第6話-4月6日→4月7日

 4月6日→4月7日


 説明されていたことだが、アマネさんは2週間に一度は実家に帰ることが決まっていた。それが4月6日だと急に言われた。なので、その日は昼から一人だった。

 つまり、僕らが出会って約2週間が経ったことになる。正確な日数は12日だ。

 アマネさんがいなくなったので、久しぶりに親友や看護師らと長く話をし、笑いあった。慣れ親しんだコミュニケーションだった。静かで穏やかなアマネさんとの生活に慣れたせいか、疲れてしまい僕はいつもより10分ほど早く眠りについた。

 そこで僕は珍しく夢を見た。アマネさんの夢だ。どういうわけか彼女が様々な目にあっていく。目を覆いたくなるような死にざまから、下種な妄想まで様々なラインナップがあった。僕の脳はどこまで人を辱めれば気が済むのだ。想像するだけなら自由だが、ここまで酷いと流石にあきれてしまう。


 気分の悪くなる夢を見たせいか、すっと自然に瞼が開いた。周囲の音から察するに夜らしい、と僕は思った。端末で時間を確認すると、4月7日のAM2時17分だった。いくら早起きとはいえ、こんな時間に目が覚めるのは異常だった。僕の体は強制的に眠りにつき、そのまま眠り続けるのが正常な動きなのだ。こんなことは2度目だ。

 夢でアマネさんの幽霊と出逢った時と今回と。

 自分の頬をつねってみた。痛みがあるので今回は現実らしい。

 そういえば、結局あれが現実なのか確かめていない。

 もう一度、布団を上までかけて目を閉じてみるが、眠気はなかったし、妙に意識が覚醒している。仕方ないのでベットから身体を起こし、座ってじっと考え事をした。あまり大したことのない命題を弄くり回していると、足音が聞こえた。聞き間違いかと思ったが、音は着々と近づいている。それと比例するように音の間隔が速まった。誰かさんは歩いていたが、走り始めたのだ。

 それにしては軽やかな足取りだった。まるで浮遊しているような軽さだ。振動もほとんどない。

 けれど、確かにその足音は僕の部屋の前で止まった。そして誰かさんは扉に手をかけた。


「アマネさん?」


 確信に近い質問だった。彼女のように軽い女性は滅多にいない。

 アマネさんは答えず、僕の方へゆっくり歩き始めた。


「どうかしたの?」


 それにも答えず、アマネさんは僕のベットに乗った。高価なベットと彼女の軽さのせいで驚くほど振動はなかった。

 本当に誰かが乗っているのだろうか? また夢なのではないか?

 僕がシーツの上を手探りで触っていると、アマネさんの膝に当たった。そのまま彼女の膝を沿うようにゆっくりとベットの端まで触ることで、彼女が膝立ちしていることがわかった。

 それがどうしてか、何故ここにいるのか、などという問いを僕は失っていた。彼女の足があまりにも滑らかだったからだ。違和感を一切感じさせない手触りで、毛の存在を感じられなかった。そのせいか、赤子に匹敵する滑らかさで、触れているとこちらの手が水の中に包まれるような感覚がある。そして、しっかり温かかった。その温かかみがなければ、人間の足、という認識はできなかっただろう。それほどまでに不思議なものだった。

 僕が足に触れていると、アマネさんの手がそっとこちらの頬を抑えた。とても熱かったが、彼女の手が熱いのか、こちら頬が熱いのかが判別できない。

 そして、アマネさんは何かでゆっくりと、僕の唇を右側からぴったり塞いだ。驚いて顔を少し揺すると、僕の鼻が滑らかで弾力のあるものを擦った。それで、今何をされているのか気が付いた。

 アマネさんは僕に口づけをしたのだ。

 心臓が打った時、煮えたぎった何かが胸を通り過ぎた。それは僕の体中を駆け抜けた。刹那の間に、言葉では表現できないほど膨大な量の情報が行き来した。摩訶不思議な現象にもかかわらず、僕はこれが二度目だと思った。

 それは再熱なのだと。彼女の口づけは、何かを与えたのではなく、もう一度、熱を伝えたのであった。

 急にそんな言葉が浮かんだ。その言葉を頭の中で文字にし、ようやく僕は幸せだと思った。

 しかし、それが何故かはわからなかった。その意味を追及できないほど、とにかく熱かったからだ。

 初めて感じた他人の唇は、とても柔らかいもので、しょっぱかった。微かに触れる鼻や息、頬を伝う熱、鼻孔に充満するアマネさんの匂いなどが、次々に僕を襲った。そうすると、自然に彼女を抱きしめたくなった。

 背に手を回し、壊れないように、そっと慎重に抱きしめた。さらに密着し、何度か唇が離れ、どちらともなくまた吸い寄せられるように合わせた。見えていなくてもそれはできてしまった。

 僕は唇を離れている間、どうしようもない恐怖に襲われた。合わせていない方が不自然だと思った。

 そんなことを考えてしまうほど夢中だった。興奮している証拠に身体を廻る異様な熱を感じている。けれど、せいぜい唇に吸い付く程度の優しい口づけを繰り返した。

 我々に相応しいゆったりとした動作だった。だから、波は緩やかにどこまでも昇っていく。様々な形で互いの唇を味わい尽くす。

 それでも別れの時はしっかりと来た。僕らは示し合わせたように同時に唇を離し、抱き合ったまま顔だけを遠ざけた。

 僕はまだ残っている香りを感じつつ、名残を、彼女と口づけた証明をするように、自らの唇に手を這わせ、頬をなぞった。僕の頬は僅かに濡れていた。シーツを触ると、そこも濡れている。頬に残った水分を指ですくって、舌に触れさせるとしょっぱかった。


「どうかしたの?」


 僕は努めて優しく訊いた。アマネさんは黙って答えなかった。嗚咽や鼻をすすりあげるようなこともしていなかった。だから、彼女がしたように――僕は目が見えなかったから背から首を伝い――頬に手を置き、涙を拭ってから口づけした。そうするのが正しいなどという信念はなかった。それしか選択肢がなかっただけだ。

 アマネさんは拒否せず、僕の背に手を回し、唇を押しつけるように合わせた。そして密着したまま、ゆっくりと唇だけを離した。

 彼女の涙は止まらず、僕の頬がまた濡れた。どうすればいいのか、全くわからなかった。義務教育の間に、親切丁寧な授業で、こういうことは教えるべきでないのか。それができないのなら研修ぐらいさせてくれ。目の前の問題に、僕は見当違いな文句を並びたてた。その行為が、現実を直視しないように、頭の処理を誤魔化しているのはわかっていた。情けないのは僕なのだ。それでも自分でどうにかしなくければならないのだ。

 何が足りないのか、そして今、何をすべきなのかを考えた。

 まず、情報が足りない。どうすればいいのかはもちろん、声に色がないから彼女の状態がわからない。どういう傷の付きかたをしているのか、どこが痛いのか、それを知りたい。耳で捉えられないのなら、俺に差し出せるのは一つだった。

 身体を密着させたまま手だけアマネさんの背から離し、僕は顔に巻かれた包帯を取った。

 瞼に月明かりが届く。光っていることがわかる。なら、今は見えるということだ。

 僕は身体を離し、ゆっくりと瞼を開けた。

 やはりアマネさんは綺麗だった。涙を流していても、それがとても苦しそうでも、美しかった。夢で見たあの時の少女と瓜二つだった。やはり想像の中の女神は実在していた。

 

「桂君、そんな顔してたのね」


 アマネさんは眉を少し上げて言った。声と同じで表情も薄かったが、それでも十二分に綺麗だし、可愛い。


「それって褒め言葉?」


「もちろん。素敵な顔をしているわ」


 アマネさんは声だけ笑って見せた。顔は笑っていなかった。僕は一昨日、彼女が言っていた言葉を思いだした。自然だと思う反応をしているだけ、と彼女は自分のことをそう評した。

 元々、色が見えないから、判断しづらかったが、表情が伴わないとなると違和感は濃く出てくる。

 僕はそんな彼女を直視し続けることが出来なかった。心が締め付けられ、目の前の美しいものを滅茶苦茶にしたくなる。わからない、という言葉が頭を占めて、余計な命令を下そうとしている。さあ、やっちまえよ、と。お前の好きにしちまえよ、と。

 だから、気取られないように顎と首辺りに視線をずらした。すると今度は違うことに戸惑った。彼女の鎖骨から肩にかけて切り傷が見えたのだ。血は出ていないが、数日以内のものだろう。傷の痛々しさはもちろんだが、その傷が妙に情欲を掻き立てるのも困った。


「辛そうだわ。どこか痛いの」


 アマネさんの言葉に僕は笑うしかなかった。どうにかしようと思っていたのに心配させる始末。自分の不甲斐なさばかり突きつけられる。何かをしてやりたい、と願うだけ願ったくせに、結局何もできないのだから諦めろ、と心の中で諭している自分がいた。そして、結論を出せない僕は、既に己が武器となっている誤魔化しを始めた。


「大丈夫だよ。説明していなかったけれど、目がずっと見えないわけじゃない。多くの場合は使えないんだ。波長のようなものが合わさった時だけ使い物になるんだけれど、その周期はバラバラで不規則なんだ。そういうのが身体の負担になるらしくて、病院側から閉じてくれ、と言われているから閉じているだけ。今は入院してからずっと開けていなかったから慣れていないだけだよ」


 9割方事実だったが、一つだけ嘘をついた。慣れていない、というもっともらしい嘘を。現実を受け容れることのできない弱さを。

 目の前にいる女性に対して、何もできない悔しさを誤魔化した。


「その波長というのは感じられるものなの」


「いいや、無理だな。特に目が酷いけれど、他の部分も動かなくなる時がある。自分では使えるつもりだから、おかしくなるんだ。走ろうとしても、動かない。いつもと同じ調子で立とうとすれば倒れてしまう。だから、計器が僕をしっかり見張って、お前ここが異常だぞって、教えてくれるから生活できる。その異常な部分を支障の少ない範囲にすることで生活できる。それが僕なんだ」


 そこで一度、会話が止まった。僕らは意味もなく見つめ合いじっとしていた。

 その状況を破ったのはアマネさんだった。目を伏せ、伝えたいことがあるの、と言った。


「ようやく私にもわかったの。私と桂君の違い。私の弱さとあなたの強さ。そして、初めて反抗してみて、家から病院まで、長い距離を走ってみたら言葉までまとまったわ」 


 アマネさんは突然そう呟いた。


「あなたは私と似ている部分があるんだけれど、致命的に違うのね。最初は同じ人間だろうと思った。けれど、あなたは全く違うものだった。だけど、やっぱり似ているところも見つけられた。同じところも違う所もあった。憧れが視界を霞ませたのかしら。そもそも、こんなのは当たり前なのよね。どこかしら同じものを持っていて、その比率というか量が違うだけなのに」


 よくわからない話だった。恐らく、アマネさんが自分の考えをそのまま話しているのだろう。彼女の中でまとまっただけで、他人に伝えるにはまだ構成を練る必要がある。

 だが、彼女の中だけでもわかったのなら喜ばしい事だ。あとは会話で溝を埋めれるだけ埋めればいい。

 今の段階でまとめるとこういうことだろうか。

 他人とは似ていないけれど、必ずどこかに共通する部分はあるのだと、ということだろうか。その考えが正しいのか確かめようとするより、アマネさんが話すほうが速かった。


「だからこそ、違いが目立つ。強さがわかる。またもや当たり前。誰だって気持ちを分かち合うことを少なからず行っているのだから、違いとその根幹にある共通点に気づくはずだもの。積み上げたものの違い。私が止まっている間に、進み続けたあなたの強さ。自分の足で歩いているのだという自覚を持つ力」


 そこでアマネさんの話は終わりのようだった。

 つまり、僕と彼女は違うけれど、かなりの部分が量の違いだけであって同じである。その差は積み上げてきたものの違いで、僕の方が強い?らしい。

 全く分からなかった。


「あ、ごめんなさい。また悪い癖が出てしまったわ。整理するから待ってくれる?」


「もちろん」


「ありがとう。人に伝える配慮をしていなかったね。桂君みたいにわかりやすい説明をするわ」


 口に出ていたのか、態度に出ていたのかはわからなかったが、アマネさんに考えを読まれてしまった。恥ずかしい話だ。しかし、その恥ずかしさをフォローするような気づかいで、僕は救われた。いつの間にこんな気づかいができるようになったのだろう。

 僕が感心している間に、整理が終わったようで、アマネさんは指を立てて説明を始めた。


「私は今まで、ずっと自分を遠くにやっていた。そんな私と桂君は似たもの同士だとあなたの話を聞いて思ったの」


「うん」


 どういう所が、という質問はしないでおいた。これ以上、アマネさんを混乱させてしまうと、まとまるものもまとまらないだろう。


「けど、違った。出会った頃の私からすれば、あなたは立ち向かう力を持っている超人のような存在で、理解できない考えを持つ人だった。最初はそう、感じたけれど、時間をかけることによって桂君のことを自分の中で理解できたわ。させてもらったのよ。私はそこで初めて他人を少しなら理解することは可能だ、ということを学んだの。人は積み上げた時間の違いで、いかようにも変わるんだって。そして、その積み上げる作業は色んな人が関わって、様々な要因が間にあるって、前提を意識すれば、人の違いが不思議ではなくなったの。だから、この人との違いが何故かと、心の表し方も受け取り方もいっぱいあるんだと、考えられるようになった。そうするとね、私はずっと、誰もわかろうとしていなかったって、わかったの」


 アマネさんは舌先を出して、困った顔をした。


「というようなことを言ったつもりだったの。まだ治ってなかったみたい」


「そんなことないよ。わかりやすかった」

 

「ありがと。人の違いが不思議でなくなると、あるイメージが出来るようになったのよ。私はそうやって想像しないとわからないし、忘れてしまうの」


 明後日の方向を向きながら、アマネさんは口を開いた。 


「人が石だとするわ。石は人生という過程で磨かれ、各々違いが出てくるの。けど、元は同じものなのだから、過程さえわかれば、それを伝えようとし、知ろうとすれば、ちょっとはわかりあえると私は思ったの。だって、誰だって変われるのだからってね。そう、思えたのよ。桂君を見て、あなたがしっかりと時間をかけて接してくれたから。それでね、そう考えられるようになったら、今までわからなかったことも少しはわかるようになったの」


「そうだと思う。分かり合おうと互いに思えれば、何故そういう風になったのかを考え、時間をかけてわかちあえれば、伝えやすくなるし伝わりやすくなるだろうね」


 綺麗ごとだったが、彼女の前で、現実にはそんな余裕も、時間もないんだよ、とは言えなかった。そんなことはどうでもよかったのだ。僕の言葉は優しさではないけれど、それをどう思うのかは彼女次第である。


「初めて自分の言葉をまとめられたわ」


 小さくだが確かに笑って、アマネさんはさらに言葉を続けた。


「私、桂君のことが好きよ。柔らかくて大きな翼を持っているから」


 僕は驚きのあまりに口を開けてしまった。理由は三つある。小さくだが綺麗にくっきりと笑ったこと、告白紛いの発言、そして、声に色がついたこと。

 あまりにも淡い色だったからわかりにくいけれど、確かにあった。薄い薄い水色に淡く朱が差していた。

 間抜けな僕の口を塞いだのはアマネさんだった。何度目になるかわからない口づけ。ただ唇だけを合わせた。

 至近距離で感じる彼女の息遣いにも色を感じた。興奮に幸せが入り混じっている萌黄色。

 アマネさんは顔を離して、明後日の方向に顔を背けた。その僅かの間に見えた彼女の横顔は月明かりで見えにくかったが、真っ赤だったことは見間違いではないのだろう。

 しばらくそうしていたが、横目で僕を何度か見てから、アマネさんはこちらに顔を向けてはにかんで見せた。


「じゃあ、飛んでくる。無断で家から出てきたから」


「ちょっと待って、肩大丈夫?」


「肩?」


 アマネさんはそう繰り返して、自分の肩を見た。彼女は大きく目を見開いて静かに微笑んだ。


「アマネさん、きっちり笑えてるよ。綺麗だ」


 僕の言葉を聞いたアマネさんは唇を噤み頬を赤くした。その表情はさらに魅力的でこちらが困る。


「私もようやく翼が生えてきたみたい。じゃあ、また明日」


「うん。また明日」


 僕らは笑いあい、手を振った。しばらく手を振り続け、幽霊と間違うほど微弱な足音で、アマネさんは去って行った。


「飛んでくるって何だよ。色がついても相変わらずだ。話もまた完全に理解することはできなかったし」


 けど、不満じゃない。話しあえばいい。そもそも完全に理解なんていうのがおこがましい。しかし、知りたいという欲求は収まりそうにない。

 僕は笑った。それは次第に大きくなって、コントロールできなくなった。満たされた気持ちで胸が張り裂けそうだった。何をしても面白おかしくて困った。

 まるで別人のような笑顔のアマネさんも、前の無表情なアマネさんもどちらも魅力的だったけれど、やっぱり笑顔を浮かべられる彼女の方が、満足感があって良かった。

 そんな彼女と、これから様々な思い出を作っていけるのだと期待して、僕はベットに入った。

 そして、勝手に包帯を取ったことなど、禁則事項を数々破った事の言い訳を考えながら、眠りについた。

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