第11話-横顔-5/8
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前回と違い、アマネさんにも治療が行われるので、昼間に1人きりになることが増えた。そんな時、ふらりと進矢が来たりする。
それは僕が入院した時からそうだった。むしろそれがなかった、前回の数週間が例外だったのだ。
2人でいると会話をしながら遊ぶことが多かった。よくする遊戯はチェスか将棋だ。
学生時代の休み時間によく興じていたから、どちらもルールを知っているし、腕もそう変わらないのでよかった。会話しながらする余裕がある。
この時ばかりは端末の機能を使って、盤面を脳に映す。流石に駒の位置を記憶しながら打つことはできない。腕時計が他端末では白と黒の世界しか映せないが、駒を見る分には色彩は必要ない。視界が不鮮明でも、将棋なら駒に彫られた文字が大きいので読み取れるし、チェスは形でわかる。
今日は時間が多く余っていたので将棋をすることになった。
「そういえば進矢がアマネさんの治療をしないのか?」
研究好きの男が新薬開発の第一線から外れるのは不自然だった。
「データがほぼ完璧だったから今更見てもね。まあそれは建前で、新薬の論文を書くのに忙しいし、実験データとこちらが持っているデータを照らし合わせるのも大変だから、時間がないんだよ」
「そういうわりには僕と将棋を指す余裕はあるようだけど?」
僕はわざと茶化して言った。動揺を誘う小汚い策である。
勝負をするのであれば負けたくなかった。
「俺も忙しいんだよ、桂ちゃん。できるのならしたいけれど、あっちの担当になったらこっちの担当から外れてしまうから」
進矢は恥ずかしいことを簡単に言ってのけた。
これ以上この話題を引きずると将棋の勝敗に関わる。僕が動揺してしまう。策に溺れる、という奴だ。
「論文は順調なのか?」
「うん。匿名で送られてきたデータはかなりわかりやすかったからね。それは世界一般に、という意味ではなく、俺にとってという意味で。すぐ使えたのは、アマネさんが二つ返事でこちらの要望を受け入れてくれたということもあるけど、データだけでここまで説得力があった、というのが大きいよ」
「すぐ使えたのは、最先端医療の研究機関である和多田医院だったからだろう?」
「それもあるね」
医者は錬金術士だとか、魔法使いと呼ばれるほど万能な職種である。医療の進歩は世界の謎を解き明かすことと同義だ。
謎というのはかなり少なくなっており、一つ解き明かされれば、数十年単位の技術革新が起こる。そのため、どの国も競争が激しく、細かい認可は二の次になっていた。それが、前回のアマネさんの事件を起こしたわけだが。
「進矢、そろそろその癖止めたら?」
進矢は先ほどから頑なに桂馬を守ろうとしていた。
「桂ちゃんを見殺しにはできないよね」
「将棋の駒に例えられる僕の気持ちにもなってよ」
「それは悪いと思うけど、気持ちの問題だからさ。こういう制約があるほうが却って集中できるんだよね」
チェスだと勝敗は本当に五分五分で、将棋だとかなり割れて、僕の方が負けていた。
進矢の恐ろしいところは、彼の癖を利用して戦うと勝負になるが、それをあえて気付かないふりをすると歯が立たない所だ。彼の言う通り、集中力の差で負けてしまう。どちらも素人だからというのが最もな理由だろうけど。
「この癖を指摘されて、気づいたことがあるんだよね」
「なんだよ」
「精神的なものだから言葉にしにくいんだけど、自分の物事に対する取り組み方や法則かな」
脳みそがふやけているとしか思えない発言をしながらも、進矢は鋭い一手を放ってくるので、話に集中できない。
「色々なことをできることなら全部したいけど、現実問題、そんなことは不可能でしょう?」
将棋盤を見ながら進矢は言った。
「そりゃあそうだ。時間は有限だからな」
「だから、俺たちは選択するわけだ。で、話を戻すけど」
進矢は手を止めこちらを見た。どうやら真面目な話らしい。
「俺はそういう選択の順序や基準がかなり明確なんだ。そして揺らぎがない。機械みたいに組み立てられた処理を行う。何が起こるかさえわかれば結果が導けるんだよね。自分の行動の」
「それは賢すぎるってこと?」
「そうじゃない。考え方が、機械的ってこと。桂ちゃんと見知らぬ子供が死にそうになってたら迷わず、桂ちゃんを選ぶ。もし、余裕があれば子供も助ける。そういうのをさ、迷わずやっちゃうんだよ」
そんな真正面から、お前が大切だ、などと言われたら照れる。またお得意の茶化し誤魔化す癖が疼き始めた。
「つまり、僕に告白してるの?」
「ごめんね、桂ちゃんを恋人にするのは難しいかな」
「なんだよ、それ」
笑いながらも僕は順調に駒を配置した。最後まで進矢はこちらの策に気づかず、勝つことができた。
どちらも負けてムキになったりする性格ではなかった。もうすぐアマネさんが戻ってくるので、再戦せず、将棋盤を片付け始める。
それが終わると、僕はベットに座り、進矢は立って本を読みだした。運動不足だから、ということらしい。高校生のころからやっている。彼の変わった習慣だ。
「何の本を読んでるの?」
「色の図鑑」
「珍しいな。学術書や実用書、あとは小説しか読まないのに」
進矢はわざとらしくため息をついて、首を振った。
「冗談が過ぎるんじゃない? 桂ちゃんが俺の色を無敵の色。太陽より強い光なんてあやふやなことを言うから、どんなものなのか気になったんだよ」
しらばっくれているつもりはなかった。まさか、進矢がそんなことを気にしているとは思いもしなかったからだ。
確かにアマネさんに引けを取らない抽象的な表現だった。が、それは仕方ないのである。
アマネさんは色が感じられないという特殊な人だったが、それとは対極に位置するのが進矢だ。彼も唯一の色と言っていいだろう。といってもそれは全員に共通する。誰もがそれぞれ違う色を持っているのだ。
ただし、色は感情や心から出てくるものなので、全く一緒ということはなかったが、類似点があったり、パターン化できる人々しかいない。例外は非常に稀だ。
「前にも言ったけど、俺が感じる色っていうのは感情のことだからね。画一的な表現は難しいし、複雑怪奇なものに上手く言葉を付けられないよ。ただでさえネーミングセンスがないのに」
「確かに。桂ちゃん、命名すると何でも語尾を伸ばそうとするもんね。だから全部ゆるキャラになる」
進矢は笑って言った。僕はショックを受けて少しムキになった。
「進矢は常に強く綺麗な色をしてるんだよ。そこに怒りとか悲しみのような感情があっても、元の色が綺麗すぎて薄れるんだ。だから無敵。心がタフなんだよ」
「色に例えると?」
「黄色とか赤かな。ただこの感覚を一色で表せないんだよね。直感的なものだし、色は何層にもなっていて、単純なグラデーションじゃない。そして常に変化する。色というより一つの作品とでも言うべきかも」
進矢はふむ、と唸った。長い間そうしていたが、イメージはできないようだった。
「そろそろ帰ってくるだろうし、御暇するよ。また明日」
「おう」
進矢が気を利かせて出て行ったが、アマネさんが戻ってきたのはそれから1時間近く後だった。
「遅かったね。何か悪い所でも見つかった?」
「大丈夫よ。汗かいたからシャワーを浴びてきたの。ごめんね」
アマネさんは自分のベットに座った。スプリングが僅かにしか揺れなかったが、シャンプーとリンスの甘い香りが一瞬で広がる。
彼女との会話といえば質問攻めという印象だったが、今回は違う。あの時程、質問されることはなかった。
その代わり、他愛のない会話の比重が増えた。
変わらず流行の話題はできず、過去の話や今日の出来事を重点的に話した。それだけだと、会話の種が尽きてしまうし、飽きるので、アマネさんに前の回で聞いたことを詳しく聞いたりして間を持たせることが多かった。
今日はまず、自分の昔話から始めようと事前に計画しておいたので話し始めた。
「高校生のころに初めてデートをしたんだ。晴れた日で、秋休みだったな。相手はそれなりに親しくしていた女の子で性格や趣味を知っていたから緊張することもなかった。けれど、結果的にその先はなかった」
アマネさんとの会話に前置きはない。彼女も僕も話したければ話すという形を取っていた。
「どうして?」
「貴方とは友達でいたいって言われてさ。まあ、原因はハッキリしているんだけど」
僕は少し思い出し笑いをして、話を続けた。
「朝から色々回って、お昼ご飯はイタリアンだったんだけど、ベーコンと何かのアーリオ・オリオ何とかを頼んだんだ」
「アーリオ・オリオ・ペペロンチーノ」
アマネさんが繰り返して言った。よく知っているな、と思ったけれど、綺麗な女の子だから小洒落た所に行き慣れているせいなのか、常識なのかはわからなかった。僕が通っていたのはファストフード店や定食屋ばかりだった。
「それが正式名称なんだ。知らなかった。あまり食に詳しくなくてね。それで、ここからが本題」
わざと一泊挟んでから、僕は話し始めた。
「その店は平日の昼間なのに少し待たなきゃいけないぐらい混んでいた。僕らが案内されたテーブルの近くにはまだ保育園児ぐらいの子供がいたんだ。可愛いその子を会話の種にしながら僕らはほぼ同時に完食し、女の子はお手洗いで席を立った。それでね、僕の頼んだパスタの中に鷹の爪が丸々入っていたんだ。それが食べるものではないと知っていたけど、僕は出されたものを平らげることを良しと思っていたから、最後に一口でぱくりと食べてしまった」
「あらあら、それはそれは」
「だろう? 鷹の爪は食べる人でも齧って食べるそうだね。僕は全く知らなかったんだ。で、鷹の爪をかみ砕いた後、のみこんでもいないのに、口がひりひりしてきた。痺れはいくら水を飲んでもとれやしない。まだ口の中に残っていた分を吐き出してしまえばいいのに僕はのみこんだ。砕かれた破片が胃に到達すると、それまでの比にならない衝撃が走ったんだ。胃液が沸騰したのかと思ったよ。腹に爆弾を抱えている感覚だったな。痛みはすごいし、汗がダラダラ出てきた。どうしようもできないんだよ。ただ悶絶しているしかない」
ふふ、とアマネさんは微笑を零した。僕はひとまず満足を得た。これで退屈な話ではなくなっただろう。
「女の子は帰ってきて、すぐに僕の異変に気づいた。さっき話したことを言って、まだ痛むといったら、彼女は吐き出せばよかったのに、と笑った。僕はこう返した。吐き出せない理由があったんだ。小さい子が見ている前でそういうことをするのは教育に悪い。あと何かに負けた気がするから、無理だった、って。それで彼女は大爆笑。僕も痛みを感じつつ笑った。1時間もすれば元に戻って、それからも楽しく過ごせたけど、女の子は別れ際にこう言ったんだ。貴方とは友達でいたいって」
アマネさんは大袈裟に笑ってくれた。それこそデートした女の子に負けないくらい。
彼女の顔を見たかった。色がまだ感じ取れない今、本当に笑っているのか確認できるのは表情だけだ。
しかし、わざわざ包帯を取るようなことはしない。
脅かすものがないからゆっくり進めればいいのだ。
「そのことを家族に話したらまた笑われたよ。妹なんて、今でも言ってくるぐらいだ」
「桂君の妹さんは攻撃的なのね」
その通り、と相槌を打って、僕は笑った。病気になる前から兄の威厳はない。
「アマネさんも弟さんがいるんだよね?」
「弟は死んだの。ずいぶん前に」
僕が言葉を失っていると、アマネさんがぽつりと言った。
「あと2ヵ月か」
「何が?」
「弟の命日。その日はね、海に行くの。弟の遺灰は海に撒いたから。あの頃はその方がいいと思ったけど、今は悲しい。何も残らない儚さみたいなのを感じて」
墓、というものを僕も意識したことがあった。
それは、死について向き合うという行為だ。それは僕にとってただ不安を煽るものだった。自分の矮小さばかりが目立って余計に悲しくなった。
僕は死を覗き見ることしかできなかったのだ。向き合うことなんてできやしなかった。
死というは穴で、目の前に立って覗き込むだけで震えあがる。おまけに、底は見えず、独特の気配を感じる。ただの言葉で、概念のはずがユラユラと動いて、堕ちて来い、とこちらを誘う。
結局、何も残こせないのも辛いし、何も残らないのも辛いということだけしか、あの時の僕にはわからなかった。
そんなことがあったからこそ、アマネさんに伝えたいことがあった。君が思ってくれているだけで、弟さんはきっと救われると。
が、それよりも先にアマネさんが話を進めた。
「そのころには戻っているかしら?」
「どうだろうね。入院は研究と体調次第だから。その時が来たら残念だけど」
アマネさんは風を切る音がするぐらい強く、自分の前で手を振った。
「違うの。私が言ったのは別のこと。家に戻りたいとかじゃないわ。桂くんと別れるのは私も嫌よ。客観的に見ても、よくしてもらっている、とわかっているから」
僕はその言葉だけでは安心できなかった。アマネさんがどこか遠くに消えてしまう気がしたのだ。色どころか存在さえも、無に。
なので、しつこく訊いてしまった。
「じゃあ何が戻るの?」
「私自身のこと。そうすれば、色んな問題が片付くの。綺麗さっぱり。そこにはもちろん、桂君の良心に応えるというのもあるわ。だけどね、待ってほしいの」
含みのある言葉を問い詰めることはしなかった。これ以上、やり続けると危険だ。冷静な判断ができない。
思考の間がなければ、容易に人を傷つけてしまう。
「わかった。戻るのを待つよ」
それからはいつも通りの会話に戻り、変な雰囲気は消えた。
また今日も就寝時間になった。
アマネさんとの会話は楽しくていつの間にか日が暮れている。やはり祖谷が投与していた薬が問題だったのか、彼女は抽象的な話をほとんどしなくなっていた。物足りない気はする。なくなったわけではないので、元々の癖ではあるのだろう。
21時半には床につく。15分ほどでアマネさんは眠る。そして、数時間して僕の新たな日課が始まる。
また眠れなかった。眠らなかった。
すでに、僕は眠りさえもコントロールできるようになっていたらしい。
不安が瞼をこじ開ける。充足感は疑心暗鬼に掻き消された。隣にいる女性は起きない。起きてはならない。
何を考えているのだろうか、僕は。一つ、大きく深呼吸をして切り替える。それを合図に思考は冷えていき、深く研ぎすまされていく。加速度的に増していく思考を止めるためか、頭が痛んできた。
自分の命令を無視して作動した安全装置。まるで、脳が独立しているようだった。こいつは僕も知らない限界も欲望もよく弁えていて、最適解を提示する。
逆に言えば、気づいた真実を直視しないのを許さない。どれだけ断片的であっても、無意識のうちに結び付けて、のほほんとしている僕の前に突き出してくる。
以前、祖谷の事実を発覚させた夜に身体を乗っ取った僕は戒めだった。
知りたいという無意識の欲望を叶えさせるために直感で動く獣だった。逃げようとする僕を掴み、真実の前に引きずりだすのだ。今度もそれが起動する予感があった。
もう、気づいているんだろう、と。
いつの間にか、昨日と同じ2時。
こんなに長く起きていられるのは、また勝手に獣が暴いてしまうのではないか、という不安が意識を手放すのを恐れていたせいかもしれない。
不安は消えない。悪い方向ばかりに行き着き、障害物を破壊していく。予感や気分ではなく、確信を持って。獣はすぐそこまでやってきていた。
事の真偽は外部からの判決で終了した。けたたましいコール音。昨日と同じように3度鳴って、すぐ消える。
アマネさんが外に出てから少しして獣も後を追った。
勝手に身体が動いていた。また、夜の獣が怠けている僕に、直視しろ、と蹴り飛ばしたのだ。
頭痛は増す一方だ。それでいて、身体はいつもより調子がいい。矛盾している。麻痺しているだけかもしれないが。
ついには包帯まで取り、尾行を続けた。耳を澄まし、窓の反射を活かして物陰から彼女を追う。
ここまで、何かをじっくり判断して行ったことはない。入院してからずっと目を閉ざしていたから、建物の装飾は正確に把握していない。だというのに、全て反射的な行動だ。相手の神経を読み取るように裏をかき、獣は彼女の背中を見続ける。彼は尾行の素質もあるらしい。
気付いたときには頭痛もなくなり、前とは違って僕は俯瞰しているような気分で自分を見つめていた。
身体から離れているような視界だが、獣が歩いたり、手で触れたりする感覚は僕に繋がっている。
僕らの生活している北病練から東病練に移動し、ある部屋でコンコンとアマネさんはノックした。急いで目を凝らす。そこは320号室だった。友達でも入院しているのだろうか。もしくは、友達が出来たのかもしれない。
僕の推測が止まっても、扉の向こうから返事はなかった。アマネさんはそれがわかっていたかのように、気にすることなくそのまま手すりを横に引いて中に入っていく。
そこで、病室を出てから初めて、彼女の顔を見た。
美しさの化身と表現できる顔が前回と変わらずそこにはあった。
だけど、僕が前の回で見たアマネさんとは違った。血が通っているのか、と訝しんでしまうほど生気が抜けた面のような表情だった。乙種を克服し、感情を取り戻したはずの人間には出来ない芸術品のような顔だった。
一瞬見えた横顔に僕は数分縛られていた。
あの表情が意味する事実を認めたくはなかった。その真相を暴きたくもなかった。しかし、僕という人間は解を前にしてむざむざ引き返すことができないらしい。
獣は止まらない。
一歩一歩を踏みしめ、扉に向かう。表札には名前が記されていないので、誰の部屋なのかはわからない。
ずっと近くにいたのに、扉が僅かに開いているのが初めて目に入った。
無音だ。月明かりに音が吸い込まれたのか、息づかいも、鼓動の音も聞こえない。唾を飲み込んだ感覚だけわかる。俯瞰していても、僕はこの状況に緊張しているらしい。
ゆっくり扉の奥を覗きこむ。音のない世界で、唯一得られる情報は視界だけだった。いつもと真逆。目は音のような感覚ではなく、どこまでも非情に現実だけを、事実だけを映す。
恐らく男の後頭部と側面、そしてアマネさんの横顔が見えた。二人の間に射す月明かりが少しずつ小さくなっていく。そして窓が二人の顔で見えなくなり、月明かりも消えた。
見知らぬ男と、アマネさんは口づけを交わした。彼女らの顔からゆっくり視線を降ろすことで、新たな情報が開示される。どちらも衣類は着ていない。下着も着ていない。そしてどうやら、両者ともに求めあった末の現実。
男はアマネさんの乳房をまさぐりながら様々な部分を、ほぼすべてくまなく舌を這わし、時に吸っていく。その勢いは徐々に増しながら、彼女の傷一つない純白の肌を男は貪り続けた。その変化に彼女は小さく、けど確かに悦びで表情をゆがめ、手の甲で塞いだ口から声を漏らしていた。
いつの間にか音が聞こえる。五感は完全に取り戻された。そのことに気付いた途端、身体がとてつもなく重たくなった。
元の病人に戻ったのだろうか。反動で、床に膝をつく。静寂に包まれていた世界に音が生まれる。
それでも僕は目を離さなせない。感情はなく、ただ義務のように見つめていた。
だから目が合ってしまった。
膝をつけば音がするに決まっているのだ。なら、中にいる彼女らに届いて当然。
一気に感情が僕の中に入ってきた。それは酷く重く鋭かった。
なので、中に収まりきらず僕を形成する袋が破裂した。袋の皮は元の形を取り戻そうと身体を包むように張り付いた。すると口と鼻を塞がれたような息苦しさに苛まれた。
それだけでなく、視界が点滅し、脳も圧迫された。そんな状態のままそれらの対処に追われた。
最初に処理したのは恐怖の感情。ここにいたくないという弱音が僕を走らせる。それが身体を動かす。
次々に立ちふさがる他の感情を意識しないよう必死に避け、重たい身体を引きずるようにしてその場を去った。
帰り方がわからないので、出鱈目に距離を取る。階段を落ちるように手すりを伝って駆けていく。限界を超えた駆動と障害物のような感情によって苦痛を訴える心身が、幸福の終わりを告げていた。
いつだ? 何を間違えたんだ?
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