quiet talk
私は一言もしゃべらず、神様の自伝を読み進めていたが、初めて手を止めた。目を休めるために、長く瞑る。ぼんやりしていると、コーヒーの香りが鼻先をくすぐり、穏やかな気分になった。
「読んでる最中に悪いね、どう?」
そうは言うが、彼は私が区切りのいいところで読み終えたと認識して言っていた。タイミングとしては最高のモノだ。
作者なので、自分の作品の山場を理解しているだろう。が、今回の場合は、私の視線からどこまで読み進めたかを把握した彼の洞察力によるものが大きい。
出逢った当初は、彼の超人的な技量にしばしば驚かされていたが、今ではそういうもの、神様なのだから、と慣れてしまった。
「それは話の面白さのことですか? それとも小説として、ということですか?」
「えっと、小説としてかな。読みにくくない?」
正直言うと、粗が目立ったが、それら全てを指摘しようとは思えなかった。
文の好みもあるから一概には言えない。私は一応、小説を出版社から出したが、1冊だけなので大したことはなかった。指摘が正しいとは限らないのだ。
売れるかどうかは別にして、小説はその気になれば誰だって書けるものだ、と私は考えていた。時間と作品に付き合う気力さえあればの話だが。
だから、私が優れているなどという自負はなかった。
かといって、何も言わないのも嘘くさい。
「心理描写はいいんですけど、状況描写が少なくないですか?」
「こればかりは仕方ない事なんだよね、と言いたくなるな」
彼はそう言って、唇の端を掻いた。
「力不足だったな。僕はあの頃、目を閉じていたからね。どうしてもイメージに頼る比率が高い。そして、その時の感覚を文字にして伝えるのは難しいんだ。ほら、声に色を感じるって言われてもわからないでしょ。困った事に、色は赤とか青とか単純なものじゃないんだ。ごちゃごちゃしていて、細かい濃淡があるし、混ざっていく部分もあれば、混ざらない部分もある。仮に同じものを見ても、見た人が全員同じように見えるわけじゃないし。あくまで僕の主観なわけだ」
「それを言葉にして伝えるのが小説家ですよ。頑張ってみてください。って私の担当編集さんなら言いますね」
「違いない」
彼は笑って、椅子から立ちあがった。
「どうしたんですか?」
「帰るよ。そこからは一人で読んで」
彼は、冷めたコーヒーをすすっている私にそう言った。
「用事ですか」
「それもあるけど、ここからの内容を目の前で読まれて平気なほど、精神が強くないんだよね。醜い過去が晒されるわけだからさ」
彼はお茶目に片目をつぶった。明らかに演技がかった仕草に私も引き留められない。
「言い忘れていたけど、僕がどうして中途半端な世界を作ったのか、という答えはそこにはないよ。繰り返しを始めるとこまでしか書いてないから」
「中途半端な世界とは、国家も飢餓も貧困も戦争も事故もない楽園を創ったのに、自殺や死人の出ない争い等々はなくさなかったことですよね」
「君がそれを楽園の欠点だと思うならそうだろうね。一応、何故、そんな風にしたのか、という根本的な考えはその自伝にあるよ。でも、その全てを書くのは不可能なんだ。数え切れないトライ&エラーを全部文にはできなかったしね。だけど、それら全てがあって、今があるんだ」
私は頷いて、相槌を返した。
「だから誤解のないよう、無粋でもこれだけは言っておきたかったんだ。僕が選んだのはずっと繰り返した結果なんだ。川の流れの中で円磨する石のように。初志貫徹というわけじゃないってこと。それからも愚かなことをたくさんした」
「つまり、人生は積み重ねということですね。そして、答えをぼかしたのは意地悪なんかじゃなく」
「そう、小説だからね。考えてもらう部分がないと」
彼は見事に私の言葉を継いでみせ、歯を見せはにかんだ。
「でも、改めて考えてみれば、僕がきっちり書けているかわからないから、ヒントだけ。せっかく読んでもらって、君が一番知りたいところに触れないというのは悪いし」
「ヒントですか」
神様のヒントは抽象的でわかりにくい。まるで、彼の自伝に出てくるアマネさんみたいだ。
「それは僕が臆病者だったということだ。蓄積した技術を活かせば不可能はない。それこそ、現在のヒトという形を捨て進化させることもできたし、人類の思考を支配することも可能だった。これらの力はいずれ誰かが手にする。僕だけのモノではなく、誰にでも触れられるものだ。その法則に僕が一番早く気づいただけなんだ。それ故に選択できなかった。だから、この中途半端な世界にした。人の可能性を信じるなんて言葉はまやかしで、ただ臆病なだけなんだ」
それは私が、神様について書いたものが間違っている、ということを暗に言っていた。
「世界は可能性に、選択肢に満ちている。選択肢を愛し縋って、その未来に打ちのめされ、それでも尚、俺は可能性を捨てられない」
彼のその言葉を聞いて、私は小説を書いた。神様は人の可能性を愛しているという仮定で。
それが間違ってているというのはどういうことだろうか、と思案していると彼がまた喋り始めた。
「わかりにくいだろうけど、それはまだ読んでいる途中だからさ。今まで僕のいろんなことを話した君ならわかるよ。最後まで読んでくれればだけどね」
それじゃ、と言って、彼は今まで飲食した代金を支払おうとした。それを私は止める。
「まだいますし、最後にまとめて払いますよ」
「これぐらいじゃ、女子高生の貴重な時間に釣りあわないよ。それにしても今は奢るという行為が軽くなったな。口説き文句にもならないや。僕が学生だった頃は、バイトしていなければ缶コーヒーでも高く感じていたんだけど」
思わず私は噴き出してしまった。
「あなたがそれを言うんですか」
「まあね。僕が世界の全員に金銭や食料を無償でそれも人が労働せず配布できるシステムを作ったから」
「まるで魔法ですね」
「その魔法使いも、引きこもり生活の間は自分のシステムに活かされたんだけどね」
私が笑っている隙に彼は支払いを済ませた。
この店の会計システムはテーブルごとに設置されているので、店長さんに声をかける必要がない。
「これぐらい気にしないでよ。昔の人間はこうやってしか口説けないんだ。恩着せがましいだろ?」
彼はそう言って店を出てから、外でこちらに手を振り、去って行った。
ようやく私は緊張を解いた。想い人の前というのは自然と背筋が伸びて、筋肉が小刻みに震える。植物の多い店内だが、リラックス効果はあまり働いてくれなかったようだ。
喫茶店の中という状況を気にせず、首を回し、体を伸ばした。そして、少し残ったコーヒーを飲み干した。冷めてもおいしいコーヒー。彼が薦めてくれたこともあって、好みと完全に合致していた。あの観察力ならば、私よりも私のことをわかっているのではないか、と考えてしまうほどだ。
私はコーヒーカップをソーサーに置いた。音をたてないように心がけていたけれど、鳴ってしまう。まだ筋肉の緊張は解けていなかったらしい。
目ざとく気づいた店長さんは近づいて、私のカップの中が空であることを確認した。
「どうします」
店長さんは顔にしっかり笑みを刻んで尋ねた。この店の常連となりつつある私だが、彼女の笑みにはいつも引き寄せられてしまう。それほどに多彩で、心から笑っているのがわかる。
「お願いします。長居してコーヒーだけで申し訳ない」
「いいのよ。その固い話し方も」
また店長さんは笑った。
「もう帰っちゃったの?」
彼が座っていた椅子を見て、店長さんは言った。
「ええ、一人です」
「そっか。少し残念」
「どうしてですか」
「不思議な感覚なのだけど、あの人のこと知っている気がするの。あなたと一緒にいて、笑いあっているのを見ると嬉しくなるの。自分のことみたいに」
「ありがとうございます。なら、また二人できます。必ず」
「お願いね」
店長さんは豊満な体を揺すって、私のカップを回収していく。笑顔もそうだが、こういう所作も女性らしく、それでいて嫌味がないので、憧れていた。
私はついため息をついてしまう。
さっきの会話を丸々伝えれば、想い人が喜ぶのは明白だったので、嬉しくもあり悔しくもあった。
優しい店長さんはこの世界でも素敵な人なのだ。
私は嫉妬を忘れるように、神様の自伝を再度、読み始めた。
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