第5話-4月5日
4月5日
その日の朝の日課を終え、僕はアマネさんにある提案をしようと思っていた。病院の敷地にある桜を見に行こうという提案だ。
花見を選んだのには理由がある。アマネさんの質問が減ってからの3日間で僕が使うことのできるあらかたの遊戯をこなしたから、新たにする事がなくなったのだ。
なので、昨日からずっと考えていた。
しかし、言う勇気がなく、決行直前になってしまった。だというのに、僕はまだ花見に行こうという台詞に気恥ずかしさを感じていた。女性経験の無さのせいだろう。
僕の健診と包帯の交換の間、アマネさんは別室で待機している。先ほど、僕の世話を済ませ部屋を出ていったマリさんが呼びに行ってくれているだろう。
これが最後の機会だ。
そうやって自分を追い込むことでようやく口を開くことができそうだった。
そのせいか、アマネさんが入ってくる直前まで足音が聞こえなかった。
彼女は足音や物音をほとんど立てないので、集中しないと近くに来るまで全く気付かないのだ。それが却って特徴的で、他の人と間違うことはない。
だから、入ってきたのがアマネさんだと確信して、僕は間髪入れずに口火を切った。
「アマネさん、桜でも見に行かない?」
「見に行くの?」
「ああ、そうだね。癖でそう言ってしまったけど、僕は見れないよもちろん。たまには外に出よう。病院の敷地内だし、文句は言われないから」
「もう少しで雨らしいし、桜もあと一週間も保たないでしょうから、良い機会ね」
僕はジーンズと半袖のシャツという恰好だったので、念のため薄手のカーディガンを羽織って立ち上がると、アマネさんはそっと僕の腕に手を添えた。いつの間にかそうした動作が自然と出るようになっていた。
杖を使ってそのまま外に出て、病院の敷地にある桜の木に向かう。一般にも開放されていて、この近辺では有名な方である。
僕らがいる北病練は最も桜の木に近かったから、広い和多田病院でもそれほど遠くなかった。
「今日は暖かいわね」
「そうだね」
僕が返事をしたきり、会話は途切れてしまった。そのことに不満や焦りはなかった。これが我々なのだ。
服の中に熱がこもる感覚と共に、僕と同じ考えの者が多かったのか、桜の木に近づくにつれ人が増えてきた。人々は皆、アマネさんを見、僕を一瞥して、また彼女を見た。
アマネさんは羨望の視線を集めていた。周囲の人々の息の色から感嘆を感じる。彼女は一体どんな魅力を身につけているのだろうか。
みんな彼女を見ていた。そして、僕に疑念の視線を送った。どうしてお前が、と。
当の本人はその視線に気づいていないのか、僕の腕を支えていない方の手で顔や鼻を触っていてた。
「どうかした」
アマネさんが心配そうに尋ねた。どういうことだろうか、と一拍置いてようやく気付いた。僕自身意識しないうちに、彼女の方を向いていたのだ。見えやしないというのに、光りを求める植物みたいに首が動いていた。
「もうすぐつくなと思って」
坂道の具合や周囲の声、それらを含む様々な情報と昔の記憶を照らし合わせることよって、推測を立てた。幼いころの遊び場でなかったら、急に言い訳と事実とを結び付けることはできなかっただろう。身の芯まで腐ってきているようだ。
「ええ、もう見えてますよ」
「それはよかった」
嘘にならなくて、という言葉は口に出さなかった。
それから二十歩進むと、桜の花びらと思われる物体が僕の頬を掠めた。数秒毎に、風によって舞う花びらが頬の産毛をそっと撫で匂いを運ぶ。こうして体感すると、桜の光景が瞼に浮かんできた。
まだ、僕の記憶の桜は淡く色づいていた。本当に淡く、薄く。昨年よりもぼんやりと。
「ベンチがありますし、座りましょうか」
「ありがとう。そうしようか」
アマネさんの案内を受け、僕はベンチに座った。
ベンチはそれなりの面積があるのに、アマネさんは腰が接するほど近く右隣に座った。
桜の木々の合間から射してくる日の暖かさよりも、アマネさんの体温の方が温かかった。いい匂いもする。何かしらの植物の匂いとアマネさんの身体から発せられる甘い匂い。それらをしっかりと堪能することに集中し、僕は頭の中を空っぽにしようと努めた。頭の朧げな桜を消そうとした。
長い間そうしていたが、アマネさんの髪が風に踊り、僕の首筋を撫ぜ、一層強く香りを運んできたことによって中断する。つられて右に顔を向けてしまった。
「桂君は楽しい?」
そう言ったアマネさんの視線は僕に真っ直ぐ向けられていた。だけど、僕には声もその視線すらどういう意図なのか全く読めない。
だからこそ、考えたり、駆け引きすることなんてできやしないのだ。反応が薄いから積極的にジョークを言うのもとっくに止めた。できるだけ誠実に。彼女と接するにはそれが一番だと信じていた。
「楽しいよ」
いつもの僕であればそこで黙っていた。しかし、そのときの僕は春の陽気にあてられたのか、余計なことを口走った。
「アマネさんといるだけで楽しいよ」
アマネさんは、え、とか、あ、とか一音だけを断続的に発しながら慌てて黙った。
僕も黙った。答えは求めていなかったし、本心を伝えたかっただけだからだ。
珍しい彼女のリアクションが見れただけで収穫である。出逢ってから偶に自棄になった風に笑う以外、ほとんどリアクションはなかった。
「私も」
消え入りそうな声だったので幻聴かと思った。が、そんなことはありえない。色を感じさせない声が聞こえたのだから。それはアマネさんしか持ちえぬ音なのだ。
僕は目が見えないので、彼女の顔色を伺うこともできず、先ほどの言葉が世辞か本気かの判断もつかない。だから、誠実でいるしかない。不器用でも、格好悪くても伝えるしかなかった。
「そう言ってくれると嬉しいよ」
全てを伝えるのは顔が火照って無理そうだった。しかし、そのことを悔やんではいなかった。なぜなら、僕の考える誠意とは保身を考えず相手のためを思って接することだからだ。
自分の誤魔化し癖は自覚している。でも、頭を固くして、誤魔化しや嘘を憎んでいない。僕が悔やむのは誤魔化しかできない力不足だ。困った時に誤魔化すことしかできない男にはなりたくない。
そう、今回の誤魔化しはアマネさんのためでもあるから、悔やみはしない。
「僕はさ、桜の近くにいるってだけで、桜を思いだしてまるで見た気がするから満足なんだ。同時に怖かったりもするけど。そんなことより、ここの桜はどう。キレイって昔から評判だったから、アマネさんにも満足してもらえると思ったんだ。ずっと部屋にいたら気が減入るでしょ」
しかしながら、誤魔化しが早口になってしまったことは恥ずかしい。
どうにか平静を装いながら僕はアマネさんをじっと見つめ、彼女が話してくれるのを待った。表情も仕草も、色も、見えなかったけれど、彼女が何かを話したがっているように、こうやって訊かれるのを望んでいるように感じたのだ。
思い返してみると、彼女はここに来てから、顔をしきり触っていた。強引に直感の裏付けにし、軟弱な心を奮い立たせる。そうすることで思い上がりを恐れるよりも、聞きたい知りたいという欲求が勝った。
しばしの沈黙のあと、アマネさんは実はね、と切り出した。
「この景色が綺麗だと思えないの」
どういうことだろう、という問いを僕は口に出せずにいた。アマネさん自身、そういった説明ができずに苦しんでいるのだから。
「ありがとう。桂君が私を思ってくれているのよく感じるわ」
感謝の言葉を口にして、アマネさんは薄く声を上げて笑った。
「今のもね、自然だと思う反応をしただけなの。笑うのだってそう。わざとらしかったでしょ? 思えば、私は長い時間、そういうことを放棄していたわ。怠けていたわけじゃなくできないから、しなかったのよ。何かに触れられたり、景色を見たりしても何も思えないの。ただの情報で感慨はない。それは言い訳のつもりだったのだけれど、いつしかそうなっていた。心が揺れ動かなくなった。だけど、もう、それではどうにもならないの」
その告白には抑揚がなく淡々としていて、喜びや悲痛さを感じなかった。アマネさんの言葉通り、ただの情報として伝えられた。送り手の思想や意図といったものは皆無だった。
だが、受け手の僕は違う。ただの情報に言いようのない痛みを覚えた。それは熱くもあり冷たくもあった。車のウインカーみたいに一定のリズムで規則正しく心臓が動く度、意識が遠のいた。
「本当に貴方は綺麗ね。大きな翼を持っているのね。それなのに、誰かを思いやれるのね」
と言って、アマネさんは僕のふとももに左手を置いた。彼女の手はジーンズの上からわかるほど湿っていて暖かかった。
「ねえ、もしかしたら、と思うのだけど、私が今話した理由、貴方なら理解してもらえるんじゃないかしら」
「どうだろう。でも、わかっていたいし、わからなくても理解したいとは思うよ」
「そう言ってくれるのね。それこそ私が欲していた言葉なの。あなたが私を導いたのよ」
僕は肩を押されたような錯覚を覚えた。するとベンチに座っている感覚がなくなって、浮いている気がした。アマネさんの一言は宙に浮かす力でもあるのだろうか?
「私が今の答えらしきものにたどり着けたのは桂君、貴方のおかげなの。今まで自分が全くわからなかった。こうやって客観的な言葉らしきものにすることもできやしなかった。だからね、ただどうしようもない現象なのだと思っていた。ただ何も感じないように時間を過ごしてきたの。けれど、貴方が待っててくれたから、きちんと接してくれたから、ここまで来れた。どうにかしようと思えた。そして、そんな人に会えたのは初めてだった」
言い終わってから、アマネさんは右手で胸あたりを撫でながら深く呼吸を繰り返した。
彼女の話に集中していたところから、現実に戻ってくると僕の胸が熱くなっていて――それは強くなって――苦しかった。先ほど遠のいていた意識は、違った障害にやられている。喜びが考え事の邪魔になるなんて初めてだった。
そんな中、いつの間にかアマネさんの手が震えていることに気づいた。どうしたんだろうか、どうすればいいのだろうか。
急な発見に僕の思考が止まっている間に、アマネさんは調子を整え、話を続けた。
「桂君がしっかり待って、向き合ってくれて、それが良い方向に作用したから私は自分のことを少しわかったのだ、と思う。自分を理解することもそうだけど、自分の言葉で自分を伝えるのって難しいことなのに、私はずっとそれをしてこなかったから尚更困難だったの。だけど、それができた。貴方と話し、考える時間をくれたから。だけどね、そうするのが恐ろしいの。これより先に踏み込むのは、今までの私を変えなきゃいけないから。だって、自分のことを伝えるということは、心と向き合うという事でしょう?」
僕が言葉を返せずにいると、アマネさんは、ガタガタと左手だけでなく、接している腰も震えさせた。汗ばむほど暖かいのにも関わらず震えていた。
僕は彼女の話を完全に理解したわけではなかった。これはこうだからこうなる、というふうに順序立てていくことに失敗した。
その結果、アマネさんの言葉の欠片が僕の体に刺さり、熱を発し、思考を止めていた。ポンコツにもほどがある。
だから、僕にはアマネさんがどういう理由で震えているのか検討もつかなかった。どうすべきかもわからなかった。さっきからずっと、脳は感情に振り回されて動いていない。
よって、僕は衝動に従った。アマネさんを横から抱き、右耳を彼女の背にくっつけ、少しでも何かを拾おうとした。
短くない時間、そうしていると、アマネさんは小さく、この距離でないと聞き取れない声量で呟いた。
「待っててくれる?」
「もちろん」
「私と向き合ってくれる?」
「もちろん」
「なら、私も向き合ってみる。違うわね。向き合いたい」
アマネさんは少々治まったものの震えたまま、僕を離した。そして左手を僕のふとももから腹部に上げ、胸部を通り首から顎を伝って頬を撫でた。その行為はやがて熱を帯びてきた。いつの間にか手の震えはなくなっていて、夢中で僕の顔を撫でるというより揉むような強さで触れた。それは間違いなく気のせいではない。その証左に徐々に彼女の顔が近づいてきて、艶っぽい息が僕の耳朶を包んだ。
僕はそれにどう応えるべきなのかわからなかった。その解を模索しようともしなかった。時刻を確かめ、ただ終わるのを持った。
アマネさんの手が僕の頬から離れた。時間にすれば一分にも満たないものだった。だというのに、何かを交わせたような気がした。一方通行なものではなく互いに受け、送りあった。意図したものでもないのにそういう確信があった。けれど、その何かの正体はわからないし、永遠に理解できる日が来ないだろうと思った。しかし、その唐突な考えが焦りにつながることはなかった。
僕の不安は、アマネさんが受け取ったものが良いものだったか、という心配だ。
目を合わすことはできないけれど、待つことも出来ず僕はアマネさんの方を向いた。すると、彼女は視線逃げるようにベンチから立ちあがって僕と距離を取った。
「桂君、桜、満開だよ」
そう言いながら、アマネさんはさらに離れていった。
「確かに綺麗ね」
だから、この言葉はやけに小さく聞こえた。遠くなると色での判別は難しい。なので、アマネさんがつぶやいたという確信が持てなかった。そもそも空耳かもしれない。
「そう思ってくれたなら嬉しい」
僕も独り言で返した。これで終わりだ。
アマネさんがどこに行ったのか探そうと耳を澄ます。彼女は桜の木の回りを歩いているようだった。体重がよほど軽いのか、足音が異様なほど小さいので判別がつく。
僕はベンチの背もたれに首を乗せ、アマネさんを待つことにした。だらしないけれど、疲れたのだ。
「いまさら胸が苦しい。成人してこれじゃ笑われちゃうぜ」
声に出して茶化してみるが、痛みは治まらなかった。あんなに深く、誰かと言葉を交わし、触れあったのは本当に久しぶりだった。
「楽しく過ごせて、隣に女の子がいるなんて」
最高だな、という部分は寸で声に出すのを止めた。今、自分がいる場所を完全に忘れていた。1人部屋に慣れすぎている。
急いでアマネさんの足音を探す。幸い、彼女は遠くにいた。しかし、こちらに向かって歩いてきた。
「ごめんね、私、変なことしてなかった」
「全く」
普通か変かという二択であれば変だ、とは言えなかった。誠実に接するつもりであったが、適度に嘘ぐらいつく卑怯さは一向に捨てられない。
「立ち向かえば笑えるかしら?」
意味が解らなかったので、僕は答えずただ笑うだけだった。アマネさんの告白でわかることといえば、何かに対して彼女が立ち向かおうとしていることと、彼女が不安定な状態だということだ。心が揺れ動かない、という言葉を演技や偽りだと、僕は思えなかった。それどころか、色がないのは感情が薄いからではないか、と一つの可能性として考えていたから、すんなり呑み込めた。
僕は支えようとすることしかできない。それが成功するかはわからないけれど、そうなるように努力するしかないのだ。
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