第18話-乾杯


 和多田病院の勤務態勢は万全のため、帰宅時間は概ね守られ、休日も週に2日しっかりある。

 今日は、休日だったが、マリさんは朝食を済ますと、ベランダで土いじりを始めた。僕はその様子を部屋の中で椅子に座って眺めていた。彼女は嬉々とした顔でポットから苗を取り出し、土と肥料を混ぜたものを予め入れたプランターに植え込んでいく。単調で面白味に欠ける趣味だな、と思った。


「あ、今、楽しくなさそうとか思ったでしょ」


 偶然こちらに目を向けていたマリさんが笑って言った。


「申し訳ないけど、正解」


「これだけ見ればただの作業だけど、まだまだ先があるからね。そこが醍醐味ですよ」


 マリさんは作業を再開した。手際がいいので、数十個あったポットに入った苗は10分もすれば綺麗にプランターに収まり、後片付けも済んでいた。

 それが終わると、植物用の鋏で花が咲いている別のプランターの手入れを始めた。中に植わっているのは、ヒメオダマキ、アネモネ、フロックスだそうで、それの剪定をしているらしい。僕がそれを聞いて、どれが何の花かわかったのはアネモネだけだった。

 剪定というのは花や茎を切ることのようで、何らかの基準で花を切っているようだったが、僕にはわからなかったので、切る行為を楽しんでいるのではないか、と失礼なことを考えてしまう。

 黙っているぐらいなら、と僕はマリさんに、ねえ、と切りだした。


「素人目で見れば、今のままで十分綺麗なんだけど、それって必要なことなの?」


「長く咲かせようと思えばね」


 マリさんは既に切った部分をゴミ捨て場にしている近所のスーパーのビニール袋から拾い僕に見せた。


「咲いているけれど、もうこれ以上はないの。腐ってきている。これは種類にもよるんだけど、この子はそうなのね。で、それを放置しておくと花を咲かせないのに、ほかの部分の養分を吸ってしまって、最終的には全体の元気をなくしてしまうの」


「余分な労力を割く前に、治る見込みのない部分を切除するってことか」


 僕の例えにマリさんは少し眉をひそめた。


「そういうことになるかな。剪定って行為はさ、綺麗にするためとはいえ、この子のもしかしたら、という可能性を殺しているわけだしね」


「可能性?」


 マリさんは小さく頷いて、可能性と繰り返した。


「このまま育たない可能性の方が高いから殺しているだけ。この花を生かすために、生命を脅かす部分と思われるものを切るの。もしかしたら切らない方が、綺麗に咲くかもしれないのに。たらればだけど、私の箱庭を維持するためにそうしているわけ」


 そう言って、マリさんは目を見開き、何かに気づいたようだった。それはよくないものだったらしく、急に悲しそうな顔をした。

 顔にくっきりと深く残るほど大きな悲しみだった。まるで自分にはどうにもできない事柄を――例えば人の死のような――嘆いているような表情だった。

 どうしたものか、と僕が考えていると、彼女は一転して急に笑い出した。


「傲慢な話だね。私の基準で花を摘んでいくわけでしょ。でもさ、私はそれが綺麗になると思ってやってる。この子たちがどう思っているかなんてまるで無視。暴君だよ。花が話せたら別なんだろうけど」


「それはもう花じゃないんじゃない?」


「だね。これはメルヘン? ファンタジー?」


「どっちでもいいよ。箱庭の女神さまの思うがままで。ご自由にどうぞ」


 私のイメージは女王様だったかな、とマリさんは笑った。

 そう言われても、僕のイメージは女神さまだ。優しい彼女にはぴったりの渾名だ。


「でもさ、もし、花の声が聞こえたりしたら、意志が伝わるのなら、剪定鋏なんて握れないだろうけどね。要望を全部叶えなきゃいけない気がするし。けど、それができなくて苦しむのは目に見えてるから、こうやって寄せ植なんて作れなくなるや。私の趣味が減るね」


 ジョキン、と口にしてマリさんは握っていたアネモネの花を切り落とした。

 マリさんの趣味が終わると、彼女の作った美味しい昼食を食べ、僕らは散歩に出かけた。

 

「ずっと家じゃ気が滅入るでしょ」


「病院には通ってるんだけどな」


「それとこれは別だよ」


 さあ、とマリさんが手を引いたので、僕は拒否せず応じたわけだ。

 家では包帯を外しているが、外に出る時には必ず目につけた。甲種の症状は変わっていないとアピールするためである。付き合い方で緩和ができるものだとわかれば、病院に監禁され大がかりな研究が始まるのは予想するまでもないことだ。

 そう言ったのはマリさんだった。考えてみれば当たり前のことだけれど、彼女の家に来たばかりの僕には僅かな思考能力も残っていなかったのだ。

 5月ということで、学生の新学期も疾うの昔に始まり、平日の昼間だったから町は静かだった。日光を浴びていると清々しく、心まで晴れたような気になる。


「心が浄化されるね」


 同意を求めるように、マリさんは語尾を上げて言った。


「僕も似たようなことを考えてた」


「ふふ、通じ合ってるね」


 目が見えないから断言はできないはずなのだけど、僕には隣にいる女性の顔が意地悪くなっているのがわかった。おっと、などとわざとらしく言いながらバランスを崩してこれみよがしに豊満な胸部を押しつけてくるあたり、さらなる追い打ちを、と考えているのは間違いない。

 同居し始めてからこういう悪戯を頻繁にされていた。それらの攻撃に毎回反応してしまうこちらもいけないのだが。

 ついつい、もしや、と下世話な勘繰りをしてしまう悲しき欲求はまだ枯れていない。


「こらこら、ここは住宅街のど真ん中だぞ。止しなさい」


「なに、冷静ぶっているんですか。嬉しいくせに」


 嘘は言えないし、マリさんが普段よりも多く言う冗談や過剰なスキンシップは、こちらを元気づけようとしているものだとわかったから、僕は黙って彼女から離れようとした。

 振りほどこうとしても、こちらが一人で歩けるとわかっているのに、外では病人のふりをしなくちゃいけません、と耳元で囁いて、僕の腕をマリさんが握った。やれやれ、と思っているくせに、嫌ではなくむしろ嬉しいのだから困る。


「突拍子もないし、前にも訊いたけど、マリさんって落ち込むことあるの?」


「そりゃあ、ありますよ。人間ですから」


「暗い時こそ、前向きにだっけ」


「そうです。折角、桂君が披露する機会をくれたので、少しだけ詳しく言いますね」


 マリさんの声は照れていた。それでも話してくれる。僕のために、というのが色に出ていた。本当に、優しい人だ。


「事対人関係に関してはですけど、嫌なことがあるとこう考えるんです。私と相手の間が上手くかみ合わなかったんだ。間が悪かったんだって」


「素晴らしい考え方だ」


 マリさんなら冗談めいた言葉で誤魔化すかと思っていたが、意外にも素直にありがと、と呟いた。


「そういえばマリさん、よく間って言葉を使うよね」


「ああ、遺伝です。父親がよく使ってまして」


 乾いた笑い声を上げ、マリさんは、聞きます、と僕に尋ねた。


「お願いします」


「すまんすまん。間が悪かった。これが父親の口癖なんです。こないだもね、実家に帰った時、お風呂から上がって着替えている所にばったり入ってきてそう言いました。なんでもこれで済まそうとするんです」


 話もよかったが、マリさんのこないだという言葉が妙に可愛かった。

 僕が笑っていると、後ろから誰かが声をかけてきた。


「お、桂とマリさん」


 姿を見ずとも色でわかる。金とか赤とか白とか黒とか、とにかく圧倒的な輝き。自分に影があることすら忘れさせてしまう全方位の光りを放つ色彩。思わぬ友の出現に僕は身を固くした。

 進矢が後ろから声をかけてきたのだ。異様に軽い足音が彼の隣で響いている。アマネさんもいるらしい。


「こんにちは」


 アマネさんの挨拶に僕とマリさんも返事をした。

 彼女の淡く色づいた声は変わりない。


「ダブルデートみたいだな」


 僕は進矢の勘違いに笑って返答した。


「そうだな」


 誤解を解こうとして話が長くなるのは避けたかった。まだアマネさんの前に立っているのは恐い。


「たまの休みくらい、アマネさんをどこかに連れて行ってやれよ」


「人混みはちょっとな」


 進矢が言い淀んだ。声も何かを隠すような色がある。

 が、一刻も早くここから立ち去りたい僕は追及しなかった。


「ああ、二人とも目立つもんな」


「まあ、そんなところだ」


 話がひと段落ついたので、じゃあ、と言って二人と別れた。


「帰りましょうか」


 少ししか歩いていないが、僕は頷いた。マリさんが、僕のために言ってくれていることは明らかだった。もう、色を見なくたってわかる。

 こんな人だからこそ、進矢と結ばれればいいな、と思ったのだ。お似合いだし、二人なら上手く高め合えるとわかっていたから、そういう方向で話を振ったこともあった。現実は全く違ったが。


「進矢、元気なかったな」  


「そうでしたか?」


 マリさんは平然を装っていたが、色は偽れない。どうやら、原因に心当たりがあるようだ。

 しかし、そのことを問い詰めるような真似はしなかった。彼女が隠したいことをわざわざ暴いても意味はない。

 何となく、手を離す機会がなくて、部屋についても器用に二人して片手で靴を脱ぎ、手を洗うまで繋いでいた。


「飲みましょう」


 僕が包帯を取り、椅子に座ると、マリさんが突然言った。


「コーヒー淹れてくれるの?」


「いえ、お酒です。私は明日も休みですから」


「まだ夕方にもなってないよ?」


 マリさんの家に来てから、彼女がお酒を飲んでいる所を見たことがなかった。もちろん僕らは成人を済ませているので法的な問題はない。けれど、規則正しい生活の化身といえる彼女がこんな時間にわざわざ言ったのがどうも腑に落ちない。

 何か話したいことでもあるのだろうか?


「ダメ?」


「いや、家主が飲むといえば飲んでいいんですけど、何かあったんですか?」


 マリさんは口を強く噤んで、こちらを睨みつけるように見た。どうやら原因は僕にあるらしい。


「さ、さあ早く飲みましょう。どこにあるんですか?」


「持ってくる」


 そう言って、マリさんが持って来たのは瓶のお酒で、INVER HOUSEというラベルのものだった。


「桂君、ウイスキーは飲める?」


「進矢に付き合わされて飲んだことがあるので、いけるかと」


「よかった」


 マリさんは緑色の瓶を机に置いた。その後、冷蔵庫から炭酸水の入ったボトルを取り出してから、グラスを4つ用意し、2つにオレンジとレモンの果汁を絞ったものをそれぞれに入れた。残ったグラスには氷を入れ、一つを僕に渡した。


「味が合わなかったら言ってね。一応、少しだけなら酎ハイもあるし」


「えっと、いつもウイスキーを飲むの?」


「そうよ。といっても、高価なものを買ったりはほとんどしないんだけど。これもいつも飲んでる安物よ」


 安さじゃなくて好みだからね、と言いながらマリさんは僕と自分のグラスにウイスキーを小指の長さぐらい注いだ。


「乾杯」


「乾杯」


 マリさんはグラスを合わせるようなことはせず、掲げたままこちらに向けて少し傾けたあと、それなりの量を口に運んだ。

 僕も見様見真似で同じことをしていたが、彼女のように飲むことはできず、恐る恐る啜る。口に運んだ瞬間、風味が広がり心地よかったが、喉を通ると痺れ時折焼けるような痛みを感じた。何も割らずに飲むのは無謀だ。

 僕は炭酸水で割り、ウイスキーを飲んだが、まだ刺激が強くて、オレンジの果汁を混ぜた。

 こちらが試行錯誤している間に、マリさんは2杯飲み終えていた。最初はロックで、2杯目はレモン果汁を少し垂らしていた。

 次の3杯目は果汁を入れず、炭酸水だけで割ったものを飲んでいた。

 何か話したいことがあったのではないか、という考えが誤りで、単に飲みたかっただけかもしれない、と思い始めた時、グラスに向かっていたマリさんの視線が僕に向いては、またグラスに戻すという行動を繰り返し始めた。

 彼女の頬はわずかに赤いが、かなり酔っぱらっているようではない。やはり、話したいことがあるのだろう。

 せっかく、こうして話す機会ができたので、僕から話を振ることにした。


「マリさん本当に優しいよね」


 改まって言うような話題がなく、ついつい常に思っていることを口にしてしまった。この際だから、勢いのまま、ずっと気になっていることを訊くことにした。


「僕なんかに優しくしてくれるし。どうして、あの夜、僕を連れ戻そうなんて思ったの?」


「この鈍感」


 マリさんは本気で怒っていた。色の境界が不確かになるほど暗く燃え上がっていた。彼女の優しい色をここまで変化させたのは2度目だ。情けない事に。

 アルコールを入れてなかったら、ここまで急変しなかったはずだが今は関係ない。原因を推察しても事態は良くならないのだ。起こってしまったからには対処するしかなかった。


「好きだからに決まってるでしょ」


 マリさんは椅子から立ちあがってそう言い切った。

 数秒、どちらも置物のように固まった。

 僕は一体何が起きたのかわからなくて、必要以上に目を瞬いた。そうしていると固まっていた身体が復旧し、幻聴でなければ、マリさんが告白紛いのことをしたということを理解した。

 思わず、勢いよく顔を上げ、マリさんの方を向く。

 彼女の頬は先ほどとは比にならないほど赤くなっていた。僕よりも激しく瞬きだけをしている。

 どうやらマリさんはまだ復旧していないらしい。

 ということは先ほどの事は現実なのだろうか?

 そう閃いたとき、マリさんが戻ってきた。


「もう、開き直っちゃいます」


 と言って、マリさんは仰け反るぐらい激しく息を吸った。


「桂君のことが好きだからですよ。もしそうでなかったら、病院に連れ戻すことはしても、同居なんて病院からのお願い却下してます」


 マリさんは大きな声でそう言い、声量に負けぬ勢いで立ったままの状態から一歩踏み出し、テーブルに手をついた。


「桂君はどう思ってるんですか」


 良くしてくれる人に求められたら応えたくなるのが心理だ。それが元々好ましく思っていて、助けられたと自覚しているのなら尚更。

 だが、本当に僕が応えていいものなのだろうか、と行動に移す寸前で止まってしまう。

 もう少しでそれを言葉にするところだったが、喉元で抑えた。これ以上、自分のためにマリさんを傷つける趣味はない。

 気持ちの有無や性格の不一致などではなく、自信がないなんていう下らない理由で断られたら、彼女がどうなるのかぐらいわかっていた。

 そう考えることができると、目の前の女性を幸せにするには、受け入れるしかないことが浮かび上がる。

 そして、何より重要なことだが、僕がそれを望んでいた。


「僕も」

 

 そう言いながら僕も立ちあがった。その勢いのまま、マリさんの肩を抱いて引き寄せ、唇を合わせる。最初はお互いにこわばっていたが、こちらが少し口を吸うと、二人とも程よく脱力した。

 ついやってしまったが、拒否されなかったから良しとしようと、頭が働く程度には冷静さを取り戻した時、唇を離した。


「もう終わり?」


 マリさんは茶化すような顔ではなく、少しだらしない顔で言った。その様が懇願しているようにしか見えなくて、もう一度唇を重ねた。

 口車に乗せられたような気がしたが、彼女もそこまで計算高くはないだろう。頭は回るが、悪だくみはできない性質だということは、短い同居生活ではっきりしていた。

 彼女はたどたどしい舌使いだし、僕の予想はそう外れていないだろう。


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