第17話-日常
こうしてマリさんとの同居生活が始まった。
入院していた時と、過ごしている部屋の広さはそう変わらないのに、時の密度が違った。当たり前のことを当たり前にできる生活。多少自堕落ではあるものの、普遍的な日常であった。
時間はあり余っていたし、ふとした時間があれば考えごとばかりした。立てるように足場を整えるために。
僕が来た次の日にマリさんの家のテレビが壊れてしまったらしく、粗大ゴミになってしまったので、その癖は加速度的に増した。
その結果、マリさんの言う通りだったのかもしれない、と思えるようになった。僕はまだ留まることのできる間があったのだろう。
どれだけ汚く弱々しい人間だとしても、まだ人として必要最低限の理性はあったのだ。
自分を赦すことはできそうになかったが、そう考えれると誰かを傷つけてしまうかもしれないという恐れも薄れ落ち着いた。すると、他のことにも目を向けられるようになる。
同居生活が始まって数日してようやく、マリさんの世話になりっぱなしだということを痛感した。
僕が家事を請け負うと言ったが、マリさんは仕事から帰ってきたら率先して残りの家事をこなした。腑抜けていたし、身の回りの世話もあまりしていなかったから、家事すら満足にできていなかったのだ。しかし、彼女は文句を言うどころか、僕に感謝の言葉をかけ、私の番だとはりきる始末だ。なので、彼女が帰ってくる前に全ての作業を終わらせるように効率化を計ることにした。
そこで、僕はこの生活の問題にぶち当たった。僕とマリさんが異性だという至極当然の事実だ。
落ち着くまでは無心で家事を行っていたので、意識できていなかったが、無遠慮に女性の領域を土足でうろちょろしていたのである。下着まで普通に干して、畳んでいた。
改めて記憶を遡れば、マリさんが僕の家事をするという提案に恥ずかしがったのも納得できる。
しかし、あの時の彼女の決断を踏みにじり、再度掘り返すのも問題なので、そのまま実行することにした。
勝手な憶測だが、マリさんは僕のことをよく理解していて、お金も家事も拒否されればこちらの気が晴れないのを予知できたのだろう。その気づかいを無下にはできない。
下着よりデリケートな部分がマリさんの家にはあった。
僕が触れないものはその1種類だけある。彼女の趣味である植物の世話だ。そこだけは一度も介入していない。
花は毎日水をやっていれば良いというわけではなく、種類によって飼育方法が違うことを知っていたし、マリさんが楽しそうに世話をするので、その機会を奪うのは悪い気がした。
1週間もすれば、家事の流れも把握でき、楽しそうに微笑むマリさんと同じ空間にいることに違和感がなくなった。
甲種を患う前は家の家事を半分担当していたので、勘さえ取り戻せばよかった。
今日もマリさんが目覚めなければならない時間の30分前に僕は起床する。目覚まし時計の必要もなく正確に。
入院生活の賜物だ。
すぐ朝ご飯の調理をして、マリさんを起こし、一緒に食事をしてから、準備を済ませた彼女を見送る。
その後は食器を片付け、部屋の掃除をしてから洗濯を干し、簡単な昼食を作って食べる。午後は考え事をしながら物音を立てないよう細心の注意を払って運動に勤しむか本を読む。テレビがないので、そんなことしかすることがなかった。
それらが終わると、洗濯ものを取り入れ畳み、夕食の準備をする。これが僕の任務だ。
僕が病院に行く日も、どれかの作業が急ぎで行われるだけで、しないということはなかった。
「ただいま」
マリさんのこの一言を聞いて、おかえり、と返す。このやり取りにぎこちなさはもうなかった。自然と出ている。そのことに僕は毎度驚かされた。
なんて平凡な生活だ。僕はいつ、これらが自分の遠いところにあると思ったのだろう。
自分を罰そうと動いていたにも関わらず、満たされていく。ありがたいことに、望んでいた負の方向性と叶えられる現実とが両極に位置している。
その現実は温かく、少しずつ前へ僕を進ませていた。氷上を進むような弱々しい足取りではあったが着実に。
手洗いうがいを済ませたマリさんと少し話してから、僕の作った料理の数々をテーブルに並べていく。メインはカレイを塩で味付けし骨まで食べられるようにしっかり揚げたものだ。サザエ入りのカヤクご飯、ジャガイモの味噌汁、ほうれん草のお浸し、温泉卵、市販のドレッシングで和えたサラダ、豆腐。それが今日の晩ご飯だ。
マリさんは黙々とそれらを美味しそうに胃へ運んだ。看護師ということもあってか、食事が女性にしては早い。
「ごちそうさま」
マリさんはそう言って立ち上がり、食器を下げてから戻ってきて、僕が食べる様子をじっと観察した。
僕は男性にしては食事のスピードが遅いので、いつもこうなるのだが、慣れるものではない。なので、どうにか注意を逸らそうと話題を蒔くのだった。
「テレビ買いなおさないの?」
「うん。一人暮らしだと、やっぱり必需品だったなと思う。けど、今は桂君がいるから楽しいし、いらないかな」
マリさんはにっこりこちらに笑ってみせた。
「必要だったら買うけど?」
「いや、いらないよ。僕は居候の身だしね」
「言うと思った」
ケタケタ笑いながら、マリさんは席をたち、キッチンで暖かいお茶を二人分淹れて、持ってきてくれた。
食後の一服はマリさんの担当で、夜はお茶、朝はコーヒーを淹れてくれる。どちらも美味しく、淹れ方をこだわるだけでこれほど変わるのかと、お茶やコーヒーに関心がなかった僕には驚きだった。
「ありがとう」
「いえいえ」
マリさんはお茶を飲み干し、目薬を差して机に突っ伏した。3分ほどすると起き上がり、医療関係の教材を広げ勉強を始めた。何かの雑誌に取り上げられてもおかしくないほど、メリハリのある生活を彼女は送っている。それも毎日休みなくだ。
仕事を終わりの時の具体的なメニューは、小一時間勉強をし、軽い室内運動の後ヨガをして入浴。お風呂から出ると、肌の手入れをしてから、明日の準備をし、就寝するまで本を読んだり、僕と話したりする。時に帰宅時間の関係で、どれかが短くなったり、省略されたりすることがあったが、概ねこのサイクルを守っていた。
僕はというと邪魔にならないよう、マリさんから借りた小説を黙々と読んでいる。病気になる前は読書を好んでいたほうなので、それなりに読む速さが身に付いていたが、この家にある本の量が多いので、当分困ることはない。
久々の読書は有意義なものだったが、本を読んでいても、僕の頭を占めているのはアマネさんのことだった。だが、その比率は日に日に減ってきて、本の読む速度が上がっている。
空いた時間で、あの感情の整理を着手し始めたからだろう。
僕はこれから彼女のいない世界で生きていかなければならない。そう、僕の隣にいたアマネさんはあの時に死んだのだ。
その事実に打ちひしがれそうになる。膝をつき、耳をふさいで縮こまって時の流れから切り離されることを望む。そうしてひっそりと後悔を膨らませるだけ膨らませて死ぬのだ。
が、それだけはしてはならない。
僕がアマネさんの知る僕であるために、墓標の前での誓いを曲げる訳にはいかない。前へ進むことだけはし続けなければ。
あの時の彼女にしてやれることは、もうこんな事しか残っていない。
そのためにも、いつまでも囚われ続けてはいられないのだ。
だから、僕はこう結論付けていた。
気持ちを通わせ合ったアマネさんは、今、この時間に生きているアマネさんとは別人なのだと。
そして、彼女の心をねじ曲げるために、時を巻き戻すことはできない。楽しく生きている彼女をなかったことにするなんてしてはならない。
僕の目的はアマネさんを幸せにすることだったのだから。
これからのことも、進矢になら任せられる。彼は僕の誇りなのだ。唯一尊敬できる友なんだ。
マリさんのおかげでこんな風に思えるようになった。
僕はもう、アマネさんから離れ、新たな日々を歩むのだ。
今までとの決別。変わりたいと願いながらも諦め、目を閉じいた自分からの脱却。
熱は灯った。きっかけをアマネさんがくれ、火種が消えかかっていたところをマリさんが救いあげてくれた。
失うことを恐れてもいい。それでも、と進みたい。
墓の前いた僕とはここでおさらばだ。
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