第12話-悲痛-5/7.22.23
どうにか、看護師や警備員に見つかることなく自室に帰ってきた。当然、中には誰もいない。二つのベットは空っぽだ。
覚醒状態も帰ってきたという安堵で弱くなった。心身ともに疲れきっている。無理に身体を動かしたからか、横になると眠気はすぐにやってきた。
目を覚ましたら、アマネさんは隣で眠っていた。ただし、僕のベットで。
彼女はこちらのベットに顔と腕だけ乗せ、足は地面にあった。
こんな時ぐらい早起きはやめてほしい。夢の世界に逃避させてくれ。アマネさんをどうすればいいか迷うだろう?
そんな冗談に逃避しようとする僕を獣が蹴り飛ばす。お前は見ただろう、と。さっさと確かめろ、と怒鳴り暴れている。
暴力に支配された思考は行き着く所まで行き着いて、極論ばかりを選択させようと、馬鹿げたことを提示する。
そんなもの無視すればいいのだ。が、それはできそうになかった。
僕にできることは先延ばしにし、会話で解決することだけだった。彼女が起きてから、事実か確かめてから、と。
ふと気付けば、アマネさんは起きていた。僕は目を覚ましてから数時間、何をしていたのだろう?
この期に及んでまだ逃げようとする僕に、彼女はおはよう、と挨拶した。
確かめなくては、と思っても言葉にならない。アマネさんを淫らな行為に結びつけることができなかった。
が、頭の中ではしっかりアマネさんと男が抱き合っている姿が映像化できた。その幻影に戸惑っていると、言葉を返さないからか、アマネさんはこちらに不審そうに視線を向けた。
どうすればいいのだ。
落ち着け。息を吸い耳を澄ませる。
感じられない。息づかいはある。でも、アマネさんの色彩はわからない。
無理に色を探そうとするのは潜水のような作業だった。息苦しくなり、海の底に沈んでいくような重圧に押しつぶされそうになる。闇は実体を持って穴という穴から入り込んで、気力をそいでいき、徹底的に押しつぶそうと深く濃くなっていく。底はまだ見えなかった。
その不安が僕に口を開かせた。そんな中にずっといることは耐えられなかった。
「昨晩、何をしていたの?」
アマネさんが黙り込んだので、僕はもう一度繰り返した。努めて落ち着いた声のつもりだったが、威嚇するように強くなっていた。
「ごめんなさい」
アマネさんはそう言って、ベットから立ちあがりこちらに近づいてきた。
「質問に答えてよ。僕は、どうしていたかが知りたいんだ。何もしていなかったのならそれで」
僕の言葉を遮るように、アマネさんは唇をこちらの唇に押しつけた。そこから滑るように僕の上唇を吸って、パジャマを脱がそうとした。流れるような動作の一つ一つが情欲を掻き立てる最適解のような心地だった。
甘い匂いも前回感じたものと同じだった。今まで得た肉体的効用の最大値は、このたった僅かな触れあいによって更新された。
だけど、僕は怖かった。目の前にいる女性が誰なのかわからなかった。僕の鎖骨を弄んでいるのは誰なんだ?
「やめてくれ」
僕が唇を離し、そう言うと、アマネさんは止まった。数秒の硬直から解放された後、名残惜しそうに僕の鎖骨を手で何度か往復させて、身体を離した。
そうすると、僕はこの世界に生きている感覚を失った。詳しく表現するなら、何もかもが感じられなくなった。座っているはずのベットの感触や周囲の音が消えてしまった。
それは僕の願望だったのかもしれない。だから、いつまでたっても音が聞こえないのだろうか。
それを確かめようと、顔を傾けたら、パチンと音が鳴った。それを合図に意識も消えた。
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僕はまた23時に眠るようになり、進矢によると今までで最も衰弱したらしい。一人で出歩くことはおろか、食事もできなくなるくらいである。
体感的にはアマネさんが亡くなった時と同等だが、彼らにはその記憶がないので比較はできない。
僕の急変を医師たちが訝しんだのか、アマネさんが告白したのか、彼女は部屋からいなくなった。
色を持たない少女が去ったことで、世界に色彩は取り戻され、元通りとなった。一人だけの空間に。
それでも完全に回復はしなかった。一度、変わったモノの痕跡はあらゆる所に残り、多くが穴となった。その穴から全てが吸い込まれていくのだ。気力や体力といったものまでもが消えていく。彼女が隣にいない喪失感に耐えられなかった。
僕が会いたかったこともあるが、それ以上に彼女の事情も心配だった。
アマネさんはお金が欲しいから、モルモットの仕事を請け負ったのだ。金銭を稼げず、家族から責められていないだろうか。
そういった不安は穴を大きくしていった。
「アマネさんに会わせてほしい」
僕の世話をする医師や看護師に会う度、
最後に彼女はごめんなさい、と言ったのだ。なら、まだやり直せるかもしれない。そうでなくても、真実を知らないまま、離れ離れになりたくない。
何度も医師たちに、僕が悪かった。彼女が悪いのではない。だから会わせてくれ、と伝えた。
そして、何十日も言い続けた成果がようやく出た。
「知らされてなかったのか? 彼女、ここの病院にまだいるぜ」
見習い医師の一人が確かにそう言った。精密検査をするということで、進矢が来る前に彼が計器のチェックや、僕への指示等の準備をしている時だった。
「どういうことですか?」
「おっと、進矢君のご登場みたいだ」
発言の通り、進矢が部屋に入ってきた。
「お疲れさまです」
男も進矢と同じ台詞を返し、僕の追求を躱すように退室した。
僕は進矢に声もかけずに、言葉を反芻する。アマネさんがここにいる。身体に熱が灯った。澱みが流れ出て正常な回転を取り戻す。
「アマネさんはこの病院にいるのか?」
「まだ言ってるようだな。いないよ。俺は彼女がどこに行ったか知らない」
落ちついた口調で進矢は言った。危険な状況の僕を刺激しないようにと心を落ち着けているのだろう。彼の声に労わりの色が濃く出ている。よほど僕が心配なのか、彼の色に僅かだが薄暗い部分があった。本当に珍しい。
「せめて俺に探させてくれ」
「その身体で何を言っている?」
進矢は僕の肩をしっかりと掴んだ。
「もっと自分を大切にしてくれよ。桂が傷ついていく姿を見るのは辛い。俺以外にも悲しむ人だっているんだ」
行き場のないくぐもった息を吐き、進矢はすまなそうに謝った。謝罪の意味がわからなかった。しかし、そのことを追求しようにも僕の口は思うように動かなかった。
僕らの間初めて――なかったことになったが、前回喧嘩した時よりも――耐えられない沈黙が流れた。
それでも、と言えなかった。少し冷静になったのだ。
自分のことばかり考えていて、誰かに迷惑をかけていることを失念していた。
そして、もし会えたとして、アマネさんが何を望むかはわからない。僕に会いたくないのかもしれない。僕の行動はただの自己満足ではないか?
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辛うじて僕を現実に引き留めてくれていたのは職務と罪悪感だ。
進矢は変わらず現れたが常に重苦しい空気であった。これまで喧嘩らしい喧嘩を一度しかしてこなかったからか、仲直りの方法がわからなかった。彼に至ってはその記憶はない。一回目に起こったことなのだから。
僕は進矢のことではなく、アマネさんのことを考えた。
思い出すのは彼女と歩んだ僅かな日々。前の回と今の回の良かった部分だけ再生する。
どこにでもある会話が順序不順に途切れ途切れに浮き出てくる。
その行為は生産性がなく、慰めであった。アマネさんという存在を探して求めていた。少しでも理解を深めたかったのだ。
そうでないと未来に押しつぶされてしまう。思い出から残滓を拾って、先を照らす明かりにしなくては闇に閉ざされる。積み重ねてきた物がないと足場すら見えない。
記憶が黒く塗りつぶされないように、僕とアマネさんが紡いできた時間は無駄なものではないと、自分に示すために頭を働かせた。
こんなことをしているのは、いつも5分の狂いもなく行われる日課が変わったせいだった。
進矢が時間になってもこず、連絡もない事は初めてだった。
そのせいで、何もない時間ができてしまった。衰弱してからは頻繁に検査があったので、考え事をする暇があまりなかったから、暗い思考は堰を切って頭を埋め尽くした。
復旧したのはしばらくしてからだった。進矢の代わりの医師が1時間ほど遅れてやってきたのだ。その後、就寝前の包帯を変えたのもマリさんでなく、医師見習いだった。
「担当、変わったんですか?」
「違う違う。ただちょっと根回しに時間がかかってね。今から散歩に行こう」
「わかりました」
見習い医師の手を借りて立ち上がり歩き出す。歩行ルートは向こうが決めるので、僕はついていくだけだ。階段を上がったり、下ったり、と少なくとも10回はした。外にも出ていないし、疲れるだけである。
文句はなかったが、意図を知りたくて僕はようやく疑問を投げかけた。
「どうして外に出ないのですか?」
「ああ。説明していなかった。今からいいところに向かっているんだ。すぐだよ」
悦に入った声色が隠せていない。とにかく僕に何かをしたいらしい。腑に落ちないが、好きにしてくれ。
言葉通り、階段を一度下りて、20mほど歩いた場所が終着点だった。病院内のはずだが、異様なほどひっそりとしている。そのことを聞こうとしたが、男にこちらの肩を後ろから押されたので、一時中断した。今の僕は歩くことすら集中しないとできないのだ。
自動扉が開き、様々な情報が同時に飛び込んできた。大別すると臭いと声だ。一つずつ分解していく。
臭いは湿気の多い部屋のせいか、生臭かった。空気の流れから察するに換気もしていないようである。
その先を追求する前に、僕は耳を疑った。アマネさんの声がしたのだ。入ったときから聞こえる振動音と獣じみたドス黒い吐息の中からハッキリと。また聞こえた。今度は先ほどより甲高くかすれた声だったが違いない。アマネさんだ。
「アマネさん」
叫んだつもりだったが、平常時と変わらない声量だった。聞こえていないと思って、いっそう張り上げて名前を呼ぶ。
僕の声に驚いた人間もいれば、喜んでいる人間もいた。
しかしアマネさんの反応はなかった。彼女の耳に声は届いていないようだった。もしくは人が多いから判断できていないのかもしれない。
僕は周囲の人間を押しどけ、何度も名前を呼びながら前へと進む。
声を出すたび、胸がしめつけられる。喉や肺が圧迫されて上手に声が出せない。
近づけば近づくほど、何が起こっているかがわかってしまうからだ。周囲の色が統一している。とても攻撃的でどこまでも濃い。汚らしい欲に満ちていた。
それでも、と僕は足を動かす。疑念が確信に、そして今度は事実へ変わろうとしても止めることはない。
この時、何かを考えているわけではなかった。引き寄せられるように進んでいた。つい数時間前まで僕を駆り立てていた義務や罪悪、そういった感情でもなかった。酸素がなくなれば必死に呼吸をすることと変わらない。簡潔に表現するなら、執着という感情だった。
意識が薄れ一種の覚醒状態に陥る。身体は僕の望みに応え、動きを止めない。
しかし、進むことだけに集中していた意識が途切れた。気づいた時には僕の歩みを誰かが止めていた。
「待て」
凛と響く声の輝き。間違うことのない光。声の色だけでなく、僕の肩を優しく握っているその手にも覚えがある。
「進矢?」
進矢は短く返事をした。何を言っているかは聞き取れなかった。もう一度彼が声を発した時点で、ありとあらゆる神経がなぜここに彼がいるのかを思案していたからだ。当然答えは出ない。疑問符が頭を占め、意識が急速に冷えきっていく。が、どうにか戻ってこられた。
とっくに目標は見えている。今は彼女に歩み寄るだけ。他はどうだっていい。
前へ進もうとすると、誰かが僕の前に来て包帯を外した。
誰かの肩越しに見えたのは下半身裸の男が数人と、彼らに囲われ椅子に縛られたアマネさんが中央に鎮座していた。辱める為の道具が散乱しており、一部は動いていて使用されている。アマネさんは小刻みに体を震わせ喘いでいるようだった。口元と目には布があてがわれ何を言っているかはわからない。
すぐ僕は歩こうとするが、進矢が強く押しとどめた。
「本当は、桂を巻きこみたくなかったけど、こんな場所に連れてこられたならもう無理だよな。荒療治だが、よく見てくれ」
指示通り僕はアマネさんを見た。体の至る所に傷がある彼女。ぶたれた跡、吸われた跡、噛まれた跡、締められた跡。他にもたくさんあったが、僕にはそれが何か判断できなかった。注視したところで変わりはない。傷の種類がよりわかるぐらいだ。
「俺だってさっき来て驚いたよ。彼女は普通じゃない。こんなことをされて喜ぶような奴なんだ。桂を裏切ってなお続けているんだぞ。彼女と桂じゃ噛みあわないんだ」
言われて、初めて話が繋がった。僕は今日初めて驚いた。進矢でも勘違いしてしまうのか。それならば仕方ないと納得し、僕は初めて自分の体に感謝した。
ずっと聞こえている。聴覚が捉えている。アマネさんの心音と声、その色を。やっと受けとめられた。
「喜んでいる? 何を言っているんだ。泣いてるじゃないか」
僕は口にしないで、心で叫んだ。非難するわけじゃない。どうしようもない理不尽への文句だ。
何で誰もわかってやれない?
体に火が灯り、熱に満たされていく。不調は焼け消えた。
進もうとする僕の背に、進矢は言葉を投げた。
「こんなやり方は確かに間違ってる。止めようともしたさ。でもね、これはアマネさんが望んでやったことなんだ。だから――」
男たちの目がこちらに向けられているのに気づいた。なるほど、僕らは見せ物だったというわけだ。秀才とその弱点。つくづくいい趣味をしている。進矢に僕が衰弱した理由を、アマネさんが悪だというふうに教えたのだろう。進矢がそれを強引に見せられ驚いている所に、僕が連れてこられたというわけだ。
進矢は僕がこの時間に目を覚ませていられることを知らず、ここにいる連中はそれを知っていたのだ。
「黙っててくれ」
進矢の制止を振り切った。すると、男たちの表情が一変する。計画通りではないのだ。大方、僕が落ち込む様を進矢に見せつけたかったのだろう。
「大丈夫か」
静かに声をかけ、汚濁にまみれたアマネさんにそっと触れる。目と口を塞ぐ布と口内に入っていた布を取り、拘束具を破壊し、玩具を捨て、そこら辺にあった布で軽く拭う。進矢はまだ呆然としていた。
アマネさんは目が虚ろで意識があるのか怪しい。
僕は彼女を抱きかかえた。重たさはある。しっかりと体温も感じている。でも、彼女はあまりにも軽く、ぐったりとしていた。
誰も僕らを止めなかった。
そんな彼らを尻目に確認し、僕らは部屋を出て、自室への帰路を歩いた。
その間は無言だった。アマネさんの寝息だけが聞こえていた。
部屋につき、一つしかベットがなくなったので仕様がなく、アマネさんをベットに横たわらせた。
塗れたタオルでアマネさんを拭き、四苦八苦して服を着せ、汚れたシーツを変えて、再度ベットに寝かせても彼女は起きなかった。
眠った人間の世話はかなりの重労働で、腕が痛い。
完成しきった少女。僕は以前と同じように横顔を眺める。微かな月明かりのせいだろうか。全く変わりなく神聖だ。シミ一つ見あたらない肌に最高峰のパーツが完璧な位置に配置されており、彫刻のような正確さで見事な調和を果たしている。
そう、傷一つない。たった数分で傷は消えていた。どう見ても、乙種の症状だ。
間違いなく、一度、完治している。薬の効果は良く知っている。
この数日でまた患ったのだ。あのような状況に陥ってしまえば、そうなってしまうのだろう。
乙種は人体を保護するための進化という見方もある。アマネさんは乙種がなければ死んでもおかしくない暴行を受けてきたのだ。治しても原因が再開すれば、再発するというのは自然の道理だ。
考えがまとまったので、僕は伸びをした。
意識がアマネさんから自分に戻ったとき、どっと疲れがやってきて、体中が悲鳴を上げた。息をするのさえ苦しくて、何かをしようという気が削られていく。無理をし過ぎた反動だろう。時間を見ればAM2時だった。
アマネさんが目覚めたら音が鳴るよう端末に設定し、壁に椅子を付けてから座って、僕は眠りについた。
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