つもの同じ顔が生えている。しかし、その顔は太っていたり、老いていたり、傷を負っていたりと一目でわかる違いもあれば顔色の差、生気の抜けてこけた頬など一部の違いだけのものもあって、種類は豊富だ。まるで画面をスクロールしてキャラクターを作るみたいに。どうやら痩せさせるのも若返らせるのも自由自在のようである。

 とある神話で冥界の番犬とやらのケルベロスとは勝手が違った。僕の知っているあれは三つ首だから、まだ犬に見えるけれど、こっちは頭が無数についていておよそ人と捉えることができない。僕にはということだから、もしかすると一般的に見れば人に見えるのかもしれない。

 眺めている内に木は凄まじい速度で成長していく。枝分かれをすることは少なく、槍のようにザクザク背や指などありとあらゆるところから生えてくる。もはや木と形容するのさえ難しかった。

 

「同じ人間でも、あんな風に変われるんだな」


「そうだよ。顔だけでそうなんだ。心身はもっと変わるね」


 いつの間にか現れた誰かは僕の独り言に笑って頷いた。そんなのはわかりきったことじゃないかと。可能性を分岐図に書き示すこと何てできやしない。量は莫大だし、そもそもわからないものなのだから。


「さあ、こんなとこで仲間外れはダメだろ?」 


 悠々たる天地から降り注いでくる無数の、感謝、傍観、憎悪、悲嘆。その全てが僕を貫く。一つ一つ丁寧に、槍の如く身体に突き刺さる。

 声で、視線で、嘆きを伝える、頭が実の系統樹。

 これら全てと向き合うのがお前の責務だと。

 無秩序な剪定を行ってきた罰だと。

 全てにとっての最善を求めなくてはならないのだ、とすべての顔が告げていた。


 そんな夢を毎日のように見続けても僕は巻き戻すことを止めようとはしなかった。

 結果、僕の勝ちというわけだ。

 現代の医療では、死というものは遠く、延命措置がたくさんある。しかし、マリさんはそれらを受けるのを拒み、ホスピスで最後を迎えることを決断した。

 我々は年老え、皺くちゃになった手を握りあって、最後の時間を過ごすことを決めたのだ。

 マリさんはベットで、僕はその隣に座って、そこまで迫ってきている彼女の死を待っていた。

 彼女はいきなり昔話でね、と話し始めた。


「看護師として、救急医療に携わっていた頃確信したんだ。あそこは瞬時に判断しないといけないから、起きてはならないことなんだけど、間違えてしまうこともあった。時間との戦いだから特に。だからこそ間違えないように努力するし、もし間違えても糧にして今後に活かす。時間は前にしか進まないんだって、言い聞かせてみんな頑張ってた。時間さえあればって思っても口にせずに。だからこそ、間って言葉に余計愛着を感じたの。どんなことも間があったら、どうにかなったかもしれないって思うようにして。次の機械のためにその間を作るために努力したの」


「マリさん、今日はいっぱい話すね」


「だって、死というのは恐ろしいから。残された時間が減っていくのがよくわかるわ。すると、後悔が沸々とわいてくるの。一つでも多く、愛した君に伝えたいのよ。それを桂君の塔の一部にしたいのよ」


 目の前の女性は死ぬ。僕が時間を巻き戻したとしても、同じ時間を過ごし、顔を合わせて笑い合い愛し合った女性はいなくなる。

 ここにいるマリさんはもう、どこにもいなくなる。

 自身の死が近づいているにもかかわらず、そのことを彼女は言っていた。


「私が死んだら、行くんでしょ? 頑張って」


 マリさんは僕が繰り返すのをわかっているみたいに言った。そうするのは確定していたが、もちろん誰にも言っていない。僕のように色を見ることが出来るのなら別だが、彼女にはそんな能力は備わっていないのだ。


「不思議って顔ね。私、あの夜、桂君の話を公園で聞いた時には、こうなるってわかってたの。だって、そんな桂君だったから好きだったんだ。自分の痛みを訴えないで、誰も彼もを助けたいと思っている人が。人のために動ける君が。だけど、君が傷つくのは嫌なの。いざ受け入れられないことが起こるとそれを捻じ曲げろなんて、ほんと矛盾してるしとっても我儘ね。私は桂君の優しさを理解した気になっていただけで、もっと深かった。素晴らしいけど、怖ろしいほどに。私では到底届かない所にいたの」


 何も言えないでいる僕にマリさんは容赦なく言葉をかけた。


「今の私では着いていけない。そのことは悲しいけど、次も頑張るから、私を頼ってね」


 僕は恵まれている。マリさんと過ごした時間は幸せだった。それは彼女も同じだろう、とは思えなかった。

 だって、彼女は僕を縛り、諦めさせようとすることに傷ついていた。もう、そんな目には合わせたくない。

 苦しめるとわかっていて、都合よく寄りかかるのは格好悪い。

 だが、死に行く人に正直、話すのは僕が辛かった。弱かった。

 助けようとして助けられなかった痛みを知っているからこそ、これ以上傷つけては、と躊躇してしまう。

 だから、嘘を吐く。墓の前で誓ったものの、変わらぬ卑怯さで誤魔化す。


「はい」


 マリさんは最近めっきり減ってしまった大笑いをした。


「桂君が、私に頼らないのも、仮に頼ってもらって私が着いていけないのもわかってるわ。どうしてって顔ね? 今だから、もう最後だから、教えちゃう」 


 彼女はわざと悪戯っぽく舌を出して、


「桂君って、とっても顔に出やすいのよ。それこそ目を包帯で隠していてもわかるくらいに」


 愉快気にマリさんは笑った。楽しそうに意地悪そうな顔をして、懐かしむようにクスクスと声を出した。


「じゃあ、僕って楽しそうに笑ってた?」


「もちろん」


 マリさんは僕の口真似をして、微笑んで見せた。 


「楽しもうとしているのがよくわかったわ」


 だが、僕はあえてそれに触れず、新たな話題を振った。


「マリさんのおかげだよ。ずっとモルモットで満足しようとしていた僕を、ベットから引きずりだしてくれたのは貴方だ。それからずっと幸せだった」


「それは私の台詞よ。幸せだった。出会ってからずっと、幸せだった。だから、勝負は最初からずるしてたの。願いはもう叶ってたんだから」


 ごめんね、とマリさんは笑って謝った。怒りながら笑う彼女も、泣いて笑う彼女も見てきたけれど、一番悲しい笑い方だった。


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