ループⅢ

第14話-三回目


 僕は移行してすぐ、二回目のように進矢へデータを送った。今回はそこにアマネさんの問題についても書き加えた。

 乙種を治しても、再発するというなら、その原因をなくせばいい。

 すると計算通り、進矢によってアマネさんは保護され、彼女は一時的に和多田病院で預かることになった。

 祖谷とその計画に関わった者やアマネさんの父親も捕まった。

 なので、アマネさんには乙種の治療薬の経過を見るという名目で、退院後一人で生活できる資金を払うらしい。流石は進矢だ、と僕は改めて感心した。

 アマネさんがやってきて、2週間ほど僕は彼女の友達としてよく遊んだ。僕も彼女も検査の時間などがあったが、一日少なくとも2時間は接していただろう。そこにマリさんや進矢が加わることも多く、今までの関係の中で最も平凡なものとなった。

 それは僕にとって久しぶりの経験で、アマネさんもそのはずだ。

 ようやく訪れた敵意に脅かされることのない生活。だけど、まだ彼女の声に色がつくことはなかった。

 だけど、答えが出るまで待つよ。

 そう、俺たちは約束したんだ。

 

 しかし、ひと月も経って、状況が変わらないとなると、流石に危機感を強めた。

 僕はアマネさんが進矢のカウンセリングを受けている間に、これからの方針をまとめることにした。

 何の準備もせず、事にあたると失敗する。思考の整理が必要だった。

 まず、部屋の扉を閉め、端末にここへ人間が近づけば音を鳴らして知らせるように設定してから、包帯を取った。問題解決の第一歩は、紙とペンで思いつくことを列挙していくに限る。

 原因として、まず挙げられるのは、接触時間の少なさだ。

 現在も同居状態といえど、今回はアマネさんの検査が詰まっているので、担当である進矢の方が、僕より彼女と接しているかもしれない。

 それを踏まえても、おかしい。アマネさんを危険にさらすものがいなくなったのに、色はつかないし、前回同様、質問もないのは不自然だ。

 よく考えろ。何が足りない?

 何が違う?


「僕はすぐ視野が狭まるな」


 何が違うだって?

 僕は自分の間抜けさ加減に笑ってしまう。落ち着いて考えてみれば当たり前だ。

 今、祖谷は近くにいないし、僕だって、1回目の僕とは違う。僕が繰り返すことで変えてきたのだから。

 少なくとも前回からの変化の一つである、数々の慣れない検査にはアマネさんもうんざりしているはずだ。

 もしかするとカウンセリング等々が彼女の負担になっているのかもしれない。

 なら、アマネさんの回ごとの違いを明確化できるよう、これまでの乙種の変化を要約して紙に書く。


 1回目は自ら変わろうとしたため、乙種を克服し色を取り戻したのだと思う。この回はアマネさんが乙種であると知らない状態で僕は接していたのでわからないことが多い。だが、彼女と最後にあった時、傷は治っていなかったし、色も表情も取り戻していたのだ。これ以上の完治はないだろう。

 2回目は乙種を治したものの、外的要因を排除できていなかったため暴力を受け続け再発した。そのため乙種の治療が裏目に出て、強制的に取り戻された痛みの感情に振り回され、与えられ続ける痛みにアマネさんは耐えられなかったのだ。死因は別だが、彼女の声に色がつかなかった原因はそれに違いない。

 外的要因自体は、1回目の時もあったはずだ。死の直前まで痛めつけられていた。祖谷たちによる虐待を受けていたのにも関わらず、乙種を自ら治したのだ。なので、2回目の失敗は準備不足だろう。

 アマネさんの覚悟がないまま治し、そのまま放置した事だ。

 今回の場合、それは保護という形で解決し、あとの問題は時間が解決してくれるだろう、と考えていた。

 克服するまでもなく、乙種は治っているし、誰にも脅かされない空間を用意した。


「なのに何故だ?」


 口に出してもそこで行き詰ってしまう。僕は気分転換に外を見た。今朝聞いた、明日は朝から雨という予報は正しいようで外は曇っていた。

 見ていて気が晴れるものではないので、紙に目を戻すが、頭は望んだ方向に働かなかった。

 比較という行為は、自然と祖谷たちのことを思い出させた。

 実を言うと、アマネさんに危害を加えた者たちに憎悪を抱いていなかった。それは過去の所業のことも含んでいる。対峙した時には怒りがあったが、今はそれほどない。既に、起こっていないことになったのだ。

 僕はあり得る可能性まで咎める傲慢さは持ち合わせていなかった。

 だから、3回目は未然に防いだとはいえ、危害を加えようとしたことに対する罰は必要だが、その人間性までは否定できないのだと考えていた。

 彼らの考えが、狂っていると痛罵を浴びせることはできない。

 それが綺麗ごとだと、僕の卑怯さの表れだという自覚はあった。甘ちゃんなのだろう。

 だが、僕はその甘さを消すことはできそうになかった。

 なぜなら、僕は人生を塔と見立てていた。人々は色々なものにさらされていて、時間、環境などの周囲の関係に影響を受け、選択の塔を築きあげていく、と考えていたからだ。


「アマネさんは石だって言ってたね」


 時間があまりないので、思い出に耽っている場合ではない。思考を元に戻す。

 仮に悪業を働いた人がいたとする。その人の塔が悪行とすべて一致するということは稀だ。あくまで一面なのだ。誰にだってそうなる可能性はあるし、そうならない可能性があるのだ。

 よって、悪業を犯してしまうか、とどまるのかは、塔の築き方や状況など様々な要因の組み合わせ次第だと信じていた。

 つまり、独りでに悪は産まれない、と僕は信じていた。塔を築くのにはいろんな人が関わっているし、悪業の種は辺りに散らばっている。

 そう、塔そのものが複雑に構成されているのに、そこへ時と場合などという不確定要素が重なる。それら因子が互いに影響し、反応し、混ざりあった結果が現実なのだ。

 何事もそうだが、様々な要因が関係して、巡りあう。

 純粋に悪だけで構成されたものがいないように、完全な善は存在しない。

 しかし、悪行や暴虐に晒されてしまった時、そう思えるか、と問われれば、難しいと答えてしまう。相手を悪の化身だと憎んでしまった。

 今なら、何故かがわかる。時間がなかったからだ。

 実際問題、何かあった時、その相手の塔を一人一人理解するのは不可能に近い。当然、各々に積み上げてきた物語がある。それを全員分一から読む時間も心の余裕もないから、基準に従うのだ。

 僕は法という基準に彼らの処罰を任せた。だからこそ、善とか悪とかの前に、僕は彼らの願いを、物語を曲げたということを忘れられない。

 僕がやったことは、悪を裁いたのだと、正当化していいものだとは思えなかった。忘れる度胸も、自分を肯定する強さも持っていなかった。あやふやな敵意に怯え言い訳を繰り返していた。

 こう言いたいのだ。言い訳をしないと、重みでつぶれそうだった。


「俺はお前たちを裁いたが、やりたくてやったわけじゃない。お前たちだけが悪だというつもりはないし、苦しんでいるのも分かってる。それでも、俺が前に進むにはどうしようもないことだったんだ。すまなかった。害意をスマートに取り除けるほど、俺は賢くないし強くないんだ」


 後ろ向きな考えを非難するように、端末のアラームが鳴る。僕の手により未来の技術の改造が施された端末は、部屋に近づくものを教えてくれるように進化していた。

 包帯を直し、紙を隠して、服を整えた。

 足音から推測するにアマネさんと進矢だ。

 アマネさんのことは結局まとまらなかったから、とりあえず、もう一度試してみよう。

 僕は部屋の扉が開いた途端に言った。


「お疲れ様」


「ええ、今日はこれで終わりだから、流石に疲れを感じるわね」


 アマネさんの声を注意深く聴くと、淡くだが色を感じた。杞憂だった。

 結果が良ければ過程の違いはどうでもいい。

 快方に向かっているようだ。疑った僕が愚かだった。アマネさんはしっかり変わってきている。


「アマネさん、桂を借りてくよ」


「おいおい、僕の意思は無視かい」


「断らないとわかってるからな。相談があるんだ。いいだろ?」


「まあいいんだけどさ」


 進矢は僕の手を引いて近くの部屋に案内した。耳を澄ますが、音はない。僕ら以外誰もいないようである。相談というからには、世間話ではないだろうが、何の話題かは想像がつかなかった。

 椅子に座ることもなく、立ったまま進矢は言った。


「アマネさん、カウンセリング中によく泣くんだ。過去にあんなことがあったから、フラッシュバックも多くて辛いんだろうな」


 僕にはその涙の原因がフラッシュバックとは思えなかった。何も感じなかったころの痛みを、今になって思い出すものなのだろうか?

 1回目の時も、2回目の時でさえ、そんなことはなかったはずだ。僕が気づかなかっただけかもしれないが、そうではないような気がした。


「どうすればいい?」


 進矢が縋るように言った。彼にしては本当に珍しい弱音で僕は包帯の中で目を丸くした。

 それと同時に、まだ俺を頼ってくれるんだな、と思えた。アマネさんの存在は卑屈な僕の心を幾分和らげているようだった。

 前ならそんな風には思わず、無力な人間に聞くとは皮肉か、と真っ先に頭に浮かんだだろう。

 受け取り方は改善されたが、思考能力は変わらない。僕は困った時の癖で、正論を持ち出した。


「過去の痛みが和らぐように根気強く寄り添うしかないだろ」


「だよな。ありがとう。覚悟を決めた」


 何が、という問いをする前に、進矢は勢いよく扉を開け飛び出した。彼にしては珍しい勢い余った行動に、僕は小首を傾げる。結局、力になれたのだろうか?

 さて、戻ろうか、と足に力を入れた瞬間、誰かが部屋に入ってきた。

 僕はすぐさま端末と接続し、白黒の視界を手に入れる。

 一度刺されたせいか、急に誰かが現れると、つい身構えてしまう。が、危惧した事態とは違うようだ。中に入ってきたのは一人で、こちらに向かってくる様子はなかった。

 

「えっと、どなたですか」


「私です。驚かせてすいません」


 マリさんも進矢には及ばないが、一定の色を保っている。常に相手を思いやる気持ちを感じる暖かな声だ。間違いようがない。


「ああ、マリさんか。ここに用事?」


「休憩中です。ここ休憩室ですよ」


 マリさんが笑って言った。その声でさえ、僕を非難する気は一切ない。


「ごめんね。貴重な休憩時間を邪魔して」


「いえいえ。休憩が遅れに遅れて、あと少しで退勤なので、すぐに家に帰れるんです」


「それは災難だったね」


「そんなことないですよ。せっかくですし、お話していってもらえません? 今週のシフト体制厳しくて、休憩時間一人で取らないといけないんです。孤食は寂しいですから」


 マリさんの声の色は相変わらず優しさに満ちていて、お世辞ではない様だった。彼女と会話するのは楽しいことだったし、断る理由はない。


「それじゃあ、少しだけ。マリさんは食事をしてて」


「じゃあ、お言葉に甘えて」


 パカ、とお弁当が開く音がした。冷めているせいか、匂いはそれほどなかった。進矢の情報によると、マリさんのお弁当はいつもおいしそうな彩り豊かなものらしい。残念ながら白黒の視界では見えやしない。

 僕はずっと病院食しか食べていないので、お弁当なんて食べたら涙を流す自信があった。いつも一定の濃さの味付けには飽きてしまったのだ。

 マリさんは口の中の食べ物を完全に飲み込んでから音を立てないよう慎重に口を開いた。


「アマネさんとの生活はどうです?」


「彼女も僕も検査ばかりだから生活という感じはないかな」


「それもそうですね」


 マリさんは笑っていたが、いつもは見られない刺々しい色を含んでいた。声音が全く変わっていないのが却って不気味だ。僕が失言したのか、他の要因によるものかがわからなかったので、慎重に話を運ぶ。


「進矢がさっき、彼女の元気がないって言ってたから、心配だな」


「桂君みたいに慣れている方ならまだしも、アマネさんにとって数々の検査は負担になるでしょうし、急に病院生活っていうのも休まらないでしょう。そこに一連の事件と乙種の完治による感情の息吹に戸惑ってますから」


 こうもスラスラと他人の痛みを理解して口にできるものだと、僕は心底尊敬した。女性だから同性についてよりわかっているというわけではなく、彼女は誰であっても真剣に考えることが出来るのだ。そういうことを常日頃行っているから、整理するまでもなく言葉にして伝えられるのだろう。まるで進矢みたいな真摯さである。

 だが、マリさんの方が他人の理解というスキルは上のはずだ。あいつは良くも悪くも強すぎて共感には向かない。 


「マリさんなら辛い時、どうしてもらったら元気になるかな?」


 ふと、思いついた。マリさんは常に優しい色を纏っている。浮き沈みがほとんどない。それはつまり、何かしら心の安定方法を確立しているということだ。

 進矢のような、障害物を助走もつけず飛び越えてしまう男の精神論は参考にならないが――だから、アマネさんにどう接すればいいのか迷ったのだろう。彼は挫折を知らないのだ――マリさんは良い意味で平凡で、人間味にあふれている。


「暗い時こそ、前向きに、ですかね」


 マリさんは即答し、お弁当の具を口に運んだ。呑み込んだ後、話を続けた。


「これが私のモット―なんです。だから、辛い時はそうできるように支えてくれる人がいればな、と思っちゃいますね。まあ、そんな都合よく助けてくれる人なんていないんですけど」


「僕もそう思う。そんな人がいたら、それこそヒーローだ」


「ですね」


 マリさんと僕は大きな声で笑いあった。共感して笑えるというのは心が躍る。1回目以降、アマネさんとそう言った会話がほとんどなかったから余計に。

    

「そういえば、そろそろ時間ですね。引き留めてすいません」


 言われて時間を確認してみるともう20時を過ぎていた。

 マリさんに外まで送ってもらって、僕は部屋へ向かった。

 端末をつけたままだったので、そのまま部屋まで案内してもらう。

 部屋に入った途端、進矢の興奮した吐息を感じた。アイツの色はどんな時でも見間違うことができないほど、輝いている。

 だから、部屋を間違えたのでないかと思った。

 マリさんが現れてから起動して切り忘れていた端末には、ここが僕の部屋であるという情報が隅にあり、視界の真ん中には二人の人型の影がくっついているのが映っていた。

 どうやら故障しているらしい。人のいるような部屋で進矢が誰かと抱き合うなんてことが起こる筈がないのだ。そんな場をわきまえないような男じゃない。もし抱き合っていたとしたら、誰かがよろめいたりした事故だろう。

 僕が声をかけようとすると、進矢はこちらに気づいて驚きのあまり変な声を上げ、誰かから離れた。


「桂ちゃん、何してたかわかった?」


「いいや。何かしていたのか?」


 進矢は、あ、と言ってこちらを見つめた。


「すまない。嘘をついた。桂ちゃんにはしっかり言っておきたいんだ」


「改まってどうしたんだ?」


 この部屋に入ってから、急に寒気がしていた。それなのに、発汗が止まらない。

 数々の危機を察知してきた僕の直感が何かを告げている。

 これ以上進むな。もうわかっているんだろ。逃げるなら逃げろ。そうしないのであれば、向き合え。

 幻聴などではなく、僕にはしっかり聞こえた。それは一瞬のうちに伝えられたので、進矢はまだ何も言っていない。今なら、間に合う。

 が、僕はいつも通り何もしなかった。


「実はさ、アマネさんに告白したんだ。そしたら、彼女からキスされた。こんな事初めてで、つい混乱して嘘ついちまったんだ」


「は?」


 つい昔の癖が出てしまった。人を苛立たせる言葉遣いは止めたつもりだった。しかし、そんな態度の悪い言動に気づきもしなかったのか、進矢は陽気な色を漂わせ口を開いた。


「アマネさんが辛そうだったから、何とかしてあげたいって思ってさ。そうすると、アマネさんのことが気になって仕方がなかった。初めて異性のことでここまで考えられたんだ。そこで気持ちを留めていたんだけど、さっき桂ちゃんに後押しされて、告白できた。そこでまさかアマネさんからキスされるとは思ってなくてさ。ファーストキスだったから本当に頭が真っ白になっちゃって」


 そこから僕はどうやって、進矢をやり過ごしたのか記憶していなかった。無意識の僕がまた救ってくれたらしい。

 進矢は僕とアマネさんを置いて去って行った。その神経が僕には理解できなかった。仮にも告白した相手を異性と二人きりにさせるのに抵抗がないなんて信じられない。

 何故彼女と二人きりにする? 信用のつもりか? それとも馬鹿にしているのか?

 絶対、と言いきれるほど、進矢がそんなことを考えていないとはわかっていた。だけど、全てが悪意に思えてしまうのだ。

 周波数のずれたラジオみたく、視界や筋力の調整ができなくなった。

 そんな状態だったし、アマネさんと談笑する空気ではなかったから、僕は10分ほど黙って考えた。

 アマネさんはまだ完治していなくて、求められたから応えたのではないか、と思った時、確かめるべくすぐ口を開いた。


「本当によかったの?」


 何とか、声を震わせず言い切った。アマネさんは何がと訊かず答えた。


「彼が守ってくれるって言ったから」


 やはり、僕の考え通りだった、と安堵する。アマネさんの意思は伴っていない。まだ僅かにしか感情が芽生えていないのだから仕方ない。

 

「でもね、私も彼ならと思ったの」


 僕は突如湧きあがった衝動を全て笑みを模ることに使った。流石だよ、進矢。お前は俺にしかできないと思っていたことを簡単にやってのけるんだ。いつもさ。

 僕みたいな雑魚は用済みってことか?


「恥ずかしい事を言ってしまったわ。就寝時間ね。電気消すわね」


「ああ。すっかり忘れてたよ」


 暗くなったので、とりあえず布団に入った。


「変なの」


 アマネさんはクスクス笑った。もう、君の表情と同期しているのだろうか。

 進矢は君の笑顔を見たのだろうか?


「今日はいい夢が見れると思う。初めて、自分からキスがしたいと思ったし、あんなに気持ちいいと感じられたから」


 その声に淡くだが、喜びの色を感じた。アマネさんは幸福を感じていた。

 僕は包帯の内で痛いほど目を見開いていた。瞼を閉じていると目の奥が激しく明転して、開けている方が楽という不思議な現象が起きていた。

 それと同時に身体の芯から力が抜け、眠りそうになると、今度は意識が急にはっきりする、というのを何度も繰り返した。眠る前の、意識がふわりと浮く感覚が始まったと思ったら、急に覚醒状態に戻された。

 それは酷く体力を消耗した。僕はまず、目の苦を解消するために包帯を引きちぎるように取った。

 アマネさんは規則正しく呼吸をし眠っていた。

 つい昨日まで彼女の寝顔を何時間も穏やかな気持ちで見ることができたけれど、今日は全く違う。どす黒い感情が頭を支配していた。

 誰のおかげでスヤスヤ眠れていると思っている?

 誰が助けた?

 何度も何度も裏切りやがって。俺のモノにならないのなら――。 

 ゆっくりベットから降りる。何のため? 気付かれないためだ。

 同じ慎重さでアマネさんのベットへ近づく。抑えた鼻息からこちらの色を気取られないように。


「ハハハ、そんなことありえるわけないだろ」


 自分の馬鹿馬鹿しさについ声に出してしまった。声の色は僕の専売特許だ。

 そして僕の手はアマネさんのシミも傷もない真っ白な首筋に伸びていった。そうしなければならないというような引力があった。

 何人もの人間が彼女の神々しい美しさのあまり、大罪を己が身に実らせ、その重みに耐えきれなくなり、絞めた首に僕の手は迫っていた。

 僕は我に返った。体中に寒気が走り、指先が凍ったように痛い。瞳は瞬きを忘れて、これでもかというぐらいに見開いた。どこにも僕の意識は反映されてない。それ以前に、何をしている? 

 瞳が映すアマネさんは変わらずスヤスヤ寝息を立てていた。しかし、その様子を見ているのは自分のベットの上ではなく、彼女の真横だった。何故、ここいいるのか、もう誤魔化すことはできなかった。

 僕はその答えを理解した。

 誰かが僕に囁く。


「あと少しで」


 僕は立ちすくんでしまい、ベットに戻ることはできなかった。


「彼女は俺のモノだったのに」


 その声は確と僕の胸に響いている。どこまでも楽しげで、蠱惑的な色を発している。

 このままここにいれば、どうなるのかは目に見えている。すぐさま、僕は部屋から出た。


「嫌なことがあればリセットだろ?」


 そんな声が非情にも僕の内から聞こえる。紛れもなく、自分自身の考えの一つとして現れた。


「思い切りがよくなるようにやっちまえよ。案外良かったりするかもな。あれだけの肉なんだ何をしたって旨いに決まっている。まあ、問題は新しい性癖が目覚めるかも知れないってところだ。ノーマルに戻れないぐらいぶっ飛んじまうかもしれん」


 ギャハハと下品な声で笑う。下卑た顔で、病室から遠ざかる僕を笑い飛ばす。さあ、やろうぜ。やっちまおうぜ。玉なしじゃないんだろ。

 僕は耳を塞いで、病院の外に出た。夜とはいえ、自動車が一台通るのがやっとの大きさの細い道が入り組む住宅街の中なので、通行人や住民に何度か見られたが、気にもとめず走る。

 どうやらここは住宅街の一番左の位置のようだった。左側にはずっと一軒家が立ち並んでいて、路地は右側にしかない。

 数分走っても、疲労感はいつまで経ってもやってこなかった。そのせいで、頭の中で、醜い僕がまだ笑っている。


「さっさとやっちまえよ。恩知らずの尻軽女に何の価値があるんだよ?」


 黙らせるために、もっとスピードを上げた。

 声は相変わらず聞こえてきたが、肉体を酷使したおかげか、頭が熱くなっている。思考が薄ぼんやりと赤く染まり、深く考え事が出来ない。

 そのせいで、いつも視力の代わりとなる、鋭敏に研ぎ澄まされていた耳が鈍っていた。

 右の曲がり角から足音が聞こえた。その時には距離がもうなかった。このままでは衝突は避けられない。

 角に差し掛かる前に右にある壁を蹴り、左の一軒家へ回転しつつ入り込む。

 女性の悲鳴が小さく聞こえた。その後、彼女は慌てふためくことなく、大丈夫ですか、と言いながらこちらに近づいてくる。

 顔を見られる前に逃げようとするが、足に力が入らない。上手いこと受け身を取っていたので、腕や肩に痛みはあるものの、頭を打つことはなかった。

 どうやら、ここにきて疲れがやってきたようだ。


「もしかして、桂君?」


 ライトで照らされ、思わず目を瞑る。暗がりだから見間違えたという言い訳は使えなくなった。

 何の因果か、角から現れたのはマリさんだった。

 彼女は首にタオルとライトをかけ、アンダーウェアの上に半袖シャツ、下は7分丈のレギンスにランニングスカートを履いていた。


「夜の逃避行ですか。私も付いていきますから、気が済んだら戻りましょう?」


 逃げられそうにないので口で応戦する。


「放っておいてください」


「放っておけるわけないじゃない」


 物わかりの悪いマリさんに腹が立ってきた。これが八つ当たりだとかいう発想はなかった。ただ怒りがあった。濃霧のような感情は僕を包み、入り込んでいった。


「そんなことをしたら今度こそ殺してしまうんだよ」


 叫び、逃げるために暴れるが、マリさんに上手く拘束されてしまう。男なのに情けないという訳ではない。彼女は看護師で暴れる患者に慣れているのだ。

 これからどう誤魔化すか、を必死で考える。

 少し待て。言い訳? 誤魔化す?

 いい機会じゃないか。自分で更生できない意思の弱い人間は、きっちり裁いてもらう必要がある。そうすれば、少なくともあんな馬鹿げたことはもうしないで済む。


 マリさんは拘束する手こそ緩めなかったが、僕の発言に混乱したようだった。ただ事ではないと察したのか、ひどく優しい声でこう言った。


「近くに公園があるから。そこなら、ベンチもありますし、そこで話してくれませんか?」


「わかりました」

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