第16話-罪と罰と赦し

 マリさんは2日の間に、退院の手続きを済ませ、僕を彼女の家に連れていくことを決定させた。見事な有言実行である。速さだけではなく、手際も良かったので僕は役割を失わずに済んだ。

 退院することになったが、モルモットとしての職務は残ったのだ。そのため、今後も病院に通う必要があった。週に二回病院に検査を受けに行かなければならない。

 だから、病院から徒歩十数分の位置にあるマリさんの住まうマンションは都合がよかった。それに、病院側も貴重なモルモットが一人で生活するより、医療の知識がある人間が近くにいたほうが安心できるという考えもあったそうだ。

 これらは僕が考えたのではなく、病院側が提案したものだった。僕は早く出たかったので二つ返事で了承した。この頃の心にはしっかり膜が張っていて、選択することはもちろん、考えることもできやしなかったのだ。その感覚は蝋や糊で身体を固められているかのようだった。

 退院当日、妙にニヤニヤした色を放つ進矢と彼とは正反対に何も発しないアマネさんに見送られ、マリさんと家に向かった。 

 外で、それも知らない道だったから、マリさんは僕の手をしっかり握って先導してくれた。なので端末を起動する必要もなかった。

 マリさんの家はアパートかマンションらしく、オートドアのパネルを顔認証と声帯認証でパスして、エレベーターに乗り、部屋の前についた。


「鍵開けるから、待ってて下さい」


 マリさんは扉を開けたまま、どうぞ、と言った。

 念のため端末を起動させる。式台には履きやすいよう玄関側に向けられたスリッパだけしかない。扉をくぐると爽やかで味にすれば酸っぱそうな匂いがした。それは何度か嗅いだことのあるものだった。

 たしか、マトカリアとかカモミールみたいな名前の花だ。そのせいで、ある記憶が喚起され、心の奥がじわりと熱くなった。

 それをできるだけ無視して、土間に進む。

 

「おじゃまします」 


 靴を脱ぐために屈もうとしたら、マリさんに肩を掴まれ、外に出された。


「不正解です。もう一度どうぞ」


 何をさせたいのかはすぐわかった。

 僕は若干の気恥ずかしさと数秒戦い、敗北した。


「ただいま」


「おかえりなさい」


 マリさんの部屋は、玄関と同じく小奇麗だった。バスとトイレが分けてあるワンルームだ。ダイニングも整理されてある。他に、植物が多いのも目立つ。

 彼女の趣味は植物を育てることとコーヒを淹れること、というのを以前聞いたことがあったので、そこまで気にならなかった。


「部屋の真ん中に机があるからそこに座ろっか」


 マリさんはそう言って、僕のためにイスを引いて座るのを補助してくれた。


「ようこそ。狭いけど、我慢してね」


「そんなことないよ。というか部屋で過ごしていいのかな。僕は危ないから、首輪でも付けて、ベランダに出してくれた方が安全だよ」


「もう、冗談は止めてください。犬じゃないんだから」


 冗談のつもりはなかった。ただ距離を取るだけでなく、物理的拘束が必要だった。でも、何故そう思ったのかは判然としなかった。

 アマネさんを殺そうとした時から、頭はまともに機能していない。


「部屋に何があるか簡単に説明するね。桂君は今までベットで寝てたけれど、家にはないから、敷布団に変更ね」


 マリさんはまだ説明を続けていたが、僕の耳にはほとんど届いていなかった。誰かと一緒に暮らすということを想像できなかった。彼女は、いつ何をしでかすかわからない人間が、隣にいて怖くないのだろうか。

 僕は迷った状態で、幾つか聞いてからそれを遮った。


「どうかした?」


 マリさんが尋ねた。こちらを気遣う心配の色が濃く出ている。僕は彼女に全て正直に話すことを決めた。それも何故かはわからない。そんな頭でも、あれだけ恥ずかしいことをしたのだから、今更取り繕っても仕方ないというのだけはハッキリしていた。この頃、今更今更と何度も言っている気がする。思考が暗い証拠だ。


「実は目が見えているんだ」


 包帯を取って、マリさんと初めて目をあわせた。

 初めて見たマリさんの顔はある程度整っていた。美人にぎりぎりカテゴライズされる容姿で、どこのパーツも悪くないが、際立った良さもない。強いて挙げるなら、声と同じく優しそうな目元が特徴だろう。そう思って見ると、どことなく愛嬌がある顔立ちだ。

 僕がマリさんを観察している間、彼女は驚きのあまり惚けた顔をしていた。見えてはならない目が見えているのだからわからないでもない。


「前にも僕は時間を巻き戻せるって言ったよね。アマネさんを救う繰り返しの中で、甲種との付き合い方も学んだんだ。寛解だね。甲種は未来では人間の進化なんて言われていたくらいで、実は人間に予め振られた設定値のようなものを改竄する能力なんだ。人間に備わっていない能力を得る代わりに、何かを代償にする使い勝手の悪いもの」


「声に色を感じ取れたり、時を巻き戻せたりする代償に、目や身体能力が弱っていたってことですか」 


 僕は頷き、補足した。


「そういうことだね。でも、意識すれば衰えた身体機能を元に戻せるんだ。その代わり、どこかの設定値を減らす必要があるけど。そのことに気づかなかったから、感情が高ぶったりした時に、無駄なところでその数値を使ってしまって、他の機能が使えなくなってしまったりしたんだろうね」


 僕は病の説明の間に、マリさんと暮らすことを再度シュミレートしてみたが、上手くいかなかった。アマネさんの首筋に手を伸ばす僕が出てきて、彼女に何もしないという保証はないのだ、という現実を見せつけてきた。

 先ほどから頭にあった何故という疑問はこれだ。何故、隣に人がいる? お前は罪人だぞ?

 マリさんと同居するという方向がいけない。これ以上、甘えちゃだめだ。これ以上、傷つけちゃだめだ。

 思考能力が低下していた僕はそんなことを今更気づいた。まただ。今更今更。ずっと後手になっている。


「マリさん、聞いてほしい」


「はい」


 マリさんは元々よかった姿勢をさらに正した。

 僕は少しだけ待ってね、と断って、同居を解消しなければならない理由を整理することにした。

 人を殺しかけた。

 簡単に人としての一線を超えてしまえるのだという事実は、今まで地に足を付けていたという感覚を奪った。自分の理性への信頼を失ったのだ。

 何をするのも恐ろしい。

 アマネさんに裏切られたと身勝手に憤慨した時に感じたありとあらゆる方向性を内包した衝動。それはまだ消えておらず、僕は抑えるだけで必死だった。

 そんな中、衝動の一部を言語化できるほどはっきりした状態で発見した。また何か仕出かしてしまうのではないかという恐怖が、この回への諦めが、突発的な行動を起こさせようとしていた。

 滅茶苦茶に暴れて、さっさとリセットしろ、とまだ囁いてくる。好き放題やり直せ、と嗤う。問題は、その声と提案が甘美的なことだ。

 だから、僕には責め苦からの出口を目の前にして、耳を塞いでとどまることしかできなかった。進むことも退くことも自分では選べなかった。どうすればいいのかわからなかったからだ。どれが正解なのだ? 何をすればいい?

 それは追々、探せばいい。今すべきなのは、新たな犠牲者を出さないことだ。 結局、モルモットという役割を守ろうとするから、人を巻きこむ。いつまで保身に懸命になっているんだ、と自嘲する。

 あの夜から、アマネさんと会話していないが、警察に通報されていないところから推測するに、首を絞められた時、彼女は目を覚まさなかったのだろう。だとしても関係ない。

 この手は次もきっと首に伸びる。今度こそ、近くにいる命を見境なく摘み取る。

 従って、役割を失うことになろうとも、犯罪者はさっさと裁かれるべきなのだ。

 殺人未遂ではそう重い罪にはならないだろう。そもそも立証できるかもわからない。

 だが、マリさんの家から出た後のことは、必要最低限人と接することなく、考えればいい。お金はいくらでもある。使うあてもないのだ。

 独りで檻の中でじっとしていれば、少なくとも誰も傷つけないで済む。


「殺人者を匿うつもりなのかい?」


 僕は一度諦めたが、マリさんに呆れてもらうことこそが、役割を失う一番の近道だと考えた。

 彼女は優しい人だから、僕を守ろうと躍起になっているのだ。そうでないと、わざわざ僕を保護する理由がない。

 諦めさせなければ、強引に逃げても、追いかけて来るだろう。それこそ、罪を自白し終えても。


「桂君は桂君よ。殺人者なんて名前じゃないわ」


 マリさんは頬に皺を寄せ笑った。声も表情も柔らかい。


「それにアマネさんは死んでいない。だから殺人ではないでしょう?」


「そんなことは問題じゃないんだ。僕は罪を犯した。その事実はどんな理由があれ変わらない。裁かれる必要がある」


 僕の発言を聞き、マリさんは大きく首を横に振った。


「あなたは無罪よ。そう証明された」


「そんな訳」


「落ち着いて。続きがあるから」


 僕が前のめりになった身体を元に戻し、口を閉じたのを見て、マリさんは話始めた。 


「アマネさんにも確認してもらって言ってるの。そして、私だけじゃなく、進矢君にも一緒に。その結果、彼女の首に傷も桂君の皮膚組織や体液もなかったわ。君を連れ戻してすぐ調べたから間違いない。彼女に触れてすらいなかったのよ」


 僕は身体から固さがなくなったことに気づいた。頭にかかった靄も消えていた。

 解放感というものを全身で感じた。

 すぐに失態を犯したと思った。蝋や糊で周りを固められたような感覚から解放されたのであれば、必ず外にも変化が現れる。マリさんがそれを見て、勘違いしてしまってはいけない。僕が安堵したのだと。

 あんな理不尽な理由で、殺す寸前までいったこと事態、赦されることではないのだ。

 司法によって裁かれることができないのなら、尚更被害者が出る前にマリさんから離れる必要がある。

 どうやって誤解を解かせるのか、その道筋は数秒で導き出された。


「マリさん。僕はね、本当に殺そうとしたんだ」


「まだ言うの?」


 想定済みの問いによって僕は平静を取り戻した。

 僕とマリさんは2年間毎日話した。僕は繰り返した日数分多い。

 だからこそ、マリさんを信じていた。彼女ならば司法の代わりに裁きを与えてくれるだろう、と。侮蔑の言葉を吐き、部屋から蹴りだしてくれるはずだ。

 だが、それは難しいだろう。そのためには優しい彼女でも見限ってしまうような人間だと教える必要があった。

 でも、優しい人だからこそ、悪を毛嫌いするではないかとも期待していた。

 何にせよ、やることは変わらない。

 そうすれば、今度こそ僕は逃げずに済む。弱い人間は隣に照らす人がいなければ消えていく。どこかでひっそりとリセットせず余生を過ごす。罪から逃げず向き合える。


「僕は本当に殺そうとしたんだ。そんな異常者と君は一緒に住もうって言っているんだぞ?」


 興奮している僕とは対照的にマリさんはゆっくり首を横に振った。


「桂君が殺そうとしたという話もそうだけど、繰り返すだとかは、もっと信じられない」


 とマリさんは揺れ惑う目を少しでも隠すように机を見ながら言った。

 申し訳なさそうに言われてしまうと、僕も思考を止めてしまう。このままでいいじゃないか、と心のどこかではそう思っている。

 

「リセットが嫌だというなら、仕方ない。なら、妥協しようじゃないか。この女に甘えよう。お前のちっぽけな役割も守られる。平和的解決だろう?」


 ハッキリそう言う声が聞こえた。だが、それは呑めない。そんなことをすれば次の悲劇を生むのだ。僕はもう誰も傷つけたくない。そんな事を言うのは、やめてくれ。


「信じられないことかもしれないけど、本当のことなんだ。でもこの際、過程はいい」


 僕は勘違いしていた。マリさんに納得してもらう必要はないのだ。

 目的は、彼女を呆れさせること。なら、僕がどれだけ冷酷非情な人間なのか、わかってもらうだけでいい。


「僕は自分じゃなく、親友を好きになったアマネさんを許せなかった。なぜなら、彼女は僕にとって守る対象であると同時に、周囲から理解されないもの同士対等でもあった。我々しか真に通じ合えないとさえ思っていたからだ。俺はその思い込みが崩れただけで手をかけようとした勘違い野郎なんだよ。これだったらわかるだろう?」


 マリさんは返事の代わりに、僕を見据えた。そこには先ほど隠そうとしていた惑いも不信感もなく、非難の色すら含まれていなかった。

 まだ足りないらしい。

 それでも僕は躍起になってその瞳に敵意を宿そうとする。

 殺人未遂という罪がないとわかった今、彼女を呆れさせるには僕への誤解を解いてもらうしかない。時間を割いて何かしてやるほどの価値もない人間だとわかってもらうしかない。


「自分の気持ちに応えてくれないから、好きな女性を絞め殺そうとした。愛を妄執し、身体だけ育って、心は子供のまま、そういう奴なんだよ。僕は。本当に愛していなかったから相手の変化を許容できなかった。人の気持ちを考えず役割だけに固執していた証拠だ」


 僕は簡潔に事実を口にする。それは効果があったようで、マリさんの視線は再度机に向かった。輝いた机の面に映される彼女の瞳は揺れている。賢明に表情を隠そうとした反動で、そこだけに感情が集中している。だが、まだ足りない。せき止められた衝動を放たなければ。

 優しい彼女でも躊躇なく、捨てられる悪を見せつけねば。


「アマネさんのことは、僕だけしか救えないと勝手に思いこんで、自身の役割を創り上げていた。でも役割がとりあげられたら、人生を賭けた分は返せなんて言ってしまう小さな覚悟だ。子供でも賭けごとに負けることがどういうことかわかっている。それでもだたをこねた。僕はきっと思い通りになるなんて幻想をずっと引っ張ったまま暴れる赤ん坊さ。そんなことをしても現実を呑み込めもしないし、諦めることもしないのさ。彼女のことを考えてやれなかった。彼女の変化を許容できなかった。その末に、好きな人を殺そうとする狂った奴なんだ。愛っていうのは人を傷つけるものじゃないだろ?」


 何を言ったかわからなくなってきた。一度、呼吸を止めて、リセットし、深呼吸をする。

 俺が、どんな人間なのか、言ってやればいい。 


「いいかい。僕は、甲種になって報われないという事実に気づいていながら、理解しようとしなかった。どこかで、こんな僕でも何かをすれば報われると思ってた。でも、そうじゃないと突きつけられて、立ちあがることもせず、蹲ることもしなかった。そんな人間だから少し頑張ったふりをして、負けそうになったら失敗した責任を押しつけて、アマネさんの変化を許さず、引きずり降ろそうとしたんだ。それも殺人という最低な手段で。そんな奴だから、今度こそ止まれるという保証はないんだよ。マリさんの近くにいていい人間じゃないんだ」


 その言葉で僕の目的は達成された。机の面に反射したマリさんは大きく目を見開いた後、強く瞼を閉じた。目尻から頬をつたい机に雫が落ちる。血液の代わりのように彼女の痛みを代弁する。

 落ちる間隔は短くなっていき、マリさんはついに嗚咽を漏らした。

 僕は肩を震わす女性に何もしてはいけない。利用した代償だ、と思った。今回の原因は自分にあるのだから。

 マリさんが涙を流すたび、僕が感じる痛みは、個人的な問題に彼女を巻きこんだ僕への罰なのだ。そもそも、そんな風に思うことすら失礼だった。彼女は理不尽な加害者に傷つけられた被害者なんだ。

 回り続けているはずの秒針から音が消えた。長すぎる沈黙は音すら消す空間を演出しひっそりと、終わりだ、と語る。それでも僕は動かない。引き金を引くのは外。スウィッチも着火も外的要因。時が動き出すその始まりは僕ではなくマリさんによって行われる。

 僕はこの期に及んで、モルモットという最後の役割を失うのを惜しんでいた。心はアマネさんの墓の前でただ立ちすくんでいた。

 いつまで経っても、自分で踏み出せない。スターターピストルが鳴るのを待っている。

 マリさんは大きく息を吸い、鼻を啜ってポケットから出したハンカチで目元と鼻を拭いた。そして僅かに目を上げ、僕の胸辺りを見ながら口を開いた。


「桂君は言ったような殺意に近い物を持ったのでしょう。そこはもう疑わない。繰り返しの中で芽生えたアマネさんへの感情は理解できるようなものでも、共有できる物でもないとも思う」


 マリさんは辛そうに絞り出した。でもね、と声量としては弱くけれども確かな響きで口にした。


「結局は殺していない。君は止まれる間を持ってたの。それができた強い人でしょう。それも確かなことなの。認めてあげてよ。自分はギリギリ踏み止まれたって少しは誇っていいはず。それに、嫉妬なんて誰にでもあるわ。ただその形が少し変わっていただけよ。言い換えれば、それだけ本気だったってこと。負の面で感情が高ぶることなんて個人差はあっても誰にでもあるじゃない。止まれたのならいいじゃないの。痛みを一人で抱え込まないでよ。少しは吐き出してよ」


「結果が良ければ全て良しなんて綺麗ごとでしょう」


 僕はマリさんの言葉を途中で掻き消し、声の大きさで相手を威嚇するような行動を取っていた。どこかで負けを悟っていた。こんなことをしてもマリさんは怯まないと、漠然と理解していた。

 彼女は確実に、墓の前で立つ僕に迫っている。


「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。それを決めるのは桂君よ」


 その言葉は僕を激しく揺さぶった。やはり、マリさんには敵わないと再度、理解させられた。


「私に罪を犯していない人を裁く権利はない。私にできるのは君の痛みを分かち合おうと努力することだけよ。辛いなら支える。楽しいなら一緒に笑う。そうやって桂君との関係を育みたいの。それが私の望み。だから、私は待つわ」


 マリさんは顔を下げたままチラリと上目遣いでこちらを見て、その視線をまた机に戻した。彼女の目と頬はうっすらと赤くなっていた。


「言ったでしょ。私には桂君が優しい人にしか思えないって。少なくとも私にはそう映るの。それだけが私の事実なの。君の気持ちが完全にわからないのと一緒よ。人の気持ちを量ることはできても、全く同じものを見ることはできない」


 マリさんは心をそのまま言葉に乗せているのだろう。徐々に語気が高まり、言葉の間隔が狭まっていき、話に整合性が欠けてくる。それに比例して、僕は戦意を失っていた。


「それでも桂君が苦しんでいるのはわかる。それなのに君は痛みを隠そうとし、差し伸べられる手を穢すのではないかと怯える。どうしてそんなに自分に厳しいのよ。迷惑をかけるだなんて遠慮しないでよ。それは君の魅力だと私は思うけれど、そんなに苦しむ姿を見るのは辛いわ。本当に辛くて大変な時くらい助けを求めてもいいじゃない。こんな事を言うのは、おこがましい事だとわかってる。君を責めるつもりはないけど、傷つけているとわかってる。だけど」


 そこで、マリさんは顔を上げた。その動きで、目尻から涙がこぼれる。新たな涙で、可愛らしい丸い瞳を潤ませたまま、僕と目を合わせた。


「言葉にせずにはいられないのよ。自分をそんなに責めないで愛してあげて。そうじゃないと」


 マリさんは言葉を詰まらせて、腕で口を覆い、また声を押し殺すように泣き始めた。でも僕には届いている。どうしてそんなに痛みを訴えるような泣き方をするんだい? それも、人の痛みだけを思って。

 自分を罰するために必要な罪も消されたので、残った材料は醜い心だけだった。しかし、その目論見は破算したのだ。その衝動は誰にでもあるのだと、彼女は信じ切っているのだから。

 降参だった。圧倒的な敗北だ。

 僕はずっとそうだった。不甲斐なさを隠そうとし、それが失敗すると怯え、自分を罰することで赦しを得た気になっていた。悲劇の真ん中に立っていると喚き、謝ればいいと思っている姿勢は反省していない証左だ。そう、学習し変わろうとしないといけない。

 墓の前で蹲っていた僕はようやく重い腰を上げようとしていた。


「ごめん、同情を引くようなくだらない話をして。僕が悪かった」


「何が悪いの?」


 マリさんは呼吸が乱れたまま、言葉を発し、涙を流した状態で心底不思議だという顔を僕の方に向けた。


「桂君は正しかったと私は思う。君はアマネさんを愛せていたはずよ。相手のことを思いやっていたからこそ、何度も彼女のために頑張ったんでしょう。それなのに違う人と結ばれたなんてことがあったら悔しいに決まっているもの。成果を期待するのが悪いことなわけないでしょ? 肝心なところでセーブできるのなら、桂君だって当たり前に悲しんで怒ってもいいに決まってるじゃない。そこで変なことを思いついてしまったのもそう。物事に必ずなんてないもの。自分に厳しすぎよ。時には正しく、時には悪く、ずっと綺麗なものなんてないでしょ。人ってそういうものでしょ。悪い事ばかり続いたから、自分は悪人だなんて思うのよ。瞬時に判断しようとすれば間違ってしまうのは当たり前なんだから、誰にだって一瞬、寸での所までいってしまうことはある。私もあるもの」


 マリさんは自分でも上手く言葉にできていないことを気づいているようで、自身に苛立っていた。

 それでも、嫉妬を内に留めることができたのだから、悲しんでもいいのだと、自分を責めるなと、僕の代わりに怒ってくれていることぐらいわかっている。彼女の声の色が雄弁に語ってくれている。いつもと変わらぬ、人を思いやる色で、僕に言葉をかけてくれている。

 泣き疲れた子の頭を撫でるように。君の痛みは正しいものなのだと、教え諭すように。


「言いたいことはわかるよ。でもね、そうじゃなくて。マリさんにこんな下らないことを話すべきではなかったな、と」


 もう、マリさんに僕が悪だと認めてもらうことは諦めていた。僕が自分自身を赦せないように、彼女は僕を赦し続けるのだから。

 本来ならば、対立したまま平行線を辿るはずが、意思の弱い僕が折れたのだ。自分を赦せないのはまだ変わらないし、まだ自分が誰かを傷つけるかもしれないと恐れている。だけど、自分を責めて満足し思考を止めるのはやめようと思えた。それだけはしてはならない。

 それは逃げなのだ。考えるのを止めるというのは、現実から目を逸らし、悲劇に酔う行為なのである。それを見て、満足するものがいなければ、誰も得をしない。

 思えば、マリさんに見つかってからずっとそうだった。責任の所在を衝動に押しつけ、自分を罰して欲しいと訳も分からず喚いていただけだ。

 アマネさんを殺しかけたのは衝動なのだと責任を放棄していた。そうじゃない。あれも内から出たものなのだ。別個の人格など有していない。

 だからこそ、根本的な原因と向き合わなければ変われない。直視しなければ変われない。

 認めたくなかったのだ。自分がアマネさんを殺そうとしたことを。

 他の奴らと変わらないということを。

 次々と出てくる下種な欲望を。

 どこかで自分は特別なのだと思いたかったのだ。綺麗な人間に憧れたが故に、自分の汚点を認められなかった。

 マリさんを傷つけるかもしれないという恐れは本物だが、そんな自分を自覚するのが嫌だったから、罪を欲していたという側面もあるのかもしれない。

 がんじがらめになっていた思考にひと段落ついてほっとする。

 が、その間に落ち着いてほしいと思って言ったはずだった僕の言葉が、マリさんをさらに怒らせたようだ。

 優しい人の怒りは、鼻息の色彩だけで僕を縮こませるには十二分の迫力があった。


「ただ話すだけじゃダメなの? 話に下らないとか、関係ある? 何にでも理由がないとダメ? 痛みを誰かと一緒に分かち合うのがダメなの? 一人で苦しまなきゃダメ? なんでそんなに頑ななのよ?」


 僕が慌てふためいているのに気づいて、ごめんなさい、とマリさんは言ってから深呼吸をした。


「熱くなりすぎたわ。私が言いたいのはね、桂君には休憩が必要なのよ。自分を追いつめてばかりではどうにもならないわ。心配せずに休んで。いろんな問題が空っぽになるまで。それから、答えを出して」


 二人して黙った。その間に僕は情けない自分を言語化できるほど落ち着いてしまった。

 僕にあったのは新たに傷つけることへの恐れだけだ。あくまで罰は恐れを取り除く手段だった。自ら罰を欲するなんて殊勝な人間ではない。

 マリさんはその恐れが普遍的なものであると諭し、一人で抱え込むなと叱ってくれた。

 誰にも理解されないと口を閉ざしていたばかりに、変なことを考えていたのだと自覚するとたまらなく恥ずかしい。悲劇に浸って喚いていた過去を今すぐ消したい。

 だが、それはできない。僕にできるのは、それも自分だと認め、改善することだけだ。

 そして、極めつけは悪癖だ。本当に甘えていいかわからなかったので、遠回しな確かめ方をしたのである。敗北した後、直接確かめるのを恐れたのだ。

 衝突を恐れ、同情を引くような話をした、と下手に出ればどうにかなるだろうという、汚い打算。

 次へと踏み出すために今度こそは僕から切りだす。口を開く。


「改めて、ありがとう。マリさん」


 やはり覚悟していたものの恥ずかしい。母に悪戯を叱られた後もこんな風だった。

 そして、次に出す言葉も昔と変わらない。話を逸らすのだ。流石にすぐ変わるのは無理だった。でも、そんな自分を否定するぐらいなら、他のことを考えよう。


「えっとお金は払うから」


 マリさんは机の上に置かれた僕の手を包むように両手で握り、こちらの目をじっと見た。


「今はそんなこと考えないで休んで」


 僕が反論しようとすると、マリさんは僅かに握る力を強めた。


「確かに大事なことよ。だからこそ休んでからにしましょう。大事なことだから、桂君が、そして私が冷静なときにね」


 僕がマリさんの温情に返せるものはお金だけだと思っていたので、不安になるほど焦った。他の案を考えていなかったので、すぐ浮かんだ子供でも言える安直なものを口にした。


「じゃあ、それまで家事は任せてよ」


 マリさんは短く息をのみ、こちらをまじまじと見た。はて、と僕が小首を傾げると、彼女の頬がみるみるうちに赤くなり、机に座ってからほとんど合わせていた目を反らした。

 さらに首を傾ける。はて?



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